Alle Kapitel von 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Kapitel 51 – Kapitel 60

154 Kapitel

第51話 知らなかったという言い訳

 名前を呼ばれても、昔みたいに胸は動かなかった。  ただ、少し疲れた。 「君なら分かってくれると思った。白鳥家も、有馬家も、今崩すわけにはいかない。莉々花はまだ若くて、不安定で……」 「私も、二十二歳でした」  悠真の口が閉じた。 「私が黙っていれば、あれも全部『仕方なかった』で済んだんですか」  返事はなかった。 「そういう意味で言ったんじゃない」 「じゃあ、何だったんですか」  会議室の空調が、低く鳴っている。  悠真は答えなかった。征臣も口を挟まなかった。  私はバッグから、新聞社の出資資料を出した。莉々花と瀬里奈と悠真の名前に、細い付箋が貼ってある。 「……また『知らなかった』ですか」  悠真の視線が、付箋の一つで止まった。  莉々花の名前だ。  紙の上で、彼の指が初めて震えた。 「莉々花さんが、情報提供者?」  悠真の声は、思っていたより小さかった。  否定でも、怒りでもない。手に持っていたものを落としかけた人の声だった。 「まだ決まってません。だから、残っているものを確かめます」  そう言いながら、紙を一枚めくる。  候補、という言葉は便利だ。責任をぼかすのに使える。だから、私はその便利さに逃げないよう、資料の端を指で押さえた。 「ただ、記事に出た母の遺品名を知っていた人は限られます。白鳥家の中でも、母の部屋に出入りできた人」 「莉々花は……」  悠真は何かを言おうとして、視線を落とした。 「彼女は、君と仲直りしたがっていただけだ。そう聞いていた」 「悠真さん」 「本当なんだ。僕には……そう言ってた」 「あなたの前では、ずっとそうだったんですね」  返した瞬間、悠真の顔から血の気が少し引いた。  可哀想だとは思わなかった。けれど、痛くないわけでもない。私が何年も見なかったものを、彼もいま初めて見ている。  莉々花の泣き顔には、いつも決まった角度がある。  袖を掴む強さを知っている。  誰の前で、どの声を出せばいいかを知っている。  知らないふりをしていたのは、私だけではなかったらしい。 「澪、僕は」 「今は謝らないでください。先に記事を止めて」 「止める。……必ず止める」 「記事だけじゃないです」  悠真が顔を上げた。  私は画面の〈有馬関係者〉を指で示した。 「誰が言った
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-23
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第52話 莉々花を見る目

 その顔が好きだった時期もある。 「澪、君は変わったな」  水のグラスを、かすかに向こうへ押した。 「……そうですか」 「前は、こんな言い方しなかった」 「言わなかっただけです」  悠真の視線が、私の右手で止まった。手袋の端から、包帯の白が少し見えている。 「その手」  咄嗟に袖を引いた。  征臣が斜め後ろで椅子を引く音がした。立ち上がりかけたのかと思ったが、そこから音は続かなかった。  悠真もそれに気づいたらしい。背筋を少し伸ばした。 「……莉々花が、君は大げさだって言っていた。僕も、その言葉に甘えた」  今度は、私ではなく征臣の手が止まった。空気が低く沈む。悠真はその沈黙に気づき、言ってはいけないことを言った顔になった。 「今の、莉々花さんの言葉ですか。それとも、あなた自身の言葉ですか」 「……もう、自分でも分からない」  悠真は自分の指を見た。婚約指輪を選んだ時、莉々花が見せた涙を思い出しているのかもしれない。 「僕を見て泣いたことなんて、一度もなかった気がする」  情けない声だった。私へ向ける謝罪でも、莉々花への怒りでもない。自分が選ばれた男ではなかったと、ようやく認めかけた男の声。 「それを、今ここで私に慰めてもらいたいんですか。私を見なかった人が」  悠真の顔が歪んだ。けれど反論は出てこなかった。  会議室を出るころには、袖口が汗で少し湿っていた。  悠真の最後の言葉は、まだ耳に残っている。莉々花が、私の火傷を大げさだと言った。そう聞いた瞬間、痛みそのものより、あの子が母の帳簿を燃やしかけた夜を、どんな顔で話したのかを考えてしまった。  廊下の窓に、自分の姿が薄く映る。  青い手袋は上品で、遠目には傷なんて見えない。けれど、手袋の下では、包帯が少しずれている。白い布の端が、肌に擦れていた。 「車を回す」  征臣が短く言った。その短さの奥で、止めたい言葉を一つ飲み込んだのが分かった。 「今は、歩けます」  征臣は返事をせず、廊下の先を見た。 「……信用していませんね」 「無理をしている気がして、心配なんだ」  声は低かった。  私は歩く速度を落とさなかった。足音がホテルの廊下に細く響く。大理石の床はきれいすぎて、逃げる足まで映しそうだった。 「澪」 「手当てなら、鷹宮邸に戻ってからします」
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-23
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第53話 火傷を隠す袖

