Semua Bab 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Bab 61 - Bab 70

242 Bab

第61話 母を呼ぶ声

 足元のハンカチを拾う人はいなかった。莉々花も、落としたことには気づいているはずなのに、視線だけをそこへ落として動かない。  私は診断書の写しを二つに折った。母の名前が外から見えないよう、ずれた端を指先でそろえる。こんな場所で母の死を見世物にはしたくない。けれど、だからといって、なかったことにする気もなかった。  バッグの金具へ爪が当たり、乾いた音がした。膝はまだ頼りなく、勝った、などと思う余裕はない。グラスの中身が誰かの口へ入る前に止められた。それだけを何度も頭の中で言い直していると、莉々花の肩越しに瀬里奈と目が合った。口元はいつもの柔らかな形のままなのに、閉じた扇子の骨だけが、かすかに軋んでいる。  瀬里奈から目をそらしたところで、ホテル責任者が戻ってきた。私と征臣にだけ届くよう声を落とす。 「簡易確認では、グラスの縁から該当成分の反応が出ています」  莉々花の目が、今度こそ足元のハンカチへ落ちた。何か言えば声が上ずりそうで、私は息を一つ吸い、折った診断書をバッグの中へ戻した。  ホテルを出るとき、空気はひどく冷えていた。  夜ではない。ラウンジの外も、まだ午後の白さが残っている。それなのに、手だけが冷たい。  征臣の車は、ホテルの裏口に回されていた。 「乗れ」  言ってから、征臣は一拍置いた。 「……乗ってくれ。ここでは、記者に捕まる」  言い直したあと、征臣はドアを押さえたまま私の返事を待った。  私は頷いた。  車内に入ると、革の匂いと、彼のシャツに残った柔らかい洗剤の匂いが混ざった。さっきの甘い匂いが鼻に残っているせいで、普通の匂いまで遠く感じる。  膝の上に、母の診断書の写しを広げた。  余白の薬剤名、ホテルスタッフのメモ、グラスの簡易確認。紙の上では全部がきちんと並んでいるのに、私は薬剤名を二度読み、また同じ行へ戻った。頭の中だけが、その順番についてこない。 「澪」  征臣の視線が、二度同じ行を追っていた私の指へ落ちた。 「今じゃなくてもいい」 「今、見ておきたいです。あとから整理されたものを聞くんじゃなくて、自分で見たいので」  言ってから、紙の角を押さえ直す。ページをめくろうとして、二度つまみ損ねた。征臣の手が反射的に動き、私の膝へ届く前に止まる。指先だけが行き場をなくしたように宙で迷い、すぐシートへ戻っ
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第62話 診断書の裏

 診断書の写しの裏には、母の療養中の投薬メモも複写されていた。字が薄く、罫線の一部はかすれている。他の日には薬の名前と時間が並んでいるのに、母が亡くなる前日の夜だけ、一本の線で投薬欄が消されていた。 「……ここだけ」  指でなぞると、その部分だけ紙の色がわずかに違った。消した跡というより、消そうとして残った跡だった。  征臣が身を寄せる。肩が触れるほどではない。それでも同じ文字を読むには十分近く、シャツの袖が視界の端へ入った。 「病院の正式な記録を取る」 「それだけでは足りません」  思ったより小さな声になった。 「母は白鳥家で亡くなり、その後で病院へ運ばれたと聞かされました。家に残っている記録も、確かめたいんです」  征臣はすぐに答えなかった。車のエアコンの音だけが一定に続く。  私は紙から指を離し、唇の内側を噛んだ。わずかに鉄の味がした。消された一行の向こう側に母の最後の夜がある。そう思った瞬間、紙の薄さが急に頼りなく見えた。  鷹宮邸の書斎に戻ると、征臣はすぐに人を呼んだ。  顧問弁護士、医療記録に詳しい調査員、鷹宮財団の医療支援部門にいる担当者。次々に肩書きを聞かされ、頭が追いつかなくなりそうだった。  でも、説明は短かった。  征臣は余計なことを言わない。私の代わりに怒りもしない。ただ、机の上を空け、資料を並べた。 「澪さん」  調査員の女性が、古いファイルを机に置いた。 「お母様の当時の診療記録は、一部が照会可能です。ただし、白鳥家側で保管している私的な看護記録は別です」 「私的な看護記録」 「ご自宅で療養されていた期間の、投薬や体調変化の控えです」  調査員の声は淡々としていた。ありがたかった。憐れまれたら、たぶん私は紙を見られなくなる。  征臣は部屋の端に立ったまま、全員の話を聞いている。口を挟まない。けれど、調査員が専門用語を続けかけると、短く遮った。 「澪が自分で判断できる言葉で頼む」  調査員が少し背筋を正した。  私のために簡単にしろ、ではない。その言い方だけが耳に残った。  母の部屋にあった棚を思い出す。  細い字で日付を書いたノート。薬の袋を輪ゴムでまとめていた箱。私が触ろうとすると、父がいつも言った。  子どもが見るものではない。  私はもう、子どもではない。 「白鳥家に残っている
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第63話 空白の投薬欄

