All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 81 - Chapter 90

154 Chapters

第81話 悠真なんて

 悠真は一歩下がったまま、莉々花を見ていた。  婚約者を奪われた姉の噂より、婚約者に視線を向けてもらえない男の沈黙の方が、今は生々しく浮いていた。  あの夜、彼は私から莉々花の隣へ移った。今度は、その隣からも下がっていく。  誰にも選ばれない場所に、莉々花だけが立っていた。 「違う……今のは、違うの」  莉々花の声が幼くなる。 「私、そんなつもりじゃ」  征臣は彼女を見なかった。  私の方を向く。  その視線に、胸の奥が痛んだ。救われた痛みではない。ここで救われていいのか分からない痛みだった。  莉々花の銀鈴ブローチが、照明の下で揺れた。  音は鳴らなかった。 「こっちを見てくれ」  悠真の声が、初めて余裕を失った。怒りというより、置いていかれた子どもの声だった。 「家のためだと言った。僕となら白鳥家を守れるって」 「やめて。そんな言い方をしたら、莉々花が悪いみたいじゃない」  征臣が、私の前に来た。  跪いたわけではない。腕を引いたわけでもない。私を守るために背中で隠すこともしなかった。  ただ、並ぶ場所を空けた。 「澪」  呼ばれた名前に、会場が反応する。  白鳥家の長女。遺産泥棒と書かれた女。妹の初恋を奪ったと言われかけていた女。私の名前には、ここしばらく余計な紙が貼られすぎていた。  征臣は、私の顔を見た。 「温室のことは、あとで調べる」 「征臣様」  征臣は声の方を見なかった。 「ただ、今ここで手を差し出しているのは、昔の礼のためじゃない」 「あの夜、最初に目に入ったのは、席次表から目を逸らさなかった君だ」  胸の奥がかすかにざわついた。 「過去は、関係ないんですか」  口にしてから、過去に縋っているようで嫌になった。それでも、聞かずにはいられなかった。  征臣はすぐに答えず、言葉を選んだ。 「関係はある。だが、過去だけなら、今ここにはいない」  指先が動く。 「温室の少女を探して、君の前に立ったわけじゃない」  会場のざわめきが遠のいた。  火傷の跡が、手袋の内側で熱を持った。 「今ここにいる君に、手を差し出している」  征臣が手を差し出した。  触れろと命じる手ではなかった。来いと引く手でもない。  置かれた手。  私が選べる距離にある手。  莉々花が小さく笑った。
last updateLast Updated : 2026-08-07
Read more

第82話 今ここで選ぶ人

 私は、手袋越しに征臣の指へ触れた。  彼の指が、一瞬だけ固まった。  征臣は握らない。私が離すかどうかを待っている。 「澪」  返事の代わりに、指先へ力を入れた。  征臣の指が、ようやく動いた。  莉々花が何かを言いかけた。けれど、今度は会場の誰もすぐには彼女を見なかった。私が触れた手の先に、場の重心が移っていた。  私が離さないと分かってから、征臣も握り返した。強くはない。  その遅さがかすかに彼らしくて、こんな場面なのに喉の奥が少しだけ緩んだ。  でも、離れない。指先から伝わる力は約束ではない。ただ、今は離れないという返事だけだった。  会場の空気が変わるのが分かった。さっきまで莉々花の涙を待っていた人たちが、視線の置き場を失っている。美談として聞くつもりだった話に、誰かの盗みかもしれない疑いが混じった。  莉々花は、ようやく泣いた。  頬に涙が落ちる。計算した角度より少し早く、少し乱れて。 「ひどい……」  いつもの声だった。 「私、ずっと信じてたのに。お姉様は、どうしていつも莉々花から奪うの? やっと私の番だったのに」  その言葉に、何人かの夫人が反応しかけた。けれど、誰もすぐには近づかない。  悠真が莉々花を見ていたからだ。  今まで彼女の涙が落ちれば、最初に手を差し出していた男が、動かなかった。 「奪ったのは」  悠真が言いかけて、止まった。  自分もその場にいたことを思い出したのかもしれない。婚約指輪を別の女にはめた手。母の指輪を黙って見ていた目。  責める資格を、彼は自分で落とした。  莉々花はその沈黙に気づき、顔を歪めた。 「悠真さんまで、私を疑うの?」 「疑いたくない。でも、今のを聞いて、もう何もなかったふりはできない」  悠真の声は、ひどく乾いていた。  莉々花の涙が止まる。  征臣は私の手を離さないまま、壇上の司会者へ視線を向けた。 「ここまでにしてください。これ以上、澪を見世物にする必要はない」  命令ではなかった。それでも、司会者はすぐに頷いた。  司会者が慌ててマイクを握り直す。 「そ、それでは、次のご挨拶に……」  声が上擦っていた。  会場の端で、莉々花のブローチが揺れる。  鈴は、やはり鳴らなかった。  握り返した指が、思ったより熱かった。安心したいのに、安
last updateLast Updated : 2026-08-07
Read more