「また痛み出した時に困ると思って、秘書に持ってもらっている」  征臣はそう言って、私の袖口を見た。 「痛いなら、言ってくれ。……隠されると、俺には分からない」  胸の奥が硬くなる。  彼も気づいたらしい。わずかに目を伏せた。 「……言い方が悪かった」  私は返事をせず、袖をつまんだ。  白鳥家では、痛いと言えば大げさだと笑われた。黙っていれば、どうして早く言わなかったと責められた。どちらにしても、最後には私の落ち度になる。  征臣は秘書から黒いケースを受け取り、ロビーの隅のテーブルへ置いた。  悠真との面会を終えたばかりのロビーには、昼の客がまだ残っている。  さっきまで向かいに座っていた男は、最後まで「知らなかった」と繰り返した。莉々花が私の火傷を大げさだと言っていたことまで、悪気なく口にした。その言葉が、ずれた包帯よりも後から痛んでいる。  ここで平気な顔を続ければ、また自分だけが傷を見落とす。  私は袖口を一度握り、離した。痛いと言うだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。征臣は何も促さず、薬箱の留め具へも触れない。そう分かっていても、袖を上げる動作は重かった。遠くで食器の触れ合う音がし、磨かれた床へ人影が流れていた。ここで包帯を外せば、誰かに見られるかもしれない。そんなことまで気にする自分に、少し疲れた。  征臣は人通りの少ない柱の陰を選んでいた。私が何も言わないうちに場所を変えたことへ反発しかけ、今回は助かったとも思う。二つの気持ちが同時にある。 「ここなら、人目につかない。薬箱を置いておく」  それだけ言って、一歩下がる。  使えとも、見せろとも言わない。彼の視線は私の手元から外れていた。  包帯の端が肌に擦れ、じくりと痛んだ。  私はケースを引き寄せた。留め具を外すと、消毒綿、軟膏、包帯、小さなはさみまで隙間なく入っている。 「ずいぶん本格的ですね」 「山崎が選んだ」 「鷹宮さんではなく?」 「俺が選ぶと、中身がもっと増える」  押さえていた息が漏れた。  手袋を外す。包帯の端に赤い滲みがあった。母の帳簿を火の中から掴んだ夜の熱が、そこだけ残っているように見える。  征臣の手が、消毒綿へ伸びかける。  私は薬箱を手前へ引いた。 「あ……自分でやります」  彼の手が止まった。  征臣は手を引
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-24
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第54話 薬箱だけが置かれる

