All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話 焼却炉の前で

 声が途中で詰まった。唇を噛むと、鉄っぽい味がした。次の言葉が出るまで、少しかかった。 「莉々花に、きれいな物語に直されたくない」  征臣はすぐに答えず、腕時計へ伸ばしかけた手を下ろした。 「……行こう」 「日記は、私が取ります」  征臣は一拍だけ私を見た。  それから、鍵を私の側へ置いた。  私は窓の外へ顔を向けた。肩に入っていた力が少し抜けた。  白鳥邸の門が見えた。かつて自分の家だった場所は、夜になると余計に大きく見える。門灯はついている。庭の奥、物置のあるあたりに、小さな明かりが揺れていた。  車が止まる前に、私は鍵を握ったままドアへ手を伸ばした。 「待て」  征臣の声が低くなる。 「止めますか」 「止めない。ただ、足元が暗い。先に照らすから待ってくれ」  征臣は先に降り、足元へライトを向けた。濡れた石が白く光った。  門の内側へ入る。庭の土が湿っていた。夜露で靴の底が少し沈む。  物置の横、古い焼却炉の前に人影があった。  白いコート。見慣れた細い肩が、夜気の中でわずかに揺れていた。  莉々花が、古いノートの束を抱えていた。  焼却炉の前には、夜露を吸った紙片と、まだ赤い灰が残っていた。莉々花が抱えたノートの一冊から、子どもの丸い字がのぞいている。  自分の字だと気づくまで、ほんの少しかかった。  白いコートの袖には、灰がついていた。  湿った庭土に、焦げた紙の欠片が貼りついている。  子どもの頃、母はここで落ち葉を燃やしていた。あの煙より、今の臭いは鼻に刺さる。焦げた紙だとすぐ分かった。 「莉々花」  名前を呼ぶと、彼女はようやくまばたきをした。 「お姉様、こんな時間にどうしたの。怖い顔して」  声だけは甘かった。けれど、唇の端がうまく上がらない。ノートを抱える腕だけが、さっきより高くなった。 「そのノートを返して」 「ノート?」  莉々花は腕に力を入れた。 「古いものを整理していただけよ。お父様もお母様も、物置は片づけていいって。白鳥の家に置いてあるものだし」 「私の日記です」 「でも、白鳥の家に置いてあったじゃない」  その言い方を聞いた瞬間、制服の上着や母の花瓶まで思い出した。似た言葉を何度も聞いている。私は門の方を一度見た。置いていったのは自分だ、と責められているようで腹が立つ。
last updateLast Updated : 2026-08-02
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第72話 燃え残るもの

「俺は、君に聞いていない」 莉々花の目が、父や瀬里奈さんのいる方へ動き、それから征臣へ戻った。 私は焼却炉へ視線を落とす。灰の中に、まだ赤い点が残っていた。風が吹くたび、黒く縮れた紙片が小さく動く。「莉々花。燃やしたものは、何」「知らない。古い紙よ。虫がついてたから」 莉々花は私を見ない。 征臣の袖口ばかり見ていた。「お姉様だって、もう要らないから物置に入れていたんでしょう。私が片づけてあげただけなのに」 片づける。 片づける、と口の中で繰り返す。母の部屋を新婚部屋に変えられた夜も、似た言葉を聞いた。 焼却炉の奥で、焦げかけた紙がひらりと起き上がった。端に、幼い私の丸い字が見えた。 温室。 たった二文字が、灰の中でまだ残っていた。 足が勝手に動いた。「澪、待て。手で触るな」 止める声に、私は焼却炉の縁で足を止めた。 焼却炉の縁に手を伸ばしかけて、熱で指が止まる。火は弱い。それでも紙の端は黒く縮んでいた。「触らないで」 莉々花が叫んだ。 初めて、甘さのない声だった。「それはもう、捨てるものなの。お姉様だって、ずっと忘れてたくせに。今さら大事そうにしないでよ」 胸の底で何かが細く切れた。「忘れてた」が痛かった。言い返そうとして、やめた。見たくなくて物置へ押し込んだのは、本当だった。 私は火の方へ視線を戻した。 征臣が庭の隅に置かれていた火ばさみを取った。無言で私に差し出す。 手渡すとき、彼の指は私の指に触れなかった。 触れられなかったことに、なぜかほっとした。自分で気づいて、少し腹が立つ。「水を」 征臣が背後の警備員へ短く言った。 莉々花は口元を歪め、何度か瞬いた。けれど、涙は落ちなかった。焼却炉の風が髪を揺らし、彼女は片手で押さえる。その間に、私の火ばさみは灰へ届いていた。 火ばさみで灰をそっと分ける。紙片が崩れそうになるたび、息を止めた。焦げた匂いが喉に貼りつく。 黒い端の間に、白く残った部分が
last updateLast Updated : 2026-08-02
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第73話 灰の中の一行

