All Chapters of 妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着? : Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

若葉は、どちらも選ぶつもりはなかった。これからの人生は、自分で決める。退職まで、あと1週間と3日。土日を除けば、残りはわずか8日だった。若葉は最後まで胸を張り、後ろめたいところなど何一つないまま、安藤グループを去るつもりだった。月曜日、若葉はいつもどおり出社した。今は具体的に任されている仕事もないため、毎日ほとんどの時間を論文や資料を読み、研究することに費やしていた。これまでは出社するたび、周囲から嫌味の一つや二つ浴びせられるのが当たり前だった。ところが、その日は妙だった。周囲の女性たちは若葉を見るなり、まず全身を値踏みするように何度も視線を上下させ、それからようやく目をそらした。若葉が痩せたことに、彼女たちも気づいたのだ。そして認めたくはなくても、痩せた若葉が誰よりも美しく、文句のつけようがないほどの美人であることは明らかだった。「いったい、どうやってあんなに痩せたの?まさか、こっそり脂肪吸引でもしたんじゃない?そうじゃなきゃ、あんな短期間で痩せられるわけないでしょう?」「絶対そうよ。脂肪吸引か、痩せる注射でも打ったんでしょうね。何か特別な施術を受けたに決まってる。あれだけ太ってたうえに、ろくに努力もしない人が、短期間であんなに変われるわけないもの。安藤部長みたいにストイックな人なら分かるけど、あの人には無理でしょう」「どうして急に痩せようとしたか、知ってる?安藤社長の気を引くためらしいわよ。仕事ではもう見込みがないから、痩せて少しでも見てもらおうとしたんですって。でも、本当に身の程知らずよね。安藤部長みたいな女性がそばにいるのに、安藤社長があの人を相手にするわけないでしょう?」「本当よね。そういえば聞いた?この数日で、また安藤社長を怒らせたらしいわよ。社長が激怒して、解雇するって言ったんだって」「さっさと解雇されればいいのに。毎日会社で顔を見るだけでも、気分が悪くなるわ」口ではそう言いながらも、彼女たちは何度も若葉へ視線を送り、心の中で気にせずにはいられなかった。どうして、あんなに肌が白いのだろう。痩せてみれば、身体のラインにも驚くほどメリハリがある。髪まで、つややかでさらさらしていた。とはいえ、どれだけ見た目が変わっても、仕事のできない役立たずには変わりない。どうせ数日後には解
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第82話

だから、涼香はただ朗報を待っていればよかった。だが、今の彼女は非常に厄介な問題を抱えていた。若葉から引き継いだプロジェクトの内容が、まるで理解できなかったのだ。精密なデータ分析も、複雑なプロジェクト管理も、何一つ分からない。当初は、若葉程度の学歴と頭脳でこなせる仕事なら、自分にも難なくできると思っていた。ところが実際に手をつけてみると、若葉は何か新しい技術を使っているらしく、何度試しても理解できなかった。理解できなければ、その先へ進めない。つまり、プロジェクトを進行できないということだ。かといって、宗介に助けを求めるわけにもいかなかった。そんなことをすれば、自分が内容を理解できていないと知られ、これまで取り繕ってきたものがすべて露呈してしまう。「安藤部長、それで、これからどうしますか?」そんなときに限って、アシスタントがそばで催促してきた。腹の虫が収まらなかった涼香は、たちまち怒りを爆発させた。「さっきから急かしてばかりで、何なのよ。人を呼んでくることすらできないなら、あなたがいる意味ないじゃない!」アシスタントは怯えたようにうつむいた。「もう一度、電話してみましょうか?」「もういい。電話一本で来るくらいなら、とっくに来てるわ」涼香は乱暴にパソコンを閉じた。