All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 51 - Chapter 58

58 Chapters

第51話 知らなかったという言い訳

 名前を呼ばれても、昔みたいに胸は動かなかった。 ただ、少し疲れた。「君なら分かってくれると思った。白鳥家も、有馬家も、いま崩れるわけにはいかない。莉々花はまだ若いし、不安定で」「私も、二十二歳でした」 悠真の口が閉じた。「母の部屋を壊されて、婚約者を妹に譲れと言われて、私が母の遺産を盗んだとまで書かれました。私なら、何をされても平気だと思ったんですか」「そういう意味じゃ」「だったら、どういう意味ですか」 会議室の空調が、低く鳴っている。 悠真は答えなかった。征臣も口を挟まなかった。 私はバッグから、新聞社の出資資料を出した。莉々花と瀬里奈と悠真の名前に、細い付箋が貼ってある。「知らなかったという言葉を、あと何回使うつもりですか」 悠真の視線が、付箋の一つで止まった。 莉々花の名前だ。 紙の上で、彼の指先が初めて震えた。「莉々花さんが、情報提供者?」 悠真の声は、思っていたより小さかった。 否定でも、怒りでもない。手に持っていたものを落としかけた人の声だった。「まだ候補です。決めつけません。残っているものを確かめます」 そう言いながら、紙を一枚めくる。 候補、という言葉は便利だ。責任をぼかすのに使える。だから、私はその便利さに逃げないよう、資料の端を指で押さえた。「ただ、記事に出た母の遺品名を知っていた人は限られます。白鳥家の中でも、母の部屋に出入りできた人」「莉々花は……」 悠真は何かを言おうとして、視線を落とした。「彼女は、君と仲直りしたがっていただけだ。少なくとも、僕にはそう言っていた」「悠真さん」「本当だ。少なくとも、僕にはそう言っていた」「あなたには、見たいように見せていたんですね」 返した瞬間、悠真の顔から血の気が少し引いた。 可哀想だとは思わなかった。けれど、痛くないわけでもない。私が何年も見なかったものを、彼もいま初めて見ている。 莉々花の泣き顔には、いつも決まっ
last updateLast Updated : 2026-07-23
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第52話 莉々花を見る目

 その顔が好きだった時期もある。 でも今は、もう整えない。「澪、君は変わったな」「いいえ」 水のグラスを、かすかに向こうへ押した。「今まで黙っていた分を、口に出しているだけです。あなたが見ていなかっただけで」 悠真の視線が、私の左手で止まった。手袋の端から、包帯の白が少し見えている。「その手」 咄嗟に袖を引いた。 征臣が、斜め後ろで椅子を引く音がした。立ったわけではない。ただ、空気だけが低く変わる。 悠真もそれに気づいたらしい。背筋を少し伸ばした。「……莉々花が、君は大げさだって言っていた。僕も、その言葉に甘えた」 今度は、私ではなく征臣の手が止まった。空気が低く沈む。悠真はその沈黙に気づき、言ってはいけないことを言った顔になった。「今の、莉々花さんの言葉ですか。それとも、あなた自身の言葉ですか」「……分からない」 悠真は自分の指を見た。婚約指輪を選んだ時、莉々花が見せた涙を思い出しているのかもしれない。「僕を見て泣いたことなんて、一度もなかった気がする」 情けない声だった。私へ向ける謝罪でも、莉々花への怒りでもない。自分が選ばれた男ではなかったと、ようやく認めかけた男の声。「それを、今ここで私に慰めてもらいたいんですか。私を見なかった人が」 悠真の顔が歪んだ。けれど反論は出てこなかった。 会議室を出るころには、袖口が汗で少し湿っていた。 悠真の最後の言葉は、まだ耳に残っている。莉々花が、私の火傷を大げさだと言った。そう聞いた瞬間、痛みそのものより、あの子が母の帳簿を燃やしかけた夜を、どんな顔で話したのかを考えてしまった。 廊下の窓に、自分の姿が薄く映る。 青い手袋は上品で、遠目には傷なんて見えない。けれど、手袋の下では、包帯が少しずれている。白い布の端が、肌に擦れていた。「車を回す」 征臣が短く言った。その短さの奥で、止めたい言葉を一つ飲み込んだのが分かった。「大丈夫です」 征臣は返事
last updateLast Updated : 2026-07-23
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第53話 火傷を隠す袖

