《婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた》全部章節:第 151 章 - 第 160 章

244 章節

第151話 同じ傘の下

 研究棟へ入る前日、朝から雨が続いた。  B3へ入る時刻は、紗英から知らせることになっていた。鍵のタグに記された連絡先へ送っておいた問い合わせに、返事が届いた。  〈明日、午後八時。搬出口〉  それまで私は、高城旅館で宿帳の複製を確認していた。  帰ろうとした頃、雨脚が急に強くなった。征臣の車は渋滞で遅れ、蓮が玄関で青い傘を開く。 「裏の駐車場まで送るよ」  曲がっていた骨は直されていた。 「修理したんですね」 「鷹宮に『いつ壊れてもおかしくない』って言われたからな」  二人で入るには少し狭い。肩を濡らさないよう寄ると、蓮が歩く速さを緩めた。傘の縁から落ちる雨が、石畳へ細い線を作る。 「昔も、こうやって歩いたな」 「覚えていません」 「分かってるって」  即座に返したあと、蓮は持ち手を握り直した。 「思い出せって意味じゃない」  雨音に言葉が削られ、続きが聞こえにくい。 「鷹宮のところが苦しくなったら、旅館へ来ればいい。部屋はある」  優しい申し出だった。  なのに、胸の奥がわずかに固くなる。傘の下で逃げ場が狭くなったように感じた。 「蓮さん」 「何だよ」 「今は……旅館に戻るって決めたくないんです」  足音が止まる。  蓮の肩から雨が落ちた。 「そういうつもりじゃなかったんだけどな」 「分かってます」  その先がうまく続かない。傘の端を少し自分の方へ引いた。 「だから、断りにくいんです」  雨粒が一つ、手の甲へ落ちた。 「部屋は、自分で探したい」  蓮はしばらく何も言わず、また歩き始めた。 「……悪い」  謝罪は雨へ混ざり、私も返事をしなかった。  駐車場の入口に、征臣が立っていた。傘を持っているのに差していない。黒い上着の肩が雨で濃くなっている。  蓮と同じ傘の下にいる私を見ても、表情は変わらなかった。 「待たせたな。濡れていないか」  それだけ言い、自分の傘を開く。  私は蓮へ礼を言い、隣の傘へ移った。移る瞬間、征臣の傘が少しこちらへ傾き、彼の濡れた肩がさらに外へ出る。  少し離れた車から撮影されていたことを知るのは、翌朝になってからだった。  車へ乗ると、征臣は上着を脱いだ。シャツまで雨が染みている。 「傘を持っていたのに」  私が袖口を見ると、征臣も一度そこへ目を落とした。
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第152話 婚約解消の記事

 翌朝、写真は記事になった。  〈白鳥家を捨てた令嬢、次は幼馴染弁護士へ〉  同じ傘へ入る私と蓮だけが切り取られ、駐車場で待っていた征臣は画面の外へ消えている。  本文には、契約婚約がすでに破綻し、高城蓮が新しい後ろ盾になったと書かれていた。 「削除申請を出します」  相沢が端末を受け取ろうとする。  私は画面を離さなかった。  幼馴染であること。傘へ入ったこと。婚約が契約から始まったこと。並んでいる事実の中で、私が何を言い、何を選んだかだけが抜けていた。 「訂正を出したいです」 「婚約継続を明記しますか」 「そこは、記事への返事として決めません」  窓際にいた征臣の顔が少し硬くなる。 「高城弁護士を訪ねたのは調査のため。生活上の判断を、白鳥家にも鷹宮家にも委ねていない。それだけ書きます」  相沢は一度、征臣を見る。征臣は何も足さなかった。  蓮から電話が入った。旅館の前にも記者が来ているという。 「俺が話す。澪ちゃんは出なくていい」 「私の名前の記事です」  受話口の向こうで、短い沈黙があった。 「……君の文を先に出す」  訂正文を公開すると、反応はすぐ二つに割れた。堂々としている。男を選び放題だ。どちらの言葉にも、私の仕事も、母の事件も入っていない。  それでも、記事の下に自分の文章が残った。  夕方、紗英からメッセージが届く。  〈今夜、予定通り地下へ。記事は父が出させました〉  掲載媒体は、白鳥家の記事を最初に出した会社と同じだった。相沢が広告出稿を辿ると、仲介会社の先に榊原財団の広報費がある。 「鷹宮側を調査から外すためでしょう」  彩花さんが画面を指した。  私と征臣の関係が私的な醜聞になれば、提出する証拠も恋愛感情による報復として扱いやすい。蓮まで加われば、話はさらに散る。  通話を切ったあと、コメント欄を開いた。  〈幼馴染なら最初からそちらを選べばよかった〉  〈御曹司を利用しただけ〉  〈妹と同じ〉  最後の一行で、指が止まる。  征臣の手が端末の縁へ触れ、画面を伏せた。 「読むな」  以前なら、取り上げられたことへ先に腹を立てていた。 「もう少しだけ」  端末を自分の方へ戻す。 「どの言葉なら、私が黙ると思われているのか見たいです」  征臣は手を離した。  傷つかない
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第153話 契約ではない席

