Mag-log inタクシーが夜の道路を滑っていく。窓の外に、東京の街明かりが流れる。隣に座る楓は、さっきからやたら機嫌がいい。久々の日本。久々の愛子。たぶん、それだけでテンションが上がっている。一方で、私は少し疲れていた。仕事終わり。ローンチ案件。突然帰国してきた弟対応。エネルギーをほぼ使い切っている。「で」楓がコンビニで買った缶コーヒーを指先で回しながら言った。「さっきの人」嫌な予感がした。「……何」「愛子に気あるね」即答だった。私は思わず顔をしかめた。「うるさい」「いや、絶対そう」楓は笑う。妙に自信がある顔。昔からこうだ。軽い。距離が近い。テンションが高い。でも、人を見る目だけは、なぜか鋭い。「見てた感じ、普通の同期じゃない」「同期」「でも好き」「うるさい」即答した。「しかも結構本気」「楓」「はい」「疲れてるから今その話したくない」楓は少し肩をすくめる。でも、楽しそうだ。「ふーん」その顔がまた腹立つ。「でも、愛子」楓が少しだけ真面目な声になる。「なんか、前より柔らかい顔してた」私は少しだけ黙った。正人のことを考えた。コンサート。広場のピアノ。タクシー。待つと言った顔。好きだから、と言った声。胸が少しざわつく。でも。今は考えたくなかった。「……うるさい」窓の外を見る。楓は少し笑った。「図星じゃん」本当に面倒くさい。部屋へ着く頃には、少しだけ現実感が戻っていた。玄関を開けると、楓が勝手に靴を脱ぎ始める。「うわ、ちゃんとしてる」「普通」「東京に住む、女の家って感じ」「どういう意味」「綺麗ってことじゃん」スーツのジャケットを脱ぎながら、小さくため息を吐く。「ソファね」楓が振り返る。「え?」「寝床」「久々なのに?」「三日したら実家帰ってよね」「冷たい」「普通」楓は荷物を置いて、勝手に冷蔵庫を開け始めた。「酒ある?」「勝手に見ない」「ビールしかないの?」「文句言わない」楓は笑う。私は呆れながらも、なんだかんだでブランケットを出す。枕も追加。充電器も。昔からこうだ。面倒くさい。でも、放っておけない。「まだ仕事するから」私はPCを開きながら言った。「鍵置いとく。なくさないでね」楓の目が少し明るくなる。「外出ていい?
「久々じゃん」「ここ会社!!」「知ってる」「知ってるならしないで!!」ほんとうに嫌だ。昔からこれだ。大学の頃、彼女に嫌味を言われた理由もこれ。お姉さんとの距離感おかしくない?いや。こっちだって困ってる。本気で楓を睨む。「ほんとやめて」「えー」「本気でやめて」「冷たい」「普通」楓は少ししゅんとした。でも、三秒で戻る。「痩せた?」「疲れてるだけ」「ちゃんと食べてる?」「親気取りしないで」「親が見てないから、俺が見るしかないでしょ」「その発想がまずおかしい」楓は笑った。屈託なく。でも、ただの軽い人ではない。人の変化には妙に敏感で、私の疲れや痩せたことにはすぐ気づく。そこがまた、面倒くさい。雑なのに、変なところだけ鋭い。その時。少し後ろから正人の声がした。「初めまして」楓が初めて顔を上げる。そして、一瞬だけ、人を見る目になった。さっきまでの無邪気な顔が、少しだけ引っ込む。明るさは消えない。でも、相手を測るような静かな視線が入った。少しだけ警戒。少しだけ観察。私は慌てて間に入った。「正人。会社の同期」楓の視線が少しだけ止まる。正人は穏やかに笑った。「同期の結城正人です。話は聞いてます」楓は少しだけ私を見る。それから、正人へ視線を戻した。「楓です」少しだけそっけない。でも、礼儀はある。私には甘い。他人には薄い。いつもの楓だ。「久々の帰国ですか?」正人が自然に聞く。「まあ」楓は短く答える。「帰国したら、とりあえず愛子なんで」私は即座に肘で小突いた。「余計なこと言わない」「事実じゃん」「事実でも言い方」正人が少し笑った。でも、その笑いの奥で、何かが納得したようにも見えた。ああ。これが。前に聞いていた“シスコン気味の弟”。たぶん、そう思っている。確かに。知らなかったら少し引く。でも、正人は引くというより、観察している顔をしていた。私がどんな家族の距離感の中で育ってきたのか。どんな相手に自然に甘えられ、どんな相手には強く出るのか。その一部を、今初めて見ているようだった。それが少し恥ずかしくて、落ち着かなかった。楓は正人をもう一度見た。「同期って、仕事の?」「そう」私が答える。「ふーん」またその“ふーん”。嫌な予感がする。「
