All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話 閉じた扉の向こう

 翌朝の東京は、細い雨だった。  ホテルの車寄せに立つと、傘の縁から落ちた雫が石畳に小さな点を作った。黒い車の屋根にも、同じ粒が並んでいる。  征臣は先に来ていた。スーツはいつも通り隙がない。けれど、目の下に薄い影があった。 「おはようございます」 「おはよう」  それだけで、昨夜の廊下が二人の間へ戻った。  運転手が後部座席のドアを開ける。征臣は先に乗らず、私を待った。以前なら、その距離に安心したかもしれない。今は、気遣われるたびに何を隠されているのか考えてしまう。  車が走り出してから、私は母の帳簿の複製を膝へ置いた。 「港湾第三倉庫について、知っていることを教えてください」  征臣はタブレットを開いた。 「東都物産が借りていた倉庫だ。現在の東都商事へ社名変更したあと、契約は別会社へ移っている」 「別会社の名前は」 「鷹宮の調査では、有馬家の物流子会社だ」  初めて聞く話だった。  私が顔を上げると、征臣は画面から目を逸らさなかった。 「昨夜、確認が取れた」 「……昨夜」  タブレットの時刻へ目を落とした。 「……確認中でも、送ってほしかったです」 「確定していなかった」  昨日までと同じ答えに聞こえて、顔を上げる。 「確認中、って書けばよかったでしょう」  声が少し強くなった。  征臣の指が画面で止まる。 「……確認中、と送るべきだった」  返事までに短い間があった。  征臣はタブレットをこちらへ向けた。倉庫の契約履歴、搬入日、廃棄申請。画面の一部には、まだ確認中の印がある。 「確定していない部分まで見せていいんですか」 「ああ。一緒に考えてほしい。今あるものは全部入れてある」  昨夜の話が、少しは残っていたらしい。そう思った瞬間、胸の奥がわずかに緩んだ。すぐに、勝手に期待するなと自分へ言い直す。それでも、向けられた画面から目をそらすことはできなかった。  高速道路へ入ると、雨が窓を横へ流れた。 「母は、ここへ一人で行ったと書いていました」 「今日は一人ではない」 「だから大丈夫、とは言わないでください」  征臣は一度口を閉じた。 「分かった。ただ、一人で背負わせたくないんだ」  今度は迷わなかった。  車内にはワイパーの音だけが続いた。  私は倉庫の見取り図を拡大した。裏口の脇に、小
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第92話 雨の高速道路

 港のクレーンが近づく頃、私は帳簿の余白に挟んだメモを取り出した。  海猫屋。母の字で、宿の名だけが書かれている。 「倉庫の前に、ここへ寄りたいです」  征臣は宿名を見た。 「どの辺りにある宿だ?」  理由を聞かれなかったことに、一瞬だけ言葉が遅れた。 「港から坂を上がったところです。母が泊まった可能性があります」 「分かった。車を回す」  それだけで、会話は終わった。  昨夜なら、何を隠しているのかと疑ったかもしれない。今も疑いは消えていない。ただ、目的を先に決めつけられなかったことだけは、受け取っておく。  車を降りる前、征臣が傘を取った。 「自分で持ちます」 「これは俺の分だ。君の傘も、後ろにある」  彼は自分の傘だけを開き、私の側には差し出さなかった。  少し拍子抜けして、私は自分の傘を開いた。  二本の傘の間に、雨が細く落ちる。  坂道ですれ違う人を避けた拍子に、二本の傘の縁が軽く当たった。征臣は反射的に半歩離れる。できた隙間から雨が吹き込み、コートの肩が冷えた。 「……そこまで離れなくてもいいです」  言ってから、自分の声に驚いた。  征臣がこちらを見る。傘の柄を持つ手だけが、わずかに強くなる。 「……雨が入ります」  後から理由を足すと、彼は何も言わず半歩戻った。傘は重ならない。袖も触れない。それでも、歩幅を合わせれば互いの気配が分かる距離になった。  昨夜のことは何も終わっていない。許したわけでもない。