 私はその違和感を、もう無視しない。  宮野真理。名前を心の中で呼んでみる。返事はない。けれど、母の部屋に残っていた古い便箋の匂いが、かすかに戻ってきた気がした。  母のそばにいた人なら、母の最後の夜を知っているかもしれない。知っていて、黙らされていたのかもしれない。  ページの端に、見慣れない施設名が印字されていた。  みどり療養センター。 「療養センター?」  声に出すと、書斎の空気が少し変わった。  調査員は頷く。 「宮野真理さんは退職後、数年ほど所在が不明でした。ただ、最近の住所照会で、この施設の関連資料が出ています」 「病気、ということですか」 「そこまでは分かりません。入所というより、短期滞在の履歴に近いです」  短期滞在。  逃げ込んだ、という言葉が喉まで上がって、飲み込んだ。  決めつけるのは簡単だ。けれど、母のことは、簡単な言葉にしたくなかった。  征臣が面会記録のファイルを取った。古い記録の多くは保管期限を過ぎているが、一件だけ出入りの履歴が残っていた。  調査員の指が、紙の下の方を示した。  来訪者欄に、白鳥瀬里奈の名前があった。  日付は、母が亡くなった翌月。  私は息を止めた。 「……母の秘書に、継母が会いに行っていたんですか」 「少なくとも、書類上は」  征臣の手が、袖口の手前で止まった。  怒っている。声を荒げない分、指先の動きが硬い。 「この資料は保全する」  調査員は資料の番号を控え、保全の手配に取りかかった。  私は紙から目を離せなかった。  母が亡くなったあと、父は言った。宮野さんは体調を崩して辞めた。もう関わりのない人だ、と。  でも、瀬里奈は会いに行っている。  関わりのない人に、わざわざ。  紙の上の瀬里奈の名前は、ひどく丁寧に印字されていた。誰かの人生を隠す書類ほど、外側だけは整っている。  母の秘書。継母。療養センター。三つの言葉が、机の上でまっすぐにつながらないまま並ぶ。  私はその間に、母の最期の夜を見てしまいそうになって、指を握った。  調査員が新しいコピーを差し出す。瀬里奈の名前の横に、面会理由の欄があった。空白。そこだけ、妙に白い。  何も書かれていない場所ほど、誰かが言葉を消したように見える。 「……行くのか」 「行きます。できれば明日」
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第64話 母の名前を呼ぶ人