 征臣の腕が、私と彼女の間に入る。触れない。けれど、通さない。「これ以上近づくな」「どうして。征臣様、どうしていつも、お姉様ばかり」 莉々花の声が幼く割れた。 私は紙片から目を離さなかった。 紙片は端まで黒く、中央だけ白く残っていた。幼い私の字が、煤で縁取られている。 小さな字の左という一文字が、灰の上でまだ黒く残っていた。 紙片は証拠保全用の袋に入れられた。警備員がラベルへ時刻と場所を書き、「発見者 白鳥澪」と記す。自分の日記なのに、その欄だけ妙に他人事に見えた。 庭の灯りの下で見ると、焦げた端が想像以上に脆い。少し息を吹きかけただけで崩れそうだった。 私が書いた字なのに、知らない人の遺書みたいに見える。「これだけで決めるのは難しい」 征臣は言葉を選ぶように、少し間を置いた。 分かっていた。分かっていたから、返事まで少し間が空いた。「ここで止めたら、また燃やされます。だから――行かせてください」 答えた声は平らに出た。 莉々花は使用人に支えられながら、少し離れた場所に立っている。彼女が抱えていたノートの束は、征臣側の弁護士が確認していた。焼けていないものもある。けれど、古い順に何冊か抜けていた。「お姉様が急に来るから、驚いただけなのに」 莉々花が小さく言った。 莉々花の目は、征臣のいる方へ向いていた。「私、怖かったの。お姉様は昔から、私が少しでも何か持つと怒るから」 莉々花は何か言い足そうと口を開いた。 征臣は答えない。莉々花の唇が震えた。 私は紙片の袋を見つめた。 左の肩。 その一行を見ていると、温室の湿った空気が戻ってくる。濡れた土。割れた鉢。男の子の白いシャツ。肩からにじむ血。順番だけが妙にはっきりして、顔はまだぼやけていた。 でも、名前はない。 征臣だったと、まだ言い切れない。 言い切りたい自分が、少し怖かった。 警備員が残ったノートを透明な袋へ移していく。袋越しに、自分の幼い字がちらりと見えた。給食で嫌いだった豆。母に
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第74話 銀鈴の招待状

 鷹宮邸へ戻ってから封を開けた。 焼却炉の匂いが、まだ髪に残っている気がした。何度手を洗っても、爪の横に灰の感触がある。実際には何もついていないのに、指だけが覚えていた。 封筒の中身は、先に告知だけ見た政財界チャリティーディナーの正式な招待状だった。 厚いカード。銀色の箔。端に小さな鈴の意匠。 存在は知っていた。それでも、銀色の鈴を正面に置いたカードを実際に見ると、指が止まった。紙は新しく、焼却炉の灰とは何も似ていない。そのことにも腹が立った。「鈴までつけるんですね」 征臣はカードを裏返した。「本物だと思わせたいんだろう」 私はカードを机に置く。 同封の案内には、当日のプログラムが印刷されていた。寄付者紹介、支援事業報告、特別スピーチ。 特別スピーチの欄に、白鳥莉々花の名前がある。 題名は、銀鈴が結んだご縁。 息が浅くなる。 銀色の箔を見ていると、母のリボンが浮かんだ。布に沈んだ青い糸と、つるつるした銀色。似せてあるのに、同じものには見えない。 カードを持つ指に、焼却炉で受けた熱が残っている。小さな痛みが、銀色の鈴をなぞるたびに戻った。母が縫った糸は、こんな冷たい光り方をしなかった。布の上で少し沈み、指で触れれば糸の段差が分かった。 征臣の右手がカードへ向いた。けれど、触れない。 代わりに左手が無意識に肩の少し下へ触れた。私はそこを見てしまった。「征臣さん」 呼ぶと、彼は自分の指に気づいたように手を下ろした。「……傷が痛みますか」「いや。癖だ」 それ以上は聞かなかった。 私は招待状の銀鈴を指でなぞった。 箔はつるりとしていて、母の刺繍の糸とはまるで違う。 カードの端に、もう一枚の紙が挟まっていた。 莉々花のスピーチ概要。「その紙、先に持っていかないでください」 言った瞬間、荒れた声が耳に返ってきた。「ここで、一緒に読んでください」 最初の一文に、私の古い日記とよく似た言葉が並んでいた。
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第75話 盗まれた言葉