それでも今は、このくらいなら隣を歩けると思った。 「資料は、あとで全部共有してください」 「する」  短い返事に、まだ昨夜の硬さが残っていた。  私もそれ以上は言わなかった。  車は港から坂道へ入った。  窓の外に、古い木造の旅館が見えた。  入口のガラス戸に、丸い字で海猫屋とある。  母のメモと同じ名前を見た途端、指が帳簿の角へ戻った。  ここでは、母は白鳥家の奥様ではなかったのかもしれない。  その考えを口にする前に、車が止まった。  車を降りた瞬間、潮の匂いが傘の内側まで入り込んだ。  雨は東京より弱い。代わりに、風が濡れた髪の端を遠慮なく揺らした。  古い木造の旅館だった。入口のガラス戸には、白い紙で今日の空室数が貼られている。海猫屋、という丸い字は、母のメモに残っていたもの
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第93話 母が泊まった宿

「娘です。白鳥澪と申します」  女性の手が、帳場の縁を掴んだ。 「まあ……そう。あなたが」  あなたが、のあとに続く言葉はなかった。  征臣が一歩後ろで名刺を出そうとした。私は首だけで止める。今、先に名乗るのは鷹宮ではない気がした。  女将は私の鞄を見て、それから濡れた傘に目を落とした。 「菜月さんも、雨の日にいらしたわ。大きな鞄を持って。おひとりで」 「いつ頃ですか」 「もう何年も前よ。けれど、忘れないわ。あの方、夜中にロビーで帳面を広げていたの。コーヒーも紅茶も冷ましてしまって、紙ばかり見て」  母がここで、ひとりで紙を見ていた。  白鳥邸のダイニングで、父の顔色を見ながら微笑んでいた母ではない。雨の港町で、濡れた鞄を横に置き、冷めた紅茶にも気づかず帳簿を読んでいた母。  知らなかった母の姿が、少しずつ見えてくる。 「菜月さんは、何か言っていましたか」  女将は一度、奥の廊下を見た。迷うような間がある。  征臣が低く言った。 「急がなくて大丈夫です。覚えていることだけで」  女将は征臣を見ず、私だけを見た。 「預かり物があるの」  喉が、音もなく詰まった。 「預かり物」 「菜月さんが言ったの。いつか、娘さんが来るかもしれない。そのときは、私から渡してほしいって」  女将は帳場の奥へ入っていった。  戻ってきた手には、茶色い封筒があった。封の端は古びて、紙が少し波打っている。  女将はそれを両手で差し出した。 「白鳥の奥様は、倉庫の鍵を預けていかれました」  封筒は、思っていたより重かった。  紙一枚の重さではない。中で小さな金属が動き、乾いた音を立てた。  女将は差し出したまま、私が受け取るのを待っている。征臣も何も言わない。誰も次を促さない時間は、白鳥邸にはほとんどなかった。  私は封筒に指をかけた。  母の字が、表に残っていた。  澪へ。  たった二文字なのに、紙の上でそこだけ温度が違うように見える。 「開けても、いいですか」  誰に聞いたのか、自分でも分からなかった。女将が頷くまで、私は封筒を持ったまま動けなかった。  封の端を剥がす。古い糊が指に引っかかり、紙が小さく鳴った。  中から出てきたのは、錆びた鍵だった。真鍮色だったものが、ところどころ黒く濁っている。細い麻紐が通され、小さな
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第94話 錆びた倉庫の鍵

「倉庫の中は、まだ分からない」  征臣が鍵を見た。 「この先は俺が先に入る」  返事が一度、唇の手前で止まった。  守ろうとしているのは分かる。けれど、その言い方を聞くと、また私だけ後ろへ下げられる気がした。 「先に入るのは構いません」  私は鍵のタグを親指で撫でた。ざらりとした錆が爪の端に触れる。 「でも、鍵は私に開けさせてください」  征臣の視線が、私の手元に落ちた。  何か言いかけたが、唇を閉じた。  女将はふっと笑った。母に似ている、と言いたそうな顔だったが、言わなかった。  玄関を出ると、雨はほとんど上がっていた。港の方から、錆と海藻の混じった匂いが流れてくる。  