All Chapters of 冷酷CEOは没落した初恋相手を逃がさない~8年越しの誤解から始まる、愛憎の契約結婚~: Chapter 11 - Chapter 20

38 Chapters

第十一話 歪な契約

「お前は――俺のものになれ」 低く、地を這うような理玖の言葉が、白と黒の大理石で統一された無機質なリビングに重く反響していた。 凜は息をするのも忘れ、目の前の男を見上げた。 理玖の鋭い視線と交わる。「……っ」 喉の奥で、ひゅっと乾いた音が鳴った。――断れば、どうなるんやろ……。これまで通り? いや、それも既に限界が近いことは分かってる……。 父の高額医療費を捻出し続ける道など、最初からどこにも用意されていなかったのだ。 理玖の漆黒の瞳が、凜を射抜いたまま離さない。 背後のドアを塞ぐ長い影が、凜の逃げ場を完全に消し去っていた。「返事は?」 理玖の声が、冷たい床に鋭く反射する。 凜はビクリと肩を跳ねさせた。「私と結婚、なんて……。やっぱり、おかしいです……」「おかしいのはお前の頭だ。いつまで意地を張るつもりだ? 今の生活が続けられると思ってるのか」 絶対零度の声が、凜のわずかな抵抗すらも切り捨てる。 左耳の奥に薄い膜が張ったように、全ての音が遠のいていくようだった。 脳裏に、病室の白い天井がフラッシュバックする。 痩せ細った父の腕。規則的な電子音。親友である菜央の、心配そうな顔。 全てが頭の中を駆け巡り――凜の中で、八年間張り詰めていた糸が、音もなくぷつりと切れた。 これ以上、泥水をすすって足掻く力など、もう一滴も残っていなかった。「……分かり、ました」 風に掻き消されそうなほど細い声が、大理石の床に力なく落ちた。 その瞬間、理玖の骨張った喉仏がわずかに上下した。 だが、彼の表情はすぐに冷徹な仮面へと戻る。「……なります。……あなたの、言う通り
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第十二話 広すぎる黒いベッド

『これで、お前は俺のものだ』 理玖の残した言葉が、大理石の床にいつまでも重く這い広がっていた。「こっちに来い」 理玖に命じられ、凜は鉛のように重い足を引きずって後を追う。 案内されたのは、メインの寝室だった。 広すぎる部屋の中央に、黒いシルクのシーツが掛けられたキングサイズのベッドが一つだけ、冷たく鎮座している。「この家にあるものは勝手に使っていい。風呂もな」 理玖が壁一面のクローゼットを開ける。 彼自身の高級スーツが整然と並ぶウォーキングクローゼットの中から一着を取り出し、凜に無造作に手渡した。 薄いピンク色の、サテン生地のパジャマだった。――なんで女物のパジャマが……。 指先に触れた滑らかで艶やかな感触を、胸の前に抱きしめるようにして、ただ俯く。 よく見ると、襟元にタグが付いたままだ。――新品のパジャマ……?「明日はお前の服を買いに行く。バイト先にもそう言っておけ。それと、そのパーカーも捨てろ」 混乱する凜には気もくれず、理玖はそう言い残して踵を返し、寝室を出て行こうとした。「あの……どこへ?」「俺はまだやることがあるから、お前は先に寝てろ」 理玖の手には、先ほどの『契約書』と、タブレットが握られていた。 慌てて理玖の背中を追いかけようとしたが、足が縺れた。 理玖は既に寝室のドアを閉めようとしている。「……おやすみ、なさいませ」 か細い声が、唇から零れ落ちた。 重厚なドアが閉じる直前、理玖がほんのわずかに振り返った。 その表情に、ほんの少し昔の面影を感じたのは、気のせいだろうか。 カチャリと冷たい金属音が響き、完全な静寂が落ちる。 分厚い扉一枚で隔絶された薄暗い寝室に取り残された凜は、艶やかなパジャ
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第十三話 無機質な朝