「私が行く」オフィスを出てほかの社員たちの前に姿を見せると、涼香は再び優しく親しみやすい仮面をかぶった。アシスタントにミルクティーとスイーツを用意させた。もちろん、今回は若葉の分もあった。若葉はずっとパソコンの画面を見つめたまま、一度も涼香に目を向けなかった。彼女たちが何をしているのかにも、興味はなかった。先に耐えきれなくなったのは、涼香だった。「若葉さん、少し時間ある?話したいことがあるの」「ありません」若葉は即座に断った。「プロジェクトのことなの」涼香は食い下がった。「私はもう担当を外れました。私に話すことではありません」若葉の態度は、相変わらず冷淡だった。その言葉に、涼香は腹が立って仕方がなかった。だが、涼香が口を開くより先に、そばにいた社員が怒った声を上げた。「自分を何様だと思ってるの?安藤部長がわざわざ来てくださったのに、その態度は何?自分の立場を忘れたんじゃない?」「そうよ。もともと
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第83話

しばらく考えた末、若葉は涼香のオフィスへ行くことにした。到着すると、単刀直入に尋ねた。「何の用?」ところが涼香は肝心の問題を曖昧にしたまま、若葉が担当していたいくつかのプロジェクトを、最初から最後まで厳しく批判し始めた。企画の立ち上げから遺伝子技術への投資、その後の実用化に至るまで、あらゆる段階で次々と問題点を挙げていった。だが、若葉が聞いた限りでは、どれも肝心な部分から外れた、取るに足らない指摘ばかりだった。そこで、若葉は率直に言った。「今の責任者はあなたでしょ。意見があるなら、直接プロジェクトチームに提案すればいい。全員で検討して、問題がないと判断されれば、その案で進められる」若葉がそう言ったのは、プロジェクトチームのことをよく知っていたからだ。涼香の挙げた問題など、彼らが受け入れるはずはなかった。「私ができないとでも思ってるの?」涼香は腹を立て、若葉を睨みつけた。プロジェクトを引き継いだ初日に、涼香はすでに同じ問題をチームへ持ちかけていた。ところが、拓海たちは涼香にまったく遠慮しなかった。意見を採用しなかったばかりか、どれも実用性に欠け、プロジェクトの重要な進展には何の役にも立たないとまで言ったのだ。涼香は怒りでどうにかなりそうだったが、彼らをどうすることもできなかった。就任早々、以前からいる社員たちを厳しく処分すれば、優しく親しみやすい人物という自分のイメージを築くうえで、大きな支障になる。「それなら、やってみればいいでしょ」若葉の口調は、今の彼女自身と同じように淡々としていた。涼香は鼻で笑った。「誰もが私みたいに、海外の名門大学を出て、世界的な権威のもとで学んできたわけじゃないのよ。ほとんどは、あなたみたいに海外へ出たこともなく、狭い世界しか知らない人たちでしょう?そんな人たちに話したところで、理解できると思う?」若葉は、ほかの社員たちを見下すような言い方が気に入らなかった。「知識に国境はないし、情報も住む場所に左右されるものではない。本当に実力があるのなら、これほど大きな安藤グループに、あなたの話を理解できる人が一人もいないなんて、あり得ないでしょ?」その皮肉を聞き取った涼香は、顔を険しくした。「どういう意味?」だが、若葉はそれ以上相手をする気になれなかった。
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第84話