鍵を見下ろすと、冷たい金属が手のひらに食い込んだ。破れる紙とは違い、これは燃え残ったものだ。小さな鍵一つに、母が隠してきた時間の重さが残っていた。  鍵のタグに残る古い社名が、濡れた光の中で鈍く光った。  港湾第三倉庫は、海猫屋から車で十分ほどの場所にあった。  観光客が歩く通りから外れ、古い防波堤沿いを抜けた先。フェンスの向こうで、灰色の建物が沈むように立っていた。  壁の塗装は剥がれ、シャッターの下には茶色い錆が垂れている。看板の文字は半分消えていたが、タグに刻まれた社名と同じ跡が残っていた。 「閉鎖済み、というには管理が行き届きすぎていますね」  私が言うと、征臣がフェンスの南京錠を見た。 「最近、交換されている」  古い倉庫に、新しい鍵。  こういう小さな不一致を見つけるたび、母が帳簿の数字を追っていた気持ちが少し分かる。違和感は、声を上げない。見ようとしない人には、ずっと黙っている。  征臣の警備担当者が周囲を確認し、フェンスを開けた。  倉庫の前に立つと、潮の匂いより強く、湿った紙の匂いがした。 「俺が先に」  言いかけた征臣が、途中で止まる。  私は鞄から鍵を出した。 「開けます。母が何かを残した場所なら、私が最初に触れたいんです」  鍵穴に差し込むと、金属が一度抵抗した。錆びている。力を入れすぎると折れそうで、ゆっくり回す。  かちり、と小さな音がした。  それだけなのに、背中に汗が滲んだ。  シャッターは手動だった。警備担当者が持ち上げると、内部の暗さが少しずつ口を開ける。  中は思ったより広かった。木箱、古い棚、
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第95話 海沿いの倉庫

 棚の一番下に、古い紅茶缶が置かれていた。白鳥邸の母の部屋にも、同じメーカーの紅茶缶があった。青い花柄。蓋の縁に、小さな銀鈴の刺繍糸が結ばれている。  指が止まった。 「母のものです」  蓋は固かった。両手で押さえ、少しずつ回す。  乾いた音とともに蓋が外れた。  紅茶缶の中から、潮と古い紙の匂いが立ちのぼる。海沿いの倉庫まで母が運んだ時間を、ただの証拠品として扱いたくなかった。  中には、折り畳まれた帳簿の写しと、古い黒いUSBメモリが入っていた。  帳簿の写しは、ビニール袋に包まれていた。  母らしい、と思った。紙の端を揃え、湿気が入らないよう二重にしてある。封を留めるテープの端だけが、少し斜めだった。急いでいたのかもしれない。  私は倉庫の木箱の上にハンカチを敷き、その上へ紙を広げた。  征臣が横に立つ。距離は近いのに、触れない。 「照明を」  警備担当者が携帯ライトをかざした。  紙面に、数字が浮かび上がる。  東都物産。白鳥開発。有馬グループ関連会社。  名前を追うたび、みぞおちのあたりが冷えていく。白鳥家だけの話ではない。莉々花のわがままや、父の体面だけでここまで複雑な線は描けない。 「ここ」  征臣の指が、一行の手前で止まった。紙に触れる直前で止める癖が、昨日より目につく。 「鷹宮創業家の持株が移動した日だ」  その声は、いつもより低かった。  私は日付を見る。  母の診断記録に空白があった週と、同じ月だった。 「征臣さんのお父様が失脚した時期ですか」 「そうだ」  短い返事。  けれど、彼のカフスに触れた指が一度だけ滑った。いつもなら完璧に直す動きが、少し乱れる。  私はその指を見て、すぐに帳簿へ視線を戻した。  彼にも、奪われたものがある。知っている。けれど、私が彼の復讐の理由になった痛みも、まだ消えていない。  同じ紙を見ているのに、同じ場所には立てていない。 「USBは」  征臣が言った。  警備担当者が持参した端末を出す。倉庫の中に小さな起動音が響いた。黒いUSBが差し込まれる。  画面には、パスワード入力欄だけが表示された。 「菜月さんが残すなら、何か手がかりがあるはずだ」  征臣の言葉に、私は紅茶缶の底を見た。  底に、小さな紙片が貼ってあった。湿気で波打ち、端が剥がれ
last updateLast Updated : 2026-08-14
