All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 121 - Chapter 130

154 Chapters

第121話 御曹司の告白

 もう聞いた。港町へ行く前から知っていた。指輪も外した。それでも、公の場で言葉になると、痛みの形が変わる。  征臣は、まだ私を見ない。 「婚約関係は、本日以前に白紙へ戻しています」  征臣は一度だけ息を置いた。 「申立書を止めたのは私です。本人へ確認しないまま保留にしました。彼女はそれを知って契約を白紙にし、自分で再提出しています」  最後まで、声の調子は変わらなかった。  清隆の顔が険しくなり、何か言いかけた口を閉じた。  征臣は視線を動かさなかった。  久我山がペンを置いた。 「接触後、白鳥澪氏との関係によって、あなたの判断に変化はありましたか」  征臣は一度だけ息を置いた。 「ありました」  今度だけ、声の速度が少し落ちた。 「彼女から調査協力を得るために婚約を続けたわけではありません。ただ……関係が変わったことで、私情が入りました」  ほんのわずかに間があった。  私情。  調書に残すには妙に生々しい一語だった。膝の上で組んでいた指が止まり、私は顔を上げそうになって、ぎりぎりで正面を見たままにした。 「申立書を止めた時も、傷つけたくなかった。あの場へ立たせたくなかった。正しい判断だと思っていました」  征臣はそこで初めて、ほんの短く私を見た。 「間違っていました」  久我山がペンを持ち直す。 「現在、白鳥澪氏へ調査協力を求める契約上の権利はありますか」 「ありません。婚約も白紙です」 「では、今後の彼女の判断へ、鷹宮家として指示する立場でもない?」 「ありません」  答えは速かった。 「最初に利用する目的で近づいたことも、私情で本人の書類を止めたことも、俺の責任です」  最後だけ、証言の言葉から少し外れた。  好きだとは言わなかった。ここは、私が何かを返す場所でもない。それなのに「私情」という一語だけが、録音機の赤いランプや資料番号の並ぶ部屋の中で、場違いなくらい温度を持って残った。  久我山がペンを置いた。 「記録します」  征臣がようやくこちらを見た。目が合ったのはほんの短い間で、私は先に伏せた。  扉の近くで、真理がハンカチを握り直した。  刺繍の銀鈴が一度だけ表へ出て、また指の下へ隠れた。証言席へ向かうまで、彼女はその布を何度も折り直していた。  折り目だけが、少しずつ増えていった。
last updateLast Updated : 2026-08-27
Read more

第122話 震える証人

 真理はその笑顔を見ずに続ける。「処方された薬ではなく、運ばれてくる薬包を」 久我山がペンを持ち直した。「運ばれてくる、とは」「白鳥邸へ、外部の配送で届いていました。奥様の主治医から直接渡されたものではありません」 私の指が帳簿の角を押した。 母の病室。薬箱。乾いた紙の匂い。 記憶の奥で、あの白い薬包だけが妙に浮いた。 真理は一度、唇を噛んだ。「運ばれた薬包は、奥様のものではありません」 真理の声は細かった。けれど、指先は証言書の端を離さない。怖がっていても、今度は途中で飲み込まない人の手だった。 会議室の空調の音だけが耳につく。低くて、均一で、息を吸うタイミングまで測られているようだった。 久我山が先に沈黙を切った。「奥様のものではない、という根拠を説明してください」 真理は両手を膝の上で揃えた。「菜月奥様は、薬のことを必ず書き留める方でした。服用時間、色、匂い、包装紙の折り方まで。私が大げさだと申しましたら、奥様は笑っておられました」 そこで一度、声が止まる。 笑っていた母を思い出したのかもしれない。 私も、知らない母の笑い方を想像してしまった。すぐにみぞおちのあたりが痛くなる。「その薬包だけ、書き留められていた内容と違いました。折り目が右からではなく左からで、糊の幅も広かった。奥様は、こうおっしゃいました」 真理はハンカチを握った。「これは私の薬ではない、と」 清隆が椅子を引いた。「病人の思い込みだ。あの頃の菜月は、気が立っていた」「白鳥清隆氏」 久我山が名前だけで止める。 清隆は唇を引き結んだ。けれど視線は真理ではなく、テーブルの上の薬包記録に向いていた。 そこを見ている。 見ないようにしている人間は、だいたい見ている。 相沢が久我山に許可を取り、透明なファイルを一枚出した。「こちらは港町倉庫から見つかった菜月氏の保管資料の一部です。未開封の薬包外装と、配送控えの写しが含まれています」 
last updateLast Updated : 2026-08-27
Read more