「え?」涼香は信じられないという顔をした。「ゲノム編集技術の基本概念すら理解していない人が、プロジェクトの責任者になろうなんて無理よ」涼香の顔色がたちまち変わった。確かに、彼女はそうした概念をまるで理解していなかった。ただ、若葉がどこでそれに気づいたのか分からなかった。「解決策があるのかないのか、はっきり言って」「ありません。ただ、まずは遺伝子工学の入門書を読んだほうがいいとは思います。せめて基本的な概念くらいは身につけておかないと、何も分からないままでしょうから」涼香が怒り出そうとしたところで、若葉は先に口を開いた。「私にできることは、もうやった。あなたにも約束は守ってほしい。このプロジェクトは、あなた一人のものじゃない。関係者全員と会社に関わるものなの。自分の都合で好き勝手にしていいものじゃない」そう言って立ち去ろうとしたが、ドアの前まで来たところで、突然外から扉が開いた。そこには宗介が立っていた。若葉を見てもまったく驚く様子はなく、そのまま彼女の横を通り過ぎ、涼香のもとへ歩いていった。すぐに、背後から穏やかな声が聞こえた。「大丈夫か?」最初、若葉にはその言葉の意味が分からなかった。だが、しばらくしてようやく気づいた。宗介は、若葉が涼香をいじめたと思い、あんなふうに尋ねたのだろう。しかも、部屋に入って若葉を見ても驚かなかったということは、彼女がここにいると知っていたに違いない。若葉が涼香に何かするのではないかと心配して、急いで駆けつけたのだ。そう理解すると、若葉は馬鹿らしくなった。いつも訳も分からないまま、こんな三角関係に巻き込まれることに、心底うんざりしていた。若葉はドアを開け、そのまま出ていこうとした。ところが、一歩踏み出したところで、背後から宗介に呼び止められた。「この前の話だが、いつ返事をするつもりだ?」「何の話?」宗介はいつも肝心な部分を抜かして話すため、若葉はすぐには理解できなかった。「クビにされるか、盛沢市へ戻るかだ」その話か。若葉は冷笑した。「どちらも選ばない。私には私の考えがあるから」そう言い残すと、そのままドアを開けて出ていった。若葉の後ろ姿を見送りながら、涼香はおそるおそる宗介に尋ねた。「今の言葉、どういう意味かしら?」
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第85話

「あなたの気を引きたいんじゃない?」涼香には、それくらいしか思い当たらなかった。宗介は何も言わなかったが、その表情は明らかに同意していた。「これからは、なるべく若葉と関わるな」「分かってるわ。そうだ、宗介。明和バイオが深津市で新しいプロジェクトに投資する予定で、今は提携先を探しているって聞いたの」涼香は宗介に身を寄せ、甘えるように頼んだ。「このプロジェクトを獲得できたら、私に任せてくれない?」明和バイオテクノロジーは、盛沢市はもちろん、国内のみならず世界的にも高い評価を得ていた。潤沢な資金力を誇り、利益も長年にわたって業界トップを維持しているだけではない。業界最高峰のリソースと新技術を有していることでも知られていた。涼香が海外へ留学していた頃、スミス教授から、明和バイオは生物学の研究者たちにとって憧れの存在だと聞いたことがあった。しかも、今回立ち上げるプロジェクトはゲノム編集技術に特化したもので、教授の研究分野とも一致しているらしい。このプロジェクトを獲得し、その後成果を出すことができれば、教授に自分の実力を示せる。「もちろんだ」宗介は涼香を安心させるように答えた。「明和バイオが提携先を探すなら、必ず安藤グループに声をかけてくる。それに、安藤グループで最も適任なのは、当然君だ」「でも、若葉さんは……」涼香はまだ少し不安だった。「若葉の態度次第だ」宗介は冷淡に言った。「あいつが俺に頭を下げるなら、何か仕事を用意してやってもいい」その頃、明和バイオでは、昭夫がプロジェクトの事前準備を進めていた。今回は、いつも以上に気を引き締め、一つのミスも許されなかった。宮本社長が最初から最後まで携わる予定だからだ。「先に取引先の候補リストを作成しておきますか?」昭夫は司に尋ねた。「彼女が来てから決める」その「彼女」が若葉を指していることを、昭夫はすぐに理解した。今進めているのは、あくまで基礎的で重要度の低い作業だけだった。機密に関わることや判断が必要なことについては、すべて若葉の入社後に決めるよう、司から指示されていた。「では、人員配置はどうしますか?」「待て」「承知しました」一週間はあっという間に過ぎ、気づけば土曜日になっていた。和之は再び若葉をスキーに誘った