午後二時過ぎ。 ようやく、少しだけ呼吸ができる時間だった。 ローンチ案件の色校正はぎりぎりで間に合い、クライアントとの確認もなんとか終えた。 修正指示は山積みだし、今日中にまとめなければいけないものもまだ多い。 でも、少なくとも今日最大の火事場は越えた。 私はコーヒーでも淹れようかと、スマホを手に取った。 その瞬間、通知が震える。 嫌な予感しかしない名前。 楓。 私は数秒見つめてから、開いた。 『羽田なう』 真顔になった。 そして、無言で閉じた。 知らん。 何その報告。 意味が分からない。 三十秒後。 また震える。 『実家、親2人とも今いないし』 『泊まり行く』 『今の住所教えて』 私は深く息を吐いた。 なんで。 なんで毎回こうなの。 事前に言うという概念がない。 普通は、来週帰るよ、とか。 空いてる? とか。 そういう段階がある。 楓にはない。 なぜなら。 会いたい、が、そのまま今になるからだ。 しかも昔から、海外から帰ったらまず愛子、という謎のルールがある。 恋人でもないのに。 いや、弟だから余計に怖い。 高校の時も。 大学の時も。 留学中も。 なぜか最初に会うのは私。 昔楓と付き合った彼女たちから、「お姉さんとの距離感おかしくない?」と何度も言われた。 しかもなぜか、私が八つ当たりされる。 知らない。 こっちも被害者だ。 むしろ本気で困っている。 諦めたように電話をかける。 数コールで出た。 『愛子ー』 機嫌が良すぎる。 本当に腹が立つ。 「なんで事前に言わないの」 『言ったじゃん。羽田なうって』 「それは事前じゃない。現在地報告」 『正確でしょ』 「そういう問題じゃない」 電話の向こうで、楓が笑っている。 絶対に笑っている。 昔からこうだ。 明るい。 悪気がない。 でも、悪気がなければ何をしてもいいわけではない。 『だって帰国したら、一番最初にキャッチアップしたいの愛子だし』 「普通じゃないから、それ」 『普通でしょ』 「普通じゃない」 即答した。 『とりあえず住所送って』 「送らない」 『なんで』
その後、正人との最終確認に入った。会議室の空気は、麻衣ちゃんといた時よりずっと静かだった。正人はいつも通りに見えた。いや。いつも以上に淡々としていた。「媒体社への戻しは、明日の午前中。麻衣のドラフトを愛子が確認して、俺が最終で見る」「うん」「クライアントへの再提出は十五時。色のコメントは今回のサンプルベースで確定させる」「了解」会話が、仕事だけで進む。普段なら、それで心地よかった。でも今日は、その淡々とした温度に、少しだけ壁を感じる。私もそれに合わせて、必要なことだけを返した。そうしているうちに、ふと正人がペンを置いた。「ごめん」顔を上げる。「何が?」正人は少しだけ目を伏せた。「こんなに態度に出すことじゃないよな」その言葉で、息を止めた。正人は資料から目を離し、静かにこちらを見る。「多分、気づいてないだろうから言うけど」嫌な予感がした。正人は少しだけ言葉を選ぶように間を置く。「さっき来てた、隣の家の男の子ってさ」私の指先が、わずかに止まる。「愛子の、元彼だよね」胸の奥が、ぎゅっと固まった。正人に、その言葉を言われるのは、思った以上にきつかった。元彼。確かにそうだ。でも、今の翔太をその言葉だけでまとめられると、急に息がしづらくなる。「彼は、多分まだ愛子のこと好きだよ」会議室の空気が、一瞬で変わった。すぐに言葉を返せなかった。頭の中に、いくつもの場面が浮かぶ。ベランダ。――隣人として、ちょっと嫉妬した。昼飲みの席。――愛子にね。家の前。――そういうこと、あんまり軽く言わないほうがいいよ。そして、あの時。「終わった話でしょう」と自分が言った時の、翔太の意味深な笑み。――そうかもね。思い出してしまったことに動揺した。でも、それを正人に見られたくなかった。「……今」声が少し硬くなる。「憶測で私の問題を増やさないで」正人の表情が、少しだけ痛そうに変わった。「ごめん」すぐに謝る。それがまた、胸に刺さった。「言い方悪かった」「そういう話、今したくない」自分でも少し強い言い方だと思った。でも、今は受け止められなかった。翔太が自分をまだ好きかもしれない。それを考えることも。それを正人に指摘されることも。どちらも、今の私には重すぎた。正人はしばらく黙っていた。そ
