Semua Bab 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Bab 71 - Bab 80

242 Bab

第71話 焼却炉の前で

 声が途中で詰まった。唇を噛むと、鉄っぽい味がした。次の言葉が出るまで、少しかかった。 「莉々花に、きれいな物語に直されたくない」  征臣はすぐに答えず、腕時計へ伸ばしかけた手を下ろした。 「……行こう」 「日記は、私が取ります」  征臣は一拍だけ私を見た。  それから、鍵を私の側へ置いた。  私は窓の外へ顔を向けた。肩に入っていた力が少し抜けた。  白鳥邸の門が見えた。かつて自分の家だった場所は、夜になると余計に大きく見える。門灯はついている。庭の奥、物置のあるあたりに、小さな明かりが揺れていた。  車が止まる前に、私は鍵を握ったままドアへ手を伸ばした。 「待て」  征臣の声が低くなる。 「止めますか」 「止めない。ただ、足元が暗い。先に照らすから待ってくれ」  征臣は先に降り、足元へライトを向けた。濡れた石が白く光った。  門の内側へ入る。庭の土が湿っていた。夜露で靴の底が少し沈む。  物置の横、古い焼却炉の前に人影があった。  白いコート。見慣れた細い肩が、夜気の中でわずかに揺れていた。  莉々花が、古いノートの束を抱えていた。  焼却炉の前には、夜露を吸った紙片と、まだ赤い灰が残っていた。莉々花が抱えたノートの一冊から、子どもの丸い字がのぞいている。  自分の字だと気づくまで、ほんの少しかかった。  白いコートの袖には、灰がついていた。  湿った庭土に、焦げた紙の欠片が貼りついている。  子どもの頃、母はここで落ち葉を燃やしていた。あの煙より、今の臭いは鼻に刺さる。焦げた紙だとすぐ分かった。 「莉々花」  名前を呼ぶと、彼女はようやくまばたきをした。 「お姉様、こんな時間にどうしたの。怖い顔して」  声だけは甘かった。けれど、唇の端がうまく上がらない。ノートを抱える腕だけが、さっきより高くなった。 「そのノートを返して」 「ノート?」  莉々花は腕に力を入れた。 「古いものを整理していただけよ。お父様もお母様も、物置は片づけていいって。白鳥の家に置いてあるものだし」 「私の日記です」 「でも、白鳥の家に置いてあったじゃない」  その言い方を聞いた瞬間、制服の上着や母の花瓶まで思い出した。似た言葉を何度も聞いている。私は門の方を一度見た。置いていったのは自分だ、と責められているようで腹が立つ。
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第72話 燃え残るもの

「俺は、君に聞いていない」 莉々花の目が、父や瀬里奈さんのいる方へ動き、それから征臣へ戻った。 私は焼却炉へ視線を落とす。灰の中に、まだ赤い点が残っていた。風が吹くたび、黒く縮れた紙片が小さく動く。「莉々花。燃やしたものは、何」「知らない。古い紙よ。虫がついてたから」 莉々花は私を見ない。 征臣の袖口ばかり見ていた。「お姉様だって、もう要らないから物置に入れていたんでしょう。私が片づけてあげただけなのに」 片づける。 片づける、と口の中で繰り返す。母の部屋を新婚部屋に変えられた夜も、似た言葉を聞いた。 焼却炉の奥で、焦げかけた紙がひらりと起き上がった。端に、幼い私の丸い字が見えた。 温室。 たった二文字が、灰の中でまだ残っていた。 足が勝手に動いた。「澪、待て。手で触るな」 止める声に、私は焼却炉の縁で足を止めた。 焼却炉の縁に手を伸ばしかけて、熱で指が止まる。火は弱い。それでも紙の端は黒く縮んでいた。「触らないで」 莉々花が叫んだ。 初めて、甘さのない声だった。「それはもう、捨てるものなの。お姉様だって、ずっと忘れてたくせに。今さら大事そうにしないでよ」 胸の底で何かが細く切れた。「忘れてた」が痛かった。言い返そうとして、やめた。見たくなくて物置へ押し込んだのは、本当だった。 私は火の方へ視線を戻した。 征臣が庭の隅に置かれていた火ばさみを取った。無言で私に差し出す。 手渡すとき、彼の指は私の指に触れなかった。 触れられなかったことに、なぜかほっとした。自分で気づいて、少し腹が立つ。「水を」 征臣が背後の警備員へ短く言った。 莉々花は口元を歪め、何度か瞬いた。けれど、涙は落ちなかった。焼却炉の風が髪を揺らし、彼女は片手で押さえる。その間に、私の火ばさみは灰へ届いていた。 火ばさみで灰をそっと分ける。紙片が崩れそうになるたび、息を止めた。焦げた匂いが喉に貼りつく。 黒い端の間に、白く残った部分が
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第73話 灰の中の一行

