All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 171 - Chapter 180

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第171話 榊原紗英の嘘

 翌朝、紗英は征臣へ古い写真を見せていた。  大学の式典。財団の晩餐会。両家の会食。二人が並んだ写真は何枚もある。  病室の扉の外で、紗英の声が聞こえた。 「私たちは、結婚の話を進めていました」  征臣の返事は聞こえない。 「白鳥さんとの婚約は、家から出すための契約です。それを解消したのは、私と結婚するためでした」  明らかな嘘だった。  扉へ手をかけ、止める。  開けたら、どんな声が出るか分からなかった。私を忘れた征臣の顔が浮かぶ。そこへ別の人との結婚の話まで聞かされるのが怖くて、取っ手を押せない。  彩花さんが廊下の角から来た。 「澪さん。一緒に入りますか」 「……入ります」  取っ手から一度手を離し、掌を服へ押しつけた。汗で濡れていた。 「少しだけ、待ってください」  違う、と言って飛び込みたかった。私に好きだと言ったでしょう、と征臣にまで詰め寄ってしまいそうで、取っ手を握り直す。彼を責めたいわけではないのに、紗英の声を聞いていると、その区別さえつかなくなりそうだった。  病室の中で、征臣が口を開く。 「写真が残っている。それだけだ」  紗英の声が止まる。 「君との縁談を断った記憶はある」 「その後、気持ちが変わったんです」 「俺が?」  短い問いのあと、しばらく沈黙が続く。 「俺が君に結婚を約束したと分かるものは、何か残っているのか」  返事はなかった。  私は扉を開けた。 「紗英さんのためじゃありません」  二人の視線がこちらへ向く。喉が乾いたが、言い直さなかった。 「私が怒ったんです。勝手に決めないでって。それで、指輪も外しました」  征臣の目が細くなる。 「その後も、俺と会っていた?」 「会っていました。これからも一緒にいたいって……私からも言いました」  そこまで口にすると、喉が詰まった。征臣を見る。 「信じてほしいです。でも、今すぐ答えを出してほしいわけじゃありません」  紗英へ向き直ると、抑えていた声が強くなった。「覚えていないからって、なかったことにしないでください」征臣は何も言わず、写真を伏せた。  廊下へ出ると、紗英は嘘を否定しなかった。 「父に言われたんですか」 「そうすれば、征臣さんを鷹宮家へ戻せると」 「写真も、そのために」  紗英の指がスカートの縫い目をなぞ
last updateLast Updated : 2026-09-21
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第172話 消えた一年

 征臣は、事故前一年の予定表を自分で開いた。  私との面会、白鳥家の聴聞、港町への出張、榊原研究棟。日時も場所も残っているのに、画面を送る指には迷いがあった。 「俺は、ずいぶん君の近くにいた」  画面には私の名前が何度も出てきた。私は銀鈴の少女を探していたことから話し始めた。莉々花が名乗り、私の日記を使ったこと。母の図案帳で真実が分かったこと。  征臣は途中で口を挟まなかった。薬箱を置いて離れていた日の話になると、画面を送る手が止まる。 「君に触るのを、よほど慎重に考えていたんだな」 「それだけじゃありません。何度も止められて、腹が立ったこともあります」  征臣が顔を上げた。 「『危ないから』って」 「それでも、君は」  言葉が途切れる。 「好きだったのか」と聞きたいのだろう。 「好きだったのに、腹が立っていました」  自分でも少し笑う。 「それで何度か喧嘩しました。私も、前よりは言い返すようになって」  征臣はメモへ書き込もうとし、ペンを止めた。 「聞けば聞くほど、俺だけが知らない」ペン先が紙へ触れたまま動かない。「君の顔を見て、何か言わなきゃと思うのに、何も出てこない」  私が楽しかった日の話をするほど、征臣は知らない自分のことを聞かされる。思い出してほしい気持ちが、この人を困らせているのだと分かるのがつらかった。  分かっています、と言いかけた。けれど彼の止まったペン先を見ていると、そんな返事はできなかった。 「……私も、何を話せばいいのか分からないです」目を上げると、征臣がこちらを見ていた。「楽しかったことまで、つらくなってしまって」  私が立ち上がると、征臣の視線が母の指輪へ落ちた。 「その指輪は……見覚えがある」  母の指輪を、反対の手でそっと覆った。征臣はまだ見ている。何か続けてくれる気がして、私も立ったまま待った。  けれど、それ以上の言葉はなかった。  指輪を覆った手だけ、なかなか離せなかった。  予定表には私の名前が多い。病院、ホテル、港、白鳥邸、鷹宮邸。仕事より会っている日さえあった。 「この日は、何をしていた」  指された日付を見て、少し笑った。「二人でオムライスを食べました。甘いって言いながら、全部」  征臣が顔を上げた。 「俺が、オムライスを?」  頷くと、彼はもう一度日付へ目を
last updateLast Updated : 2026-09-21
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第173話 私を信じなくていい

