All Chapters of 妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着? : Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

だが、今はもう違う。すでに退職を申し出ている以上、これらのプロジェクトはいずれ誰かに引き継がなければならない。早く手放せば、それだけ早く肩の荷が下りるだけだった。名残惜しくはあったが、遅かれ早かれ手放さなければならないのだから、受け入れるしかない。その頃、宗介のオフィスでは、涼香が彼の膝に座っていた。「こんなことをして、本当に若葉さんは焦ると思う?」「もちろんだ」宗介は自信たっぷりに答えた。「このプロジェクトは、あいつにとって自分の子どもも同然だ。この数年、心血を注いで一から築き上げてきたものだから、手放せるはずがない。じきに俺のところへ来て、返してくれと頭を下げる。そのとき、お前の要求を突きつけて、今までの鬱憤を晴らせばいい」「もし来なかったら?」「それなら好都合だ。この機会に完全に実権を奪えばいい。もともと、あいつの仕事はそれほど難しいものじゃないし、能力だって大したことはない。お前なら十分引き継げる。いずれ再就職先も見つからず、行くところがなくなれば、結局は俺に泣きついてくるさ。要するに、安藤グループを離れた若葉には何の価値もない。一人では生きていけないんだ」「そこまで考えてくれてたのね」涼香は宗介の胸に寄り添った。「じゃあ、あなたの言うとおりにする」そのメールに注目していたのは、二人だけではなかった。盛沢支社の同僚たちも同じだった。若葉は拓海に電話をかけ、事情を説明しようとした。だが、その前に向こうから電話がかかってきた。「リーダー、あんまりじゃないですか!」拓海はひどく腹を立てていた。「盛沢のプロジェクトは、リーダーが一から立ち上げたものですよ。そのためにどれだけ苦労して、どれだけ尽くしてきたか、俺たちはずっと見てきました。それを今になって、メール一通で勝手に取り上げるなんて。リーダーはともかく、俺たちが納得できません!」「ひとまず落ち着いて」若葉は拓海をなだめた。安藤グループを退職することは、皆の士気に影響しないよう、もう少しあとで伝えるつもりだった。だが、こうなっては隠しておけそうにない。「私、あと2週間で安藤グループを辞めるの」「何かひどいことをされたんですか?」退職すると聞いても、拓海は仕事のことも、自分たちの今後についても尋ねなかった。真っ先に若葉
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第62話

拓海をなだめたあと、若葉は昭夫にも電話をかけた。プロジェクトの責任者が交代したことを、あとになってほかの人から聞かせたくなかったからだ。話を聞き終えた昭夫は、ただ一言だけ答えた。「若葉さんがご不快に思われるのでしたら、安藤グループとの提携はいつでもすべて打ち切れます」そう言ってもらえたことは嬉しかったが、若葉は慌てて断った。プロジェクトの責任者を務めていたのは自分だが、関わっているのは自分一人ではない。拓海たちだけでなく、その背後には大勢の社員と、彼らが養う家族がいる。自分の個人的な事情で、ほかの人たちの仕事まで奪うわけにはいかなかった。昭夫は若葉の意思を尊重した。「では、若葉さんのお考えどおりにいたします」「ありがとうございます」電話を切ると、昭夫はそばにいた司へ目を向けた。どうして社長の機嫌がまた悪くなっているのか、まるで分からなかった。若葉の意思を最優先し、決して無理強いしないようにと、言われたとおりに話したはずだった。昭夫は悩んだ末、思い切って尋ねた。「宮本社長、私の言い方に何か問題がありましたか?」司は答えず、相変わらず冷たい顔をしていた。自分はとんでもない失敗をしたのではないかと不安になり、退職届を出して詫びることまで考え始めた頃、司がふいに口を開いた。「盛沢市に、風邪や咳に特によく効く薬はあるか?」