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第86話

宗介たちは、皆それぞれ性格がはっきりしていた。聡は傍若無人で、宗介は冷淡。拓真は身内にはとことん甘い。だが、和之はと聞かれると、若葉にはすぐにふさわしい言葉が思い浮かばなかった。「あるんじゃないか。大切に思うものが何もない人間なんて、いないだろう」そう言ってコーヒーを一口飲むと、和之は話題を変えた。「それより、君はずいぶん変わったな。会うたびに印象が違う」前に会ってから、また一週間が経っていた。わずか7日の間に、若葉はさらに痩せ、大学時代とほとんど変わらない姿に戻っていた。体つきも顔立ちも、かつて和之が大学の匿名掲示板で見かけた、あの写真に写っていた頃と同じだった。若葉は、ダイエットのことを言っているのだと分かり、淡々と答えた。「別に、そこまで変わってないわ。本来の自分に戻っただけだから」ちょうどその話が出たこともあり、若葉は自分から伝えておいたほうがいいと思った。数日後には安藤グループを退職する。もしかすると、和之はすでに宗介から聞いているかもしれない。「そうだ。もうすぐ安藤グループを辞めるの。来週の水曜日が最後よ」「辞める?」和之が珍しく驚いた表情を見せた。「ええ。宗介から聞いてないの?」和之は首を横に振った。宗介から何も聞かされていないどころか、聞いていた話は若葉の話とまるで逆だった。宗介と涼香は、若葉がまもなく深津市を離れ、盛沢市へ戻ると言っていた。だから以前、今後の予定や、何か手助けが必要かと尋ねたのだ。和之の反応を見て、若葉は少し不思議に思った。宗介との関係を考えれば、こうした話は当然、和之たちにも伝えていると思っていたのだ。だが、すぐに自分の考えすぎかもしれないと思い直した。宗介にとっては、そもそも話すほどのことですらないのだろう。自分のことなど何とも思っていないから、誰にも話さなかっただけだ。「じゃあ、私から先に知らせたってことね」「安藤グループを辞めても、俺たちの付き合いは変わらないか?」若葉は、この話を聞いた和之が真っ先にそんなことを尋ねるとは思ってもいなかった。自分が会社を辞めることで、二人の関係に何の影響があるというのだろう。そもそも、二人は特別な関係でもない。たまに一緒にスキーへ行く程度で、普通の友人とさえ言いがたかった。
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第87話

電話の相手は宗介で、和之が今どこにいるのかと尋ねてきた。和之は短く答えた。「スキーに来てる」「それならちょうどいい。俺たちもこれから滑りに行くところなんだ。場所を送ってくれ。そっちへ行く」和之は少し離れたところにいる若葉を見た。「今日は都合が悪い。また今度にしよう」宗介は意外に思ったようだったが、何も言わなかった。電話を切ると、真っ先に聡が駆け寄ってきた。「どうだった?和之は今どこにいるんだ?俺たちも行くのか?」「いや。今日は都合が悪いから、また今度だとさ」「都合が悪い?」聡は笑った。「スキーに来てるのに、何が都合悪いんだよ。前は毎日のように一緒に遊び回ってたのに、そんなこと一度も言わなかっただろ」そこまで言うと、聡はふと黙り込み、何かに気づいたように再び口を開いた。「それに、あいつって前からそんなにスキーが好きだったか?涼香が大会で優勝したときだって、あんなに上手に滑ってたのに大して反応もせず、興味なさそうにしてただろ。それが今じゃ、スキーのために俺たちの誘いを断るなんて、どうも信じられないんだよな。まさか……」聡は最後まで言わなかったが、何をほのめかしているのかは明らかだった。その場にいた全員が意味を察したらしい。拓真は笑い、宗介は片眉を上げた。ただ一人、涼香だけはたちまち表情を冷たくした。聡の言うとおり、和之は明らかに自分たちを避けていた。以前も口数は少なく、よそよそしいところはあったが、皆で集まるときには必ず時間どおりに顔を出していた。