部屋に戻ってからも、しばらくコートを脱げなかった。玄関の明かりだけがついた部屋の中で、バッグを持ったまま立ち尽くす。正人の言葉が、まだ身体のどこかに残っていた。――でも、もうしょうがないよね。好きだから。タクシーの中の静けさ。窓に流れていた夜の光。情けないみたいに笑った正人の顔。それなのに、あの人は最後まで優しかった。待つと言った。困らせることは想定していたと言った。水族館に行きたいという唐突な言葉にも、呆れながらちゃんと受け取ってくれた。私はようやく靴を脱ぎ、コートをソファの背にかけた。シャワーを浴びるべきだと思う。明日は月曜だ。でも、身体の奥にまだ熱が残っていて、すぐに眠れる気がしなかった。正人のことを思い出すたび、胸が静かに温まる。それは、翔太に揺らされる時のような急な熱ではなかった。もっと深いところで、ゆっくり染みてくるようなものだった。今日また、正人を知ってしまった。そう思う。ピアノを弾く横顔。私を「大事な人」と言った声。好きだから、と少し情けなく笑った顔。今まで同期として見ていた人の輪郭が、少しずつ男の人の形を帯びていく。その変化が、嬉しくて。同時に、怖かった。スマホが震えたのは、その時だった。翔太だった。『起きてます?』私は少しだけ息を止めた。隣。また、隣。今日の正人の話を思い出して、胸が少しざわつく。それでも、返信画面を開いてしまう。『起きてる』数秒後。『ちょっとベランダで飲みません?』私はスマホを見つめた。今日はもう飲んだ。しかも、コンサートのあとバーまで行った。明日は仕事。普通なら断るべきだ。でも。少しだけ、飲み足りない。正人との時間が悪かったわけではない。むしろ、良すぎた。良すぎたからこそ、胸の中に残ったものを、まだ一人で抱えきれなかった。『少しだけなら』送ってから、小さく息を吐いた。ベランダに出ると、夜風が少し冷たかった。隣のベランダでは、翔太がすでに缶を開けていた。黒いスウェットに、少し濡れたような髪。たぶん、シャワーのあとだ。ラフなのに、やっぱり目立つ。夜の薄い光の中でも、肩の線や首元の影がきれいに見える。何も作っていない姿のはずなのに、気を抜いた色気がある。そう思ってしまって、私は少しだけ視線を逸らした。「おかえり」翔太
최신 업데이트 : 2026-08-09 더 보기