昭夫は司が体調を崩したのだと思い、すぐに気遣った。「お具合が悪いのですか?大丈夫ですか?すぐにかかりつけの医師を呼びます」「俺じゃない」話がずれたことに、司は不満そうな顔をした。「今すぐ手配しろ。盛沢市で手に入る、風邪や咳に効く薬を一通り買ってこい」自分ではない?昭夫には分からなかった。これほど焦り、気にかける相手など、自分以外には――いや、もう一人いた。司がことのほか気にかけている相手、若葉だ。そこで昭夫はようやく思い出した。先ほど電話で話したとき、確かに若葉の声は少しかすれており、ときどき咳もしていた。昭夫は気にも留めなかったのに、司はきちんと気づいていたのだ。昭夫は内心冷や汗をかいた。「すぐに手配します」「待て」ところが司は、ふいに昭夫を呼び止めた。「風邪や咳の薬だけじゃない。普段使うような薬も、一通り用意しろ」
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第63話

若葉は美津子と一緒に食事を済ませ、しばらく話をしていた。話しているうちに、話題は若葉のことへ移った。若葉が戻ってきてからずいぶん経つため、美津子は仕事に支障が出るのではないかと心配し、いつ盛沢市へ戻るつもりなのかと尋ねた。退職や離婚のことは、まだ美津子に知られたくなかった。若葉は直接答えず、曖昧に返した。「もう少し先かな。お母さんの体調がよくなって、退院するまではこっちにいないと」「退院なんて、まだまだ先でしょう」美津子は、若葉の言葉を真に受けなかった。「先生も言ってたじゃない。これからの抗がん剤治療や移植の経過を見ないと分からないって。すぐに退院できるわけじゃないのよ。でも、今のところは順調だから、そんなに心配しなくても大丈夫。それに、あなたが盛沢市へ戻っても、ここの先生も看護師さんも親切だから、私一人でも平気よ」「なに?私にいてほしくないの?」若葉はわざと笑いながら、話をそらした。「お母さんがそんな意味で言ってるんじゃないって、分かってるでしょう」美津子はそう説明すると、珍しく寂しげな表情を浮かべた。「ただ、あなたがいつまでも盛沢市へ戻らなかったら、宗介さんがいい顔をしないんじゃないかと心配なのよ」二人の関係について詳しく知っているわけではなかったが、美津子も最近、どこかおかしいと感じ始めていた。若葉は宗介のことをまったく口にしない。しかも、美津子がこれほどの病気で入院しているにもかかわらず、宗介は一度も見舞いに来ていなかった。若葉はその話を続けたくなくて、これまでと同じように言った。「考えすぎないで。今は身体を治すことが一番大事なんだから、余計なことは何も考えちゃ駄目。回復にもよくないよ」だが今回は、美津子もそれで話を終わらせようとはしなかった。「正直に話して。宗介さんと何かあったの?」「何もないよ。私たちはうまくいってるから、心配しないで」若葉は落ち着いた様子で答えた。「それなら、どうして私がこんなに長く入院しているのに、一度も顔を見せないの?」「仕事が忙しいの」「いくら忙しくても、30分くらい時間を作れるでしょう?」美津子は不機嫌そうに言った。宗介が見舞いに来るかどうかなど、本当はどうでもよかった。ただ、娘のことが心配で、ないがしろにされている若葉が不憫だっ
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第64話

若葉はそう答えたものの、宗介に連絡するつもりなどなかった。今はもう、彼とは一切関わりたくない。ただ一日も早く会社を辞め、離婚して、完全に縁を切りたかった。帰宅すると、盛沢市から届いた荷物がすぐ目に入った。箱はきちんと丁寧に梱包されていた。ただ、以前のような契約書にしては、ずいぶん大きかった。今回は書類が多いのだろうと思い、若葉はそのまま箱を開けた。ところが、中に入っていたのは契約書ではなく、さまざまな薬だった。思いがけない中身に、若葉は一瞬、呆気に取られた。一つずつ確かめてみると、一般的な常備薬が一通りそろっていた。