All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 131 - Chapter 140

154 Chapters

第131話 白い研究棟

 榊原医療財団からの回答は、驚くほど早かった。 記録の照会に全面的に協力する。そう書かれた文書が届き、翌朝には研究棟の見学まで許可された。「早すぎますね」 相沢が書類を畳む。 拒めば疑われる。だから、見せても困らない場所だけを先に開けるつもりなのだろう。 研究棟は、病院の裏手にあった。 白い外壁。磨かれたガラス。受付には生花があり、花びら一枚落ちていない。母の病室に届いていた花と同じ百合だった。 案内役の職員は、質問する前に説明を始めた。 薬剤保管庫は改装済み。旧システムは更新され、過去の入退室記録は保存期間を過ぎた。監視カメラの障害記録もない。「保存期間は十年と伺いました」 彩花さんが言う。 彼女は正式な同行者ではない。相沢の調査補助員として、胸元に仮の名札をつけている。 職員の笑顔が少し硬くなった。「規定変更前のデータですので」「変更日は」「確認いたします」 確認する、と言った質問には、最後まで答えが来なかった。 地下の廊下だけ、床材の色が違っていた。白い壁に、一か所だけ古い青いラインが残っている。台車の進行方向を示すための線だという。 私は足を止めた。 母の名刺にあった、青い線を辿る。「この先は?」「廃棄物搬出口です。現在は使用しておりません」 職員が先回りして扉の前に立つ。 征臣は扉の上の非常灯を見た。新しい枠の周囲に、古いねじ穴が四つある。「監視カメラがあった」 彩花さんが小さく言った。 職員の顔から笑みが消える。 退出前、私は受付の百合を見た。花粉まで丁寧に取られている。美しいものだけを見せるために、痕跡を先に摘み取る場所だった。 車へ戻ると、征臣が一枚の写真を見せた。 地下扉の脇に貼られていた配送表。私たちが近づく前、彼が撮っていた。 配送会社の欄には、高城運送とある。 彩花さんが言った男の子と、同じ名字だった。 地下扉の前には、古い擦り傷が残っていた。台車が何度もぶつ
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第132話 幼馴染の声

 高城運送は、菜月が亡くなった頃に廃業していた。 登記上の住所は、海沿いの古い旅館になっている。母が亡くなる前に泊まった宿とは別だが、車で十分ほどしか離れていない。 玄関の引き戸を開けると、風鈴が鳴った。 奥から出てきた男は、私を見るなり足を止めた。「澪ちゃん?」「澪ちゃん」と呼ばれた瞬間、胸の奥が急に狭くなった。 男は三十代半ば。濃い色のシャツに、袖を二度折っている。目元に見覚えがあるような、ないような曖昧さが残った。「高城蓮。……覚えてないか」 名前を聞いても、すぐには何も戻らなかった。 彼は困ったように笑い、下駄箱の上から小さな木箱を取った。 中には、子どもの字で書かれた絵葉書が束になっていた。 れんくんへ。 一枚目の文字は、私の字だった。母の図案帳に残っていた幼い筆跡と同じ癖がある。「夏休みになると、菜月さんとここへ来てた。澪ちゃん、海が嫌いでさ。ずっと裏の倉庫にいた」「私が?」「波の音が大きいからって」 蓮は懐かしそうに言ったあと、征臣へ視線を移した。「そちらは」「鷹宮征臣です」 名乗り方はいつも通りだった。ただ、声がほんの少し低い。 蓮は気づかなかったのか、気づいていて気にしなかったのか、自然な顔で頷いた。私は二人を見比べ、何も起きていないうちから空気の硬さだけを拾ってしまった自分に戸惑った。 蓮の父は、高城運送で薬剤や医療機器を運んでいた。廃業後、旅館を継いだという。「菜月さんが最後に来た夜、親父は車を出した。俺も助手席にいた」 蓮は笑わなくなった。「彼女は誰かに追われてた。澪ちゃんだけは家から出すって、そればかり言ってた」 母のメールと同じ言葉だった。「どうして今まで」 声が掠れた。「翌朝、親父が事故を起こした。ブレーキが利かなかった」 蓮の指が木箱の縁を強く掴む。「そのあと榊原側の弁護士が来た。黙れば治療費を出すって」 征臣の視線が鋭くなった。
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第133話 知らない頃の私