第123話 奥様のものではない薬

 瀬里奈の微笑みが、初めて目元から剥がれた。 ファイルの中で、配送控えの端が照明を返す。 差出人欄には、白鳥家ではない会社名が印字されていた。 私は会社名を一字ずつ追った。母の指輪へ伸びかけた指は、ファイルの端で止めた。 差出人欄の会社名は、小さかった。 フォントも薄い。見落とされることを前提に、目立たない位置へ置かれた文字だった。 東都メディカルサポート。 東都商事の名を直接は使っていない。けれど、港町の倉庫で見た帳簿には、その名前が何度も出てきた。東都商事の関連会社。医療品配送を名目に、別のものも動かしていた会社。 相沢が資料を読み上げる。「当時、東都メディカルサポートは白鳥家の取引先ではありませんでした。しかし、東都商事の子会社として、有馬グループの一部物流も受託しています」 悠真の顔がかすかに動いた。 これまで彼は、後方の席で企業人らしい顔を保っていた。謝る場所を探しているようで、でも自分から前へ出るほどの覚悟はない。そういう顔だった。 今、その顔から、整えたものが少し落ちた。「有馬家は関係ありません」 反射みたいな声だった。 久我山が視線だけを向ける。「まだ確認の途中です。有馬氏、必要があれば後ほど発言を求めます」「……失礼しました」 悠真は座り直す。 その横で、莉々花が彼を見た。助けを求める目ではない。邪魔なものを見る目だった。 悠真がそれに気づいたのが、分かった。 気づかなくていいことに、ようやく気づいた顔をした。 真理は配送控えの写しを見つめている。「奥様は、その会社名を見て、受け取らないでと言われました。けれど薬包は、すでに白鳥邸の薬箱に入っていました」「誰が入れたのですか」 久我山の声が落ちる。 真理はすぐには答えない。 視線が瀬里奈へ行き、次に清隆へ行った。どちらか一人を指すには、恐怖が長すぎたのだと思った。「私は、入れるところは見ておりません。ただ、薬箱の鍵は、奥様と私と、白鳥家
last updateLast Updated : 2026-08-28
Read more

第124話 笑顔が剥がれる音

 瀬里奈はまだ笑っていた。 笑っている形を、顔に残しているだけだった。口角は上がっているのに、目元が追いついていない。涙を使う前の莉々花とよく似ている。「宮野さん、あなたもお疲れだったのでしょう。療養施設に長くいらした方の記憶は、どうしても曖昧になりますもの」 真理の手がハンカチに沈む。 その瞬間、私は開いていたファイルを一度閉じた。 小さな音に、瀬里奈の視線がこちらへ向く。「宮野さんの記憶だけではありません」 瀬里奈が私を見る。 あの家で何度も見た目だった。大人になりなさい、と言う前の目。あなたのためよ、と言う前の目。 でも、ここには白鳥邸の廊下はない。 私の背中を壁に追いやる家具もない。「母の服薬メモがあります。色や匂い、配送日まで書いてある。……たぶん母は、何か違うものが混じった時に分かるようにしていたんだと思います」「澪さん」 瀬里奈の声から、砂糖をまぶしたような甘さが一枚剥がれた。「あなた、こんな場所で亡くなった方の不安を利用して、恥ずかしくないの」 胸の内側が、一度だけ熱くなった。 怒鳴り返したら楽だったと思う。 でも、母の帳簿は怒鳴らない。母の数字は叫ばない。だから私も、ページを開く。「恥ずかしいのは、母の不安を知っていて薬箱を触った人です」 部屋の端で、誰かが息を止めた。 久我山が資料に目を落とす。「白鳥瀬里奈氏。薬箱に触れた履歴について、回答できますか」「家の中のことを、いちいち控えているはずがありません」 瀬里奈さんは紙を見る前に答えていた。 真理が顔を上げる。「控えは、ございます」 瀬里奈の目が動いた。 笑顔が消えた。 真理はハンカチの端を整えてから、相沢の方へ視線を送った。相沢がもう一つの封筒を出す。 古い茶封筒だった。 角が潰れて、裏面に小さく菜月の字がある。 薬箱確認表。 母らしい、少し硬い字。 相沢が中身を取り出す
last updateLast Updated : 2026-08-28
Read more