 征臣の腕が、私と彼女の間に入る。触れない。けれど、通さない。 「これ以上近づくな」 「どうして。征臣様、どうしていつも、お姉様ばかり」  莉々花の声が幼く割れた。  私は紙片から目を離さなかった。  紙片は端まで黒く、中央だけ白く残っていた。幼い私の字が、煤で縁取られている。  小さな字の左という一文字が、灰の上でまだ黒く残っていた。  紙片は証拠保全用の袋に入れられた。警備員がラベルへ時刻と場所を書き、「発見者 白鳥澪」と記す。自分の日記なのに、その欄だけ妙に他人事に見えた。  庭の灯りの下で見ると、焦げた端が想像以上に脆い。少し息を吹きかけただけで崩れそうだった。  私が書いた字なのに、知らない人の遺書みたいに見える。 「これだけで決めるのは難しい」  征臣は言葉を選ぶように、少し間を置いた。  分かっていた。分かっていたから、返事まで少し間が空いた。 「ここで止めたら、また燃やされます。だから――行かせてください」  答えた声は平らに出た。  莉々花は使用人に支えられながら、少し離れた場所に立っている。彼女が抱えていたノートの束は、征臣側の弁護士が確認していた。焼けていないものもある。けれど、古い順に何冊か抜けていた。 「お姉様が急に来るから、驚いただけなのに」  莉々花が小さく言った。  莉々花の目は、征臣のいる方へ向いていた。 「私、怖かったの。お姉様は昔から、私が少しでも何か持つと怒るから」  莉々花は何か言い足そうと口を開いた。  征臣は答えない。莉々花の唇が震えた。  私は紙片の袋を見つめた。  左の肩。  その一行を見ていると、温室の湿った空気が戻ってくる。濡れた土。割れた鉢。男の子の白いシャツ。肩からにじむ血。順番だけが妙にはっきりして、顔はまだぼやけていた。  でも、名前はない。  征臣だったと、まだ言い切れない。  顔も思い出せないのに、征臣だったと言えたら安心できる。そう願う自分が、記憶まで都合のいい形へ変えてしまいそうで怖かった。  警備員が残ったノートを透明な袋へ移していく。袋越しに、自分の幼い字がちらりと見えた。給食で嫌いだった豆。母に叱られた日。温室で転んだ日。恥ずかしいくらい小さな出来事ばかりだ。  それなのに、燃やされると分かった瞬間、胸の内側が焼けた。  物置へ押し
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第74話 銀鈴の招待状