 白いカーテンが、視界の端で揺れた。  金属のベッド柵。薄い掛け布団。窓際の花瓶。父が病室へ入るたび、母ではなく腕時計を見ていた横顔。  ここはホテルのロビーだ。  分かっているのに、息が入ってこない。 「澪」  遠くで征臣が呼んだ。  テーブルの上を、グラスがゆっくり滑る。彼が指で押し、私の前まで寄せて止めた。  手を握られるより、その動きの方が今はありがたかった。触れられれば振り払ったかもしれない。けれど、放っておかれたら、それはそれで怖かった。  視界の端で、征臣の指が一度カフスへ触れる。何か言おうとしてやめた時の癖だと、いつの間にか覚えていた。 「水を飲めそうか」  短い言葉だった。  グラスを持つと、縁が歯に当たった。一口飲み込むまでに時間がかかる。  ロビーの照明は暖かい色をしているのに、記憶の中では病室の白さばかりが広がった。母の呼吸は浅く、ベッドの横には触れてはいけないと言われた薬が並んでいた。子どもの私には、どれが必要で、どれが不自然なのか判断できなかった。  ただ、瀬里奈さんが来た日は、いつもより甘い匂いがした。  子どもの私は香水だと思っていた。今、消毒綿の奥から似た甘さが立つ。勘違いかもしれない。そう思っても、病室の白いカーテンまで一緒に浮かんだ。 「この匂い……母の病室に似ています」 「消毒液か」 「たぶん。でも、少し違うような」  征臣は薬箱のそばに立ったまま動かなかった。 「医者に診てもらわないか」 「呼ばないでください」  強い声が出た。  彼は一度だけ頷いた。  そのまま離れもしない。近づきもしない。私が次に何をするか分からないまま、そこにいる。待たれていることに慣れていないせいで、その沈黙まで落ち着かなかった。  説明を求められないことに、肩の力が少し抜ける。病院が怖いのか、知らない人に触れられたくないのか、自分でもまだ分からなかった。  軟膏を取り出し、片手で蓋を回す。指が滑り、小さな蓋がテーブルを転がった。  征臣の手が動き、途中で止まる。 「蓋を取るよ。手を少しずらせるか」  私は蓋から手を離した。  彼はそれを拾い、私の手元には戻さず、テーブルの端へ置いた。  傷へ軟膏を塗ろうとする。だが、利き手を傷めているせいで、狙った場所に指が届かない。包帯の端だけがまた汚れ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-24
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第55話 手を差し出すまで

 征臣はすぐには触れなかった。  向かいの椅子を引き、薬箱を自分の側へ寄せる。金具の触れ合う音が、やけに大きく聞こえた。  私は差し出した手を引きたくなり、膝の上の左手でスカートをつまんだ。  消毒綿の袋が開く。  冷たい綿が傷へ触れた途端、指先が跳ねた。 「痛いか」 「少しだけ」  征臣の手が止まる。 「そのままで。……止めないでください」  征臣は返事をせず、触れる力だけをさらに軽くした。  包帯を外した傷は、赤黒く細い線を残していた。大げさに騒ぐほどではない。けれど、触れられるたびに、暖炉の熱と焦げた紙の匂いが戻る。  征臣の親指が、私の手首へ近づきかけて止まった。さっき伝えたわけでもないのに、そこには触れない。私が手を引かなかったことを確認してから、傷の周りだけを拭いていく。 「ありがとうございます」  小さく言うと、征臣の目が一度だけ上がった。  傷を見られるのは怖い。それでも、この人に手当てしてもらいたくて差し出したのだと、彼の指を見ながら思った。 「そんなにゆっくりでなくても」 「急ぐと痛いだろう。俺にも、慣れる時間をくれ」  手元を見つめる顔は真剣だった。少しおかしくて、張りつめていた指から力が抜けた。  征臣は私が笑った理由を聞かなかった。  包帯を巻く間、二人とも黙っていた。ロビーを行き交う人の靴音だけが聞こえる。沈黙は気まずかったが、何か正しい言葉を言わなければならない空気よりは楽だった。聞かれないまま、消毒綿の冷たさだけを感じていられる。白鳥家では、傷を見せれば誰かが勝手に大きな意味をつけた。可哀想な娘。面倒な娘。家の恥。  征臣は傷だけを見ている。  それでも、薬の匂いが鼻先をかすめた瞬間、別の景色が開いた。  母の病室。白いカーテン。窓際の花。看護師ではない誰かが、枕元で小さな薬袋を開けていた。  息が止まる。 「澪」  呼ばれて、浅く吸った。 「その薬……」 「軟膏か」 「違います。似ているだけかもしれないけど」  征臣は消毒綿を傷から離した。 「その匂いを、どこで嗅いだか覚えているか」 「母の病室です。亡くなる少し前に」  声にすると、記憶がもう少し近づいた。  白い紙袋には病院名がなかった。母は眠っていた。瀬里奈さんが入ってきたあと、袋は消えていた。  私は包帯を巻
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-25
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第56話 匂いの記憶

