All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話 守ると言わないで

 私は保留印の押された申立書を、机の上に置いた。紙自体は薄くて軽い。それなのに、机へ置いた音だけが妙に重く響いた。 「白鳥家でも、そうでした」  声は落ち着いていた。 「澪にはまだ早いって、何度も言われました。家のため、お母様のため、私のためって」  征臣の顔から、色が少し消えた。 「……同じことをした」 「悪意があったとは思ってません。守ろうとしたんだってことも、分かってます」  声が少し掠れた。そこまで言うと、かえって続きが苦しくなる。 「でも、知らなかった。私の名前の紙なのに」  申立書に押された保留印を見た瞬間、父の机が浮かんだ。理由が違っても、本人の知らないところで紙が止まる感触は同じだった。  私は左手を見た。  契約婚約の指輪が、照明を細く返している。母の指輪とは違う。これは征臣が差し出した選択の証だった。  だからこそ、今は重い。 「『君のためだ』と言われると、また何も言うなと言われている気がするんです」  会議室の空気が止まった。  相沢が息を呑んだ音が、小さく聞こえる。  征臣は動かなかった。  言い返せたはずだ。危険だった。最善だった。時間がなかった。いくらでも言葉はある。  でも、彼はどれも選ばなかった。 「悪かった」  短い謝罪だった。  言い訳が続かなかったことに、不意に目の奥が熱くなった。  私は泣かずに、指輪へ触れた。  会議室の窓ガラスに、自分の顔が薄く映っていた。怒っている顔だった。白鳥家では、すぐに直せと言われた顔。けれど今は、直したくなかった。 「次は……止める前に、私を呼んでください」 「止める前に?」 「はい。私が嫌だと言えるところで、話してください」  征臣は一拍置いて、息を逃がした。 「……分かった、とはまだ言えない」  意外な答えに顔を上げる。 「たぶん俺は、また止めたくなる」  征臣の手が机の端で強く閉じた。 「でも、次は君のいないところで決めない」  完璧な約束ではなかった。だからこそ、少なくとも今ここで私に好かれるためだけの言葉ではない、と信じられた。  相沢は視線を落とした。征臣も、それ以上は言葉を重ねなかった。  私は指輪に触れた。金属の下で、皮膚が少し熱を持っている。  征臣は私の手を見てから、触れていいかと視線で尋ねた。  私は首
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第112話 外した指輪

 机の上へ、契約婚約の指輪を置いた。  金属が紙へ触れ、思ったより小さな音がした。母の指輪でも、奪われかけたものでもない。これは一度、私自身が選んで受け取ったものだ。  だから「返す」とは思いたくなかった。今はただ、いったんここへ置く。そう考えないと、指を離せなかった。 「婚約を、白紙に戻します」  声は揺れなかった。  机の上で、指輪が照明を細く返した。  征臣の目が指輪に落ちた。  征臣はすぐには何も言わなかった。  止めないのかと、どこかで思った。  止められたら困るくせに、何も言われないことまで痛い。自分でも扱いに困る感情だった。  私は申立書を手に取った。 「鷹宮家の婚約者としてではなく、白鳥澪として出ます」  征臣は申立書を見た。 「証拠は借ります。話す言葉は、自分で書きます」  すぐには返事がなかった。  征臣は指輪を見たまま、手を伸ばさなかった。 「場の手配と警備だけは、させてくれ」  征臣はそこで口を閉じ、私の返事を待った。 「そこまでです」 「分かった」  私は指輪の横を通り過ぎ、保留印の押された申立書を封筒から抜いた。  指輪は紙の上で小さく光っていた。その向こうには、確かに私が一度選んだ時間が残っていた。  征臣なら、保管先も、手続きも、危険の切り分けもすぐ決められる。けれど彼は、指輪の置き場所を一言も提案しなかった。  用紙の角に、自分の爪の跡がついた。  止めたいはずなのに止めない。その我慢が見えたから、私は指輪から目をそらさずにいられた。  相沢が、何も言わずに新しい用紙を机へ置いた。  保留印のない申立書。まだ誰の判断も重なっていない、白い欄。  私はペンを取った。指輪を外した左手ではなく、火傷の痕が残る右手で。  痛みのおかげで、字だけはまっすぐになった。  私は椅子に座り直した。  左手には、もう指輪がない。  指輪の跡だけが残っている。白い細い輪。失くしたのではなく、自分で外した印。そう思うことにした。  ペンを持つ。  相沢が言った。 「提出後は取り下げに手続きが必要になります。本当にこの形でよろしいですか」  念を押す言葉だった。止めるためではない。  私は頷いた。 「このまま、私が署名します」  申立人欄に、ゆっくり名前を書く。  白鳥。  そ
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第113話 私の名前で再提出する①