 鷹宮邸へ戻ってから封を開けた。 焼却炉の匂いが、まだ髪に残っている気がした。何度手を洗っても、爪の横に灰の感触がある。実際には何もついていないのに、指だけが覚えていた。 封筒の中身は、先に告知だけ見た政財界チャリティーディナーの正式な招待状だった。 厚いカード。銀色の箔。端に小さな鈴の意匠。 存在は知っていた。それでも、銀色の鈴を正面に置いたカードを実際に見ると、指が止まった。紙は新しく、焼却炉の灰とは何も似ていない。そのことにも腹が立った。「鈴までつけるんですね」 征臣はカードを裏返した。「本物だと思わせたいんだろう」 私はカードを机に置く。 同封の案内には、当日のプログラムが印刷されていた。寄付者紹介、支援事業報告、特別スピーチ。 特別スピーチの欄に、白鳥莉々花の名前がある。 題名は、銀鈴が結んだご縁。 息が浅くなる。 銀色の箔を見ていると、母のリボンが浮かんだ。布に沈んだ青い糸と、つるつるした銀色。似せてあるのに、同じものには見えない。 カードを持つ指に、焼却炉で受けた熱が残っている。小さな痛みが、銀色の鈴をなぞるたびに戻った。母が縫った糸は、こんな冷たい光り方をしなかった。布の上で少し沈み、指で触れれば糸の段差が分かった。 征臣の右手がカードへ向いた。けれど、触れない。 代わりに左手が無意識に肩の少し下へ触れた。私はそこを見てしまった。「征臣さん」 呼ぶと、彼は自分の指に気づいたように手を下ろした。「……傷が痛みますか」「いや。癖だ」 それ以上は聞かなかった。 私は招待状の銀鈴を指でなぞった。 箔はつるりとしていて、母の刺繍の糸とはまるで違う。 カードの端に、もう一枚の紙が挟まっていた。 莉々花のスピーチ概要。「その紙、先に持っていかないでください」 言った瞬間、荒れた声が耳に返ってきた。「ここで、一緒に読んでください」 最初の一文に、私の古い日記とよく似た言葉が並んでいた。
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第75話 盗まれた言葉

 あの日の私は、ただ怖かったはずだ。知らない男の子のシャツが赤くなって、どうしていいか分からなくて、手近なハンカチを押し当てた。「ご縁」なんて言葉は、当時の私の頭にはなかった。 「これは、どこから入った」  征臣が紙を見ながら言った。 「招待状の外封筒に、内部用の回覧票と一緒に挟まっていました。封緘も、一度剥がして貼り直した跡があります」  征臣が紙の端を光へかざした。 「莉々花たちが自分で入れたとは考えにくい。誤封入か、内側の誰かがこちらへ渡したかだ」 「どちらにしても、私が読むことは分かっていたはずです」  静かに答えた。  誰が入れたにせよ、私が読むことまで含めて置かれたように思えた。紙を持つ指が硬くなる。  紙の下の方に、鉛筆で直された跡があった。印刷前の写しなのか、誰かが慌てて差し込んだのか。  薄い字で、右肩、と書かれている。  私は指を止めた。 「右肩」  声に出すと、部屋の空気が少し変わった。  征臣は黙ったまま、左肩のあたりを見下ろす。 「あなたの傷は……」  最後まで聞けなかった。  征臣は左肩へ手をやりかけ、途中で止めた。 「左だ」  その言葉だけで、子どもの頃の温室が少し近づく。雨の日だったのか、晴れていたのかはまだ曖昧だ。けれど、彼の肩に触れたときの布の湿り気だけは、急に指先に戻った。  私は紙を見つめる。  右肩。  右肩。紙の上の二文字が、急に浮いて見えた。  けれど、紙面の隅にもう一つ、読みにくい走り書きがあった。  ――お姉様が騒いだら、怖がればいい。  その字は、莉々花のものではなかった。  丸く整った線を追ううち、昔届いた礼状の封筒が浮かんだ。  瀬里奈さんは、どんな内容でも字だけは崩さなかった。謝罪の文面さえ、曲線だけを見れば上品に見えた。  紙の端に残った走り書きにも、同じ柔らかな癖があった。  字を追っていた目が止まった。 「……継母の字です」  征臣は何も指摘しなかった。 「筆跡鑑定に回す。封をするのは君に任せる」  紙を離すまで、少し時間がかかった。 「……それなら、預けます」  即答したあと、紙から手を離せなくなった。  紙を離せない。灰から拾った日記も、母のリボンも、次々と袋へ入っていく。  必要だと分かっているのに、今日はその作業が妙に嫌だ
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第76話 継母の字