 地下へ入る前、征臣は研究棟から二駅離れた洋食店へ車を止めさせた。 ホテルの個室でも、鷹宮邸の会議室でもない。磨りガラスの扉に、色褪せた文字で店名が書かれている。「ここで待機するんですか」「まず食事にしよう。君と来てみたかったんだ」 約束の時刻まで一時間あった。 窓際の二人席へ案内される。征臣は椅子を引きかけ、途中で手を止めた。私の顔を見て、戻すべきか迷っている。「椅子は引いてください」 ようやく動いた手に、少し笑いそうになった。 座ってから、披露宴の席次表を思い出す。あの日は、椅子ではなく名前ごと別の場所へ移されていた。「嫌なのは、親切じゃないんです」 征臣が向かいへ座る。「分かっているつもりだった」「私も、まだ全部は説明できません」 メニューを開き、オムライスを選んだ。父に子どもっぽいと言われ、家では頼まなかった料理だ。 征臣も同じものを指す。「合わせなくていいですよ」「いや、一度食べてみたい。実は、初めてなんだ」 思わず顔を上げた。「本当に?」「ああ。家では出なかったし、頼む機会もなかった」 運ばれた卵へスプーンを入れると、湯気とケチャップの甘い匂いが立った。征臣は一口食べ、眉を寄せる。「嫌いですか」「思ったより甘いな」「残します?」 皿を見たまま、もう一口食べた。「食べる」 大きな事件の前なのに、料理はただ熱く、ケチャップは少し甘い。その普通さに、肩の力がわずかに抜けた。 契約条件を決めた時、私たちは長い机の両端にいた。今は、肘を少し伸ばせば相手の皿へ届く距離にいる。「調査が終わっても」 スプーンを置く音がした。「……こういうところに、また一緒に来てくれますか」 征臣はすぐには答えなかった。店員が隣の卓へ水を置き、厨房で皿が重なる。「もちろん。また二人で来よう」 短い返事だった。「次は、あなたの好きなお店も教えてください」
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第154話 好きだと言う前に

 食堂を出ると、雨は上がっていた。 駅前の歩道には水たまりが残り、街灯が細長く映っている。迎えの車まで、征臣と並んで歩いた。「さっきの話ですが」 私が言うと、彼の歩幅が少し遅くなる。「調査が終わったあとも、という話です」「覚えている。俺も、さっきからその話をしたかった」「……私、契約がなくなっても、あなたと会いたいです。こういうふうに」 口にしてから、これでよかったのか急に分からなくなった。視線を水たまりへ落とした。 征臣はすぐに立ち止まった。「澪」 名前を呼ばれ、胸が熱くなる。 彼が何か言おうとした時、スマートフォンが鳴った。 彩花さんからだった。 研究棟の警備記録が予定より早く切り替わり、紗英と連絡が取れない。地下搬出口には、財団の車が二台入ったという。「罠かもしれません」 電話の向こうで彩花さんが言う。 征臣の顔から、さっきまでの迷いが消えた。「予定を中止する」「でも、紗英さんが中に」「彼女自身が誘導している可能性もある」 私は鞄の中のB3の鍵へ触れた。 母が隠したものが今夜移されるかもしれない。「私は行きます」 征臣がこちらを見る。「一人では行かせない」「一人で行くとは言っていません」 言葉が少し強くなる。 彼は数秒黙り、警備担当へ指示を出した。 好きだと言う前の時間は、そこで終わった。 車へ乗り込む直前、征臣が私の手を取った。さっきの話は中断したままだ。指の力だけが、少し強かった。「戻ったら、さっきの続きを聞かせてくれ」 私は頷いた。「戻ったら」が、車のドアが閉まっても耳に残った。 車の中では、誰も続きを聞かなかった。秘書が無線の音量を落とし、ワイパーがフロントガラスに残った雨を一度だけ払った。 秘書は地下への経路を確認し、警備担当は無線を調整している。私と征臣の間にある言葉だけが、場違いに温かかった。 研究棟
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第155話 焼けた車両記録

