もう聞いた。港町へ行く前から知っていた。指輪も外した。それでも、公の場で言葉になると、痛みの形が変わる。 征臣は、まだ私を見ない。 「婚約関係は、本日以前に白紙へ戻しています」 征臣は一度だけ息を置いた。 「申立書を止めたのは私です。本人へ確認しないまま保留にしました。彼女はそれを知って契約を白紙にし、自分で再提出しています」 最後まで、声の調子は変わらなかった。 清隆の顔が険しくなり、何か言いかけた口を閉じた。 征臣は視線を動かさなかった。 久我山がペンを置いた。 「接触後、白鳥澪氏との関係によって、あなたの判断に変化はありましたか」 征臣は一度だけ息を置いた。 「ありました」 今度だけ、声の速度が少し落ちた。 「彼女から調査協力を得るために婚約を続けたわけではありません。ただ……関係が変わったことで、私情が入りました」 ほんのわずかに間があった。 私情。 調書に残すには妙に生々しい一語だった。膝の上で組んでいた指が止まり、私は顔を上げそうになって、ぎりぎりで正面を見たままにした。 「申立書を止めた時も、傷つけたくなかった。あの場へ立たせたくなかった。正しい判断だと思っていました」 征臣はそこで初めて、ほんの短く私を見た。 「間違っていました」 久我山がペンを持ち直す。 「現在、白鳥澪氏へ調査協力を求める契約上の権利はありますか」 「ありません。婚約も白紙です」 「では、今後の彼女の判断へ、鷹宮家として指示する立場でもない?」 「ありません」 答えは速かった。 「最初に利用する目的で近づいたことも、私情で本人の書類を止めたことも、俺の責任です」 最後だけ、証言の言葉から少し外れた。 好きだとは言わなかった。ここは、私が何かを返す場所でもない。それなのに「私情」という一語だけが、録音機の赤いランプや資料番号の並ぶ部屋の中で、場違いなくらい温度を持って残った。 久我山がペンを置いた。 「記録します」 征臣がようやくこちらを見た。目が合ったのはほんの短い間で、私は先に伏せた。 扉の近くで、真理がハンカチを握り直した。 刺繍の銀鈴が一度だけ表へ出て、また指の下へ隠れた。証言席へ向かうまで、彼女はその布を何度も折り直していた。 折り目だけが、少しずつ増えていった。
Last Updated : 2026-08-27 Read more