 あの日の私は、ただ怖かったはずだ。知らない男の子のシャツが赤くなって、どうしていいか分からなくて、手近なハンカチを押し当てた。「ご縁」なんて言葉は、当時の私の頭にはなかった。 「これは、どこから入った」  征臣が紙を見ながら言った。 「招待状の外封筒に、内部用の回覧票と一緒に挟まっていました。封緘も、一度剥がして貼り直した跡があります」  征臣が紙の端を光へかざした。 「莉々花たちが自分で入れたとは考えにくい。誤封入か、内側の誰かがこちらへ渡したかだ」 「どちらにしても、私が読むことは分かっていたはずです」  静かに答えた。  誰が入れたにせよ、私が読むことまで含めて置かれたように思えた。紙を持つ指が硬くなる。  紙の下の方に、鉛筆で直された跡があった。印刷前の写しなのか、誰かが慌てて差し込んだのか。  薄い字で、右肩、と書かれている。  私は指を止めた。 「右肩」  声に出すと、部屋の空気が少し変わった。  征臣は黙ったまま、左肩のあたりを見下ろす。 「あなたの傷は……」  最後まで聞けなかった。  征臣は左肩へ手をやりかけ、途中で止めた。 「左だ」  その言葉だけで、子どもの頃の温室が少し近づく。雨の日だったのか、晴れていたのかはまだ曖昧だ。けれど、彼の肩に触れたときの布の湿り気だけは、急に指先に戻った。  私は紙を見つめる。  右肩。  右肩。紙の上の二文字が、急に浮いて見えた。  けれど、紙面の隅にもう一つ、読みにくい走り書きがあった。  ――お姉様が騒いだら、怖がればいい。  その字は、莉々花のものではなかった。  丸く整った線を追ううち、昔届いた礼状の封筒が浮かんだ。  瀬里奈さんは、どんな内容でも字だけは崩さなかった。謝罪の文面さえ、曲線だけを見れば上品に見えた。  紙の端に残った走り書きにも、同じ柔らかな癖があった。  字を追っていた目が止まった。 「……継母の字です」  征臣は何も指摘しなかった。 「筆跡鑑定に回す。封をするのは君に任せる」  紙を離すまで、少し時間がかかった。 「……それなら、預けます」  即答したあと、紙から手を離せなくなった。  紙を離せない。灰から拾った日記も、母のリボンも、次々と袋へ入っていく。  必要だと分かっているのに、今日はその作業が妙に嫌だ
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第76話 継母の字

 空の証拠袋へ指をかけたまま、私は征臣を見た。 「私がやっていいんですか」 「君の日記だ」  私は紙の端を押さえたまま、息を吐いた。  指を離せば、そこから昔の自分まで崩れそうだった。 「証拠にはします。でも、これで終わったことにはしたくないんです」  征臣は、日記から目を離さないまま頷いた。 「私が書いた日記を、莉々花の物語に作り替えようとした紙です」  征臣の指が、机の端で止まった。 「そうだな。君の手で封をして、残そう」  私は頷いた。 「怖がればいい」の字を見ていると、子どもの頃の「澪さんはお姉様なのだから」が浮かんだ。声より先に、言われたあとの食卓の静けさを思い出した。  玩具を渡した日、窓側の席を譲った日。瀬里奈さんは最後に必ず「ありがとう」と言った。今さら思い出す必要もない細部ばかり、こういう時に出てくる。  紙を袋へ入れる。今回は捨てずに残す。封の端を押さえると、薄いビニールが指に張りついた。爪で剥がして、もう一度押さえ直す。  封をした直後、征臣のスマートフォンが震えた。  画面には、有馬悠真の名が出ていた。  征臣は、すぐには通話を取らなかった。  征臣は画面を見てから私を見た。私は少し遅れて頷いた。  征臣が通話を受ける。 「鷹宮です」  短い沈黙のあと、スマートフォンから悠真の声が漏れた。いつもの柔らかさが、今日は少し崩れている。 「白鳥さんは、そちらにいますか」  白鳥さん。 「白鳥さん」が耳に引っかかった。婚約中は澪さんだった。名前が変わっただけなのに、変なところで時間が経ったと感じた。テーブルの水を一口飲んだが、ほとんど味がしない。 「います」  征臣が答える。 「代わるか」 「いえ。聞こえているなら、それで」  悠真の声が一度途切れ、スピーカーには息だけが残った。 「莉々花のスピーチ原稿を見ました。僕の名前が、一度もありませんでした」  謝るのか、原稿の話をするのか。私はスマートフォンを見た。 「彼女が話しているのは、全部、鷹宮さんのことだった。幼い頃からずっと、鷹宮さんを探していたと」  笑っているような息が混じる。けれど、少しも楽しそうではなかった。 「僕は、彼女に選ばれたんじゃなかったんですね」  部屋の中で、時計の秒針だけがやけに大きく聞こえた。  私は返事
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第77話 代用品の名前