 研究棟の搬出口には、焦げた紙と燃料の匂いが漂っていた。 地下へ続く坂の途中で、小型トラックが燃えている。財団職員が消火器を持って立っているが、熱に押され、誰も荷台へ近づけない。「積荷は」 征臣が警備員へ聞く。「廃棄予定の古文書です」「違います」 走ってきた彩花さんの袖に煤がついていた。「旧薬剤搬送の原簿が入っています。紗英さんから連絡を受けて、先に入りました」「紗英は」「地下です。父親側に見つかりました」 蓮も別の入口から到着し、火災警報の履歴を確認する。 警報は一度作動したあと、管理権限で〈誤報〉へ変更され、消防への自動転送だけが止められていた。 征臣の警備担当が職員を下がらせ、消火を始める。 熱気の向こう、道路脇に黒いバインダーが落ちていた。縁に青い罫線が残っている。「そこに一冊あります」 近づこうとした足が、熱で止まった。 蓮は触れずに発見位置と周囲を撮影する。到着した警察官の立会いで回収され、耐火袋へ封入された。 焼けた背のラベルには、わずかに文字が残っている。 〈車両運行記録 便番号311〉 欄外には、職員が書いたらしい〈三一一便〉。 母のメモにあった三と十一を続けると、記録の便番号と同じ三一一になる。青い箱の記録も、この便につながっていた。 開いた記録の運転者欄に、高城和臣の名が印字されている。「親父は、その日は運転していない」 蓮の顔が強張る。 次のページは焼け落ち、代わりに誰が乗ったのかは残っていない。 地下搬出口の奥で扉が開いた。 紗英がよろめきながら現れ、青い箱を両腕で抱えている。背後から宗一郎の秘書が追い、箱へ手を伸ばした。 征臣の警備担当が二人の間へ入る。「財団の所有物です」 秘書の声に、紗英は箱を地面へ置いた。「菜月さんのものです。持ち出したのは私です。ここからは警察の前で扱ってください」 箱が手を離れた時刻、置かれた位置、周囲の人物が記録される。蓋には銀鈴の図案があ
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第156話 菜月は事故ではない

 青い箱に入っていた写真には、撮影時刻が残っていた。 母が死亡したとされる日の、午前二時十三分。 ストレッチャーの背後に写る青い線と古い非常灯は、榊原研究棟の地下通路と一致する。「母は、病院ではなく研究棟にいた」 声に出しても、言葉が自分のものに聞こえなかった。 彩花さんが車両記録を開く。 三一一便は、療養施設から研究棟へ患者一名を搬送し、その後、別の病院へ移したことになっている。患者名だけが空欄だった。「菜月さんです」 紗英が言う。 宗一郎の秘書が鋭く振り向いた。「推測で話すな」「搬送指示を見ました」 血の気が引いた顔のまま、紗英は続ける。 母は施設で薬を投与され、意識を失った。通常の救急搬送ではなく研究棟へ運ばれた。そこから先は、彼女にも分からないという。 写真の下から、死亡診断書の下書きが出た。 正式な診断書とは死因が違う。 下書きには〈薬剤性呼吸抑制の疑い〉。正式書類には〈原疾患の悪化〉。 蓮が二枚を並べた。「薬を使った人間と、死因を書き換えた人間がいる」 神谷の名札が写っている以上、彼にも説明が必要だった。助けようとしたのか、隠す側だったのか、今は決められない。 写真から目を離せなかった。 母の顔は写っていない。白いシーツの外へ出た手だけが、細く見える。 征臣の指が写真の端へ近づき、止まった。「伏せてください」 頼むと、裏返された紙が小さく擦れた。 自分で見ると決めたことと、見続けることは違う。裏面の時刻だけは、まだ目の前に残っていた。 写真の裏に、神谷の筆跡らしいメモがある。 〈救急搬送を要請。榊原側が拒否。午後二時四十分、外部病院へ連絡〉 正式な死亡時刻より六時間早い。 当時の救急記録を照合すると、通報は一度受理されていた。直後に施設職員を名乗る人物から、〈家族手配の車で搬送する〉と訂正が入り、出動前に保留となっている。 理由欄は、家族の希望。「家族は、誰ですか」 父か
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第157話 榊原家の地下書庫