 秘書が持ってきた封筒は、角が少し擦れていた。  母の死亡診断書の写し。  私は巻き直された包帯で封を押さえ、左手で中身を抜いた。 「ここ」  余白に薄い鉛筆の跡がある。消されていたが、末尾の数文字だけ残っていた。  さっき嗅いだ薬の名前までは分からない。それでも、病院の正式な記載とは違うことは分かった。 「母は、本当に病気だけで亡くなったんでしょうか」  征臣は紙を覗き込まなかった。 「俺も確かめたい。何があったのか、一緒に調べよう」 「結果は、私にも見せてください」  征臣は診断書の写しを閉じず、私の前へ戻した。  短い返事に、胸の奥の硬さが少し緩んだ。  数日後、白鳥家と親しい夫人たちの茶会へ出席した。表向きは慈善ガラの反省会。ホテルラウンジの奥には白い花が並び、テーブルにはスパークリングワインが用意されている。  征臣は同席していない。私が断ったからだ。莉々花が私を一人だと思って何をするのか、見ておきたかった。  本当に一人で来たわけではない。ホテル責任者には席と時刻を伝え、映像を残すよう頼んだ。飲み物には口をつけない。隣室には警備担当と提携医がいる。征臣は最後まで渋い顔をしていた。  以前なら、こんな準備をする自分の方を疑ったかもしれない。  けれど診断書を見た後では、グラスに口をつける気になれなかった。警備担当の名刺をバッグの内ポケットへ押し込み、席へ向かった。  私はバッグの中の小さな保管袋へ触れた。診断書の写しも入っている。紙一枚で母の死を決めつけるつもりはない。けれど、目の前の違和感をまた家族の言葉で消されるつもりもなかった。薬箱に入っていた袋を一枚、持ってきている。使わずに終わるなら、それがいちばんいい。 「お姉様、飲まれないんですか?」  莉々花が小首を傾げた。 「あとで飲むわ」  私の前のグラスだけが、指一本分ほど右へずれている。脚の下には、置かれたばかりにしては広すぎる水滴の輪があった。  瀬里奈さんは少し離れた席で微笑んでいた。私がグラスへ手を伸ばさないことに気づいているはずなのに、勧めも止めもしない。その静けさが、莉々花の甘い声より不気味だった。  莉々花の白い袖口が揺れる。手首の内側が、かすかに濡れていた。  甘い匂いがする。  花でも、酒でもない。薬箱を開けた時、病室の記憶を連れてき
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-25
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第57話 グラスの位置

 疑いを晴らすために誰かが飲む。そんな形で終わらせれば、また本当に見なければならないものだけが消える。  口の中が乾いた。けれど水に手を伸ばせば、目の前の話から逃げたみたいになる。私は唇を湿らせるだけで、冷めたカップから目を離さなかった。  止める声より先に、泡がグラスの中で大きく弾けた。 「待ってください」  声が低く落ちた。  夫人の手が止まる。グラスの縁は、まだ唇に触れていない。泡だけが細く弾けて、甘い匂いがこちらへ流れてきた。  莉々花が小さく笑う。 「お姉様、そこまでなさると失礼ですよ。せっかく皆さまが」 「失礼で済むなら、あとで謝ります」  私は夫人の手元を見た。グラスの脚。右にずれていた位置。底についた水滴の輪。 「そのグラスは、私の前に置かれていたものです」 「それが何だと言うの」  瀬里奈が柔らかく口を挟んだ。声だけは優しい。けれど、扇子を持つ指が少し硬い。 「澪さん。人前で騒ぐ癖は、そろそろ直しましょうね」 「私はまだ、声も上げていません」  テーブルの空気が薄くなる。  征臣はいない。今日、彼を同席させなかったのは私だ。莉々花が私を一人で来たと思うなら、その油断も見ておきたかった。  でも、一人ではない。  私はバッグから小さな透明袋を出した。薬箱の中に入っていた予備の保管袋。使うかどうか迷って、持ってきていたものだった。 「そのグラスには触れないでください。念のため、ホテル側に調べてもらいます」  夫人の顔から色が引いた。 「何か入っているとでも?」 「まだ分かりません。だから、調べます」  分かりません、と言うのは怖い。言い切るより、ずっと心もとない。でも、分からないものを分かったふりで飲む方が怖い。  莉々花が椅子を引いた。 「ひどい。私が何かしたって言いたいんですか」 「言っていません」 「言ってるのと同じです」  涙が早い。早すぎる。  私は彼女の袖口を見た。白いレースの内側。湿った跡はもう乾きかけている。けれど、匂いは残っている。甘さの奥に、舌の付け根がしびれるような苦さ。 「その袖口、見せてください」 「嫌です」  莉々花は即答した。  周囲がざわつく。瀬里奈が立ち上がりかけた瞬間、ホテルスタッフが近づいてきた。私が席に着く前に、控えめに頼んでおいた人だ。 「お客
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-26
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第58話 薬剤名の余白