「秘書に持たせている」 征臣はそう答えてから、私の袖口へ視線を落とした。「ただ、隠されると、何もできない」 責められたように聞こえて、指先に力が入った。 征臣も自分の声に気づいたらしい。すぐに目をそらす。「今のは、悪かった」「……責められたようには、聞こえました」「そうだな」 言い訳はしなかった。 それで気持ちがほどけるわけではない。けれど、私も反射的に大丈夫だと言って終わらせる気にはなれなかった。 白鳥家では、痛いと言えば大げさだと笑われ、黙っていれば後から面倒を増やしたと責められた。どちらを選んでも、最後には私の落ち度になる。だから、傷を見せる前に隠す癖だけが残った。 征臣は秘書から黒いケースを受け取り、ロビーの隅にあるサイドテーブルへ置いた。「ここに置く。使うかどうかは、君が決めてくれ」 蓋に手をかけることもなく、一歩下がる。 近づかないことまで、わざわざ見せつけるような態度ではなかった。ただ、私が動くのを待つための距離だった。 袖の下で、包帯が肌に擦れた。 傷を見られるのが嫌なのではない。傷を見つけた人に、かわいそうだとか、守らなければならないとか、私の知らないところで意味を決められるのが嫌だった。 征臣がそうする人ではないと、頭では分かり始めている。それでも、身体はまだ白鳥家にいた頃の順番で動く。 それでも、火傷は放っておけない。今さら癖を変えられるかは分からない。それでも、任せる前に自分で選びたかった。 私は黒いケースを自分の方へ引き寄せた。 留め具を外すと、絆創膏、軟膏、消毒綿、包帯、小さなはさみが隙間なく収まっていた。ホテルのロビーで開くには、妙に本格的だ。「本当に持ち歩いていたんですね」「使うのは今日が初めてだ」「それは、よかったと言うべきですか」「たぶん違う」 思わず、息がわずかに漏れた。 征臣は笑わなかったが、張りつめていた眉間がほんの少し緩んだ。 私は手袋の縁に指をかけた。 青い
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第54話 薬箱だけが置かれる

 白いカーテンが、視界の端で揺れた気がした。 金属のベッド柵。薄い掛け布団。窓際の花瓶。父が入ってくるたび、母ではなく腕時計を見ていた横顔。まとまりのない光景が、匂いに引かれて一度に浮かんだ。 ここはホテルのロビーだ。母の病室ではない。そう分かっているのに、息の吸い方が分からなくなる。「澪」 征臣の声が遠く聞こえた。「息をしてくれ」 言われて初めて、呼吸を止めていたことに気づいた。 短く息を吸う。アルコールの匂いが喉へ入り、胸がさらに狭くなった。「顔色が悪い」「この匂い……母の病室に似ていて」「消毒液か」「同じものかは、分かりません」 征臣は近づかなかった。 代わりに、テーブルに置かれた水のグラスを指先でこちらへ寄せた。手を伸ばせば届く場所で止める。「医師を呼ぶか」「呼ばないでください」 答えが強くなり、私は唇を閉じた。 征臣は表情を変えずに頷いた。「分かった」 それだけだった。 なぜ嫌なのか、説明を求められないことに安堵した。病院が怖いのか、知らない人に触れられたくないのか、自分でもまだ分からない。今すぐ答えを決められる方が苦しかった。 水を一口飲むと、ようやく喉が動いた。「鷹宮さんは、待つのが得意なんですか」「いや」「そうは見えません」「今すぐ手当てを代わりたいとは思っている」 素直すぎる返事に、思わず彼を見た。 征臣は薬箱ではなく、私の顔を見ていた。けれど、こちらへ来る気配はない。「今は、そのままでいてください」「分かった」 私は軟膏を取り出した。 片手で蓋を回そうとしたが、指が滑る。小さな蓋がテーブルに落ち、床へ転がりかけた。 征臣の手が動く。 けれど、途中で止まった。 私が拾うのを待っている。 ありがたいはずなのに、うまく動かないところを見られるのは情けなかった。傷口が引きつり、蓋を掴むまでに二度失敗した。
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第55話 手を差し出すまで