 蓮が見せた写真の中で、私は笑っていた。 髪は肩より短く、膝に砂をつけ、片方のサンダルを手に持っている。隣には母と、少年だった蓮がいた。 自分の顔なのに、知らない子どもを見るようだった。「こんなふうに笑っていたんですね」 思わず言うと、蓮が眉を寄せた。「笑うだろ、普通に。怒るし、拗ねるし、俺のプリン勝手に食べるし」「それは、すみません」「今そこ謝るとこじゃないだろ」 思わず笑いが漏れた。笑ったあとで、胸が痛くなる。白鳥家で覚えている私は、声を小さくし、先に謝る子どもだった。 母が生きていた頃にも、別の私がいた。 征臣は写真を手に取らなかった。ただ、私の横から見ている。 蓮が古い宿帳を開く。 菜月、澪。二人の名前の下に、榊原宗一郎の秘書の名前があった。同じ日、同じ宿へ泊まっている。「偶然じゃないと思う」 蓮は宿帳のページを複製させる準備を始めた。「親父が残した事故記録もある。俺は医療訴訟を扱う弁護士になった。この件を調べるために、遠回りした」「私のために?」「菜月さんと親父のためだよ」 即答だった。 そのあと、少し間を置く。「澪ちゃんのためでもある」 征臣の腕がわずかに動き、ポケットへ手を入れた。それだけで、空気が少し硬くなった。 帰り際、蓮が私へ傘を渡した。子どもの頃、海で使っていた青い傘を修理したものだという。「まだ物を取っておく癖があるんですね」「昔から、捨てるの下手なんだよ」 車へ向かう途中、征臣が傘の骨を見た。「壊れている」「直してあります」「一本、曲がっている」 それだけ言って、自分の傘を私の方へ傾けた。 嫉妬という言葉を使うには、あまりにも不器用な角度だった。 車の後部座席で、写真をもう一度見た。 笑っている私の隣で、母はカメラではなく私を見ている。病室で痩せた姿より前の母。私はその顔まで、少しずつ忘れていた。「見なくてもいい」 征臣が言う。
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第134話 医療訴訟専門の弁護士

 翌日、蓮は鷹宮邸の会議室へ来た。 スーツを着ると、旅館で見た時より年上に見える。机へ置いた鞄から、厚い訴訟記録を二冊取り出した。「榊原系列の施設で、同じ薬剤名が出ています」 一件は高齢者施設。もう一件は、難病患者を受け入れる療養病棟。どちらも投薬記録の一部が空白になり、患者は夜間に急変していた。「裁判にはなったんですか」「和解で終わった。遺族には守秘義務がついてる」 蓮が記録を開く。黒く塗られた箇所ばかりで、読める言葉は少ない。 それでも、薬剤搬送を担当した会社名だけは残っていた。 高城運送。「親父の会社が使われた。荷物の中身は知らされていなかった」 彼は自分の父を庇う言い方をしなかった。分からなかったことと、確認しなかった責任を分けて話す。 彩花さんが一枚の表を重ねた。「研究棟から出た数量と、施設へ入った数量が合いません。途中で別の荷物に載せ替えています」 二人の指が同じ数字を示した。 私は母の帳簿を開き、該当する日付を探す。そこには青い線が一本引かれていた。「母は配送経路を追っていた」「そうだと思う」 蓮が私の横へ椅子を寄せる。 征臣は向かい側から資料を見ていたが、ページをめくる手が止まった。「高城弁護士」「蓮でいい。昔からそう呼ばれてる」「仕事の場だ」 短い言葉に、彩花さんが一瞬だけ目を上げた。 蓮は口元を緩める。「では鷹宮副社長。澪さんの代理人は、あなたではなく相沢先生ですよね」 会議室の空気が薄く尖った。 私は帳簿を閉じかけ、二人の顔を見た。「帳簿が見えません。椅子を戻してください」 蓮が一拍遅れて椅子を戻す。征臣も、止めていた手を資料へ戻した。「今は、これを確認したいです」 彩花さんだけが、小さく息を吐いた。 相沢が咳払いをし、二人を交互に見た。「共同調査をするなら、役割を明確にします。高城先生は被害者側の資料収集、宮野さんは、外部医師の監督下で医療記録の照合。鷹宮側は
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第135話 同じ薬で眠った人