第83話 握り返した指

 征臣の手の中で、私の指が少し汗ばんでいた。  会場を出るまで、莉々花は泣き続けた。  けれど、不思議なほど誰も彼女の背中を撫でなかった。  以前なら、夫人たちの誰かがハンカチを差し出していただろう。可哀想に、と肩を抱き、私へ非難の目を向けていただろう。  今夜は違った。  ハンカチを出しかけた女性が、途中で手を止める。新聞社の記者が、メモ帳を開いたまま何も書かない。白鳥家と有馬家の関係者が、互いの顔色を探っている。  涙は落ちているのに、落ちた先に受け皿がない。  莉々花は初めて、そのことに気づいたようだった。 「お母様……」  小さく呼ぶ声がした。  瀬里奈はすぐに近づかなかった。彼女は少し離れた場所で、唇だけで笑っている。まだ大丈夫、と自分に言い聞かせるような笑みだった。  その笑顔の方が、涙より怖かった。  悠真は莉々花の隣にいない。  会場の柱の陰で、グラスの水を見つめていた。中身はほとんど減っていない。彼の指は、グラスの縁を何度もなぞっている。何かを言い訳にしたいときの癖だと、私は知っていた。 「少し外へ出ないか」  征臣が言った。 「まだ、挨拶が残っています」 「手が冷たくなっている。これ以上、我慢してほしくない」 「ここで出たら、逃げたと思われます」  征臣が扉へ視線を向けた。 「思いたい奴には思わせておけばいい。俺は、君をこのまま立たせておきたくない」  でも、私の手を引く力はない。  私は一度、莉々花を見た。  彼女は泣きながら、こちらを睨んでいた。可哀想な妹の顔ではない。ひとつだけ欲しかった玩具を、取り上げられた子どもの顔だった。  莉々花が悠真へ手を伸ばす。  悠真は一瞬、受け止めかけた。けれど、その手は彼女の肩に届く前に止まった。ほんの数センチの距離が、あの二人の間に急に生まれた溝みたいに見えた。 「悠真さんまで……」  莉々花の声が割れる。今度の涙は、客席に見せるための丸い涙ではなかった。目尻から乱れて、頬を汚す涙だった。  同情しかけて、やめた。  私の日記を燃やした手まで、涙で洗えるわけではない。  廊下へ出ると、冷えた空気が頬に触れた。  会場の扉が閉まる直前、莉々花の声が細く漏れた。 「お姉様ばかり……」  征臣の指は強く握っていない。逃げようと思えば、すぐに離せる
last updateLast Updated : 2026-08-08
Read more