「聞こえています。原稿を送ってください。途中ではなく、全部」「……澪さんは、何も言わないんですか」 悠真は、私が答えるまで待てなかった。「僕のことは」 言葉がそこで切れた。通話の向こうで衣擦れがする。どこにいるのかは分からない。 昔なら続きを待ったと思う。困った声を出されると、こちらが悪いことをしたような気になって、何を言えば傷つけずに済むのか本人より先に考えた。 机の上の招待状を閉じる。銀鈴の意匠が伏せられ、厚紙が鈍い音を立てた。「謝っても、もう遅いですよね」 喉まで上がった言葉を飲み込んだ。遅いと言えば、悠真は謝らなくて済む。まだ遅くないと言えば、今度は私が許す約束をしたことになる。「……そういう聞き方、ずるいです」 通話の向こうで、また服の擦れる音がした。「ごめん」 その一言も、何に対してなのか分からなかった。「原稿だけ、お願いします」 返事はなかった。しばらくして通話が切れた。 数秒後、画像が三枚届いた。二枚目へ送る指が一度止まる。画面の隅には、悠真の指が写り込んでいた。 莉々花は悠真の隣に写っていた。けれど視線は、画面の外――征臣がいるはずの方向へ向いている。 政財界チャリティーディナー当日、ホテルの廊下は花の匂いで満ちていた。 白い百合。薄い薔薇。磨かれた床に、招待客の靴音が小さく跳ねる。どれも華やかなはずなのに、私には焼却炉の灰の匂いの方がまだ近かった。 バッグの中には、保全袋に入れた紙片の写しがある。 温室。左肩。 残っているのは、それだけだ。 右肩という一言を崩すには足りるかもしれない。足りてほしいと思った途端、また不安になった。「顔色が悪い」 隣で征臣が言った。「鏡は見ました」「戻るか」「戻りません」 征臣は何か言いかけたが、やめた。黙られると少し腹が立った。それでも、今はその方が助かった。戻るかと聞かれたのは、帰る理由を探しているようにも聞こえた。けれど
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第78話 ディナーの扉

 悠真の足が、莉々花より半歩だけ後ろに引けていた。昨夜の電話のあとだからか、そこばかり目についた。 招待客の目が集まり始める。名札を確かめる人、スマートフォンを伏せる人。その間をスタッフがグラスのトレイを持って通った。反射で手を引き、「水をください」と言うと、いつもより早口になった。征臣も同じ水を取った。 私の名前を見つけた人たちの声が、小さく沈む。白鳥家の長女。遺産を盗んだ娘。鷹宮家に取り入った女。聞こえたものも、聞こえていないものも混ざって、どれが本当に言われたのか分からなくなる。 征臣が半歩前に出た。壁になるには近い。隠すには遠い。 私はその隣へ並び直した。 扉の向こうでは、私の日記の言葉を莉々花が読むことになっている。そのことだけ考えると、拍手が遠く聞こえた。 司会者がマイクの前に立つ。「続きまして、白鳥莉々花様より、鷹宮副社長との幼少期のご縁についてお話をいただきます」 莉々花が一歩前に出る。 悠真の手が、彼女の袖を一瞬だけ掴んだ。止めるほど強くはない。 莉々花はその手を、見もしなかった。「私は、幼い頃、温室で怪我をした男の子に出会いました」 甘い声がマイクに乗る。最初の一音だけ少し割れ、莉々花は笑顔のまま一拍置いて言い直した。 私は手を握り、すぐ開いた。爪の跡が掌に残る。 莉々花は涙を浮かべて征臣を見た。客席を一度見回してから、笑みを少しだけ薄くする。 悠真は莉々花の横で口を閉じていた。昨夜の電話の声を思い出す。彼は一度も彼女の背に手を添えなかった。「彼の右肩の傷を見たのは、私だけでした」 最前列のスマートフォンに、録画ランプが点いている。莉々花もそれを見た。 右肩。 客席へ戻した笑顔が、わずかに遅れた。 会場には香水とワインの匂いが混じっていた。さっきもらった水は、まだ一口も減っていない。 怪我をした男の子。幼い少女。温室。銀鈴。原稿通りの言葉が続く。 私はバッグの中の紙片を思い出した。 指先に、焦げた端のざらつきが戻る。 ――温室の硝子が割れて、男の子の左の肩か
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第79話 右肩という嘘