 退院後、征臣は鷹宮邸へ戻った。 私は以前と同じ客室を使うことにした。事故前も別室で過ごしていた。けれど、今の征臣には、私とこの家で暮らした記憶がない。 夕食の席で、征臣が私の椅子を見る。「いつも、そこに座っていたそうだな」 引きかけた椅子を止めた。秘書から聞いたのだろう。征臣は私の手元を見て、続きを言いかける。 私は隣の椅子へ目をやった。 この席へ座るだけで、前と同じようにしてほしいと頼むことになるだろうか。「別の方がいいですか」「いや、そこにいてくれ。変えてほしかったわけじゃない」 急いだ言い方に顔を上げる。征臣は私が座るまで箸を取らなかった。気を遣わせているのか、それともいてほしいのか。嬉しくなりかけるたび、そんなことを考えてしまう。 食事の途中、紗英から花が届いた。 百合ではなく、白い小花。カードには〈思い出すまで、私がそばにいます〉とある。 征臣は読んで、伏せた。「君との写真を、見たい」 箸を持つ手が止まった。彼の方から聞かれるとは思っていなかった。 征臣は伏せたカードから手を離し、私の返事を待っている。 写真も、契約書も、銀鈴もある。「あります」 征臣が待つ。「見せます。でも……」 白い花のカードへ目が行った。「見せたからって、思い出してほしいって迫るのも違う気がして」 征臣の指がカードの端で止まる。「恋人ではないのか」「……でした」 口にすると、過去形だけが妙に耳に残った。「でも……今も恋人だって、私が勝手に決めるのは違うでしょう」 征臣は花のカードを封筒へ戻した。「見せてほしい。でも、今日はつらいなら別の日でいい」そう言ってから、征臣は机の路線図を見た。「調査の話も、今日はやめるか」 首を横に振り、路線図を広げた。終わりにすれば、部屋へ戻ることになる。もう少し一緒にいたかった。 食後、征臣は私が立つまで席を離
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第174話 身体が覚えている距離

 資料を運んでいる途中、紙で指先を切った。 白いページへ、血が一滴だけ落ちる。「待って、血が出ている」 征臣が立ち上がった。「これくらいなら」 言いかける間に、彼は棚から薬箱を持ってくる。ただし、私の前まで来たところで足を止めた。 薬箱だけを机へ置き、向かいの椅子へ座る。「自分でできるか」 絆創膏の袋をつまもうとしたが、濡れた指が滑った。端を二度折っても開かない。 征臣の手が動く。「開けようか。貸してくれ」 私は絆創膏の袋ごと渡した。 征臣は袋を開けたあと、薬箱から消毒綿を取り出す。 それから私の手の前で、一度止まった。 私が手を差し出すと、彼は指先だけで支えた。 手首の手前で親指が止まり、持ち方を変える。 事故のあと、白鳥家で掴まれるのが苦手だとは話した。以前の彼が何度も同じ場所で手を止めたことまでは、詳しく説明していない。 消毒綿が傷へ触れ、指がわずかに引けた。 征臣は何も聞かず、すぐ力を抜いた。 次に触れる前には、視線だけでこちらを確かめる。 私は手を引かなかった。 消毒を終えると、彼は絆創膏を貼った。端が少し斜めに浮いている。「曲がっています」 征臣は斜めになった端を見て、貼り直そうと指を伸ばした。「大丈夫です。まだ、剥がれませんから」 その手が止まり、私の指先を支える方へ戻った。 前の征臣なら、無言で貼り直していたかもしれない。 そう思った途端、指先を支えていた手が離れた。追いかけそうになり、膝へ戻す。絆創膏の端が浮いているのを、今度は黙って押さえた。 征臣は私の手を離したあと、自分の親指を見た。「今のは……」 続きが出ない。 私は薬箱の縁へ手を置いた。彼も言葉を探している。そのことが分かるだけで、少し顔を上げられた。「……今の持ち方なら、平気です」 薬箱の縁に置いた私の手へ、征臣が目をやった。何も聞かずに
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第175話 偽物の記憶