 征臣はすぐには触れなかった。 向かいの椅子を引き、薬箱を自分の側へ寄せる。金具の触れ合う音が、やけに大きく聞こえた。 私は差し出した手を引きたくなり、膝の上の左手でスカートをつまんだ。 消毒綿の袋が開く。 冷たい綿が傷へ触れた途端、指先が跳ねた。「痛いか」「少しだけ」 征臣の手が止まる。「そのままで。……止めないでください」 征臣は返事をせず、触れる力だけをさらに軽くした。 包帯を外した傷は、赤黒く細い線を残していた。大げさに騒ぐほどではない。けれど、触れられるたびに、暖炉の熱と焦げた紙の匂いが戻る。 征臣の親指が、私の手首へ近づきかけて止まった。さっき伝えたわけでもないのに、そこには触れない。私が手を引かなかったことを確認してから、傷の周りだけを拭いていく。 礼を言おうとして、やめた。今ここで必要なのは、彼の行動を褒めることではない気がした。 その慎重さが、かえって落ち着かない。「そんなにゆっくりでなくても」「急いで痛ませる理由はない」 返し方は相変わらず愛想がない。それが少しおかしくて、張りつめていた指から力が抜けた。 征臣は私が笑った理由を聞かなかった。 包帯を巻く間、二人とも黙っていた。ロビーを行き交う人の靴音だけが聞こえる。沈黙は気まずかったが、何か正しい言葉を言わなければならない空気よりは楽だった。聞かれないまま、消毒綿の冷たさだけを感じていられる。白鳥家では、傷を見せれば誰かが勝手に大きな意味をつけた。可哀想な娘。面倒な娘。家の恥。 征臣は傷だけを見ている。 それでも、薬の匂いが鼻先をかすめた瞬間、別の景色が開いた。 母の病室。白いカーテン。窓際の花。看護師ではない誰かが、枕元で小さな薬袋を開けていた。 息が止まる。「澪」 呼ばれて、浅く吸った。「その薬……」「軟膏か」「違います。似ているだけかもしれないけど」 征臣は消毒綿を傷から離した。「どこで
last updateLast Updated : 2026-07-25
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第56話 匂いの記憶

 秘書が持ってきた封筒は、角が少し擦れていた。 母の死亡診断書の写し。 私は巻き直された包帯で封を押さえ、左手で中身を抜いた。「ここ」 余白に薄い鉛筆の跡がある。消されていたが、末尾の数文字だけ残っていた。 さっき嗅いだ薬の名前までは分からない。それでも、病院の正式な記載とは違うことは分かった。「母は、本当に病気だけで亡くなったんでしょうか」 征臣は紙を覗き込まなかった。「調べてみよう」「結果は、私にも見せてください」 征臣は診断書の写しを閉じず、私の前へ戻した。 短い返事に、胸の奥の硬さが少し緩んだ。 数日後、白鳥家と親しい夫人たちの茶会へ出席した。表向きは慈善ガラの反省会。ホテルラウンジの奥には白い花が並び、テーブルにはスパークリングワインが用意されている。 征臣は同席していない。私が断ったからだ。莉々花が私を一人だと思って何をするのか、見ておきたかった。 ただし、本当に一人で来たわけではない。ホテルの責任者には席と時刻を知らせ、ラウンジの映像を消さないよう依頼した。飲み物には口をつけない。異変があれば隣室の警備担当と提携医へ連絡する。征臣には、その条件ならと渋い顔で折れてもらった。 以前の私なら、そこまで準備する自分を疑ったと思う。妹を信じられない冷たい姉なのではないか、と。 今は、疑うことと断定することを分けて考えられる。母の診断書を見たあとでは、何も起こらないことへ期待するだけでは済まなかった。私が警戒を解けば、莉々花は安心する。その安心の中で、また誰かの言葉や持ち物が消える。 私はバッグの中の小さな保管袋へ触れた。診断書の写しも入っている。紙一枚で母の死を決めつけるつもりはない。けれど、目の前の違和感をまた家族の言葉で消されるつもりもなかった。薬箱に入っていた袋を一枚、持ってきている。使わずに終わるなら、それがいちばんいい。「お姉様、飲まれないんですか?」 莉々花が小首を傾げた。「あとで飲むわ」 私の前のグラスだけが、指一本分ほど右へずれている。脚の下には、置かれたばかりにしては広すぎる水滴の輪があっ
last updateLast Updated : 2026-07-25
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第57話 グラスの位置