 みどり療養センター。その下に、細い文字で担当者名が残っていた。  紙の上では、ただの施設名だった。けれど、その名前を見た瞬間、消毒液と古いカーテンの匂いがこちらへ近づいてくる気がした。  宮野真理。  みどり療養センターは、都心から少し離れた坂の上にあった。  白い壁。低い植え込み。玄関脇には、雨で色の薄くなった案内板が立っている。病院ほど冷たくはない。けれど、家と呼ぶには静かすぎる場所だった。  受付で名前を告げると、職員の女性が一度だけ私の顔を見た。 「白鳥様……」  その声に、何かを思い出したような揺れがあった。  私は背筋を伸ばした。 「宮野真理さんに、お会いできますか」 「確認いたします。少々お待ちください」  待合室の椅子に座る。  征臣は昨日の約束どおり中まで来ていた。一つ空けた席に座り、私の前へ出ようとはしない。  近すぎない。それでも、顔を上げればいると分かる距離だった。  壁には季節の花の写真が飾られている。古い額の端に、細い傷がある。母の部屋にあった額縁と少し似ていて、手元が落ち着かない。  受付でもらった番号札を握る。薄いプラスチックが、手のひらで少し曲がった。母の名前を聞く前から、もう逃げ場がない気がした。 「帰るか」  征臣が低く聞いた。 「帰りません」  すぐ答えた。声だけが、自分のものではないみたいに硬い。  受付の奥で紙をめくる音がする。私は番号札を膝の上へ置いた。 「……怖いです」  帰らないと言った直後に口にしたせいで、自分でも少し驚いた。征臣は笑わない。何か言いかけるように唇が動き、励ます言葉を探したのか、一度だけ口を閉じた。 「俺もいる。話せなくなったら、こっちを見てくれ」  それだけだった。  怖さが薄くなったわけではない。ただ、さっきの「怖いです」を慌てて取り消さなくてもいいのだと思えた。それだけで、番号札を握る指の力を少しだけ抜けた。 「……はい」  受付の奥から、紙をめくる音がした。誰かが小声で確認している。名前を告げただけで、古い引き出しが開いていくような音だった。  膝の上で、指を重ねる。包帯の端が少しほつれていた。直そうとして、やめた。今は何かを整えるより、崩れるものを見届ける方が先だ。  施設の時計が、かち、と小さく鳴った。待合室にいる人たちは誰もこ
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第65話 宮野真理の沈黙

「ここでは、話せませんか」  宮野さんの肩が小さく揺れた。頷くことさえ怖いのか、ハンカチだけをさらに握り込む。  征臣が一歩、前に出ようとした。  私は手を上げて止めた。  彼の靴音が、そこで止まる。 「宮野さん」  声が低く出た。怒っているわけではない。震えないようにすると、こうなる。 「母のことを知りたいです。でも、無理に話してほしいとは言いません」  宮野さんの目が、ゆっくり私へ戻った。 「お嬢様は……奥様と同じことをおっしゃる」 「母も、そう言いましたか」 「はい。あの方は、いつも……人を急かしませんでした。急いでいらしたのに」  最後の言葉だけ、ひどくかすれた。  みぞおちのあたりで、何かが薄く破れる。母は急いでいた。では、何に追われていたのか。誰に。  聞きたいことは喉まで来た。けれど、今問い詰めれば、この人はまた閉じてしまう。  私は膝の上で指をほどいた。 「今日は……ここまででも大丈夫です」 「いけません」  宮野さんが、初めてはっきり首を振った。  職員が驚いたように横を見る。  宮野さんは、ハンカチを胸元に抱えた。銀鈴の刺繍が、彼女の指の間で歪む。 「あれは、奥様から……お嬢様にだけ、と」 「あれ?」  廊下の奥で、誰かの台車が鳴った。  宮野さんは息を詰め、またカメラを見た。  それから、唇だけをほとんど動かさずに言った。 「銀鈴のことは、お嬢様にだけ」  その一言で、胸の奥が小さく痛んだ。母の名前を呼ぶ人が、まだこの施設にいた。  面会時間は、あと十五分で終わると言われた。  宮野さんは職員に支えられて廊下の奥へ戻っていった。背中は小さく、白いカーディガンの肩が片方だけ落ちている。直してあげたいと思って、手が動きかけた。  でも、彼女は振り返らなかった。  受付横の時計が、やけに大きく見える。針が一つ進むたび、母に近づいているのか、遠ざかっているのか分からなくなった。 「俺は受付の近くにいる。終わったら、一緒に帰ろう」  その言葉に頷きかけた。けれど、宮野さんが向かった廊下を見ると、足が動かない。 「あとで『聞いてない』って困る話かもしれません」 「その時は君から聞くよ。まず、宮野さんの話を聞いておいで」  征臣はもう受付の方を向いていた。  私は視線を落とした。包帯の
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第66話 消灯後の談話室