 会議室の端で、黙って立っている。いつもなら場を動かす人が、今日は場を譲っている。その沈黙が、まだ痛くて、少しありがたかった。  相沢が提出の手続きのため、部屋を出る。  扉の閉まる音が、会議室に残った。空調の風で、机の上の控えがかすかに揺れる。さっき書いたばかりの私の名前が、まだ濡れているように見えた。  征臣は壁際に立ち、口を挟まなかった。何も言わずにいることまで正しい対応に見えて、余計に腹が立った。私が怒れば怒るほど、征臣だけが冷静な人に見えるのも嫌だった。 「何ですか。今度は、どの書類を私に内緒で止めますか」  自分でも刺のある言い方だと分かった。怒っているのに、目の奥は少し熱くて、そのことまで見抜かれそうなのがまた腹立たしい。  征臣がこちらを見る。 「澪」  名前を呼ばれた瞬間、喉の奥に用意していた言葉が崩れかけた。 「……今は、名前を呼ばないでください」  征臣の眉がわずかに動く。 「呼ばれると、言えなくなるから」  言い切ると、空になった左手が膝の上で強く握られた。  征臣は一度だけ息を吸い、目を逸らさなかった。 「あなたが私を傷つけようとしたんじゃないのは、分かってます。……でも、黙って決められるのは、もう無理です」  征臣の口が動きかけ、閉じた。  その沈黙を待った。  左手には、指輪を外した跡がまだ薄く白い。  征臣は黙った。  謝罪を待っているわけではなかった。 「……今、謝らないで。まだ私、終わったことにできないので」  征臣の口が開きかける。 「まだ、聞いていて」  征臣は口を閉じた。謝罪の形へ整いかけた言葉が、そこで止まったのが分かった。私は濡れた署名へ視線を戻した。  今は、それでよかった。  机の上のペンを指で押すと、申立書の控えに当たって止まった。 「次に止めたくなったら、先に私を呼んでください。私のいないところで決めないで」  征臣はしばらく黙った。 「……分かった。いや、そうする」  返事が早すぎて、かえって不安になる。私は申立書の署名へ目を落とした。 「簡単に言わないでください」  征臣は返事をせず、机の上の申立書を見た。私の署名の横には、彼の名前はない。そこを確かめるように、しばらく目を離さなかった。 「またやりそうになったら……その時は、怒ってくれ」  そ
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第114話 私の名前で再提出する②

 その声が終わるより早く、別の秘書が封筒を持って入ってきた。 「白鳥家側が、記者向けの追加資料を配布しました」  封筒の表には、白鳥家の家紋が押されている。開く前から、紙の向こうで父と瀬里奈さんがこちらを見ている気がした。  提出手続きを終えて戻った相沢が、一枚目を読み上げる。 「白鳥澪氏は、鷹宮家の利害に誘導され、家族を告発している可能性がある――」  続く行には、莉々花の名前で短いコメントが添えられていた。お姉様を信じたい。でも、怖い。どうか家族に戻ってきて。  吐き気がした。戻る場所を壊した人たちほど、戻ってこいという言葉を使う。  征臣の目が一瞬で冷えた。 「発信元は調べる」 「必要なものを揃えて、出すかどうかはあとで話しましょう」  征臣はすぐに答えず、一拍だけこちらを見た。それから頷く。 「分かった。あとで、一緒に考えよう」  昨日までなら、その先まで一人で決めていたかもしれない。「あとで」という言葉に自分も含まれていることが分かって、ようやく息を少し吐けた。  右手が、空になった左手を探した。  そこにはもう指輪はない。  征臣は近づかなかった。私も近づいてほしいのか分からなかった。答えが出ないまま、同じ部屋にいた。  代わりに、さっき書いたばかりの自分の名前の感触が残っていた。  部屋を出ようとした相沢が、廊下で足を止めた。 「白鳥家から、もう一通届いています」  封筒は薄かった。中身を見なくても、嫌な軽さがある。  同意撤回書。  申立人欄には、私の名前が印字されていた。けれど署名の筆跡は、私のものではない。丸く、少し甘い線。莉々花が昔、私のノートに勝手に名前を書いた時の癖が残っていた。 「……まだ、私の名前を使うつもりなんですね」  怒りが、静かに息をした。  征臣は何も奪わなかった。ただ、証拠袋を一枚、私の前に置いた。 「この袋を使ってくれ。自分で入れるか?」 「はい。私がやります」  私はその紙を、自分の手で袋に入れた。  宮野真理は、思っていたより小さな人だった。  療養施設で会ったときより背中が丸く、廊下の照明の下に立つ姿は、紙の端のように頼りない。薄い灰色のコートを胸の前で合わせ、片手には古い革のバッグを抱えていた。  けれど、目だけは逃げていなかった。  秘書が扉を開けると
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第115話 到着した証人