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第96話 紅茶缶の帳簿

「覚えています。書類でも確認できます」  二つの日付が、同じ赤鉛筆で囲まれていた。  USBメモリを開くと、日付だけを名につけた音声ファイルと、鍵の印がついたフォルダが並んでいた。  同じ紅茶缶の底には、小型録音機の保証書と、母の字で「食堂脇・棚の下」と書かれたメモが残っていた。音声の機器番号は、その保証書と一致している。母が白鳥邸の食堂脇へ置き、あとでUSBへ移した記録らしい。  音声ファイルの日付は、母が病院へ運ばれる前夜だった。こちらには鍵がかかっていない。  証拠保全の確認のため、相沢とは端末をつないでいた。再生ボタンにカーソルを合わせると、画面越しの相沢がこちらを見た。  相沢は何も言わず、私の返事を待った。 「再生してください。最後まで聞きたいです」  声は、ほとんど迷わずに出た。  スピーカーから、最初に聞こえたのは食器の触れる音だった。次に、瀬里奈さんの柔らかい声。 『奥様が目を覚ましたら、困る人がたくさんいるのよ』  その奥で、父の声がした。 『帳簿は、どこだ』  海の匂いのする倉庫で、私は初めて、母が何から逃げようとしていたのかを聞いた。  赤鉛筆の線は、薄くなっていた。  けれど、母の手の力だけは紙に残っている。角ばった丸。途中で一度迷い、もう一度なぞった跡。  私はその線から目を離せなかった。 「同じ日」  声に出すと、倉庫の湿った空気が少し動いた。 「白鳥家の関連口座から資金が消え、鷹宮家の持株移動が起きている。東都物産の経由で」  征臣の説明は感情を薄く抑えていた。淡々としているほど、背後にあるものが大きく見える。 「母は、その日付を見つけていたんですね」 「見つけて、ここへ隠した」  征臣は一拍置いた。 「おそらく、自宅に置けば消されると判断した」  自宅。  白鳥邸の廊下、食卓、母の部屋。安全だと思いたかった場所が、急に遠くなる。母はあの家で笑いながら、証拠を外へ逃がしていた。  喉が詰まり、私は帳簿の端を押さえた。 「母は、誰を疑っていたんでしょう」  答えは、聞く前から半分分かっていた。  父。継母。東都商事。有馬家。  名前を並べれば済む話ではない。母が最後まで同じ家で食卓につき、私の髪を結い、莉々花の宿題にまで笑って付き合っていたことを思うと、胸の内側がじわじわ削ら
last updateLast Updated : 2026-08-14
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第97話 同じ日に消えた金

 焦げ臭さは、数秒で油の燃える臭いに変わった。  倉庫の外で、金属を蹴るような音がした。誰かがシャッターを叩いている。  廃材を燃やしている程度ではない。  けれど、匂いはすぐに濃くなった。古い紙と油が混じった、喉の奥に貼りつく匂い。  征臣が顔を上げる。 「外を確認しろ」  警備担当者が走った。次の瞬間、シャッターの向こうで金属を叩くような音がした。 「火です。入口側に回っています」  声が硬い。  私はUSBを抜き、帳簿の写しを掴んだ。紅茶缶も鞄へ押し込む。手が少しもたついて、帳簿の縁が折れた。  征臣がこちらへ来る。 「澪、先に出る」 「待って」 「待てない」  初めて、はっきり命令に近い声だった。  胸の底が冷えるより先に、倉庫の奥から小さな音が聞こえた。  人の声。  咳き込む声だった。 「奥に誰かいます。置いていけません」 「警備が行く。君は出ろ」  征臣の手が私の腕を掴んだ。  強い力だったが、私は見取り図を開いたまま動かなかった。  その一瞬に、私は母の帳簿を開いた。 「母は、ここに一人で来ていました」 「今はその話をしている場合じゃない」 「一人で来ていたなら、出入口を一つだけにはしないはずです」  声が震えた。でも、紙をめくる指は止めなかった。  倉庫の見取り図。母の細い字。赤鉛筆の丸。  