「防犯データと面会簿を残してください。正式な照会は相沢から出します」  征臣の声から、普段の余白が消えた。  職員は一度だけ廊下の奥を見てから、分厚いファイルを胸へ抱えた。  消灯の音楽が流れる。古い童謡をオルゴールにしたような曲で、明るい旋律のはずなのに、白い廊下を余計に寂しくした。  別の職員が私を呼んだ。 「宮野様が談話室でお待ちです。お一人で、と」  番号札を握っていた指へ力が入る。 「澪」 「……行ってきます」 「無理はしなくていい。廊下にいるから、いつでも出ておいで」  大丈夫とは言えなかった。代わりに一度だけ頷いた。  談話室は廊下の一番奥にあった。小さなガラス窓の向こうで、宮野真理さんが丸いテーブルに座っている。向かいの椅子は空いていた。  扉を閉めると、冷めた麦茶と消毒液の匂いが混じった。窓際には葉の薄い観葉植物、壁には手書きの予定表。膝の上の青い布片だけが、その普通の部屋から浮いて見えた。  宮野さんが椅子を示す。 「どうぞ、お嬢様」 「澪で……お願いします」  言い直すと、彼女の眉が少し下がった。 「奥様も、同じことをおっしゃいました。名前で呼んで、と」  椅子を引く手が止まりかけた。母の声を聞いたわけではないのに、喉が熱くなる。  座ってから、テーブルについた細い傷を見た。爪で何度も削ったような跡だった。青い布より、今はそちらの方が見ていられる。  宮野さんは布片を両手で包んだ。 「これは、奥様から預かりました」 「母が、あなたに?」 「ええ。もし、いつか『これは澪様のものではない』と言う人が現れたら、渡してほしいと」  その言い方に、すぐ返事ができなかった。  父の声が頭に戻る。家のため。姉なら。誰のおかげで。言葉は違っても、最後には私の名前を小さくする。  宮野さんが布を広げた。  褪せた青いリボン。端は丁寧に始末され、片側だけ切り取られたように短い。  指を伸ばして、途中で止めた。 「……触っても?」 「もちろんです。これは、あなたのものですから」  あなたのもの。  軽い布なのに、その一言ごと受け取るには両手が必要だった。  端をつまむ。古い糸は乾いていて、母の体温など残っていない。それでも、縫い目の細かさは覚えていた。 「母は、いつこれを」 「亡くなる少し前です。
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第67話 青い布片

 宮野さんが、ハンカチの上に別の写真を置いた。  莉々花が鷹宮財団のパーティーで見せた銀鈴のリボン。調査員が撮影した拡大写真だった。  宮野さんの指が、縫い目を指す。 「こちらは、奥様の縫い方ではありません」 「分かるんですか」 「はい。奥様は、返し縫いの最後だけ、必ず内側へ隠します。癖でした」  私の手の中のリボンを見る。青い糸の終わりが、裏側へ小さく逃げていた。  写真の莉々花のリボンは、そこだけ違っていた。糸の終わりが外へ出て、銀鈴の輪に引っかかっている。  宮野さんは、声を落とした。  糸の終わりだけが、写真と違っていた。小さすぎる違いなのに、目がそこから離れなかった。 「莉々花様のものとは、縫い目が違います」  縫い目の違いなんて、知らなければただの糸だ。  けれど一度見えてしまうと、もう戻れなかった。  手の中のリボンと、写真の中のリボン。青の濃さも、銀鈴の大きさも似ている。けれど、糸の終わり方だけが違う。母の癖だけが、片方にない。  先に見た「特別登壇」の通知が頭をよぎった。数日後、とだけ覚えている。  演題はまだ分からない。私は写真のリボンと、手元の布を交互に見た。 「莉々花は、これをどこから」  言いかけて、私は口を閉じた。  聞く前に、荒らされた母の部屋が浮かんだ。燃えかけた帳簿と、伏せられた肖像画。  宮野さんは、ハンカチを握った。 「奥様が亡くなられる少し前に、図案箱が一度なくなりました。数日後には戻りました。でも、中の写真が何枚か……」  そこで言葉が切れる。  私は続きを待った。テーブルの傷を見つめる。一本、深いものがある。爪ではなく、金属でつけた傷に見えた。 「写真が、なくなっていたんですね」  宮野さんは小さく頷く。 「温室で撮った写真です。男の子の顔は写っていませんでした。肩の包帯と、青いリボンだけが写っていました」  征臣の左肩。  征臣の名前は出さなかった。宮野さんも、そこは聞かなかった。  リボンを裏返す。  薄い布の裏に、糸が重なっている。縫い目の中心に、ごく小さな盛り上がりがあった。 「ここ、何か……」  指でなぞると、宮野さんが息を止めた。 「奥様が、お名前を縫っていらっしゃいました。同じ青い糸で、見えにくいように。失くしても、お嬢様のものだと分かるように、
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第68話 縫い目の向き