第84話 廊下で止まった距離

 廊下へ出た途端、膝にうまく力が入らなくなった。  泣きたいのかどうかも分からない。壁へ手をつくほどではなく、結局その場に立ったまま靴の先を見ていた。  壁際の花瓶に、白い花が生けてある。百合ではなかった。名前の分からない花。香りは薄く、茎の青い匂いだけがした。 「水を持ってくる」  征臣が言った。 「平気です。……たぶん」  征臣は私の顔を見たまま黙った。 「そういう顔をしないでください」 「そんなにひどい顔をしていたか」  返事に困って、私は壁に背を預けた。  征臣は近づかず、半歩離れたまま立っていた。  さっき握られた指に、まだ熱が残っている。  今は、その距離の方が落ち着かなかった。 「……来てくれて、ありがとうございました」  口にすると、思っていたより硬い声になった。  征臣はすぐには返さず、廊下の床へ視線を落とした。 「もっと早く止めるべきだった」  声は低く、言い訳を探しているようには聞こえなかった。  私は手袋の指先を見た。  さっきまで聞こえていた会場の音が、少し遠くなる。 「今は、その話をしたくありません」  征臣は一度だけ目を伏せた。  それ以上は続かなかった。  私から、彼の手へ指を伸ばした。  征臣が息を止める。ゆっくり握り返されると、手袋越しにも温かかった。 「もう、誰も見ていませんね」  自分で言って、頬が熱くなる。 「俺が握っていたかったんだ。誰が見ていても、いなくても」  彼の声は、会場にいた時より近かった。  少しの間だけ、そのままでいた。顔を上げたら、今ほしい言葉まで知られてしまいそうだった。 「……水、お願いします」  手を離して頼むと、征臣は頷いた。離れた指を、私はそっと握り込んだ。  彼が角を曲がったあと、廊下の先にある扉が半分だけ開いているのに気づいた。  控室だと思った。  でも、室内の机に置かれた厚いファイルの背に、鷹宮ホールディングスの管理番号が貼られていた。  入るつもりはなかった。  ただ、扉の隙間から見えた紙の端に、白鳥の文字があった。  それだけで足が動いてしまった。  廊下の明かりが、室内の机を斜めに照らしている。来賓用の控室にしては、あまりにも事務的な部屋だった。革張りの椅子。鍵付きのキャビネット。壁際に積まれた資料箱。花も絵
last updateLast Updated : 2026-08-08
Read more

第86話 足音が戻る前に

 それでも、征臣は私を最後まで道具として扱いきれなかったのだと思う。  書類の角を持つ手が、少し震えた。手袋越しなのに、ファイルの冷たさが分かる。  廊下の向こうで、足音が再び動いた。  私はページを閉じた。  閉じる直前、下部の欄に小さな文字が見えた。  鷹宮家失脚案件との関連あり。白鳥清隆を経由し、東都商事へ接続。  白鳥家を崩す理由。  征臣が私に近づいた理由。  二つを同じ紙の上に見た瞬間、足元の床が少し沈んだ気がした。その境目が、急に曖昧になる。  靴音が扉の前で止まる。  笑えなかった。水を持って戻る足音を待つ間、私は唇を結び、まだ自分の中で答えの出ない違和感を抱え直した。  水の入ったグラスが、廊下の明かりを受けて揺れた。  征臣は、扉の前で足を止めた。  私の手元を見た。閉じたばかりのファイルを見て、それから私の顔を見る。  驚いた顔はしなかった。  取り繕う言葉も、すぐには出てこなかった。  それが、余計に答えだった。 「見ました」  私が先に言った。  声は低かった。声の端だけが、かすれている。 「……見たのか」 「隠していないなら、いつ話すつもりだったんですか」  征臣の手の中で、グラスの水面が小さく揺れた。  すぐ答えない。答えられないときの彼は、カフスには触れない。触れたら、動揺を認めることになるからかもしれない。そんなことまで分かってしまう自分が、今は嫌だった。 「何度か話そうとした。……結局、言えなかった」 「……迷っていた」  その言葉を繰り返した。自分の口から出すと、ひどく軽かった。  口にしたあと、自分でも少し刺々しいと思った。  それでも、引っ込めなかった。  征臣は何も言い返さない。グラスを机に置く。水の底に、天井の光が丸く沈んだ。 「最初の目的は、白鳥家と東都商事の線を洗うことだった」  分かっていた。紙に書いてあった。  でも、本人の口から聞くと、みぞおちのあたりの薄い膜が一枚剥がれる。 「私じゃなくて?」 「君も、調査対象の一部だった」  征臣はそこで一度、唇を閉じた。 「社内の分類名だ。……それでも、君が読めば同じだな」 「社内では、ですか」  問い返すと、彼の眉がかすかに動いた。 「調査資料には、分類が要る」  私はファイルの〈保護対象〉
last updateLast Updated : 2026-08-09
Read more

