紗英が出ていったあとも、テーブルには紅茶の匂いが残っていた。 名刺の下辺に引かれた青い線は、研究棟の地下廊下で見たものと同じ色だった。印刷会社が選びそうな青にも見える。そう思って名刺を裏返したが、指はそこから離れなかった。 征臣は冷めたカップを端へ寄せ、紗英が置いていった資料を閉じた。 「紗英さんとの縁談の話、聞かせてもらえますか」 尋ねてから、そこまで気にしていると知られたのが恥ずかしくなった。 「大学を出た頃だ。父が話を進めた。紗英も反対はしなかった」 答える征臣は資料を見ていた。私には、その落ち着きまで気になった。 そこで征臣の指が資料の角を押さえた。 「俺は断った」 理由を聞こうとすると、先に言葉が続いた。 「家が決めた相手と、そのまま結婚する気はなかった」 目の前にあるのは、彼が差し出した契約婚約から始まった関係だ。私が黙ったせいで、征臣も同じところへ気づいたらしい。 「君の時とは違う」 「最初は、ですね」 言ってから、カップの水面を見た。言葉だけが先に出て、胸の奥が遅れて熱くなる。 征臣の視線が止まった。 「……今も、私を白鳥家から出すためだけですか」 名刺の青い線を爪でなぞる。顔を上げれば、返事を待っていることまで見透かされそうだった。 「もう、それだけではない」 低い声が落ちた。 その先へ進む前に、征臣の端末が震えた。高城運送の旧倉庫で、榊原財団の封印がついた箱が見つかったという。蓮の声が漏れ、室内の空気が仕事へ戻る。 征臣は立ち上がりながら指示を出した。私は名刺を鞄へ入れた。さっきの返事までしまい込んだようで、ファスナーを閉じる手が一度止まった。 車寄せへ向かう廊下の先に、紗英がいた。ホテルの役員と話し、相手の言葉に自然な角度で頷いている。隣に征臣が立てば、古くから両家を知る人間には何の違和感もないのだろう。 似合う。 その言葉を消そうとして、やめた。見た目が整うことと、誰が誰を選ぶかは同じではない。頭では分かっている。それでも、名刺の角を握る指には力が入ったままだった。 外へ出ると、風が冷たかった。征臣は車の到着を確認しながら、暗い画面を何度も点けては消した。 「紗英さんを、好きだったことはありますか」 今聞く必要のない問いだった。口に出したあとで分かる。
Última actualización : 2026-09-06 Leer más