 中から出てきたのは、薄い茶封筒だった。 角が何度も持たれたように柔らかくなっている。表には母の字で、私の名前が書かれていた。 白鳥澪へ。 胸の内側が、急に狭くなる。「菜月奥様から、お預かりしていました」「どうして今まで」 声が硬くなったのが、自分でも分かった。 真理の睫毛が落ちる。「怖かったからです」 言い訳ではなかった。 あまりにそのままの言葉で、返す言葉が遅れた。「旦那様も、瀬里奈様も、笑っておっしゃるんです。あなたのために、と。奥様のために、と。そう言われると、私はいつも、何も言えなくなりました」 白鳥家で聞き慣れた言葉が、別の人の口からこぼれる。 私は封筒を受け取った。 紙は軽かった。軽いのに、手が沈むような気がした。 真理は膝の上で両手を重ねた。「でも、もう黙りません」 その声は震えていた。 震えているのに、途切れなかった。「明日の公開聴聞で、私がお話しします。奥様が何を恐れていらしたのか。誰が書類を止めたのか。私が見たことだけを」 征臣の視線が一瞬だけこちらへ動いた。 私は封筒の表を見た。 母の字は、まだ私の名前をまっすぐ呼んでいた。 真理の証言確認は、夜になっても終わらなかった。 鷹宮邸の小さな会議室には、冷めた紅茶のカップが三つ並んでいる。誰も飲みきれなかった。カップの縁に薄く残った茶色の輪だけが、時間の長さを教えていた。 相沢が録音機を置く。「無理に思い出そうとしなくて構いません。見たこと、聞いたこと、残っていることだけで十分です」 真理は頷いた。 頷いたのに、唇はすぐには動かなかった。 私は封筒の中身を机に広げる。母の手紙。古いUSBの合言葉を書いたメモ。未提出の告発状の写し。投薬記録のコピー。どれも紙の色が少しずつ違う。 生きている間、母は一人でこんな紙を集めていた。 そのことを考えると、胸の奥が冷える。「奥様は、亡くなる一月ほど前から、薬の管理を変えるように
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第116話 途切れる名前

 相沢が声を落とした。「持ち出したのは、白鳥清隆氏で間違いありませんか」 真理は頷いた。名前を口にすることはできないようだった。「そのあと、菜月様は」 真理の指が止まった。 録音機の赤いランプだけが、小さく光っている。「奥様は、それでも旦那様を信じようとしていました」 その言葉は、ほとんど息だった。 私は母の手紙に触れた。 翌朝、久我山麗子は約束の時間ちょうどに現れた。 グレーのスーツに、装飾のない黒いパンプス。秘書が案内するより先に部屋の位置を把握している歩き方だった。会議室へ入ると、征臣にも私にも頭を下げすぎない角度で会釈する。「公開聴聞の座長を務めます。久我山です」 声は硬い。 冷たいというより、感情を交えない人の声だった。 相沢が資料を渡す。久我山は椅子に座る前に、表紙の申立人欄を見た。 白鳥澪。 その名前の上に、保留印はない。 久我山は顔を上げた。「申立人ご本人の意思で提出されたものとして扱います。よろしいですね」 征臣ではなく、私を見る。 私は頷いた。「お願いします。……鷹宮家の名前で出したくありません」「つまり、鷹宮家の関係者としてではなく?」「はい。白鳥澪として」 久我山の目は、少しも柔らかくならなかった。 けれど、紙の端に置かれた指が一度だけ止まった。「分かりました。では、調書に残します」 調書に残します。 その言葉は、怖いのに、かすかに救いにも聞こえた。 白鳥家で消されてきたものは、いつも紙に残らなかった。母の部屋が変えられたこと。指輪を取られかけたこと。私が嫌だと言ったこと。家族の誰も、何かの紙には残さなかった。 久我山は真理へ向き直る。「宮野真理さん。あなたの証言は、明日の場で確認します。今日ここで私情を聞くつもりはありません」 真理の肩がびくりと動いた。「……そのつもりです」「分
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第117話 調書に残します