第85話 半開きの書斎

 活字になった自分の名前は、いつも少しよそよそしい。契約書でも、訂正声明でも、告発状でも、私は何度も自分の名前を見てきた。  でも、今見えている文字は違った。  名前の横に、赤い付箋が貼られている。  ――婚約破棄前より接触可能性あり。  手が止まった。  婚約破棄前。  私はまだ、悠真の婚約者だった。白鳥家の長女で、母の部屋を守りきれず、莉々花の笑顔に小さく傷つきながら、それでも家族の顔色を読んでいた頃だ。  その頃から。  征臣は、私を知っていたのか。  ファイルの角をかすかに持ち上げる。手袋の布が紙に擦れて、乾いた音を立てた。  最初のページには、白鳥家の取引履歴。有馬家との資本関係。東都商事の名前。母の帳簿で見た数字に似た列。  視線が、ページの上部で止まる。  調査対象。  白鳥家関連資産。  白鳥 澪。  その下に、太字の見出しがあった。  保護対象として確保。  息が、喉の途中で止まった。  廊下の向こうから、足音が近づいてくる。  私はファイルを閉じた。 「……これ、いつ見せるつもりだったんですか」  背後で足音が消えた。返事までに間があった。 「決めていなかった」 「決めていなかった?」 「話す時期を」  仕事なら迷わず答える人が、目を逸らした。  私は閉じた表紙に手を置いたまま、征臣を見た。  紙の音だけが、やけに大きく響いた。  見ない方がよかったのかもしれない。  それでも、もう知らなかったことにはできない。  保護対象として確保。  その文字だけが、やけに黒く見える。紙は白い。蛍光灯の光も白い。なのに、見出しの文字だけが水を吸ったみたいに重かった。  次のページには、白鳥家の資産移動、有馬家との婚約予定、母の帳簿に残っていた東都商事の請求コードが並んでいた。知らない数字ではない。私が何度も見てきた数字だ。  ただ、ここでは私も数字の一つだった。  調査対象。白鳥家関連資産。白鳥澪。  名前の横に赤い線が引かれている。  血の気が引いた。  その下に、手書きの追記があった。活字ではない。硬く角ばった、見覚えのある字。  本人の意思確認を優先。接触後の判断は本人に委ねる。  征臣の字だった。  息を吐こうとして、うまくいかなかった。胸の内側で、何かがまだ引っかかって
last updateLast Updated : 2026-08-09
Read more

第87話 消えない最初の理由

「……先に、あなたから言ってほしかったです」  言った声は、自分で思っていたより静かだった。  机の端の水へ手を伸ばしかけ、やめる。グラスには細い水滴が幾つも浮き、ひとつだけコースターまで落ちていた。頬がこわばっているのは分かっていたが、直す気にはなれない。どうでもいいものばかり鮮明に見える時は、たいてい本当に見たくないものが目の前にある。  征臣は視線を落とした。  沈黙が長くなった。  廊下の向こうでは、まだ晩餐会の余熱が残っているはずだった。笑い声も、食器の音も、靴音もある。けれど、半開きの書斎だけが別の場所みたいに冷えていた。 「言うべきだった」  征臣が言った。  声は、いつもより掠れていた。  小さく頷いた。声を出す前に、一度だけ唇を湿らせた。  それ以上は続かなかった。私は水のグラスから目を離した。 「会場で君の前に立ったことは、嘘じゃない」 「……今、それを言われると困ります」 「なぜ」  彼の手を握り返した感覚が、まだ手袋の内側に残っている。嬉しかった。そこまで間違いだったことにされるのは嫌だった。 「嬉しかったことまで、違ったみたいになるから」  言ってから、ファイルへ目を落とした。あの日、自分から触れた指の熱まで、あとから「それも利用だった」と誰かに書き換えられるのは嫌だった。 「でも、この紙を見なかったことにもできません」  征臣の口が開きかけた。 「どっちかだけだったって、今決めないでください」  声にしたあと、グラスの水滴がコースターへ落ちた。小さな染みだけが広がり、どちらの言葉にも答えをつけなかった。  私は、そこから目を上げられなかった。  征臣はそれ以上、何も言わなかった。  私はファイルの上に手を置いた。紙の角が手袋越しに当たる。  征臣はファイルへ目を落とし、ページの角を指で押さえた。時計の音だけが一度聞こえた。 「何を言っても、言い訳に聞こえるな。……どう伝えればいい」 「分かりません。私も」  一度、喉の奥で言葉が引っかかった。 「ただ……あなたから聞きたかったです」  征臣の呼吸がわずかに乱れた。返事はすぐには来なかった。  最初に私へ近づいた理由は残っている。母の帳簿へ辿り着くために、白鳥家の娘である私が必要だった。分かっていたことなのに、今聞くと腹が立つ。
last updateLast Updated : 2026-08-10
Read more