それなのに、今はこうして迷いなく誘いを断る。この先、和之は自分たちからどんどん離れていくのではないか。その可能性を考えた途端、涼香の目に冷たい光が宿った。考え込むあまり、隣にいる宗介に呼ばれたことにも気づかなかった。もう一度名前を呼ばれ、涼香はようやく我に返った。「宗介、どうしたの?」「そろそろ帰るぞ」「ええ」涼香はバッグを取ろうとしたが、振り向いた拍子に宗介へぶつかり、すぐに支えられた。「大丈夫か?」「ええ。最近仕事が忙しくて、あまり休めてないからかも」それは嘘ではなかった。最近の涼香は、本当に目が回るほど忙しかった。プロジェクトには細かな作業や手順があまりにも多く、一つ片づけたそばから、すぐに
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第88話

最後の数日、若葉はできるだけ自分が楽に過ごせるようにしていた。なるべく気分よく、心を乱されることなく過ごした。そして、あっという間に最終出勤日を迎えた。若葉は最後の退職手続きを済ませるため、人事部のオフィスを訪れた。人事担当者はわざと手間取らせようと、ひどく横柄な態度を取った。だが、若葉はとっくに準備を整えていた。退職に必要な書類や返却物は、かなり前から少しずつ用意していたのだ。若葉は一つ残らず、すべて彼女のデスクに置いた。「これで十分ですか?」結局、人事担当者も社内規定には逆らえず、不承不承ながら手続きを終えた。安藤グループ本社ビルを出ると、若葉は外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。空は澄み渡り、空気も清々しかった。こんなに晴れやかな気分になったのは、ずいぶん久しぶりだった。3年間という時間を捧げてきた場所を振り返っても、若葉に後悔はなかった。過去に囚われず、未来を恐れない。ただ、これから人生の新たな一歩を踏み出すだけだ。宗介はちょうど会議を終えたところで、煙草に火をつけ、気分を落ち着けようと窓際に立っていた。そのとき、ふいに見覚えのある姿が視界に入った。服装も雰囲気も若葉によく似ていたが、若葉よりも痩せており、大学時代の彼女に近かった。宗介の脳裏に、大学時代の若葉の姿がふと浮かんだ。物静かで控えめな性格で、いつも白い服を好み、本を抱えて宗介のあとをついてきていた。宗介はしばらくその姿を目で追った。その女性は箱を抱えてビルを出ると、タクシーに乗ってそのまま去っていった。どうやら退職したらしい。一瞬、若葉ではないかと思ったが、その様子を見て、すぐに考えを打ち消した。若葉が退職するはずがない。あいつが安藤グループを離れられるわけがないだろう。今頃は、どんな理由をつけて自分に泣きつこうかと考えているに違いない。宗介は煙草を灰皿に押しつけ、それ以上外を見ることはなかった。ちょうどそこへ涼香が入ってきた。盛沢プロジェクトについて相談しに来たのだ。「宗介、さっき何を見てたの?ずいぶん真剣だったけど」涼香がドアを開けたときから、宗介は窓際に立ったまま、何かに見入っていた。彼女が入ってきたことにも気づいていなかったほどだ。「別に何でもない」宗介が自分に対してこれほど冷
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第89話

「何だって?」「いつの話だ?」涼香と宗介は、そろって驚いた。「きょ、今日です」二人の反応に怯えた秘書の声は、かすかに震えていた。まさか、社長は知らなかったのだろうか。「人事の担当者を呼んでこい」秘書はすぐに人事担当者を呼びに行った。ほどなくして、人事担当者が連れてこられた。ここへ来る途中で、秘書からおおよその事情を聞かされ、彼女もすっかり怯えていた。宗介も涼香も若葉をあれほど嫌っていたのだから、辞めたと知れば喜ぶと思っていた。機嫌がよくなれば、自分を昇進させ、給料まで上げてくれるかもしれないと期待していたほどだ。だが、どうやら雲行きが怪しい。人事担当者は恐る恐るオフィスのドアを開け、おどおどと声をかけた。