 慎重な確認票の横で、母の診断書に残った略号だけが気になった。  最初の二文字が、簡易試験の記載と重なって見える。  似ているだけかもしれない。だからこそ、今ここで犯人も薬剤名も決めつけてはいけない。紙に残った不完全な文字を、私は診断ではなく照合すべき手掛かりとして見た。 「……白鳥さん?」  グラスを持ちかけていた夫人が、椅子に座り直した。膝の上に置いた手が、小刻みに動いている。さっきまで私を諭す側にいた人の視線が、今はグラスの縁から離れない。 「この名前に、心当たりがおありですか」  ホテルスタッフに聞かれ、私はすぐには答えなかった。  言えば、母の死をこの場に出すことになる。言わなければ、グラスの中身はただの疑いで終わる。  莉々花は泣いていた。ハンカチを目元に当てて、肩を震わせている。けれど、袖口だけはテーブルの下へ隠したままだった。 「お姉様、怖いです。そんな紙を出して、私を犯人みたいに」 「犯人とは言っていません」 「でも、そう見せたいんでしょう」  声の震えが、少し早い。  私は診断書の写しをテーブルに置いた。余白の文字が、照明の下で薄く浮く。母の名前が人前にさらされるのが嫌で、左手でそっと隠した。 「この名前は、母の診断書の余白にありました」  夫人たちの表情が変わった。  さっきまで私を責めるために整えられていた視線が、一斉に紙へ落ちる。  瀬里奈だけが笑っていた。 「偶然でしょう。澪さん、お母様のことで過敏になっているのね」 「偶然なら、調べて終わりです」 「調べるの?」 「グラスと、莉々花さんの袖口と、会場の映像を」  莉々花の涙が止まった。  一瞬。目元を押さえていたハンカチの下で、息だけが止まる。  夫人の一人が、そっとスマートフォンを伏せた。録音していたのかもしれないし、誰かに送ろうとしていたのかもしれない。画面の光が消えるだけで、さっきまでの茶会が別のものに見えた。  私は診断書の端を押さえた。母の紙を、また誰かの噂話に使われるのは嫌だった。それでも、ここでしまえば、グラスの中身も、莉々花の袖口も、全部なかったことにされる。  口の中が乾く。言葉を選ぶ時間は、ほとんどない。  スタッフの後ろから、低い声が落ちた。 「映像は保全させる」  振り向く前に分かった。  征臣の声だった
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-26
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第59話 保全された映像