 B3の扉は、燃えたトラックの奥にあった。  警察は紗英から証拠隠滅が進行しているとの申告を受け、緊急性を確認した。財団側の法務担当者と施設責任者も立ち会う。  研究部門の事務統括として、紗英の職員証には地下書庫の管理権限が残っていた。  読み取り機へカードをかざし、B3の鍵を差す。  錠前がきしみ、扉が内側へ開いた。  書庫は想像より狭かった。棚が天井まで並び、青いファイルと灰色の箱が番号順に収められている。空調の冷気に、紙と薬品の匂いが混じっていた。  母のメモを照らし合わせ、十一番棚の四十七番へ進む。そこだけ、箱がなかった。  棚には四角い埃の跡が残り、手前の金具だけが新しく光っている。  四十六番には患者同意書。四十八番には薬剤副反応報告。間の四十七番が、二つをつなぐ記録だった可能性が高い。  紗英が下段へ膝をつき、棚の奥へ手を入れた。 「父は箱を処分する時、中身だけ抜きます。ラベルは別の箱へ移す」 「手伝っていたんですね」  指が止まる。 「はい」  謝罪はなかった。ここで言葉へされても、棚の空白は埋まらない。  壁際の裁断機には、受け皿へ細い紙片が残っていた。彩花さんは触れずにライトで位置を示し、鑑識担当が受け皿ごと封じる。  母の名前が残っていないか、確認してもらうことになった。  その時、書庫の奥から機械音がした。  棚の一部がゆっくり横へ動き、冷たい空気が流れ出す。  隠し扉の先は小さな保冷室で、薬剤ではなく古い映像テープがケースごと並んでいた。一番手前には〈三一一〉。紗英が手を伸ばすより早く照明が消え、外側で扉が閉まった。  非常灯が点いた。征臣の手が私の袖を掴む。薄明かりの中で目が合い、彼は私がそばにいるのを確かめるように、一度だけ頷いた。 「人数」  蓮の声に、全員が短く応じる。  彩花さんは小型ライトを点け、棚番号と閉じた扉を撮影した。閉じ込められても、記録を止めない。 「内側から開けられないんですか」 「非常解除は外の制御盤だけです」  紗英の声が近い。 「持ち出し防止の設計です」  人より記録を閉じ込めるための部屋だった。  床に、最近何かを引きずった跡がある。入口から棚の奥へ続き、色の違う床板の前で消えていた。  警察官が床板を持ち上げると、細い空間から封筒が三通現れた。一通
last update最後更新 : 2026-09-14
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第158話 紗英の取引

 閉じた扉の方で、蓮が取っ手を引く音がした。私は顔を上げ、征臣の姿を探した。 「ここにいる」  肩へ触れた手はすぐ離れた。彩花さんが壁を探り、蓮は扉へ体重をかける。非常灯は点いている。それでも、保冷室の空気はさっきより薄くなったように感じた。  紗英は奥の棚の前でしゃがんでいた。両手に三一一のテープを抱えている。 「外から電子制御されています」  端末の画面を見て、唇を噛んだ。 「権限を切られました」  換気は動いている。すぐ危険になる部屋ではない。それでも、閉じられた扉を全員が何度も見た。  紗英が立ち上がり、テープを胸元へ寄せた。 「お願いがあります」  声は私へ向けられていた。 「征臣さんを、この件から外してください」  非常灯の下で、顔色が白い。 「父は取引を切るだけでは済ませません。事故に見せることもする」 「それを知っていたんですか」 「可能性は」 「いつから」  紗英は答えず、テープを差し出した。 「これを渡します。だから」  手を伸ばさなかった。 「母の記録と、征臣さんを交換しないでください」 「白鳥さんが離れれば、彼も止まります」 「止まりません」  征臣の声が横から落ちた。  紗英は彼を見ない。 「あなたは、自分が正しいと思えば何をしても止まらなかった」 「だから私に頼むんですか」 「あなたの言うことなら、今は聞くでしょう」  胸の奥に、場違いな痛みが走った。彼女が征臣をよく知っていることへの嫉妬なのか、私を操作に使おうとしていることへの怒りなのか、すぐには分からない。 「私が離れたら、車のことは黙るんですか」  紗英の指がテープのケースへ食い込む。 「そういう意味じゃない」 「では、何を知っていますか」  扉の外で金属を打つ音が始まった。粉塵が天井から落ち、非常灯の前を横切る。  長い沈黙のあと、紗英が車両番号を口にした。  榊原系列のリース会社が所有する一台。高城運送の事故に使われた整備工場と、同じ業者が管理しているという。  征臣の秘書が端末へ番号を入力する。  車は今朝、鷹宮家が使用しているものと同じ外装へ変更されていた。  紗英の声がそこで初めて揺れた。 「だから、外れてほしいと言ったんです」  征臣が一歩近づく。 「なぜ黙っていた」 「証拠がなかった。
last update最後更新 : 2026-09-14
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第159話 断る理由