 征臣は署名を何度も見た。「俺の字だ。だが、この言い回しは……」 本文へ戻り、読み直した。紗英は口を開きかけたが、彼が顔を上げないので、そのまま黙った。 紗英は、私へ見せる必要はないと言った。征臣は全員の前で確認すると決め、相沢へ手紙を渡した。 後日、相沢から照合結果が届いた。署名は過去の議事録と、かすれた箇所まで一致している。本人がこの手紙に署名した証拠にはならないという。本文にも画像を貼り合わせたような跡があった。相沢を交え、もう一度紗英に説明を求めた。「偽造と決まったわけではありません」 紗英の声は硬い。「この手紙を受け取ったのは、いつですか」 私が聞くと、視線が落ちた。 征臣は手紙を机へ置く。「君は、この一年の俺を知っていると言った」 紗英が頷く。「澪には黙って、君との結婚を考えていたと?」 唇が震えた。「事故前、あなたは迷っていた」「何を見て、そう思った」「私を心配した。父から離れろと言った」 征臣が心配したことまで、なかったことにはできない。けれど、あの人が手を差し出すたびに、こんな約束へ変えられてしまうのか。 そのことを指摘する前に、紗英がこちらを向いた。「白鳥さんだけが、やり直せるのは不公平です」 声が初めて崩れた。 莉々花の〈お姉様ばかり〉が浮かぶ。「やり直せるって、何ですか」声が思ったより大きく出た。征臣がこちらを見る。「顔を見るたび、忘れられたんだって思うんです。それが、あなたには羨ましいんですか」 紗英の唇が開き、閉じた。私は手紙から目を逸らせなかった。「その字で、嘘を書かせないでください。私の知らない約束まで、増やさないで」 征臣の指が手紙の上で止まった。私もそれ以上は続けられなかった。 紗英が手紙へ手を伸ばす。 征臣が先に証拠袋へ入れた。「事故の捜査へ渡す」 透明な袋越しに、征臣の署名が見えた。さっきまで私を苦しめていた一行が、袋の皺で歪んでいる。 後
last updateLast Updated : 2026-09-23
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第176話 高城蓮の怒り

 蓮は、私が鷹宮邸へ戻ったことに怒っていた。 蓮が三一一便の資料を座卓へ置いた。音が強く響いた。「記憶のない鷹宮のそばで、また顔色ばっかり見てる」「見てません」「部屋まで分けて、聞かれたことだけ答えて。平気な顔してる」「平気じゃないです」 言い返した拍子に肘が触れ、机の上の紙がずれた。「昔の私を知ってるからって、何でも分かったみたいに言わないでください」 蓮は口をつぐんだ。「平気に見えるなら、そうしてるだけです。戻ってほしいって、毎日思います。でも、そればかり言ったら、あの人は……」続けられず、顔を背けた。「また傷つく」「そうかもしれません」 ずれた資料の角を揃えようとして、途中で手を止めた。「でも、ここを出ろって言われるのは嫌です」 座敷の外で、雨戸が風に鳴った。 蓮は膝へ置いていた手を離す。「……悪い」 謝罪のあとも、顔は上がらない。「菜月さんに、澪ちゃんを頼まれた気になってた」「母は、そこまで頼みましたか」「……違うな」 返事は低い。「……俺が、そうしたかっただけだ」 しばらく畳の目を見ていた。「好きだったから」 息が止まる。 蓮は笑わない。「昔からか、戻ってきてからか、自分でも分からない」 蓮は膝へ目を落とした。「好きだった」のあとを、何かで取り繕おうとはしなかった。「……今さら、だよな」 すぐに返事ができない。「ごめんなさい」「それ、言うなよ」 声が少し荒くなる。「そこで謝られると、余計に惨めだ」 机の資料へ視線を戻し、蓮は一枚を抜いた。「……で、弁護士としてはこれを渡す」 三一一便の新しい証拠だった。 両手で受け取る。紙の端が、さっきの
last updateLast Updated : 2026-09-23
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第177話 銀鈴の音