第125話 有馬家の請求コード

「請求先コードの一部が、有馬グループ関連会社の内部コードと一致しています」 相沢の声は淡々としている。 悠真が立ち上がりかけた。「そんなはずは」「有馬氏」 久我山が止める。 悠真は座り直したが、膝に置いた手は握られていた。 莉々花は悠真を見ない。 そのことに、悠真がまた気づく。 可哀想とは思わなかった。けれど、哀れだとは思った。誰かを道具にした人間が、自分も道具だったと知る瞬間は、こんなに音がない。 清隆が低く笑った。「有馬家まで巻き込むつもりか。澪、お前はどこまで家を壊せば気が済む」 お前。 名前ではない呼び方が、耳に当たる。 私は帳簿の端を押さえた。「私が壊したことにしないでください」 清隆の眉が動く。「何だと」「家を壊したのは、帳簿の数字を動かした人です。薬箱を触った人です。母の告発状を止めた人です」 言葉を並べるほど、足元が震えそうになる。 でも、声は落ち着いていた。これ以上大きくすれば、そのまま崩れそうだった。 悠真が、ようやく口を開いた。「本社の元帳を確認します。関係する記録は、私から提出します」 声はかすれていたが、今度は誰かの顔色を見なかった。 征臣が初めて悠真を見る。「確認する前に、保全してください」 短い声だった。 悠真の眉が寄る。「改ざんされる可能性があります。あなたが知っている管理帳簿も、今ここで特定してください」 悠真は唇を噛む。「……分かりました」 悠真は机の上の資料へ手を伸ばし、指を止めた。 その顔が強張る。 悠真の視線が一度、莉々花へ向く。 莉々花はまだ征臣を見ていた。その視線を追った瞬間、なぜか私の方が先に気づいた。征臣は見返さない。資料の上へ目を落としたまま、私が開いているページの位置だけを一度確かめるように視線を動かした。 ほっとした自分に気づき、すぐ帳簿へ目を戻す。婚約は白紙にした
last updateLast Updated : 2026-08-29
Read more

第126話 閉じられた聴聞

 聴聞室は妙に静かになった。  悠真が振り向く。瀬里奈さんは扇子を閉じたまま動かない。父だけが机の上の資料へ手を伸ばし、何かを探すふりをした。  そのとき、後方の扉が開いた。  事務局員が久我山へ封筒を渡す。濃い灰色の封に、見覚えのない紋章が押されていた。久我山は中身を一枚だけ確かめ、すぐにマイクを切った。 「本日の聴聞は、ここで一時中断します」  ざわめきが広がる。 「なぜですか」  父が立ち上がった。 「新たな関係者から、証拠保全の申立てが入りました。現在ここで扱っている請求コードは、有馬グループだけのものではない可能性があります」  悠真の顔が強張った。  私は机の端を押さえた。母の帳簿には、同じ数字が何度も出てくる。白鳥家、有馬家、療養施設。その三つを結ぶ線だと思っていた。  久我山の手元で、封書の縁が一瞬だけ見えた。  榊原医療財団。  母の病室へ毎週届いていた白い百合。その札にあった名前だ。 「関係者の退出は順番に行います。資料には触れないでください」  事務局員が動き始める。莉々花は悠真の袖を掴んだが、今度は振り払われなかった。ただ、悠真の目は彼女ではなく、灰色の封筒を追っていた。  征臣が私の横へ来る。 「知っていた名前か」 「花だけです。母が亡くなる前、毎週届いていました」  声にすると、花の白さと薬の匂いが一緒に戻った。  征臣は何も決めつけず、資料の上に置かれた私の手を見た。  扉の外で、誰かが走る音がした。続いて、事務局員の短い叫び声。  証人控室へ向かった職員が戻り、青ざめた顔で告げた。 「宮野真理さんの滞在先が、外部へ漏れています」  聴聞が中断された理由は、証拠が増えたからではなかった。  誰かが、次の証言を止めようとしていた。  退出の列が動き始めると、莉々花が私を見た。泣いてはいない。父、瀬里奈さん、悠真の順に視線を移し、最後に私のところで止める。 「お姉様が、また何かしたの?」  責めるというより、そうであってほしい声だった。 「私も、今知ったところです」  それだけ答えると、莉々花の眉が寄った。  事務局員が扉を開く。廊下側には記者が集まり始めており、職員がロープを張っていた。  その人波から少し離れた場所に、白いスーツの女性が立っていた。  髪を低い位置でまとめ
last updateLast Updated : 2026-08-29
Read more