しかも、どれも盛沢市では効き目があると評判のものばかりだった。中には、以前盛沢市にいた頃、若葉が一日中並んでも買えなかった薬まで入っていた。なぜ昭夫が突然、これほど大量の薬を送ってきたのか。若葉は不思議に思った。ちょうど送り状に差出人の連絡先が記載されていた。見覚えのある番号だったため、昭夫のものだろうと思い、深く考えずにそのまま電話をかけた。電話はすぐにつながった。「一ノ瀬さん、お送りいただいた荷物が届きました。中に薬がたくさん入っていたんですが、送り先を間違えていませんか?」そう尋ねたものの、相手から返事はなかった。電波が悪いのかと思い、若葉はもう一度繰り返した。「一ノ瀬さん、この薬、送る相手を間違えていませんか?もし間違いでしたら、本来の送り先を教えてください。こちらから転送しますので」だが、やはり何も聞こえてこない。若葉は不思議に思いながら呼びかけた。「一ノ瀬さん、聞こえていますか?もしもし?聞こえますか?」そう言いながらスマホを確認したが、通話は切れておらず、端末にも問題はなかった。どうすればいいのか分からず、電話を切ろうとしたそのとき、ようやく相手が口を開いた。「俺は一ノ瀬じゃない」低く艶のある声には、わずかに掠れた響きがあった。電話越しに届いたその声は、まるで耳元で楽器をそっと鳴らされたかのように、若葉の鼓膜をかすかに震わせた。それにつられるように、若葉の胸も小さく震えた。24年の人生で、これほど心地よい声を聞いたのは初めてだった。勝手に電話をかけたことにも、思わず声に聞き入ってしまったことにも気まずさを覚え、若葉は慌てて謝った。
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第65話

若葉は、まさかそんな理由だったとは思わず、しばらく何と言えばいいのか分からなかった。昭夫とは一度電話で話しただけなのに、声を聞いただけで体調を崩していることに気づき、わざわざこれほどたくさんの薬を送ってくれたのだ。嬉しくないはずがなかった。「ありがとうございます。わざわざこんなに、本当にすみません」「いえいえ、どうぞお気になさらず」だが昭夫には、その礼を素直に受け取ることができなかった。最初に若葉の体調不良に気づいたのも、薬を送るよう言い出したのも、自分ではない。他人の手柄を横取りするようで、後ろめたかった。そこで、慌てて話題を変えた。「どれも常備しておけば役に立つ薬です。足りなくなりましたら、またおっしゃってください」「はい」そう答えたあと、若葉はふと別のことを思い出した。「そういえば、送り状に書かれていた電話番号、間違っていませんか?先ほどその番号にかけたら、別の方が出たんです」普段の若葉なら、わざわざ口を挟むことではなかった。だが、昭夫がこれほど親切にしてくれたため、今後も同じような間違いが起きるのではないかと心配し、念のため伝えたのだ。それを聞いた昭夫は、慌てて送り状に記載した番号を確認した。そして、思わず肝を冷やした。そこに書かれていたのは昭夫の番号ではなく、なんと司の番号だった。二人の電話番号は確かによく似ている。おそらく記入するときに気がそれて、うっかり司の番号を書いてしまったのだろう。昭夫は恐る恐る尋ねた。「電話がつながったあと、その方は何かおっしゃっていましたか?」若葉は、相手が何度も返事をしなかったことには触れずに答えた。「いえ、何も。番号を間違えていると言われただけです」よかった。本当によかった。社長は怒らなかったようだ。昭夫はほっと息をつき、どうにか難を逃れたと思った。司はこうしたことに人一倍厳しく、自分の個人情報が外部に漏れるのを何より嫌っていたからだ。「確かに、番号を間違えていました。今後、何かございましたら、今おかけになっているこの番号へご連絡ください」「分かりました」若葉はしっかり覚えておくことにした。二度と同じ間違いをしたくなかった。電話を切ったあとも、昭夫はあれこれ考えた末、やはり司に連絡することにした。相手が何