白い封筒のおかげで、色校正の確認はぎりぎり間に合った。そこからの数時間は、ほとんど記憶がない。クライアントへの説明。媒体ごとの展開確認。店頭ツールの色味調整。修正指示。納品スケジュールの再確認。ひとつひとつは、仕事として慣れているはずだった。なのに今日に限って、胸の奥には別の緊張が残っていた。翔太がオフィスまで来たこと。正人と鉢合わせたこと。そして、翔太が帰り際に言った言葉。――じゃあ、また一緒に辛いもの食べに行こ。普通の会話だった。少なくとも、私にとってはそうだった。命の恩人へのお礼。いつもの軽口。そう受け取れば済むはずだった。でも、正人の表情は少しだけ硬かった。ほんのわずかに。普段の正人を知らなければ、気づかないくらい。そのことが、ずっと胸の端に引っかかっていた。夕方。一日の打ち合わせがようやく落ち着いた頃、私は麻衣ちゃんと二人で会議室に残っていた。「ここ、媒体社への戻しは明日の午前中で大丈夫そう?」「はい。私から先にドラフト送って、愛子さんに確認いただく流れにします」麻衣ちゃんはいつも通りに見えた。でも、いつもより少しだけ声が低い。笑顔も、どこか控えめだった。私は資料に目を落としながら、少しだけ様子を見ていた。「麻衣ちゃん、今日ありがとう。確認、細かいところまで助かった」そう言うと、麻衣ちゃんは一瞬だけ手を止めた。それから、少し困ったように笑った。「いえ。むしろ、すみません。今日、ちょっと抜けてましたよね」「そんなことないよ」「あります」麻衣ちゃんははっきり言った。その素直さに、少しだけ黙る。麻衣ちゃんは手元のペンを置き、背筋を伸ばした。「私、正人さんには、丁寧にちゃんと振られて」私は、息を止めた。麻衣ちゃんは無理に笑わなかった。ただ、事実を整理するみたいに、ゆっくり続ける。「まだ好きですけど、諦めるしかないなって気づいたんです」その声は、思っていたより落ち着いていた。でも、落ち着いているからこそ、少し痛かった。「たぶん、私が分かりやすくて、仕事に影響出たら困ると思うので。愛子さんには伝えておきます」「……麻衣ちゃん」「大丈夫です」麻衣ちゃんは少しだけ笑った。「大丈夫っていうか、大丈夫にします」その言い方に、胸が少し詰まる。若いのに、ちゃんとしている。傷
正人の視線は、翔太の顔を一度だけ見て、それからすぐに目元へ戻った。翔太はその視線を受けても、目を逸らさない。少しだけ顎を引き、丁寧な姿勢のまま立っている。礼儀正しい。冷静。それなのに、どこかでお互いを測っている。言葉にすれば、たった数秒のことだった。でも私は、その数秒をひどく長く感じた。麻衣ちゃんだけが、まだ翔太を見ていた。「本当にゆうとくんに似てます……」「ここ最近で。急によく言われるようになりました」翔太は愛想笑いを崩さない。でも、その視線は一度だけ正人へ戻る。正人も、目を逸らさなかった。怒ってはいない。笑ってもいない。ただ、静かに見ている。お互いが、お互いを測っている。私はそう感じて、少しだけ背中が落ち着かなくなった。それと同時に、別のことにも気づいていた。翔太は、麻衣ちゃんにも正人にも丁寧だ。でも、その顔は私に向けるものではない。さっき封筒を渡してくれた時の、少し砕けた笑い方。「命の恩人なので」と言った声。辛いものをねだる、軽いテンポ。あれは、私に向けていたものだった。他人モードの翔太を目の前で見たことで、その差がかえってはっきりしてしまう。そのことに気づいて、胸が小さく跳ねた。そしてたぶん。正人も、それに気づいている。視線の端で、正人の指がほんの少しだけ資料ケースを握り直したのが見えた。「ごめん、私次のミーティングある」私は時計を見る。「ほんとありがとう。今度ちゃんとお礼する」「はい」翔太は頷いた。そのあと、ふと少しだけ口元を上げる。「じゃあ、また一緒に辛いもの食べに行こ」声は自然だった。でも。少しだけ、正人にも聞こえるような大きさだった。私は一瞬、返事に迷った。ただのお礼の延長。命の恩人への冗談。そう受け取ればいい。でも、その声の置き方が、完全な偶然ではない気がした。「連絡するね」結局、そう言った。「うん、またね」翔太は軽く手を上げて、ロビーを出ていく。自動ドアが開き、外の光が一瞬差し込む。翔太の背中は、何でもないように去っていった。でも、その何でもなさが少しだけ引っかかった。正人の表情は、まだ少しだけ固かった。本当に少しだけ。普段の正人を知らなければ、気づかないくらい。私は封筒を抱え直しながら、その横顔を見た。「正人?」「ん?」正人は