 征臣は私を見なかった。  今の言い回しで、余計な誤解を先に切ったのだと分かった。私が呼んでいないこと。私が一人でこの場に来たこと。征臣の力で騒ぎを作ったのではないこと。  胸の内側の硬さがほどける。  でも、それを顔に出す余裕はなかった。  ホテルスタッフがグラスを保管袋へ入れる。透明な袋の中で、泡がまだ少し弾けていた。袋の口が閉じられる音が、小さく乾いて響く。 「袖口も見せてください」  私が言うと、莉々花はぱっと手首を引いた。 「嫌です。そんなの、屈辱です」 「飲みかけのグラスを他の方に渡すところでした」 「渡したんじゃなくて、あの方が勝手に」  そこまで言って、莉々花は口を閉じた。  夫人の一人が、目を細める。  勝手に、という言葉は優しくない。可哀想な妹なら、被害者の顔だけしていればよかったのに。  瀬里奈がすぐに割り込んだ。 「莉々花は動揺しているだけです。まだ十九歳の子に、こんな大人の詰問を」 「詰問じゃない」  征臣が初めて瀬里奈を見た。 「人が口にするものの話だ」  瀬里奈の笑顔が、薄く貼りついたまま動かなくなる。  私が持ってきた透明袋は、テーブルの上で妙に頼りなかった。たった一枚の薄い袋で、人の悪意を捕まえられるわけがない。それでも、何も持たずに座っていた昨日までの私とは違う。  征臣は私の手元を一度だけ見た。褒めない。慰めもしない。ただ、気づいたという顔だけをして、すぐホテル責任者へ視線を戻す。  そのくらいの距離が、今はいい。  莉々花はその間も泣き続けた。けれど、誰かに抱きつくことはできない。近づいた夫人が、途中で足を止めたからだ。  ホテル責任者がタブレットを持って戻ってきた。画面の中で、白い袖が私のグラスのそばをかすめていた。  保全された映像を見下ろしていると、指先にじわりと力が入った。タブレットの縁を押さえる爪が白くなる。声を荒げれば、今度は私の感情だけが記録に残る。だから黙って、画面の中の白い袖を見た。  そこに映っていた莉々花の手首は、さっきよりずっとはっきり濡れていた。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-27
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第60話 白い袖の下

「成分だなんて、まるで毒物みたいな言い方を」  瀬里奈の声が、初めて少し硬くなった。 「毒物とは言っていません」  私は診断書の余白に触れた。 「母の資料にも、同じ系統を示す略号が残っています」  夫人たちが息を詰めた。  母の死。病死とされたもの。白鳥家の中で、誰も大きな声で話さなかったもの。  母の死という話題が、初めてその場の全員の前に出た。  夫人の一人が、椅子を引いた。帰ろうとして、立ち上がれずにいる。誰も莉々花を直接責めない。けれど、誰も彼女をかばう言葉を続けられない。  白いテーブルの上に、私の診断書と保管袋に入ったグラスが並んでいた。きれいな花瓶より、その二つの方がずっと重く見える。白い皿の縁に、飲まれなかった泡の影が揺れていた。  莉々花はまだ袖を隠している。袖口ひとつのことなのに、部屋全体がそこを見ていた。  私は自分の呼吸を数えた。一、二、三。母の話をするときだけ、数を頼りにしないと声が乱れそうになる。  莉々花が、ぽつりと言った。 「お母様のことまで持ち出すなんて」  お母様。  私の母を、彼女はそう呼んだことがなかった。  いつも、あの人、先の奥様、あなたのお母様。距離を置くための言葉だけだった。  私は顔を上げた。 「今、母を何と呼びましたか」  莉々花の目が揺れた。  私は母の名前が見えないよう、診断書をもう一度折った。  頬がこわばっているのが自分でも分かった。笑って取り繕う気にはならなかった。  瀬里奈の手が、娘の肩に食い込んだ。  莉々花はすぐに笑った。  泣き顔のまま笑うから、頬の上で涙だけが浮いて見えた。 「そんな細かいことまで責めるんですか。怖い、お姉様」 「責めていません」 「責めてるじゃない」  声の端が幼くなる。  周囲の夫人たちは、もう誰も私を止めなかった。さっきまで莉々花に同情していた人たちが、白い袖口と診断書を交互に見ている。  征臣が私の前に立つ気配がした。  けれど、立たなかった。  少し斜め後ろ。私の視界を塞がない位置で止まる。  その距離に気づいて、胸が一度だけ小さく鳴った。今は振り向かない。振り向いたら、声が揺れる。 「ホテル側で調べていただけますか」  私はスタッフへ視線を戻した。 「グラスと袖口、それから配膳記録を保全してくださ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-27
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