 空の証拠袋へ指をかけたまま、私は征臣を見た。 「私がやっていいんですか」 「君の日記だ」  私は紙の端を押さえたまま、息を吐いた。  指を離せば、そこから昔の自分まで崩れそうだった。 「証拠にはします。でも、これで終わったことにはしたくないんです」  征臣は、日記から目を離さないまま頷いた。 「私が書いた日記を、莉々花の物語に作り替えようとした紙です」  征臣の指が、机の端で止まった。 「そうだな。君の手で封をして、残そう」  私は頷いた。 「怖がればいい」の字を見ていると、子どもの頃の「澪さんはお姉様なのだから」が浮かんだ。声より先に、言われたあとの食卓の静けさを思い出した。  玩具を渡した日、窓側の席を譲った日。瀬里奈さんは最後に必ず「ありがとう」と言った。今さら思い出す必要もない細部ばかり、こういう時に出てくる。  紙を袋へ入れる。今回は捨てずに残す。封の端を押さえると、薄いビニールが指に張りついた。爪で剥がして、もう一度押さえ直す。  封をした直後、征臣のスマートフォンが震えた。  画面には、有馬悠真の名が出ていた。  征臣は、すぐには通話を取らなかった。  征臣は画面を見てから私を見た。私は少し遅れて頷いた。  征臣が通話を受ける。 「鷹宮です」  短い沈黙のあと、スマートフォンから悠真の声が漏れた。いつもの柔らかさが、今日は少し崩れている。 「白鳥さんは、そちらにいますか」  白鳥さん。 「白鳥さん」が耳に引っかかった。婚約中は澪さんだった。名前が変わっただけなのに、変なところで時間が経ったと感じた。テーブルの水を一口飲んだが、ほとんど味がしない。 「います」  征臣が答える。 「代わるか」 「いえ。聞こえているなら、それで」  悠真の声が一度途切れ、スピーカーには息だけが残った。 「莉々花のスピーチ原稿を見ました。僕の名前が、一度もありませんでした」  謝るのか、原稿の話をするのか。私はスマートフォンを見た。 「彼女が話しているのは、全部、鷹宮さんのことだった。幼い頃からずっと、鷹宮さんを探していたと」  笑っているような息が混じる。けれど、少しも楽しそうではなかった。 「僕は、彼女に選ばれたんじゃなかったんですね」  部屋の中で、時計の秒針だけがやけに大きく聞こえた。  私は返事
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-04
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第77話 代用品の名前

「聞こえています。原稿を送ってください。途中ではなく、全部」「……澪さんは、何も言わないんですか」 悠真は、私が答えるまで待てなかった。「僕のことは」 言葉がそこで切れた。通話の向こうで衣擦れがする。どこにいるのかは分からない。 昔なら続きを待ったと思う。困った声を出されると、こちらが悪いことをしたような気になって、何を言えば傷つけずに済むのか本人より先に考えた。 机の上の招待状を閉じる。銀鈴の意匠が伏せられ、厚紙が鈍い音を立てた。「謝っても、もう遅いですよね」 喉まで上がった言葉を飲み込んだ。遅いと言えば、悠真は謝らなくて済む。まだ遅くないと言えば、今度は私が許す約束をしたことになる。「……そういう聞き方、ずるいです」 通話の向こうで、また服の擦れる音がした。「ごめん」 その一言も、何に対してなのか分からなかった。「原稿だけ、お願いします」 返事はなかった。しばらくして通話が切れた。 数秒後、画像が三枚届いた。二枚目へ送る指が一度止まる。画面の隅には、悠真の指が写り込んでいた。 莉々花は悠真の隣に写っていた。けれど視線は、画面の外――征臣がいるはずの方向へ向いている。 政財界チャリティーディナー当日、ホテルの廊下は花の匂いで満ちていた。 白い百合。薄い薔薇。磨かれた床に、招待客の靴音が小さく跳ねる。どれも華やかなはずなのに、私には焼却炉の灰の匂いの方がまだ近かった。 バッグの中には、保全袋に入れた紙片の写しがある。 温室。左肩。 残っているのは、それだけだ。 右肩という一言を崩すには足りるかもしれない。足りてほしいと思った途端、また不安になった。「顔色が悪い」 隣で征臣が言った。「鏡は見ました」「戻るか」「戻りません」 征臣は何か言いかけたが、やめた。黙られると少し腹が立った。それでも、今はその方が助かった。戻るかと聞かれたのは、帰る理由を探しているようにも聞こえた。けれど
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第78話 ディナーの扉