 青い糸の下に、もう一文字、細く縫い込まれていた。  もう一文字は、苗字ではなかった。  菜。  母の名前の最初の字だった。  みお、菜。二つの名が、青い糸の中で寄り添うように隠れている。  母の名前の隣に、私の名前がある。あの家で私の席をどこへ移されても、この小さな布の中では母のそばにいられた。糸の並びを見つめたまま、指先を動かせなくなった。  宮野さんが慌ててハンカチを差し出す。 「すみません。おつらいものを……」 「そうじゃない」  声は、自分で思っていたより低く出た。飲み込んできたものが、今さら声の形を持ったみたいだった。  怒っていると思われたかもしれない。宮野さんの肩がびくりとした。  私は息を吸い直す。 「つらいです。でも、知らないままの方が、もっと嫌でした」  宮野さんの目元がゆがむ。 「奥様は、最後までお嬢様を」  言葉がそこで止まった。  私は続きを待った。  けれど、宮野さんはハンカチを握ったまま、言葉を継がなかった。  私はリボンをハンカチの上へ戻した。 「宮野さんは、これをどうして今まで」  口にした瞬間、声が硬くなった。宮野さんの肩が縮む。「責めたいわけじゃ」と言いかけて、やめた。そう言えば、余計に責めているみたいだった。  宮野さんは、膝の上で両手を重ねる。指の節が細く白い。 「怖かったのです」  小さな声だった。 「奥様が亡くなられたあと、白鳥のご当主様から、もう菜月様の名を出すなと。瀬里奈様からは、あなたが余計なことを言えば、お嬢様の居場所がなくなると」  居場所。  その言葉で、母の部屋が浮かんだ。新婚部屋に変えられた、あの部屋。  私は膝の上の手を組み直した。 「それで、ここへ」 「はい。療養という名目で。逃げたのです」  宮野さんは、唇を噛んだ。 「ごめんなさい。私は、奥様も、お嬢様も、守れませんでした」 「大丈夫です」が喉まで出て、飲み込んだ。大丈夫ではなかったし、宮野さんを安心させるために嘘をつくこともできなかった。  宮野さんの指が、ハンカチの中へさらに沈んだ。 「今日、聞いたことは忘れません」  聞きたいことはまだあった。父は何を言ったのか、瀬里奈さんはどこまで知っていたのか。口を開くと、宮野さんが、重ねた手をさらにきつく握りしめた。 「でも、今は
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第69話 証拠だけではありません