棚番号、床板、排水溝、非常扉。  全部が数字で書かれている。普通に見れば在庫管理の印にしか見えない。けれど、図案帳の針穴と同じ読み方をすれば、線になる。  征臣が短く息を吐いた。煙の向こうで目が合う。 「その読み方でいくなら、次はどこだ」 「ここです。母が、私に分かるように残してくれたなら」  シャッターの隙間から煙が入ってきた。目が少し痛む。  奥でまた咳がした。若い男性の声と、もう一人、女性の声。倉庫管理のスタッフかもしれない。  私は見取り図の端を押さえた。 「裏口があります。そこなら出られます」  赤鉛筆の線を追い、奥の棚を指す。 「でも、棚を動かさないと開きません」  征臣がすぐに警備へ指示を飛ばした。  短く、迷いがない声。  その横顔を見ながら、私は帳簿を胸に抱いた。  守られるだけなら、たぶん今すぐ外へ連れ出されていた。  でも、母はここに道を残していた。
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第98話 逃げ道を読む手

 奥の棚は、見た目より重かった。 錆びた金属の脚が床に張りつき、警備担当者が二人がかりで押しても、最初はびくともしない。煙は少しずつ低い位置まで降りてきて、膝のあたりを白く濁らせた。「番号を」 征臣が言った。 私は暗号帳を見た。母の字は細いのに、迷いがない。「三番棚を先に。違う、右じゃなくて左。床の傷に合わせてください」 声が大きく出た。 警備担当者が一瞬こちらを見て、すぐ動く。 征臣も棚に手をかけた。高価なスーツの袖が埃で汚れる。普段なら誰かが止めるのだろうが、今は誰も止めない。 金属が床を擦り、嫌な音を立てた。 その下から、古い取っ手が現れる。床と同じ色に塗られていて、知らなければ見落としてしまう。「これです」 私が膝をつくより早く、征臣が取っ手を掴んだ。「開けるぞ」 私は頷いた。「開けてください。私はここで図を見ます」 征臣が取っ手を引いた。 床板が跳ね上がる。下には狭い階段があった。暗く、湿った空気が上がってくる。 奥から咳き込む声が近づいた。「こっちです。声を出して。聞こえます」 私は階段の脇に立ち、暗号帳と見取り図を照らした。 ひとり、作業着の男性が出てくる。顔が煤で汚れ、腕を押さえていた。続いて、女性スタッフが肩を借りながら上がってくる。「まだ、奥に」 男性が咳の間に言った。 私は図を見直す。「奥の小部屋からここへ来るには、棚番号七の裏を通るはずです」 征臣が警備へ指示を出す。「七番棚、確認。無理に戻るな。煙が濃いなら床下から回れ」 その声は冷静だった。けれど、私を見る目だけが冷静ではない。 煙が喉に触れ、咳が出た。「澪」 いつもの低い声が、初めて大きく乱れた。 驚いて顔を上げる。 それでも、返事をする余裕はなかった。 でも、奥から最後のスタッフが這うように出てきた。 私は暗号帳を握ったまま、階段の端を指した。「そこ、段差
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第99話 初めて乱れた声

 そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。  踏ん張る前に、強い腕が背中に回った。  抱きしめられたのだと気づくまで、少し時間がかかった。  征臣の胸元は、雨と煙と、いつもの冷たい香りが混じっていた。スーツの生地が硬く、腕の力は少しも整っていない。抱きしめ方を知らない人のように、ただ必死だった。 「……無事で、よかった」  耳元の声が、かすれていた。  返事をしようとして、喉に煙が残っていることに気づく。咳が出る。  征臣の腕がすぐ緩んだ。 「すまない」  彼は一歩離れた。  早すぎるくらいだった。  離れた途端、背中だけが急に寒くなった。 「怪我をしたところはないか」 「大丈夫です。……少なくとも、今は」  反射で答えたあと、指先がじんじん痛むことに気づいた。床板を押さえたとき、古い木片で擦ったのかもしれない。たいした傷ではない。  征臣の視線が私の手に落ちる。  