「でしたら、私がいただきますわ。疑われたままでは莉々花さんもお気の毒ですもの」  夫人の指がグラスに近づいた瞬間、体の奥が冷えた。疑いを晴らすために誰かが飲む。そんな形で終わらせれば、また本当に見なければならないものだけが消える。  口の中が乾いた。けれど水に手を伸ばせば、目の前の話から逃げたみたいになる。私は唇を湿らせるだけで、冷めたカップから目を離さなかった。  止める声より先に、泡がグラスの中で大きく弾けた。 「待ってください」  声は、思ったより低く出た。  夫人の手が止まる。グラスの縁は、まだ唇に触れていない。泡だけが細く弾けて、甘い匂いがこちらへ流れてきた。  莉々花が小さく笑う。 「お姉様、そこまでなさると失礼ですよ。せっかく皆さまが」 「失礼で済むなら、あとで謝ります」  私は夫人の手元を見た。グラスの脚。右にずれていた位置。底についた水滴の輪。 「そのグラスは、私の前に置かれていたものです」 「それが何だと言うの」  瀬里奈が柔らかく口を挟んだ。声だけは優しい。けれど、扇子を持つ指が少し硬い。 「澪さん。人前で騒ぐ癖は、そろそろ直しましょうね」 「私はまだ、声も上げていません」  テーブルの空気が薄くなる。  征臣はいない。今日、彼を同席させなかったのは私だ。莉々花が私を一人で来たと思うなら、その油断も見ておきたかった。  でも、一人ではない。  私はバッグから小さな透明袋を出した。薬箱の中に入っていた予備の保管袋。使うかどうか迷って、持ってきていたものだった。 「そのグラスには触れないでください。念のため、ホテル側に調べてもらいます」  夫人の顔から色が引いた。 「何か入っているとでも?」 「まだ分かりません。だから、調べます」  分かりません、と言うのは怖い。言い切るより、ずっと心もとない。でも、分からないものを分かったふりで飲む方が怖い。  莉々花が椅子を引いた。 「ひどい。私が何かしたって言いたいんですか」 「言っていません」 「言ってるのと同じです」
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第58話 薬剤名の余白

 ホテルスタッフの確認票には、まだ薬剤名はなかった。 異臭あり。簡易試験で鎮静作用を持つ成分の反応。ただし、正式鑑定までは断定不可。 慎重な言葉ばかりだった。それでも、母の診断書の余白に残った略号と、最初の二文字が重なって見えた。 似ているだけかもしれない。だからこそ、今ここで犯人も薬剤名も決めつけてはいけない。紙に残った不完全な文字を、私は診断ではなく照合すべき手掛かりとして見た。「……白鳥さん?」 グラスを持ちかけていた夫人が、椅子に座り直した。膝の上に置いた手が、小刻みに動いている。さっきまで私を諭す側にいた人の視線が、今はグラスの縁から離れない。「この名前に、心当たりがおありですか」 ホテルスタッフに聞かれ、私はすぐには答えなかった。 言えば、母の死をこの場に出すことになる。言わなければ、グラスの中身はただの疑いで終わる。 莉々花は泣いていた。ハンカチを目元に当てて、肩を震わせている。けれど、袖口だけはテーブルの下へ隠したままだった。「お姉様、怖いです。そんな紙を出して、私を犯人みたいに」「犯人とは言っていません」「でも、そう見せたいんでしょう」 声の震えが、少し早い。 私は診断書の写しをテーブルに置いた。余白の文字が、照明の下で薄く浮く。母の名前が人前にさらされるのが嫌で、左手でそっと隠した。「この名前は、母の診断書の余白にありました」 夫人たちの表情が変わった。 さっきまで私を責めるために整えられていた視線が、一斉に紙へ落ちる。 瀬里奈だけが笑っていた。「偶然でしょう。澪さん、お母様のことで過敏になっているのね」「偶然なら、調べて終わりです」「調べる?」「グラスと、莉々花さんの袖口と、会場の映像を」 莉々花の涙が止まった。 一瞬。目元を押さえていたハンカチの下で、息だけが止まる。 夫人の一人が、そっとスマートフォンを伏せた。録音していたのかもしれないし、誰かに送ろうとしていたのかもしれない。画面の光が消えるだけで、さっきまでの
last updateLast Updated : 2026-07-26
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