 最初の遺族に会えたのは、三日後だった。 郊外の小さな喫茶店。窓際の席で待っていた女性は、母と同じくらいの年齢に見えた。 名前は出さない。録音もしない。それが条件だった。「父は、夜になると眠れない人でした」 彼女は冷めた紅茶へ砂糖を入れ続けた。「でも亡くなる一週間前から、面会中でも眠るようになった。施設は、体力が落ちたからだと言いました」 投薬表には鎮静剤の記載がない。 けれど、枕元のごみ箱から、名前のない薬包が見つかった。彼女は一つだけ持ち帰り、弁護士へ渡したという。 蓮が封筒を机へ置く。 分析結果には、母の診断書の余白に残っていたものと同じ成分名があった。 私は紙を見たまま、息を整えた。「お父様は、その薬を希望していましたか」 女性は首を振った。「薬が変わったことも知らなかったと思います」 知らないまま、眠らされた。 母もそうだったのかもしれない。 胸の奥で言葉が形になりかけ、口に出す前に崩れた。征臣は隣にいたが、手を伸ばさなかった。代わりに、水のグラスを私の見える場所へ置いた。 女性は私の左手を見た。母の指輪に気づいたらしい。「菜月さんの娘さんですか」「……娘です」「父が、あの人のことを話していました。病室を一つずつ回って、名前を聞いてくれたって」 母が知らない誰かの病室にいた。 病気の自分より先に、ほかの人の名前を聞いていた。「父は、番号で呼ばれるのが嫌いでした。菜月さんだけが、最後まで名前で呼んだそうです」 女性は砂糖を入れる手を止めた。「だから、私も話します」 録音しない約束だった。それでも彼女の言葉は、帳簿の数字より重く残った。 店を出ると、雨が降り始めていた。 蓮が傘を開く前に、征臣の傘が私の頭上へ来た。 今度は骨が一本も曲がっていなかった。 女性は帰り際、封筒から一枚の写真を出した。 ベッドの脇で、父親が小さな鉢植えを持っている。隣に立つ母は、病衣の
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第136話 征臣の嫉妬

 会議が終わったあと、征臣は珍しく資料を片づけなかった。  榊原紗英の名前が表示された画面を見たまま、指先で机を一度叩く。 「何か思い当たることがありますか」 「彼女は医師でも薬剤師でもない。薬剤そのものを管理する資格はない」  財団理事長の娘として研究部門の事務統括を務め、搬送記録と書庫の承認権限を持っていた時期があるらしい。資格者ではなくても、現場へ出入りし、書類上の流れを変えられる立場だった。  蓮が椅子を引いた。 「昔の婚約候補が、澪ちゃんの母親の件に関わっていた。随分と都合がいいな」 「言い方に気をつけろ」  征臣の声が低くなる。 「何に? 婚約候補に? それとも澪ちゃんに?」  空気が張った。  私は二人の間へ立たなかった。以前なら、場を丸くするために先に謝っていたと思う。今は自分の資料を集め、二人が黙るのを待った。 「資料が進みません。続けるなら、私のいないところでお願いします」  蓮が口を閉じる。  征臣は視線を外し、短く息を吐いた。 「悪かった」  謝ったのは征臣だけだった。蓮は少し遅れて、机の上のペンを元の位置へ戻した。 「俺も悪かった。……でも、そっちも言葉足りないだろ」 「君に言われたくはない」 「そこは否定しない」  また始まりそうになり、彩花さんが資料を一冊閉じた。 「その続き、私が帰ってからにしてください。仕事になりません」  思わず笑いそうになる。誰かと一緒に調べるとは、こういうことなのかもしれない。苛立つ人も、冗談を言う人も、それを止める人もいる。  蓮が帰ったあと、征臣は窓際に立った。 「面白くない」 「何がですか」 「君が、あの男の前では昔の顔をする」  私は驚いて彼を見る。 「どんな顔ですか」 「俺にはまだ見せてくれない顔だ」  征臣自身も、口にしてから困ったらしい。視線を窓へ戻した。  嫉妬は、もっと激しいものだと思っていた。実際には、言い過ぎた人が行き場をなくして立っているだけだった。 「私も、その頃の自分をまだ知りません」  答えると、征臣がこちらを見た。 「分かったら、あなたにも話します」  言い終えたあと、胸が熱くなる。彼はすぐに近づかず、一度だけ頷いた。  帰り支度をしていると、机に蓮のボールペンが残っていた。側面に旅館の名前が入っている。
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第137話 守る人が増える