「明日、午後二時。財団理事会室で始めます」  調書に残る。その言葉は冷たかった。けれど、白鳥家で消され続けたことを、初めて誰の目にも残る記録にしてくれる言葉でもあった。  机の上の私の左手には、指輪の跡だけが白く残っていた。  翌日、午後二時。  財団理事会室は、思っていたより明るかった。  壁一面の窓から、冬の薄い光が入っている。大きな楕円形のテーブル。並べられた水のボトル。名前の札。録音機。部屋の隅には記者ではなく、議事録担当の職員が座っていた。  公開、といっても劇場ではない。  けれど、白鳥家で開かれる家族会議より、ずっと逃げ場がなかった。  入口で足を止めると、案内係が席を示した。 「白鳥澪様はこちらです」  札には、申立人とだけ書かれていた。  鷹宮副社長婚約者、ではない。  白鳥家長女、でもない。  申立人。  それだけで、膝の奥に入っていた力が少し戻った。  椅子に座る。左手を膝の上に置いた。指輪の跡は、朝より薄くなっている。それが少し寂しくて、少し助かった。  征臣は斜め後ろの証人席に立ったまま、私の椅子には触れなかった。  ボトルへ伸びかけた征臣の手より先に、私は自分で取った。  蓋が一度滑る。  征臣の手が少し浮いたが、今度は止まった。 「自分で開けます。……でも、ありがとう」 「ああ。固かったら呼んでくれ」  返事が少し早くて、胸の底の固さがわずかにずれた。  その時、扉の外がざわついた。  白鳥清隆が入ってきた。  紺のスーツ。銀のネクタイ。いつものように、白鳥家当主の顔をしている。後ろには瀬里奈と莉々花が続いた。  莉々花は淡いピンクのワンピースを着ていた。泣いた後に見えるよう、目元だけを薄く赤くしている。視線が私の左手に落ち、すぐに征臣へ移った。  空の指を見たのだと思う。  清隆も同じ場所を見た。  唇の端が、かすかに上がる。 「外したのですか」  その声は、父親のものではなかった。  家の持ち物を見て、値札が剥がれていないか見る人の声だった。  私は答えなかった。  久我山が席に着く。 「時間です。始めます」  久我山が申立書を机に置いた。薄い紙の上に、私の名前がある。父の視線が左手に貼りついたままでも、その一枚だけは私の側にあった。  録音機の赤いランプが点
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第118話 その娘は私の子ではない

 久我山の声で、部屋の空気が整った。「本日の聴聞は、白鳥澪氏からの申立てに基づき、白鳥家関連財産の管理、菜月氏の死亡前後の記録、ならびに提出された戸籍関連資料の真偽について確認します」 言葉は固い。 けれど、固い言葉ほど逃げ場がない。誰かの涙や怒鳴り声で曖昧にできない場所へ、ひとつずつ釘を打たれていく。 私は目の前のファイルを開いた。 最初のページには、母の告発状の写しがある。次のページには、投薬記録。さらにその後ろに、港の書記官から受け取った封筒の記録。 紙は順番に並んでいた。 私の心だけが、まだ順番通りではなかった。 久我山が清隆へ視線を向ける。「白鳥清隆氏。申立人との関係について確認します」 清隆は椅子に深く座ったまま、片手をテーブルに置いた。「確認するまでもない」「確認のためです」 久我山は少しも揺れない。 清隆の眉が動いた。「その娘は」 娘、という言い方なのに、そこには何も入っていなかった。 私はペンを持ち直した。 父の声が、部屋の真ん中へ落ちる。「私の子ではない」 音が消えた。 誰かが息を止めたのが分かる。莉々花の唇が開く。瀬里奈は顔を伏せ、ハンカチで口元だけを隠した。 分かっていた。 記事も、偽戸籍も、公開聴聞の場で彼が何をするかも、予想はしていた。 なのに、胸のどこかが一拍遅れて折れた。「子ではない」という言葉より、父が迷わず言い切ったことの方が胸に刺さった。ファイルを開く手が止まる。 紙の角が、爪の下に入った。 痛い。 その痛みで、呼吸が戻った。 私は顔を上げた。 久我山がこちらを見ている。続きを促さない。慰めもしない。ただ、聞き取る人の目で待っていた。 私はページを一枚めくった。「では、こちらを確認してください」 声は少し低かった。 でも、出た。 清隆の前に、古い契約書の写しを差し出す。 清隆は、私の反応を見ていた。
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第119話 ファイルの角