触れようとして、また止まった。  止まるたびに、昨日の書斎が間に入る。 「一度、診療所で診てもらおう」 「スタッフの方が先です」 「手配している」  短い返事。  そのあと、彼は少し視線を外した。カフスに触れようとして、指が煤で黒くなっていることに気づいたようだった。いつもなら気にするはずなのに、今はそのまま握り込む。  手が、かすかに強張っていた。  私は、言葉を失った。  煤で強張った彼の指を見て、胸の奥が遅れて痛んだ。  何を恐れていたのか、聞かなくても分かる気がした。  そのことまで、なかったことにはしたくなかった。 「今のは……悪かった」  彼が低く言った。抱きしめたことだと、すぐに分かった。 「……驚きました」  征臣の顔がわずかにこわばった。 「嫌だったわけではありません。ただ、今は……」  私は二人の間の濡れた地面へ視線を落とした。 「少し、離れていてください」  征臣は黙って一歩下がった。  救急車の赤い光が、濡れたアスファルトを何度も染めた。  港の風は冷たいのに、頬だけが熱かった。  抱きしめられた時、ほっとした。そのまま胸に顔を寄せたくなった自分にも驚いて、うまく息ができなかった。  今は離れていてほしい。でも、彼まであの火の中へ戻ってほしくはなかった。少し離れた黒い上着を、目で追ってしまう。 「
last updateLast Updated : 2026-08-16
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第100話 海風の謝罪

 倉庫を出ると、海風が濡れた髪を頬へ押しつけた。  指先の痛みは、外へ出た途端にはっきりした。火傷の跡に、床板で擦った新しい傷が重なっている。  征臣は救急用の冷却材を差し出した。受け取ろうとした指が震え、袋を落としかける。彼の手が動き、私の手前で止まった。  私は自分で袋を掴み直した。 「さっき、君を先に出そうとした」  風に消えそうな声だった。 「覚えています」 「君の話を聞く余裕がなかった。煙の中にいるのを見たら、怖くなった」  征臣は冷却材の袋を見たまま言った。 「私も、火の方しか見えてませんでした」  言ってから、すぐに許したように聞こえた気がして眉を寄せる。 「だからって、さっきのことが消えるわけじゃないです」 「分かってる。……次は、先に声をかける」  少し不器用な言い直しだった。征臣は私の返事を急がず、冷却材の袋から手を離した。謝罪の続きを重ねなかったことだけは、少し助かった。  海風で冷却材の袋が鳴った。謝られたからといって、さっきの怒りが消えるほど器用ではない。私にも火へ手を伸ばした理由がある。彼にも止めた理由がある。そこまで考えて、疲れた。 「診療所まで歩けます」 「歩けても、足元が悪い。俺にも一緒に行かせてくれ」  差し出された手より先に、征臣の顔を見た。彼は続けた。 「さっきみたいに、急に腕を掴んだりはしない」  港の砕けた舗装へ目を落とす。 「……一緒に来てください。お願いします」  彼は返事をせず、私の右側へ回った。先に腕を取らず、ガラス片のある場所だけで歩調を落とす。  診療所では、看護師が傷を洗い、深くないことを確認した。 「軟膏を塗って、包帯を巻き直してください」  薬と包帯をワゴンへ置いたところで、看護師は運び込まれた作業員に呼ばれた。  処置室に残ったのは、私と征臣だけだった。  白い壁、金属のワゴン、消毒液の匂い。蛍光灯がステンレスの皿へ細く反射している。  私は煤の落ちた右手を見た。赤く擦れた皮膚と、古い火傷の跡が同じ場所にある。  征臣は薬箱へ目を向けたが、手を出さない。 「薬と包帯だけ……頼んでもいいですか」  征臣は薬箱を引き寄せた。  私は煤の残る手をテーブルへ置く。  彼は椅子を引き、向かいではなく少し斜めに座った。 「手を支えてもいいか。痛むとこ
last updateLast Updated : 2026-08-16
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