 彩花さんが正式に調査チームへ加わった。  相沢は守秘義務の説明をし、蓮は被害者側の同意書を揃え、征臣の秘書は連絡先を暗号化した端末へ移した。私は母の帳簿を机の中央に置いた。  以前は、誰かに見せるたび奪われる気がした。  今はページを開き、必要な箇所を自分から示す。 「この青い印は、母が注意を促す時に使っていました。丸は確認済み、二重丸は原本あり。斜線は、数字が合わない時です」  彩花さんがメモを取る。 「この三角は?」 「分かりません」  分からないと言えることが、少し楽だった。白鳥家では、分からないと答えれば準備不足を責められた。だから何でも分かった顔をして、最後には誰かの望む答えを選んだ。  蓮が別の帳簿を重ねる。 「高城運送の記録では、三角の日だけ運転手が変更されてる」  運転手欄は空白になっていた。 「内部の人間が車を使った可能性があります」  彩花さんの声が硬くなる。  榊原側の職員が、外部業者の車へ乗り換え、薬を運んだ。その形なら、研究棟の正式な搬出記録には残らない。  昼を過ぎても誰も席を立たなかった。秘書が軽食を運び、蓮は私の前へ昔好きだったという卵サンドを置く。征臣は黙って、私が苦手な辛いソースを別の皿へ移した。 「二人とも、覚えすぎです」  言うと、彩花さんが初めて声を立てて笑った。  征臣は何も言わず、自分の皿へ手を伸ばす。私はまだ温かいコーヒーを、彼の手元へ寄せた。 「そちらは砂糖なしです」  一瞬だけ目が合った。 「ありがとう。俺の好みも覚えてくれていたんだな」 「毎朝、見ていますから」  口にしてから、余計なことまで言った気がした。征臣はカップを持ち上げ、しばらく下ろさなかった。  笑いが収まった頃、彼女の端末に警告が出た。  財団の旧サーバーへ接続した形跡が検知されたという。アクセス元は、白鳥家が契約していた会計事務所だった。  父が榊原に利用されていたのか。  それとも、最初から一緒だったのか。  私は帳簿の三角へ赤い付箋を貼った。  怖さは残っていた。付箋を貼る指も少し固い。それでも次のページはめくれた。  午後、白鳥家から私物の返還リストが届いた。父の署名はなく、瀬里奈さんの代理人名だけがある。母の裁縫箱、古い衣類、学校時代のアルバム。どれも「価値なし」と備考に書かれ
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第138話 菜月の告発原稿

 復元された最初のファイルは、文章の途中から始まっていた。  件名も宛先もない。母の名前だけが末尾に残っている。  私は画面を拡大した。  〈慈善事業名義の薬剤搬送について、外部監査を求めます〉  その下には、白鳥家と有馬家の関連会社、療養施設、榊原医療財団の研究棟が並んでいた。  母は寄付金の横流しだけを調べていたのではない。  患者の同意を得ずに薬剤を投与し、体調変化を研究記録へ転用している疑いがある。そう書かれている。 「人体実験、ということですか」  口にした声が遠く聞こえた。  彩花さんが唇を結ぶ。 「正式な治験ではありません。だから記録上は、補助的な投薬や緩和処置として処理された」  画面の右端に、イニシャルがあった。  S・S。  榊原宗一郎か、榊原紗英か。  征臣がファイルの作成日時を確認する。母が亡くなる五日前だった。 「送信されていない」  下書きのまま保存され、宛先欄だけが削除されている。  蓮が椅子から立った。 「親父が菜月さんを宿から運んだのは、この翌日だ」  告発原稿を外へ出すために、母は動いていた。  けれど、どこへ送るつもりだったのか分からない。  私は末尾まで読み進めた。  〈私の娘が、この件によって不利益を受けることを望みません。白鳥澪は、本件に関与していません〉  母は最後まで、私を外へ出そうとしていた。  守られたことが嬉しいとは思えなかった。母の世界から切り離され、何も知らないまま残された時間もある。 「どうして、私に話してくれなかったんでしょう」  誰に答えを求めたわけでもない。  蓮が口を開きかけ、やめた。  征臣も何も言わない。  画面には、削除された宛先の痕跡が一文字だけ残っていた。  K。  それが人の名前なのか、組織の頭文字なのか。母が最後に頼ろうとした相手は、まだ見えなかった。  原稿の下部には、削除された添付ファイル名が残っていた。患者一覧、薬剤搬送表、同意書写し。三つ目だけ、ファイル名の先頭に青という字がある。 「青い同意書?」  彩花さんが首を振る。 「財団では、同意取得済みの書類を青いファイルへ入れていました。赤は未取得、白は保留です」  母は、同意書があるように見せかけた青いファイルを見つけたのかもしれない。  蓮が過去の訴訟資
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第139話 削られた録音

