足元のハンカチを拾う人はいなかった。莉々花も、落としたことには気づいているはずなのに、視線だけをそこへ落として動かない。 私は診断書の写しを二つに折った。母の名前が外から見えないよう、ずれた端を指先でそろえる。こんな場所で母の死を見世物にはしたくない。けれど、だからといって、なかったことにする気もなかった。 バッグの金具へ爪が当たり、乾いた音がした。膝はまだ頼りなく、勝った、などと思う余裕はない。グラスの中身が誰かの口へ入る前に止められた。それだけを何度も頭の中で言い直していると、莉々花の肩越しに瀬里奈と目が合った。口元はいつもの柔らかな形のままなのに、閉じた扇子の骨だけが、かすかに軋んでいる。 瀬里奈から目をそらしたところで、ホテル責任者が戻ってきた。私と征臣にだけ届くよう声を落とす。 「簡易確認では、グラスの縁から該当成分の反応が出ています」 莉々花の目が、今度こそ足元のハンカチへ落ちた。何か言えば声が上ずりそうで、私は息を一つ吸い、折った診断書をバッグの中へ戻した。 ホテルを出るとき、空気はひどく冷えていた。 夜ではない。ラウンジの外も、まだ午後の白さが残っている。それなのに、手だけが冷たい。 征臣の車は、ホテルの裏口に回されていた。 「乗れ」 言ってから、征臣は一拍置いた。 「……乗ってくれ。ここでは、記者に捕まる」 言い直したあと、征臣はドアを押さえたまま私の返事を待った。 私は頷いた。 車内に入ると、革の匂いと、彼のシャツに残った柔らかい洗剤の匂いが混ざった。さっきの甘い匂いが鼻に残っているせいで、普通の匂いまで遠く感じる。 膝の上に、母の診断書の写しを広げた。 余白の薬剤名、ホテルスタッフのメモ、グラスの簡易確認。紙の上では全部がきちんと並んでいるのに、私は薬剤名を二度読み、また同じ行へ戻った。頭の中だけが、その順番についてこない。 「澪」 征臣の視線が、二度同じ行を追っていた私の指へ落ちた。 「今じゃなくてもいい」 「今、見ておきたいです。あとから整理されたものを聞くんじゃなくて、自分で見たいので」 言ってから、紙の角を押さえ直す。ページをめくろうとして、二度つまみ損ねた。征臣の手が反射的に動き、私の膝へ届く前に止まる。指先だけが行き場をなくしたように宙で迷い、すぐシートへ戻っ
Terakhir Diperbarui : 2026-07-28 Baca selengkapnya