 保冷室の扉が開くと、紗英は廊下へ出たところで座り込んだ。 医師が腕の擦り傷を確認する。端末には父親からの着信が続き、画面が点くたび、彼女は拒否を押した。 私は少し離れた壁際で、三一一のテープを抱えていた。 征臣が隣へ来る。「何を言われた」 聞こえていたはずだった。確かめたいのは内容ではなく、私がどう答えたかだと分かる。「あなたを外してほしいと」「断った」 私は窓へ視線を逃がしかけて、戻した。「はい」「なぜ」 すぐには答えられなかった。 事件のため。証拠のため。どれも間違いではないのに、一番言いたくない部分だけが残る。 窓の外は暗く、ガラスへ廊下の照明が映っている。「……私が言うことじゃないと思って」 征臣は返事をしない。 それだけでは足りないと分かっている顔だった。「それと」 テープの角を握り直す。「本当に離れられるのは、嫌でした」 言い終わる前に声が小さくなった。 征臣の手がテープの下へ入る。落とさないよう支えただけで、私の手には触れない。「俺も、離れる気はない」 目を合わせないまま言うので、告白の続きには聞こえなかった。それでも、胸の奥で詰まっていたものが少しほどける。 紗英がこちらを見ていた。 傷ついた顔を隠していない。その視線へ、うまい言葉を返そうとしてやめた。「USBを渡してくれて、ありがとうございます」「感謝されるためにしたんじゃない」「分かりません」 紗英の目が細くなる。「何を考えて渡したのか、私は分かりません。でも、車は止めます」 それ以上、彼女の気持ちを整えて呼ばなかった。 端末へ、父親からメッセージが届く。 〈戻れば、まだ家族として扱う〉 紗英は削除せず、画面を伏せた。 医師が離れ、廊下に残ったのは湯気の消えかけた紙コップと、誰も座っていない椅子だった。「戻るんですか」 聞くと、紗英は伏
last update最後更新 : 2026-09-15
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第160話 征臣が聞いていた言葉

 三一一のテープを再生する前に、警察の立会いが必要になった。  深夜の会議室で待つ間、征臣は一人で窓際に立っていた。  私は紙コップの水を二つ持っていく。 「紗英さんとの話、ほとんど聞こえていた」  征臣が先に言った。私は渡しかけた紙コップを握り直した。  水を渡すと、彼は受け取ったまま飲まない。 「私が離れれば、あなたも止まると思われていました」 「止まらない」 「そうでしょうね」  少し笑うと、征臣は不満そうに眉を寄せた。 「笑うところか」 「……あなたらしいなって。少し、安心しただけです」  彼は紙コップの縁を見た。 「君が離れたら、調査は続ける。だが、同じではない」 「何が違うんですか」 「全部だ」  乱暴な答えだった。  正しく説明しようとして、言葉を整えすぎる彼より、今の方が近く感じる。 「食堂の前で、何を言うつもりだったんですか」  聞くと、返事までに間があった。  廊下を警察官が通り、扉の向こうで機器を運ぶ音がする。 「君が好きだと言うつもりだった」  声は小さくなかった。  それでも、周囲の音に紛れて、私だけへ届いた。  胸が大きく鳴る。 「過去形ですか」 「今も同じだ」  私は紙コップを両手で持った。冷たい水の感触がないと、何かを落としそうだった。 「私も」  そこまで言った時、会議室の扉が開く。  再生準備ができたと呼ばれた。  征臣は続きを待った。 「あとで聞く」  今度こそ、戻る理由が一つ増えた。  会議室へ戻ると、警察官が再生機の時刻を合わせていた。蓮は資料へ目を落とし、彩花さんは音声の波形を確認している。さっきの会話を聞いていないふりが、かえって分かりやすかった。  征臣が隣の椅子を引く。 「『あとで』が長いですね」  私が小声で言うと、彼は時計を見た。 「五分だ」 「そういう意味ではありません」 「五分が長いんじゃないことくらいは」  さっきの続きを待っているのが私だけではないと思うと、軽く言い返す言葉が出なくなった。  机の上へ、証拠保全用の封筒が置かれる。封印番号を読み上げる声、録画開始の合図、機器の小さな作動音。母の最後の時間が、手続きの言葉に囲まれて開かれようとしていた。  私は紙コップを置いた。今ここで言えば、母の声と混ざってしまう。 「
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