第88話 先に言ってほしかった

 あんなに冷たい四文字なのに、そこには彼の手書きの追記まである。優しさと利用が、同じ紙の上に乗っている。 「……申し訳ない」  征臣がようやく言った。  でも私は、すぐには頷けなかった。  怒っていいのかも分からなかった。守られたことに、ほっとした自分もいる。その二つが同じところにあって、気持ちが悪い。  私はファイルを閉じた。  先に言ってほしかった。たったそれだけが、なぜか口に出せない。ファイルの角に指の跡だけが増えた。 「……あなたから聞きたかったです」  ファイルを抱える手は、情けないくらい震えていた。  征臣はファイルを見て、それから私の指先へ目を戻した。 「言ったら、ここを離れると思った」 「離れるかどうかは、私が決めることです」 「ああ。俺が引き留めるために、隠していいことじゃなかった」  そう答えたあと、征臣は言葉を探すように一度だけ視線を外した。 「……離れるのが怖かった」  息が止まった。征臣自身も、言ってから困ったらしい。こちらを見るでもなく、袖口へ伸びた指だけが途中で止まっている。 「それを今言うの、ずるいです」 「分かっている。今の話で許してもらおうとは思っていない」  嫌いになれたら簡単だった。  私の好みを覚えていてくれたことも、二人きりで手を握ってくれたことも、ただ嬉しかった。その気持ちを疑わなければならないのが、いちばんつらい。  帳簿を持たない私でも、あの人は隣にいてくれただろうか。聞きたいのに、答えを知るのが怖かった。 「傷つくかどうかじゃなくて」  続きが出てこない。ファイルの角だけが掌へ食い込む。 「知らないままにされたのが、嫌なんです」  征臣は視線を落とした。 「……それを見たくなかった。たぶん、俺の方が」 「今は、謝らないでください」 「謝ることも、今は君を困らせるか」  息を吸っても、胸のつかえは消えなかった。 「……謝られたら、私も何か返さなきゃいけない気がするから」  口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。  征臣は近づかず、黙ったまま立っていた。  守ってくれたことまで嫌いになりたいわけじゃない。そのせいで、余計に腹が立つ。  ファイルを閉じても、文字は目の裏に残った。  保護対象。  声に出すと、急に遠い言葉に聞こえた。白鳥家で「娘」と書かれた時と
last updateLast Updated : 2026-08-10
Read more