 談話室を出ると、征臣は廊下の壁際に立っていた。  腕を組んでいない。スマートフォンも見ていない。ただ、私が扉を開けるまで、廊下の床を見ていたようだった。  目が合う。  何を聞いた、と聞かれると思った。  でも征臣は、私の手元だけを見た。ハンカチに包まれた青いリボン。 「これは残した方がいい」  リボンを包む指に、思わず力が入った。 「……預からせてほしい」  その言葉に、胸の内側が縮んだ。 「預からせてほしい」が、父の声と重なった。返せ、預けろ、管理する。似た言葉を聞きすぎたせいで、指に力が入った。  征臣の視線が、私の手元で止まった。  言い直そうとして、言葉を探している。 「……言い方を間違えた」  征臣はリボンへ伸ばしかけた手を引いた。 「預かるんじゃない。君が保管できるよう、袋を用意したい」  廊下の空気が、わずかに緩んだ。  征臣は透明袋を机の端に置いた。口を開いた袋は、私の方を向いている。  その早さに、今度は私が言葉を失う。 「残さないといけないのは、頭では……」  征臣は黙って頷いた。 「でも、私には、それだけじゃありません」  ハンカチの中で、リボンの端が指に触れる。薄い布なのに、重い。 「母が、私の名前を隠してくれていました」  征臣の視線が、ふっと落ちた。  袖口へ伸びた手が、途中で止まる。 「見てもいいか」 「触らないなら」 「ああ。君が持ったまま、見せてくれ」  私はハンカチを少し開いた。  青い布の裏。小さな、みおの文字。  征臣は近づきすぎなかった。けれど、目だけがそこに留まった。長い沈黙のあと、折りたたむように息を吐く。 「……残していたんだな」 「母らしいですよね。……少し、腹が立つくらい」  征臣は廊下の職員へ顔を向けた。 「保全袋を。封は彼女がする」  職員が持ってきた袋を、征臣は私の前で開いた。  私は職員から袋を受け取った。  リボンを入れ、封の部分で一度だけ手を止めた。  封をする直前、ポケットの中で私のスマートフォンが震えた。  画面には、鷹宮側の調査員の名前が表示されている。  通話を受けると、短い声が耳に落ちた。 「白鳥様。莉々花さんが、あなたの古い日記を探しています」  古い日記。  耳に入った言葉が、すぐには形にならなかった
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第70話 探されている日記

「白鳥邸です。出入りしている使用人から連絡がありました。莉々花さんが、幼少期の箱を出すよう指示していると」 「何のために」 「政財界チャリティーディナーの準備に使う、と」  数日前に見た「特別登壇」の通知が、ここでつながった。 「チャリティーディナー……」声に出すと、舌が乾いた。  私の日記を使うつもりなのか。思いついた瞬間、嫌な想像だけが先に走る。  自分の昔の字が、莉々花の手元にあるところまで浮かんだ。 「止められますか」 「法的には、白鳥邸内の私物扱いなので即時介入は難しいです。ただ、財産保全の申し入れはできます」  難しい。申し入れ。手続きの言葉ばかりが増えていく。  私は時計を見た。  征臣が私を見る。 「今からでも車を出せる。一緒に取りに行こうか」  征臣はそれ以上、説明を足さなかった。  私はバッグの中の証拠袋を押さえた。  私は時計から目を離した。 「行きます。……今、行きたいです」  答えると、宮野さんが小さく息を呑んだ。 「お嬢様、あのお家へ戻るのですか」 「戻るんじゃないです」  声が冷えた。 「取りに行くんです」  宮野さんの目が揺れる。  私は保全袋に入れたリボンをバッグの一番内側へしまい、ファスナーを閉めた。  征臣はすぐに車の手配を始めた。電話口の声は短い。白鳥邸付近の警備、弁護士への連絡、使用人への確認。無駄がない。  でも、私には一つだけ必要なものがあった。  母の帳簿を開く。施設へ来る前、念のためバッグに入れていた。古いページの間に、薄い金属が挟まっている。  小さな鍵。  母の字で、端に「物置」と書かれた紙片がついていた。  いつ挟まれたのか分からない。母が隠したのか、私が忘れていただけなのか。  でも今、鍵はここにある。  金属の冷たさが、手のひらへ移った。  私はそれを握りしめた。  白鳥邸へ向かう車内で、誰も余計なことを言わなかった。  窓の外の街灯が、ガラスに細く流れる。夜の道路は思ったより空いていて、それがかえって苛立たしい。信号くらい、もっと引き止めてくれればいいのに。急ぎたいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。  膝の上には母の帳簿。バッグの中には青いリボン。手の中には物置の鍵。  帳簿の角が膝に当たり、鍵は掌で汗ばんだ。どれも邪魔なくらい
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