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第66話

今はもう具体的なプロジェクトを担当していなかったが、若葉は毎日、始業時刻どおりに出社し、定時まで勤務していた。宗介がどういう人間かはよく分かっている。退職する段になって、勤怠を理由に難癖をつけられたくなかった。だが、そんなごく当たり前のことにさえ、わざわざけちをつける者がいた。若葉が出社すると、すぐそばから話し声が聞こえてきた。「あそこまで揉めたのに、毎日きっちり出社できるなんて、その図太さには感心するわ」「本当よね。私たちなら、とっくに居づらくなってるのに。あの人は平然と出社してるんだから、よほど会社を辞めたくないんでしょうね。そのうち社長の機嫌が直って、またプロジェクトを任せてもらえるとでも思ってるんじゃない?」「そんなの、ただの夢物語よ。聞いた?担当者が代わったと知っても、異議を唱えた取引先は一社もなかったんですって。それどころか、何社かはむしろ歓迎して、安藤部長のもとなら今後の取引もさらにうまくいくはずだって言ったらしいわ。誰かさんも、別に大した存在じゃなかったってことね」「どれほど仕事ができるのかと思ってたけど、結局、この数年は盛沢市で実力があるように見せかけていただけ。担当を外された途端、あっさりぼろが出たわね」そう言って、彼女たちは口元を押さえて笑った。ときおり若葉のほうへ視線を向けてくるあたり、わざと聞かせているのは明らかだった。若葉は、こうした陰口など普段なら気にも留めず、相手にすることもなかった。だが今日は気が向いたうえ、ほかにすることもなかったため、少し付き合ってやることにした。若葉が立ち上がり、腕を組んで彼女たちを見渡すと、全員がたちまち警戒した。「何よ?私たちは本当のことを言っただけでしょう。口を開くことさえ許されないわけ?」若葉は彼女たちを冷ややかに見つめた。「さっきから社長だの安藤部長だのって、ずいぶん親しげに呼んでるけど、向こうはあなたたちが誰か知ってるの?仮に知っていたとしても、仕事もせずに一日中、人の陰口ばかり叩いていると分かったら、どう思うかしらね」「な、何よ……」若葉が言い返してくるとは思っていなかったのか、彼女たちはうまく言葉が出てこなかった。これまで同じようなことを言っても、若葉は黙って聞き流すばかりで、一言も反論したことがなかった。それが今日に限って
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第67話

一方、その頃宗介は、オフィスで涼香と同じ件について話していた。涼香は宗介にお茶を淹れると、探るように切り出した。「担当を代えたって発表してから、もう何日も経つけど、取引先は特に反応してないみたいね」宗介はお茶を一口飲み、冷ややかに言った。「危うく若葉に騙されるところだった。取引先にとって、よほど重要な存在なのかと思っていたが、担当を代えても何も言ってこない。それどころか、むしろ若葉がいないほうがうまくいっている。結局、いてもいなくても同じだったんだ」正直なところ、若葉を担当から外した当初は、宗介にも多少の不安があった。取引先から反対されるのではないか。とりわけ明和バイオの反応が気がかりだった。明和バイオは、安藤グループにとって盛沢市最大の取引先であり、国内はもとより、世界的にも大きな影響力を持つ企業だった。特に社長は、盛沢市で絶大な力を持つ人物だといわれている。この街で、彼に解決できないことはないとまで噂されるほどだった。そのため、宗介も明和バイオとの関係を悪化させたくはなかった。だが今となっては、取り越し苦労だったようだ。あれほどの大物が若葉と個人的なつながりを持っているはずもなく、プロジェクトの責任者が誰かなど、気にするはずもない。つまり、若葉を外しても何の影響もなかったのだ。取引先が評価しているのは、あくまで安藤グループの看板なのだろう。涼香も、その考えに納得した。「そうね。取引先が重視しているのは、やっぱり安藤グループだったのよ。