研究棟へ入る前日、朝から雨が続いた。 B3へ入る時刻は、紗英から知らせることになっていた。鍵のタグに記された連絡先へ送っておいた問い合わせに、返事が届いた。 〈明日、午後八時。搬出口〉 それまで私は、高城旅館で宿帳の複製を確認していた。 帰ろうとした頃、雨脚が急に強くなった。征臣の車は渋滞で遅れ、蓮が玄関で青い傘を開く。 「裏の駐車場まで送るよ」 曲がっていた骨は直されていた。 「修理したんですね」 「鷹宮に『いつ壊れてもおかしくない』って言われたからな」 二人で入るには少し狭い。肩を濡らさないよう寄ると、蓮が歩く速さを緩めた。傘の縁から落ちる雨が、石畳へ細い線を作る。 「昔も、こうやって歩いたな」 「覚えていません」 「分かってるって」 即座に返したあと、蓮は持ち手を握り直した。 「思い出せって意味じゃない」 雨音に言葉が削られ、続きが聞こえにくい。 「鷹宮のところが苦しくなったら、旅館へ来ればいい。部屋はある」 優しい申し出だった。 なのに、胸の奥がわずかに固くなる。傘の下で逃げ場が狭くなったように感じた。 「蓮さん」 「何だよ」 「今は……旅館に戻るって決めたくないんです」 足音が止まる。 蓮の肩から雨が落ちた。 「そういうつもりじゃなかったんだけどな」 「分かってます」 その先がうまく続かない。傘の端を少し自分の方へ引いた。 「だから、断りにくいんです」 雨粒が一つ、手の甲へ落ちた。 「部屋は、自分で探したい」 蓮はしばらく何も言わず、また歩き始めた。 「……悪い」 謝罪は雨へ混ざり、私も返事をしなかった。 駐車場の入口に、征臣が立っていた。傘を持っているのに差していない。黒い上着の肩が雨で濃くなっている。 蓮と同じ傘の下にいる私を見ても、表情は変わらなかった。 「待たせたな。濡れていないか」 それだけ言い、自分の傘を開く。 私は蓮へ礼を言い、隣の傘へ移った。移る瞬間、征臣の傘が少しこちらへ傾き、彼の濡れた肩がさらに外へ出る。 少し離れた車から撮影されていたことを知るのは、翌朝になってからだった。 車へ乗ると、征臣は上着を脱いだ。シャツまで雨が染みている。 「傘を持っていたのに」 私が袖口を見ると、征臣も一度そこへ目を落とした。
最後更新 : 2026-09-11 閱讀更多