 悠真の足が、莉々花より半歩だけ後ろに引けていた。昨夜の電話のあとだからか、そこばかり目についた。 招待客の目が集まり始める。名札を確かめる人、スマートフォンを伏せる人。その間をスタッフがグラスのトレイを持って通った。反射で手を引き、「水をください」と言うと、いつもより早口になった。征臣も同じ水を取った。 私の名前を見つけた人たちの声が、小さく沈む。白鳥家の長女。遺産を盗んだ娘。鷹宮家に取り入った女。聞こえたものも、聞こえていないものも混ざって、どれが本当に言われたのか分からなくなる。 征臣が半歩前に出た。壁になるには近い。隠すには遠い。 私はその隣へ並び直した。 扉の向こうでは、私の日記の言葉を莉々花が読むことになっている。そのことだけ考えると、拍手が遠く聞こえた。 司会者がマイクの前に立つ。「続きまして、白鳥莉々花様より、鷹宮副社長との幼少期のご縁についてお話をいただきます」 莉々花が一歩前に出る。 悠真の手が、彼女の袖を一瞬だけ掴んだ。止めるほど強くはない。 莉々花はその手を、見もしなかった。「私は、幼い頃、温室で怪我をした男の子に出会いました」 甘い声がマイクに乗る。最初の一音だけ少し割れ、莉々花は笑顔のまま一拍置いて言い直した。 私は手を握り、すぐ開いた。爪の跡が掌に残る。 莉々花は涙を浮かべて征臣を見た。客席を一度見回してから、笑みを少しだけ薄くする。 悠真は莉々花の横で口を閉じていた。昨夜の電話の声を思い出す。彼は一度も彼女の背に手を添えなかった。「彼の右肩の傷を見たのは、私だけでした」 最前列のスマートフォンに、録画ランプが点いている。莉々花もそれを見た。 右肩。 客席へ戻した笑顔が、わずかに遅れた。 会場には香水とワインの匂いが混じっていた。さっきもらった水は、まだ一口も減っていない。 怪我をした男の子。幼い少女。温室。銀鈴。原稿通りの言葉が続く。 私はバッグの中の紙片を思い出した。 指先に、焦げた端のざらつきが戻る。 ――温室の硝子が割れて、男の子の左の肩か
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-05
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第79話 右肩という嘘