若葉さんって、安藤グループの力があったから、うまくやれていただけなんでしょうね」「ああ」宗介は話題を変えた。「若葉が担当していたプロジェクトには目を通したが、技術的に大したものじゃない。君なら難なく引き継げるはずだ。すぐに慣れるだろうし、間違いなく若葉よりうまくやれる」「宗介、心配しないで。自信はあるし、絶対に大丈夫だから」涼香はうなずいた。だが実際には、若葉が担当していたプロジェクトの資料には、まだ一度も目を通していなかった。確認する必要すらないと思っていたのだ。若葉のようなただの大卒者にできた仕事が、それほど難しいはずはない。それに涼香は、海外で生物学の博士号を取得し、遺伝子研究の世界的権威であるスミス教授のもとで学んでいた。学歴も能力も若葉より
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第68話

涼香は、今度こそ思いどおりになると確信していた。これで若葉を盛沢市へ追い返せるはずだ。これまで何度も機会を与え、もっと穏便に身を引く道も用意してやったのに、若葉はそれを選ばなかった。わざわざ社内中に知られたあげく、惨めに追い出される道を選んだのだから、望みどおりにしてやるしかない。——美津子は何日待っても、若葉からも宗介からも連絡がなかったため、自分から動いてみることにした。若葉と宗介の間に何かあったらしいことには、薄々気づいていた。だが、何があったのかまでは見当もつかない。若葉は幼い頃から自立心が強く、自分の考えをしっかり持っている。本人が話したくないことは、誰にも無理に聞き出せなかった。ただ、美津子は宗介の連絡先を知らなかった。これまで一度も彼に連絡したことはなく、宗介のほうから連絡してきたこともない。そこで若葉から宗介の電話番号を聞き、昼間は仕事の邪魔になるかもしれないと考え、わざわざ夜を選んで電話をかけた。ところが電話がつながった途端、美津子はその場で呆気に取られた。電話に出たのは宗介ではなく、女だった。「もしもし、どちら様ですか?」相手の口調は親しげで、いかにも自然だった。その様子から、宗介の電話に出るのは初めてではないことがうかがえた。予想外のことに美津子は戸惑い、番号を間違えたのかと思って電話を切ろうとした。「すみません、間違えました」だが、相手は妙に愛想よく答えた。「間違ってませんよ。宗介にご用ですよね?今は手が離せないので、何かあれば私に話してくださっても同じです」美津子の顔からたちまち表情が消えた。こんな夜に宗介へ電話をかけたところ、見知らぬ女が出た。そのうえ、自分に話しても宗介に話すのと同じだと言う。疑わずにはいられなかった。美津子は声を低くした。「あなた、どなた?」相手はその変化に気づいたのか、一瞬黙ったあと、逆に聞き返した。「そちらこそ、どなたですか?」先ほどまでとは明らかに口調も態度も違い、挑発するような響きさえ含まれていた。美津子は眉をひそめ、はっきり告げた。「私は若葉の母親で、宗介の義母です。宗介に代わってください」涼香は少し離れたところにいる宗介を見た。宗介は悠人の相手をして、将棋を指していた。涼香は鼻で笑った。「宗介なら今、
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第69話

そこでようやく、美津子は気づいた。自分が長い間入院しているにもかかわらず、宗介が一度も見舞いに来なかった理由に。何度も若葉に宗介のことを尋ねたが、一度も返事をもらえなかった。若葉がわざと隠していたわけでも、話したくなかったわけでもない。話せるような状況ではなかったのだ。若葉がいったいどれほどのことに耐えてきたのか、考えることさえ怖かった。若葉は昔からそういう子だった。何があっても一人で黙って耐え、決して人に迷惑をかけようとしない。若葉を引き取ったばかりの頃、まだ1歳にもなっていなかったが、その片鱗はすでに見えていた。お腹が空いても泣かず、ただ大きな目でじっとこちらを見つめていた。夜泣きもしなかったため、美津子も朝までぐっすり眠れた。