第89話 保護対象という言葉

「違う、と言い切れるほど、最初から私を見ていましたか」  征臣の言葉が止まる。  返事がない。私は視線をファイルへ落とした。  返事がない方が、かえって嫌だった。時計の秒針が一つ進むあいだに、聞きたくない答えを待っている自分まで見えてしまい、それにも腹が立った。 「最初は、白鳥家の中にいる君を見ていた」  征臣が言った。 「白鳥家の帳簿に近い人間として」  私は小さく頷いた。返事より先に、みぞおちのあたりで何かがほどける音がした。  頷けたことに、自分で少し驚いた。 「これ、借ります」  ファイルを両手で持ち上げた。 「澪」 「読まないまま、返事はできません」  征臣は答えなかった。  私は扉へ向かった。  背中に、彼の視線が残る。振り返れば、また何かを受け取ってしまいそうだった。  半開きの書斎から、古い紙の匂いが漏れていた。華やかな会場の裏側に、隠されたものだけが息をしているようだった。  だから、振り返らなかった。  廊下に出ると、さっきより空気が冷たかった。  会場から漏れてくる音は、もう遠い。笑い声が薄い壁に当たって、形のない水音みたいに聞こえる。  私は歩いた。  どこへ向かうのか決めていなかった。けれど、書斎に戻る選択肢だけはなかった。  少し遅れて、征臣の足音がついてくる。一定の間隔で、私の靴音のあとにもう一つ音が落ちる。近すぎず、離れすぎず、いつもの彼なら安心できた距離だった。今夜は、その正しさにさえ少し腹が立った。 「……せめて、部屋まで送らせてくれ」 「少し、一人で考えたいです」  征臣の足音が止まった。  そのまま廊下を歩く。角を一つ曲がったところで、後ろが静かすぎることに気づいた。自分で止まれと言ったのに、胸の奥だけが落ち着かない。  振り返らないまま、口を開いた。 「……帰らないでください」  言ってから、自分でも何を言っているのか分からなくなった。 「そこにいてください。今は、近くに来なくていいので」  少し間を置いて、低い声が返る。 「分かった。呼べば聞こえるところにいる」  足音は近づかなかった。それでようやく、また歩けた。  廊下の角で足を止めた。  顔を上げると、征臣は真正面からこちらを見ていた。いつもの低い目。会場で莉々花を黙らせたときと同じ目なのに、今は少
last updateLast Updated : 2026-08-11
Read more

第90話 理由にされたくない

 客室の机に、母の帳簿を広げた。  ホテルの照明は柔らかい。ベッドサイドのランプも、窓際の小さな明かりも、客を安心させるために置かれているのだと思う。  でも、紙の上の数字は少しも柔らかくならなかった。  白鳥家。東都商事。有馬家。寄付金。医療費。施設への送金。  何度も見た列を、もう一度追う。  泣くより先に数字を追っている。鏡があれば、たぶん嫌な顔をしている。  でも、ページはめくれた。  今夜は、それでいい。  まだ、それ以上は決めない。  帳簿の角を押さえると、火傷の跡が少し引きつった。あの日、暖炉から掴み出したページ。焦げた端。母の字。  私はそこに指を置いた。  菜月の字は、数字の横に小さな印をつける癖があった。丸ではなく、針の先で刺したみたいな点。帳簿上ではただの汚れに見える。けれど、図案帳の針穴を見たあとなら分かる。  これは印だ。  点のある行だけを拾って、別の紙に書き出す。  東都商事。港湾第三倉庫。保管料。医療用品。搬出日。  鉛筆の芯が少し折れた。  臨港。  港町の地名だった。  帳簿の余白には、母の小さな字がある。  行くなら一人で。白鳥には知られないように。  母は、そこまで行っていた。  一人で。  飲み込んだ息が、遅れて痛みに変わる。  私が家の食卓で莉々花の機嫌を読んでいた頃、母は港町の倉庫まで足を運んでいたのかもしれない。誰にも言わず、誰にも頼らず、証拠を集めていたのかもしれない。  机の上の電話が一度だけ光った。  征臣からの連絡ではない。鷹宮家の秘書から、翌朝の移動確認だった。  入力欄を開く。  最初に打ったのは、別の文だった。  〈明日、来ますか〉  二秒ほど画面を見つめ、全部消した。腹が立ったのは征臣にか、自分にか分からない。  扉を閉めると、ホテルの静けさが急に広がった。港町へ一人で行くところを想像すると、背中が冷える。だからといって、素直に来てほしいとも書けない。  入力欄を開き、閉じ、また開く。最後に「同行者は必要最小限で」とだけ打った。征臣の名前は書かなかった。送信ボタンを押したあとも、来ないでほしいのか、来てほしいのか、その答えだけは画面のどこにも出なかった。  港町へ向かいます。同行者は必要最小限でお願いします。  送信済みの表示が出ても、指
last updateLast Updated : 2026-08-11
Read more
PREV
1
...
7891011
...
16
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status