 久我山が淡々と聞く。「署名と実印はご本人のものですか」 清隆の口が止まった。 瀬里奈がすぐに横から声を挟む。「当時は奥様がご病気で、混乱されていた時期ですから」「菜月様が亡くなられたのは、そのずっと後です」 相沢の声が入った。 瀬里奈の笑顔が、一瞬貼りつく。 莉々花が不安そうに袖を握った。誰の袖でもない。自分の袖だ。握る相手を間違えているように見えた。 久我山は契約書の写しへ視線を落とす。「この書類単体で親子関係を確定するものではありません。ただし、清隆氏が申立人を受益者として扱っていた証拠にはなります」 私は父の顔を見た。彼は契約書から目を上げなかった。 ファイルの角を親指で押さえる。 久我山がこちらを見た。「母の口座から、私の学費として毎年支出されています。承認欄は、父の秘書室です」 清隆の顔色が少し変わった。「家の経理が処理しただけだ」「白鳥家の経理ではありません。母個人の口座です」 声の端が、さっきより硬くなった。 声を上げそうになり、奥歯を噛んだ。 紙を一枚ずつ示す。 数字を読み上げる。 母が残した順番は崩さない。 瀬里奈がゆっくりとバッグを開けた。「でしたら、こちらもご確認ください」 出てきたのは、白い封筒だった。 封緘の赤が、どこかで見た色に似ていた。 瀬里奈は私を見ず、久我山へ微笑んだ。「澪さんの出生に関する、古い証明書です」 そのファイルの角に、東都商事の透かしが入っていた。 瀬里奈が差し出した証明書は、妙に白かった。 古い書類だと言うには、紙の繊維が均一すぎる。保存状態が良いというより、年を取っていない紙に見えた。 私は手を伸ばしかけて、止めた。 触らない方がいい。 そう思ったのは、恐怖ではなく、癖だった。紙の匂い、封緘の位置、折り目の浅さ。母の帳簿を読んできた手が、先に違和感を拾っていた。 久我山が手袋をつけた職員へ合図する
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第120話 継母の証明書

 東都物産。東都商事の旧名。 港の倉庫の鍵についた古いタグと同じ文字。 私はファイルの中から、鍵の写真を出した。「この透かしと、同じものがあります」 瀬里奈の笑顔が止まった。「偶然でしょう」「封緘の赤も、東都商事の密約文書と同じ顔料です。こちらは相沢先生に鑑定依頼をお願いしています」 相沢が頷いた。「すでに予備鑑定の結果は出ています。少なくとも二十年前の紙ではありません」 莉々花の手が、テーブルの下で母親の袖を探した。 今度は瀬里奈の袖を掴んだ。 瀬里奈はその手を、見ないまま外した。 部屋の空気が、少し変わる。 久我山が速記担当へ目を向けた。「提出資料の真偽に疑義あり。入手経路について追加確認します」 瀬里奈の頬から、柔らかい色が引いた。 久我山は次に、証人席の札を見た。「鷹宮征臣さん。証人席へ」 征臣の靴音が、私の背後から近づいた。 征臣は、証人席に立っても姿勢を崩さなかった。 黒いスーツの肩線はまっすぐで、声も低い。いつもの鷹宮征臣だった。 けれど、私の席からは、彼の右手が袖口へ向かいかけ、途中で下りるのが見えた。 証言席のマイクが入る。事務局員が氏名と立場を確認し、回答はすべて調書に残ると告げた。 征臣は私を見ず、正面を向いたまま「承知しました」と答えた。その声に迷いはなかった。 久我山が書類を開く。「鷹宮氏。あなたが白鳥澪氏に接触した時期と目的について確認します」 部屋の端で、莉々花が顔を上げた。 瀬里奈も、清隆も、一瞬息を詰める。 ここで征臣が言いよどめば、白鳥家はそこにつけ込む。澪は鷹宮に利用されたのだと。鷹宮家の復讐に巻き込まれただけだと。 私も、それを知っている。 だから、膝の上の手が少し硬くなった。 征臣は私を見なかった。 見れば、私を使ってしまうと分かっているみたいに。「最初の目的は、白鳥家と東都商事の資金導線を確認することでした」 声が部
last updateLast Updated : 2026-08-26
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