 聞いているうちに、日記の字まで莉々花の声で読まれている気がして、吐き気がした。 私はバッグの金具を強く握った。「澪」 隣から低い声が落ちた。征臣は壇上を見たままだった。 呼ばれて、バッグの金具から手を離した。 今ここで紙を出す場面を想像した。莉々花が泣き、父が「妹の思い出まで奪うのか」と言う。たぶん悠真は困った顔をする。そこまで浮かんだところで、考えるのをやめた。 想像だけで、口の中が乾いた。 舌の裏に、苦い味が残った。 莉々花が私を見た。唇の端が、わずかに上がる。「お姉様も、覚えていますか? 私が、征臣様を助けた日のこと」 マイクには拾われないほど小さな声だった。「左です」 自分で思ったより低い声だった。二度目は、すぐには出なかった。 悠真の手は莉々花の背に触れかけたまま止まっている。指先だけが宙に残った。昨夜の「僕は選ばれたんじゃなかった」が、また耳に戻る。 右肩。私が見た跡は左。二つの言葉が頭の中でぶつかった。 莉々花は笑みを作りかけたが、頬が引きつった。客席を一度見て、また私を見る。 莉々花の指が袖口へ沈んだ。 会場には聞こえていない。隣の征臣と、近くに立つ悠真に届いた程度だ。征臣の肩がほんの少し動いた。 莉々花のまつげが止まり、こちらを見た。 彼女は涙を浮かべたまま、笑顔の形を直した。小さな鏡の前で何度も練習したような、少し首を傾ける仕草。「え……? お姉様、何かおっしゃいました?」 甘い声だった。 ただ、袖口を掴む指だけが白い。 征臣が私の横から一歩前へ出た。 会場の視線が移る。近くを通っていた給仕が足を止め、すぐに動き直した。空調の低い音まで聞こえそうだった。「違う」 短い一言だった。 莉々花が瞬きをする。「征臣様……?」「その傷は左だ」 マイクを通していないのに、声はよく通った。最前列の数人が、同時に顔を上げる。 グラスを
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第80話 その傷は左だ

 莉々花の笑顔が、頬の途中で止まった。泣く準備をしていた目が、急に置き場をなくす。「で、でも……幼い頃のことですし、私、怖くて、混乱していて」「君が混乱していたかどうかは、俺には分からない」 征臣は言葉を切った。「だが、俺の傷の位置は変わらない」 誰かが小さく咳払いをした。場をつなごうとする音だったが、続かなかった。 莉々花は悠真を見た。すぐに征臣へ視線を戻す。 悠真は動けなかった。 彼の目が、莉々花の胸元にある銀鈴のブローチへ落ちる。次に、私のバッグへ。それから征臣の左肩へ。 悠真の視線が三か所を往復し、最後に足元へ落ちた。「莉々花」 悠真が、喉の奥から声を出した。「右肩だったのか」 莉々花の唇が震えた。 奥歯を噛んだのか、顎だけが固くなる。「悠真さんまで、そんなこと言うの?」 会場の隅で、誰かがスマートフォンを下ろした。撮ることすらためらう空気があった。 莉々花は征臣を見たまま、笑おうとした。「私、本当に……」 その声は、最後まで甘くならなかった。 莉々花は泣かなかった。 何度か瞬いたが、涙は落ちなかった。代わりに顔色が先に変わった。「だって、私は……ずっと、征臣様のことを」 そこまで言って、彼女は口を押さえた。 遅かった。 悠真の肩が、一瞬下がる。 隣に立つ婚約者の口から、別の男の名前がこぼれた。悠真の顔から血の気が引いた。「莉々花」 悠真が低く呼ぶ。 彼女は振り向かない。「今のは、どういう意味だ」「違うの。そうじゃなくて……」「僕との婚約は、白鳥家のためだと君は言った」 悠真の声は低く抑えられていた。言い訳を探すときの柔らかさが消えている。「それなら、せめて僕を見て言ってくれ」 悠真の声は低かったが、最後だけかすれた。会場の真ん中
last updateLast Updated : 2026-08-06
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