 聞いているうちに、日記の字まで莉々花の声で読まれている気がして、吐き気がした。  私はバッグの金具を強く握った。 「澪」  隣から低い声が落ちた。征臣は壇上を見たままだった。  呼ばれて、バッグの金具から手を離した。  今ここで紙を出す場面を想像した。莉々花が泣き、父が「妹の思い出まで奪うのか」と言う。たぶん悠真は困った顔をする。そこまで浮かんだところで、考えるのをやめた。  想像だけで、口の中が乾いた。  舌の裏に、苦い味が残った。  莉々花が私を見た。唇の端が、わずかに上がる。 「お姉様も、覚えていますか? 私が、征臣様を助けた日のこと」  マイクには拾われないほど小さな声だった。 「左です」  自分で思ったより低い声だった。二度目は、すぐには出なかった。  悠真の手は莉々花の背に触れかけたまま止まっている。指先だけが宙に残った。昨夜の「僕は選ばれたんじゃなかった」が、また耳に戻る。  右肩。私が見た跡は左。二つの言葉が頭の中でぶつかった。  莉々花は笑みを作りかけたが、頬が引きつった。客席を一度見て、また私を見る。  莉々花の指が袖口へ沈んだ。  会場には聞こえていない。隣の征臣と、近くに立つ悠真に届いた程度だ。征臣の肩がほんの少し動いた。  莉々花のまつげが止まり、こちらを見た。  彼女は涙を浮かべたまま、笑顔の形を直した。小さな鏡の前で何度も練習したような、少し首を傾ける仕草。 「え……? お姉様、何かおっしゃいました?」  甘い声だった。  ただ、袖口を掴む指だけが白い。  征臣が私の横から一歩前へ出た。  会場の視線が移る。近くを通っていた給仕が足を止め、すぐに動き直した。空調の低い音まで聞こえそうだった。 「違う」  短い一言だった。  莉々花が瞬きをする。 「征臣様……?」 「その傷は左だ」  マイクを通していないのに、声はよく通った。最前列の数人が、同時に顔を上げる。  グラスを置く音が、いくつか重なった。少し離れた席で「左?」と誰かが小さく聞き返した。  近くの夫人の扇が止まり、何人かが莉々花の右肩から征臣の左肩へ目を移した。スマートフォンを持つ手も、さっきより少し上がっている。後ろの席で椅子の脚が床を擦った。  父のグラスの脚が鳴った。瀬里奈さんはハンカチを膝の上で握り潰して
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-06
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第80話 その傷は左だ

 莉々花は笑いかけたまま、頬を強ばらせた。泣く準備をしていた莉々花の視線が、宙をさまよった。 「で、でも……幼い頃のことですし、私、怖くて、混乱していて」 「君が混乱していたかどうかは、俺には分からない」  征臣は言葉を切った。 「だが、俺の傷の位置は変わらない」  誰かが小さく咳払いをした。場をつなごうとする音だったが、続かなかった。  莉々花は悠真を見た。すぐに征臣へ視線を戻す。  悠真は動けなかった。  彼の目が、莉々花の胸元にある銀鈴のブローチへ落ちる。次に、私のバッグへ。それから征臣の左肩へ。  悠真の視線が三か所を往復し、最後に足元へ落ちた。 「莉々花」  悠真が、喉の奥から声を出した。 「右肩だったのか」  莉々花の唇が震えた。  奥歯を噛んだのか、顎だけが固くなる。 「悠真さんまで、そんなこと言うの?」  会場の隅で、誰かがスマートフォンを下ろした。撮ることすらためらう空気があった。  莉々花は征臣を見たまま、笑おうとした。 「私、本当に……」  その声は、最後まで甘くならなかった。  莉々花は泣かなかった。  何度か瞬いたが、涙は落ちなかった。代わりに顔色が先に変わった。 「だって、私は……ずっと、征臣様のことを」  そこまで言って、彼女は口を押さえた。  遅かった。  悠真の肩が、一瞬下がる。  隣に立つ婚約者の口から、別の男の名前がこぼれた。悠真の顔から血の気が引いた。 「莉々花」  悠真が低く呼ぶ。  彼女は振り向かない。 「今のは、どういう意味だ」 「違うの。そうじゃなくて……」 「僕との婚約は、白鳥家のためだと君は言った」  悠真の声は低く抑えられていた。言い訳を探すときの柔らかさが消えている。 「それなら、せめて僕を見て言ってくれ」  悠真の声は低かったが、最後だけかすれた。会場の真ん中でそんな声を出す男を、少し前の私は見たことがなかった。  莉々花は目を逸らした。  言い終えたあと、悠真は口を閉じ、目を逸らした。  莉々花は、そこで初めて彼を見た。  莉々花は眉を寄せた。涙より先に、苛立った色が顔に出た。 「こんなところで、そんなこと聞かないで」 「こんなところで聞かせたのは君だ」  悠真の指が、彼女の袖から離れた。  布が戻るだけの小さな動きだった
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