 三一一便の新しい証拠は、港湾倉庫の監視映像だった。  宗一郎の秘書が事故車の整備担当者と会い、青い箱を一つ渡している。日付は、征臣の事故前日。  警察は宗一郎への事情聴取を決めた。  映像を止めたあと、私は銀鈴を机へ置いた。  征臣が手に取る。 「この音は、覚えていたんだがな」  征臣の掌で鈴が揺れた。幼い頃も、こうして彼の手に載せたのだった。 「あの時も、こうして渡しました」  泣いていた男の子の顔を思い出す。うまい慰め方など、私も知らなかった。  征臣が鈴を指先で動かすと、高く小さな音が書斎に広がった。次の瞬間、彼の顔が歪み、椅子が床を擦った。 「征臣さん」  額を押さえ、目を閉じている。  私も椅子から立ち上がりかけ、膝を机へぶつけた。「痛いんですか。やめましょう」鈴へ手を伸ばしたところで、指先を掴まれた。 「待て」  呼吸が落ち着くまで、鈴は二人の間に残った。  雨の温室、青い服の少女、掌へ置かれた銀色。それから、ホテルのロビーで火傷した手を差し出す私――そんな断片が戻ったという。 「全部ではない」  征臣は指を離す。 「君が手を出すまで、俺は触らなかった。それだけは分かる」  胸が熱くなり、すぐに怖くなった。思い出してほしい。でも、目の前で苦しむ顔を見たら、あの手術室の扉が浮かんでしまう。 「無理に続けなくていいです」 「続けたい」  返事が早かった。 「思い出せるなら、途中でやめたくない。君とのことを、自分だけ知らないままなのも嫌だ」  私は鈴へ手を伸ばした。二人の指が同時に触れる。 「そんなに急がないでください。さっき、怖かったんです」  征臣が顔を上げる。 「思い出してほしいです。でも、苦しいのを我慢してまで……」言いかけて、鈴に触れたままの指を引いた。  征臣は鈴を私の掌へ戻した。 「今は、君が部屋にいると落ち着く」  その感情に名前をつける余裕は、まだなかった。 「ここにいます」今度はすぐに答えられた。彼の眉間の皺がゆるむのを見て、ようやく椅子へ座り直した。  少し休んでから、征臣は鈴をもう一度鳴らした。今度は頭痛は起きなかった。目を閉じたまま、ガラ会場で私が手を握り返したこと、港で濡れた髪を気にしていたこと、会議室で「守ると言わないで」と怒ったことを、途切れ途切れに話す。順番は混
last updateLast Updated : 2026-09-24
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第178話 事故現場の青い破片

 事故車の鑑定で、ブレーキホースに人為的な切断跡が見つかった。 運転席の下からは、青い樹脂片が回収されている。榊原財団の旧職員証と同じ素材だった。 警察官が写真を机へ並べる。 樹脂片に残った数字は、四七。 地下書庫の四十七番箱と同じ番号だ。 紗英の職員証は十一。四十七は、宗一郎の秘書へ割り当てられていた。 倉庫の監視映像には、同じ秘書が事故車へ乗り込む姿も残っている。整備工場の防犯カメラには、ブレーキホースを交換する作業員と、その横に立つ秘書。 事故と証拠隠滅が、青い欠片でつながった。 秘書は逮捕され、弁護士を通じて供述した。 車の細工は宗一郎の指示。高城和臣の事故にも同じ整備工場を使った。母の搬送については、白鳥清隆と有馬家の担当者が同意した。 父の名が、今度は他人の口から出た。 聴聞の再開日程を相沢が読み上げる間、征臣は事故現場の写真を見ていた。「あの時、俺は君の名前を呼んだんだな」 頷くと、征臣は事故車の写真を引き寄せた。 私は、窓の割れた後部座席を指した。「ここから、聞こえました」 征臣は目を閉じた。 写真を握る指が緩んだ。何か浮かんだのかと思ったが、目を開けた彼は、小さく首を横に振った。「次の聴聞に出る」 医師は、まだ長時間の外出を勧めていない。「また無理をするんですか」先に強い声が出た。征臣が顔を上げる。「……すみません。でも、あの車を見たので。診察で、ちゃんと確認してください」「医者に止められたら?」「その時は、出ないでください。映像でできないか、聞きましょう」写真の束へ目を落とした。「また病院で待つのは、嫌です」 征臣は予約票をこちらへ押した。「一緒に聞いてくれ」 私は予約票の日付を見た。自分から「一緒に」と言ってくれたことが、少し遅れて胸に沁みた。 私は予約票を受け取った。 青い欠片は、透明袋の中で爪ほどの大きさしかない。その欠片と映像、秘書の供述を合わせて、警察は十年前の事故も調べ直していた。
last updateLast Updated : 2026-09-24
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第179話 もう一度、君を選ぶ