第127話 四つ目の請求先

 聴聞室を出るまでに、三十分以上かかった。  廊下には記者が集まり、誰も中断の理由を知らないまま、知っている顔を作っていた。私は相沢に挟まれるようにして控室へ入った。  机の上には、母の帳簿の複製が開かれている。  相沢が赤い付箋を貼った。 「有馬グループの請求コードと一致したのは、先頭の六桁だけです。末尾の二桁が別の管理番号になっています」  数字の列を目で追う。  同じだと思っていた。けれど、よく見れば四種類ある。白鳥家、有馬家、療養施設。そして、もう一つ。  SKF。 「榊原医療財団で使われている略号です」  征臣の秘書が答えた。  母の病室へ毎週、百合を送っていた財団。病院や研究施設、介護事業まで抱え、慈善事業の審査委員にも名を連ねている。 「母は、ここへ何を請求していたんでしょう」 「逆かもしれません」  相沢が帳簿を指で押さえた。 「菜月さんの事業名義を使い、榊原側が別の費用を流していた可能性があります」  数字の横には、母の筆跡で小さな丸がある。丸は三つ続き、四つ目だけ二重線で消されていた。  私は鉛筆を借り、別紙に同じ形を書いた。  丸、丸、丸、消された丸。 「四つ目を見つけたから、母は狙われた?」  誰もすぐには答えなかった。  征臣のスマートフォンが震える。画面を見た彼の眉がわずかに動いた。 「宮野さんは無事だ。滞在先を移した」  安堵より先に、疑問が残る。  滞在先を知っていたのは、事務局と相沢、それから鷹宮側の警備だけだった。 「内部に漏らした人がいるんですね」  征臣は頷かなかった。代わりに、机の上の出席者一覧を裏返した。  紙の裏に、細い筆圧の跡があった。  榊原紗英。  招待者名簿にはなかった名前だ。  けれど、その字を見た征臣だけは、知らない名前を見る顔をしなかった。 「知っている人ですか」  私が聞くと、征臣は数秒黙り、どこから話すか選ぶように視線を落とした。 「榊原紗英。財団理事長の娘だ。以前、家同士で縁談の話が出た」  胸の内側が、紙で擦られたように痛んだ。契約婚約を始めた頃なら、条件の一つとして聞けたかもしれない。今は、なぜか同じようには聞けない。 「……それ、成立したんですか」 「していない」  短い返事だった。 「理由は?」と聞きかけて、私は口を閉じ
last updateLast Updated : 2026-08-30
Read more

第128話 宮野彩花

 控室の扉を叩いたのは、夜九時を過ぎてからだった。  入ってきた女性は、濡れた髪を耳にかけ、黒いリュックを胸の前で抱えていた。三十歳前後。母の証人になった宮野真理さんと、目元がよく似ている。 「宮野彩花です。真理の娘です」  名刺には、看護師資格を持つ臨床研究コーディネーターとある。以前は治験支援会社から榊原医療財団の研究管理室へ出向していたが、現在の勤務先は空欄だった。 「母から、澪さんに渡すよう言われました」  差し出されたのは、古いUSBだった。透明な袋に入り、封の上へ日付と署名が書かれている。  相沢が受け取る前に、彩花さんは手を引いた。 「その前に、確認させてください。これを警察へ渡したら、榊原財団にも情報が回りますか」  部屋の空気が変わる。 「なぜ、そう思うんですか」  私が聞くと、彼女は唇を噛んだ。 「以前、内部告発をしました。二日後には、告発した内容が上司の机に戻っていました」  彩花さんは当時、榊原医療財団の研究管理室にいた。菜月さんが亡くなった頃、治験ではない薬剤が療養施設へ送られていることに気づいたという。 「母は止めました。余計なことをすれば、私まで職を失うって」 「それで、辞めたんですか」 「辞めさせられました」  声は平らだった。その平らさの下に、何年も噛み砕けなかった怒りがある。  征臣がUSBを見た。 「中身は」 「薬剤搬送記録と、研究棟の入退室履歴です。ただし、全部ではありません。私も怖くて、途中でコピーを止めました」  謝るように言ったあと、彩花さんは私を見た。 「菜月さんは、最後まで止めませんでした。私よりずっと怖かったはずなのに」  母を強い人として語られると、胸の奥が少し痛む。私が知っている母は、咳を隠し、病室で笑おうとしていた人だ。 「母も、怖かったと思います」口にすると、病室で笑っていた母の顔が浮かんだ。  彩花さんの肩がわずかに下がった。 「それでも、持ってきてくださったんですね」  彼女はようやくUSBを机へ置いた。  袋の端には、青い糸が一本
last updateLast Updated : 2026-08-30
Read more