朝早く目を覚ましても大人を起こすことなく、一人で静かに遊んでいた。学校に通うようになってからは、さらに手のかからない子になった。勉強のことで心配をかけることもなく、ほかの問題が起きても自分で解決し、よほどのことがない限り美津子を頼ろうとはしなかった。そんな聞き分けのいい優しい子が、なぜこのような目に遭わなければならないのか。美津子は、こらえきれず涙を流した。それでも何も知らないふりをしてスマホを手に取ると、いつものように若葉へラインを送った。【夕飯はもう食べた?】ほどなくして、若葉から夕食の写真が送られてきた。続けて若葉は、美津子が何を食べたのか、今日は体調がどうだったのかを尋ねた。美津子は一つずつ返事をし、最後に、時間があるときにどこかへ連れていってほしいと伝えた。二人でもう長いこと出かけていなかったからだ。若葉はすぐには承諾せず、そのときの体調を見て、医師に相談してから決めようと答えた。一方、用事を済ませた宗介は、スマホに残された着信履歴に気づいた。涼香が電話に出たことは分かっていたし、それを許してもいたため、ごく自然に尋ねた。「さっき、誰からだった?」「若葉さんのお母さん」涼香は隠そうともしなかった。「どうしてあの人が?」若葉に関心のない宗介は、その家族にはなおさら興味がなかった。「俺に何の用だったんだ?」「大したことじゃないわ」涼香はタオルで宗介の髪を拭きながら、様子をうかがうように言った。「教えてもいいけど、怒らないって約
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第70話

30分ほど経つと、宗介はシャワーを浴びに行った。涼香はベッドに横になったまま宗介のスマホのロックを解除し、カメラを起動した。枕元に置かれたプレゼントへレンズを向け、わざと自分の服の裾も写り込ませた。そのしわだらけの服を見れば、誰でもあれこれ想像せずにはいられないような写真だった。撮影を終えると、涼香は宗介のラインのタイムラインを開き、その写真を投稿してから、満足げに洗面所へ向かった。投稿はたちまち大きな反響を呼んだ。宗介はめったにタイムラインを更新しない。その彼が今回は、あまりにも意味深な写真を投稿したからだ。最初にコメントしたのは聡だった。【宗介、やるじゃないか!ただ、経験者として一つ忠告しておく。何事もほどほどにな。無理はするなよ】拓真は、何も言わずに「いいね」を押した。一方、和之は写真を目にしても何の反応も示さず、無表情のまま画面をスクロールした。シャワーを終えた宗介は、ラインに大量の通知が届いていることに気づき、一瞬驚いた。確認してみると、涼香が彼のアカウントから写真を投稿していた。宗介は思わず眉をひそめた。宗介はプライバシーを重んじる性格で、普段から自分のことをタイムラインに載せることはほとんどなかった。ましてや、このような内容ならなおさらだった。勝手にそんな投稿をした涼香に、宗介は苛立った。洗面所から出てきた涼香は、宗介がスマホを手にしているうえ、機嫌も悪そうなのを見て、たちまち不安になった。この投稿には二つの目的があった。一つは宗介の反応を探ること。もう一つは若葉を挑発することだった。だが、宗介の表情が険しいのを見て、さすがに先走りすぎたのではないかと怖くなった。涼香は急いで歩み寄り、宗介の腰に抱きついた。「宗介、ごめんなさい。嬉しくてたまらなかったの。あなたにもらったプレゼントが本当に気に入って、この瞬間を残しておきたいとしか考えてなかった。ほかのことまで考えられなくて……だから、怒らないで」宗介は何も言わなかったが、その表情はまだ険しかった。涼香は再び口を開いた。「誰かに気づかれるのが心配なの?それなら大丈夫よ。顔は写していないし、よほど親しい人でなければ気づかないはずだから。それに、気づいたとしても、写っているのは奥さんの若葉さんだと思うでしょう?」その言
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