 聴聞再開の前日、榊原財団が記者会見を開いた。 宗一郎の職務停止を発表する一方で、事故への関与は否定した。紗英については、機密情報を持ち出した元役員として法的措置を検討するとしている。 財団の会見後、別会場で取材を受けた征臣には、事故の捜査に続いて私生活への質問が向けられた。「白鳥澪さんとは婚約を解消されたと伺っています。今後、榊原紗英さんとの関係を選び直す可能性は?」 鷹宮邸の会議室で中継を見ていた私は、画面を消そうとした。 隣の彩花さんが止めるより先に、征臣の映像が映る。 退院後、初めて公の場へ出ていた。「事故前一年の記憶は、全部は戻っていません」 記者たちが端末を構える。「榊原紗英さんとの縁談は、以前の私が断っています。事故後に示された書簡は捜査へ提出しました」「白鳥澪さんについては?」 短い間があった。「澪は、事故前の俺を持ち出して返事を迫ったことはありません」 会場が静まる。「事故前の俺が何を言ったかだけで、今の関係を決めるつもりもない」 息を継ぎ、カメラを見る。「今の俺は、澪の隣にいたい」「結婚を発表されるということですか」 征臣の眉がわずかに寄る。「それを今ここで言ったら、あとで澪に怒られる」 笑いは起きなかった。彼自身も笑っていない。「明日の聴聞へ、一緒に出ます。今言えるのはそれだけです」 中継が終わるまで、私は画面を消せなかった。 会見から戻った征臣は、まっすぐ会議室へ来た。「先に話してしまったな。どうしても、あの場で言っておきたかった」「驚きました」「嫌だったか」 首を横に振った。「嬉しかったです。私も、あなたの隣にいたい」 征臣が近づく。私が手を伸ばすと、そのまま抱き寄せられた。 胸へ頬を寄せた途端、涙が落ちた。シャツを濡らすのが嫌で顔を離そうとすると、背中の腕が緩む。「違うんです。離れたいんじゃなくて」言葉が乱れた。「ずっと、こうしたかった」征臣は私の顔を見てから、もう一度ゆっくり抱
last updateLast Updated : 2026-09-25
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第180話 代用品の腕

 再開された聴聞の冒頭で、前回中断直前の映像が再生された。「有馬家なら、そういうの、通せるって」――莉々花自身の声が、もう一度会場へ流れる。榊原宗一郎は白鳥家とは離れた席で、表情を変えずに聞いていた。 映像の中で、莉々花が口をつぐむ。 私の前に座っている莉々花も、同じところで唇を結んだ。 再生が止まってからも、さっきの声が耳に残った。 私はまぶたを落とした。 この人は、こうして何でも掴んできたのだと思った。母の部屋。指輪。婚約者。初恋の記憶。誰かの家の名前。誰かの会社の力。 掴んだものの重さは、考えない。 重ければ、可哀想な声を出せばいい。 悠真がゆっくり立った。「莉々花」 名前の呼び方だけは、まだ優しかった。莉々花が顔を上げる。けれど、悠真は手を差し伸べなかった。「君は、知っていたのか」「違うの」「何が」 悠真の声が、初めて柔らかくなかった。 莉々花は唇を開けたまま、征臣の方を見る。 助けて、と言う目だった。 征臣は何も言わない。 代わりに、久我山が淡々と告げる。「莉々花氏。発言は残ります」 莉々花の目が揺れた。「そんな、私、ただ……お姉様ばかり、いつも全部持っているから」 私は顔を上げた。 全部。 その言葉が、どうしても可笑しくなりそうだった。 母の部屋を奪われた夜。指輪を渡せと言われた夜。前の聴聞で、父に娘ではないと言われた時。 それでも、彼女には私が全部持っているように見えるらしい。「莉々花さん」 声が低く出た。「私が持っていたものを、あなたが欲しがっただけです」 莉々花の顔が歪む。 悠真が、自分の腕を見下ろした。 婚約披露の日、莉々花が掴んでいた腕。 袖に目を落としたまま、悠真は腕を引き寄せた。隣の莉々花を見ようとしない。 今は、誰も掴んでいない。 久我山が次の資料を手に取った。 莉々花
last updateLast Updated : 2026-09-25
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