第129話 母が残した名刺

 USBの解析には時間がかかるという。 待っている間、彩花さんはリュックの底から小さな名刺入れを出した。角が擦れた革製で、留め金の近くに薄い染みがある。「これも、母が預かっていました」 中には一枚だけ、古い名刺が入っていた。 榊原医療財団理事長、榊原宗一郎。 裏返すと、母の字で日付が書かれている。亡くなる三週間前。その下に、短い走り書きがあった。 話せないなら、青い線を辿る。「青い線って、何でしょう」 彩花さんは首を振った。「母も分からないと言っていました。ただ、菜月さんはこの名刺を返すよう頼まれたのに、返さなかったそうです」 名刺から消毒薬の匂いがする気がした。実際には、古い革と紙の匂いだけだ。それでも手が冷える。 征臣が名刺へ触れずに言った。「榊原宗一郎は、父の代から鷹宮家と取引がある」「親しいんですか」「親しいという言葉を使う家ではない。互いに損をさせない程度だ」 彩花さんは表情を変えなかった。相沢は名刺を証拠袋へ入れる。私は「互いに損をさせない程度」という言い方を覚えておいた。「榊原側へ照会を出します。ただし、正式な回答が来る前に情報が消える可能性があります」「もう消されているかもしれません」 彩花さんが言った。 彼女は榊原財団を辞める直前、研究棟の入退室記録を確認した。菜月さんが亡くなった夜、記録上は誰も薬剤保管庫へ入っていない。けれど、監視カメラの電源だけが二十七分落ちていた。「停電ではありません。研究棟のほかの階は動いていました」 二十七分。 母が最後に意識を失った時刻と重なる。 私は椅子の背へ寄りかかった。胸の中へ入ってきた冷たさが、なかなか抜けない。 机の上で、グラスの底が小さく鳴った。征臣が水をこちらへ寄せている。「飲めますか」でも「大丈夫か」でもない。何も言わないまま、手だけがグラスから離れた。 私は一度迷ってから、それを取った。「……ありがとうございます」 征臣は頷くだけだった。
last updateLast Updated : 2026-08-31
Read more

第130話 敵ではない証明

 フォルダには、空のファイルが三つ並んでいた。  削除された形跡はある。けれど復元できるかは分からない。解析担当者が作業を始める横で、彩花さんは何度も腕時計を見た。 「帰らないといけませんか」  私が聞くと、彼女は少し迷ってから頷いた。 「母の移動先を確認したくて。電話では大丈夫だと言っていますけど」  征臣が警備担当へ連絡し、車を用意させる。  彩花さんは礼を言うより先に、私の前へもう一つの封筒を置いた。 「これは、私が持っていたものです。母から預かったのではありません」  中には退職時の誓約書と、財団から振り込まれた和解金の明細があった。金額は高い。黙るための金だと、説明されなくても分かる。 「これを出したら、返還を求められるかもしれません」  相沢が言う。 「覚悟しています」 「生活に影響します」 「……そこまで含めて、出します」  彩花さんはそこで初めて、少し苛立った顔をした。 「怖さは知っています。だから、何年も出せなかったんです」  彩花さんの指は、封筒から離れたあとも震えていた。黙れば生活を守れる。話せば母まで危険にさらす。その間で、彼女はずっと止まっていたのだ。 「今、出した理由は?」  私の問いに、彩花さんは窓へ目を向けた。 「聴聞で、あなたが母親の名前を口にしたからです。報告書の番号じゃなく、菜月さんって」  私には、それしかできなかった。  けれど、その呼び方が誰かを動かした。 「信じてほしいとは言いません」  彩花さんは立ち上がり、封筒を私の方へ押した。 「調べてください。これも、私のことも」  征臣が短く頷く。 「分かりました。資料を預かります。来てくださって、ありがとうございます」  車が来たと連絡が入り、彼女は扉へ向かった。  出る直前、振り返る。 「菜月さんは、最後に高城という男の子の話をしていました。昔、澪さんと一緒に宿へ来た子です」  私は覚えていない。  けれど、その名前が征臣ではないことだけは、彼の表情で分かった。ほんの一瞬、机の上に置かれていた手が止まり、それから何事もなかったように資料へ戻る。 「知っている人ですか」と聞かれる前に、「私は覚えていません」と言った。誰への説明なのか、自分でも分からない。  彩花さんが部屋を出たあと、しばらく誰も話さなかった。
last updateLast Updated : 2026-08-31
Read more
PREV
1
...
111213141516
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status