 二つ目のファイルは音声だった。  再生すると、空調の低い音が流れた。しばらくして、母の咳が聞こえる。  私は反射的に停止ボタンを押した。  会議室の誰も動かなかった。 「少しだけ、待ってください」  水を飲んでも、喉の奥の乾きは消えない。病室の扉の前で、母の咳が止むのを待っていた頃を思い出す。入れば心配させる。入らなければ会えない。いつも決められないまま、面会時間が短くなった。  もう一度再生した。  母は誰かと話している。  〈この数字は寄付ではありません。患者の数でしょう〉  男の声が答えるが、波形だけが残り、音は削られていた。  〈澪には関係ありません。あの子の名前を使わないで〉  再び無音。  四十七秒後、別の女性の声が入る。  〈菜月さん、今ならまだ、間違いだったことにできます〉  彩花さんが顔を上げた。 「紗英さんです」  征臣の表情は変わらなかった。ただ、机の上で組んだ手に力が入る。  録音の最後、母が小さく笑った。  〈間違いだったことにしたいのは、私ではないでしょう〉  そこで音声は切れた。  四十七秒の空白には、編集の痕跡がある。元のデータから特定部分だけが抜かれていた。 「復元できますか」 「一部なら」  解析担当者が答える。  削った人は、母と話していた男の声を隠したかった。紗英の声は残しても構わないと思ったのかもしれない。  蓮が録音時刻を事故記録と照合する。 「この三時間後、榊原の車が宿へ来てる」  私はヘッドホンを外した。  耳の奥に、母の咳だけが残る。  征臣が手を伸ばしかけ、途中で止めた。私はその手を見てから、自分の指を重ねた。  ほんの少し触れただけで、彼の手が固まった。 「続けます」  私が言うと、今度は手を引かなかった。  解析担当者が波形を拡大すると、無音部分にも微かな振動が残っていた。完全に消したのではなく、別の音を重ねている。  一定の間隔で、金属が触れる音がする。 「エレベーターの到着音です」  彩花さんが言った。榊原研究棟の旧型エレベーターは、階ごとに違う二音を鳴らしていた。録音場所は、母の病室でも宿でもない。研究棟の地下だった可能性が高い。  さらに、男の声が一音だけ戻った。  〈高――〉  蓮の表情が変わる。 「高城、と言ったのかも
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第140話 榊原紗英

 榊原紗英から面会の申し入れが来た。 場所は、財団本部の応接室ではなく、鷹宮ホテルのラウンジを指定している。人目のある場所を選んだのは、警戒しているからか、見せたい相手がいるからか。 紗英は白いスーツで現れた。 聴聞室の廊下に立っていた女性と同じだった。髪を低い位置でまとめ、宝石は小さなものしかつけていない。莉々花の華やかさとは違う。目立たないよう整えた人ほど、周囲の視線を集めることがある。「お久しぶりです、征臣さん」 聞き慣れているはずの呼び方なのに、紗英の口から出ると別の音に聞こえた。膝の上で組んでいた指を、無意識に組み直す。 征臣は立ち上がらなかった。「用件を」 それだけだった。懐かしさも苛立ちも声には出ない。その無愛想さに安心した自分を認めるのが嫌で、私は先に紗英へ視線を戻した。 紗英は私を見た。「初めまして、白鳥澪さん。お母様には、昔お世話になりました」「録音に残っていました」 彼女の笑みが、ほんの少し薄くなる。「……そこまで残っているんですね」 紗英は母と会っていたことを認めた。ただし、研究不正を止めるために説得していたのだという。「菜月さんは体調を崩されていました。数字を結びつけすぎて、周囲を疑っていた」「母が間違っていたと?」「病気の方には、そういうこともあります」 柔らかい言葉だった。 母を嘘つきにした人たちも、同じ声を使った。 私は指輪へ触れず、紗英を見た。「では、四十七秒を削ったのは誰ですか」「存じません」「榊原家の車が、録音のあと宿へ向かった理由は?」「父の秘書に確認します」 返事は早い。それ以上は何も話さない。 紗英は紅茶へ口をつけ、征臣へ視線を移した。「あなたまで、このような調査に深入りするとは思いませんでした」「君に許可を求めた覚えはない」「以前なら、鷹宮家の損失を先に考えたでしょう」 以前。 その一言だけが、私の知らない二人の時間を示し
last updateLast Updated : 2026-09-05
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