「社長、お呼びでしょうか」宗介は彼女のほうを見ようともせず、いきなり問い詰めた。「若葉が退職を申し出たのは、いつだ?」「い、今からちょうど1か月前です」宗介の目が険しくなった。若葉が深津市へ戻ってきた日だった。つまり、戻ってきたその日に退職を申し出たということか。そう考えると、ひどく苛立った。「なぜ、誰も俺に報告しなかった?」人事担当者はすっかり動転し、言い繕う余裕も考える余裕もなく、ありのままを答えた。「安藤若葉さんの退職申請は、社内システム上で社長に承認されています」そう言うと、社内システムに残っていた宗介の承認記録を表示し、彼に見せた。「それに以前、若葉さんに関することは社長への確認は不要で、通常の社内手続きに従って処理するようにと、おっしゃっていましたので……」宗介の目がさらに冷たくなった。確かに、そう言った覚えはある。だが、それは若葉が身の程もわきまえず、さまざまな口実をつけてしつこく自分に接触してくると思っていたからだ。今のような事態を想定して言ったわけではない。それに、若葉の退職申請を承認した覚えもなかった。おそらく、ほかの申請書類を処理していた際、誤ってまとめて承認してしまったのだろう。だとすれば、先ほど窓から見えたのは、本当に若葉だったのか。理由もなく苛立ちが込み上げ、宗介は人事担当者に冷たく言い放った。「お前は、こんな仕事の仕方をしているのか?」突然声を冷たくされ、人事担当者は今にも泣き出しそうになった。自分
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第90話

「それに、若葉さんがやっていた仕事なら私にもできるし、別に私たちが困ることもないでしょう?」涼香の言うことは間違っていなかった。それでも、宗介はなぜか納得できなかった。若葉が本当に退職を申し出たなんて、今でも信じられない。あれほどプロジェクトに思い入れがあり、仕事も大切にしていたのに、自分から手放せるはずがない。それに、安藤グループを辞めてどこへ行くというのだろう。大した能力も経験もない若葉を、雇ってくれる会社などあるのか。何より、あれほど自分に執着している若葉が、そばにいられる機会を自ら捨てるはずがない。結局のところ、若葉はまだ自分に腹を立てているだけだ。ただ今回は、やり方を変えたにすぎない。「そうだとしても、若葉が勝手に決めていいことじゃない。今は好きにさせておけばいい。そのうち、また俺に泣きついてくる」「そうね」涼香は口では同意したものの、心の中ではもうそう思っていなかった。若葉がまだ会社にいた頃は、盛沢市へ行かせてしまえば、自分と宗介と悠人の3人で幸せに暮らせると考えていた。だが、今となっては宗介の考えをすべて見抜けるわけではないと分かった。それなら、若葉には安藤グループを離れてもらったほうがいい。そうすれば、二度と脅かされる心配もなくなる。若葉が安藤グループを退職したという話は、たちまち社内に広まった。知った者たちは誰もが驚いた。ただし、若葉が会社を去ったことにではない。会社から解雇されたのではなく、本人が自ら退職を申し出たことに驚いたのだ。普段から若葉に難癖をつけていた同僚たちは、実際には解雇されたのだが、社長がせめて体面だけは保たせようと、自主退職ということにしたらしいとまで噂していた。聡たちも、この知らせを聞いて似たような反応を見せた。中でも最も騒いだのは聡だった。考えていることは宗介と同じで、話を聞くなり声を張り上げた。「そんなわけあるか!大した能力も経験もないくせに、自分から辞めるなんて何を考えてるんだ?どうせまた、宗介の気を引くためのくだらない駆け引きだろ」そのうえ聡は涼香に、しばらくは若葉の動きを注意して見ておいたほうがいいと忠告した。用心するに越したことはないというのだ。拓真もかなり驚いていたが、聡のように無遠慮なことは言わず、若葉がなぜ退職したのかを真
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