 スマートフォンの目覚まし音に、凜は重い瞼を薄く開き、時刻を確認する。――遅刻する! スヌーズ機能で鳴り続けていた目覚ましを止め、飛び起きた。 だが、視界に飛び込んできたのは見慣れない風景だった。黒いシーツ。白い壁。 一瞬、凜の思考が止まった。 肌を滑るサテン生地の感触に、ようやく昨夜のことを思い出す。――今日、休めって理玖に言われたんやった……。 凜は反射的に隣を確認した。 だが、キングサイズのベッドの右半分は冷たく平坦なままで、枕には皴一つない。 ほっと小さく吐き出した息に、胸の奥がちりと軋む。「……俺のものだって、言ったくせに」 無意識のうちにぽつりと口から零れた言葉を否定するように、頭を振る。 気密性の高い部屋に、空調の音すら響かない左耳がじんと熱を持った。 慣れないベッドのはずだが、寝起きの身体は妙に軽かった。ただ、思考だけが追い付かない。――服買いに行くって言ってたのに、仕事行かはったんかな。 慣れない部屋の、どこか冷ややかな空気の中をリビングへ向かう。 扉を開けた瞬間、凜の身体が固まった。 カーテンの隙間から差し込む朝陽の中で、ソファに窮屈そうに身を横たえる理玖の姿があった。「……凜」 かすかな呟き。聞き間違いかと思うほど小さな、けれど懐かしい響き。 凜は確かめようとして、吸い寄せられるように傍らへ歩み寄った。右耳を口元へ近付け、彼の顔を覗き込む。 静かな部屋に、凜の吐息と、彼の小さな寝息が重なった。 整った寝顔。昨夜のような冷酷さはなく、どこか幼さすら残るその姿に、また胸がちくりと痛んだ。「……何をしている」 突如響いた低い声に、凜の肩が跳ねた。 閉じていたはずの理玖の目が、鋭く凜を射抜いている。咄嗟に逃げようとした手首を、熱い手のひらが逃
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第十四話 ローズレッドの仮面

「ごちそうさまでした」 凜が小さく手を合わせて薄い皿を重ねた、その時だった。 静かな部屋に、無機質なインターホンの電子音が鳴り響いた。 理玖は壁掛け時計を一瞥して、残っていたコーヒーを飲み干し、立ち上がる。「……遅かったな」 そう小さく呟き、理玖が玄関へと向かう。 暫くしてリビングに戻ってきた彼の背後には、見覚えのある人影が続いている。 凜をこのタワーマンションへ連行した、理玖の筆頭秘書、高遠希美だった。 昨夜と同じく、隙のないパンツスーツを着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばした希美の姿に、凜は反射的に肩を竦めた。 今の自分は、理玖に与えられたサテン生地のパジャマ姿で、しかも化粧すらしていない。 だが、希美は凜の姿を見ても表情一つ変えることなく、深く一礼した。「おはようございます、社長。白鳥様。ご指示の品をお持ちいたしました」 淡々とした、ビジネスライクな声。 凜は目を伏せながら、小さくお辞儀を返す。 希美の手には、高級ブティックのロゴが入った黒い紙袋と、黒い小さなポーチが握られていた。「ご苦労。今日は出社しない。何かあったら連絡してくれ」「承知いたしました」 理玖が荷物を受け取ると、希美は再び一礼し、足音一つ立てずに部屋を後にした。 少し遅れて重い扉が閉まり、重苦しい空気だけが残された。 理玖は紙袋とポーチを、ソファ脇に置いた。「とりあえず、これに着替えて準備して来い」「……え?」 唐突な指示に、凜は目を瞬かせる。「服を買いに行くと言っただろうが。俺の隣を歩くのに、化粧もせずパジャマのまま行くつもりか」 理玖の視線が、凜の化粧気のない顔を冷たく一瞥する。「とりあえず、今日着ていく最低限の分は高遠に手配させた。サイズは……我慢しろ」「でも、こんないきなり…
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第十五話 飾られた人形

 無音の車内。滑るように走る漆黒のEVは、やがて休日の喧騒に包まれた銀座のメインストリートへと滑り込んだ。 理玖は銀座の一等地に構える百貨店の地下にある、VIP専用の車寄せに流れるような動作で車を停める。 待ち構えていたかのように、隙のないスーツを着た百貨店の外商担当と、数人のスタッフが足早に近付いてきて、恭しく頭を下げた。「黒瀬様、お待ちしておりました。本日は奥様もご一緒とのことで、心より歓迎いたします」 『奥様』という言葉に、凜の胸の奥がざわつく。 外商担当が助手席のドアを開ける。 凜は震える足でパンプスを地面に下ろした。その瞬間――。「――おいで、凜」 頭上から降ってきたのは、耳を疑うほど甘く、優しい声だった。 車を降りた理玖が、凜の腰にそっと右手を回し、自身の身体へと引き寄せたのだ。「え……っ」 凜の口から、裏返った声が漏れた。 ワンピースの布一枚越しに密着した肌から、理玖の熱い体温が伝わってくる。「ほら、足元に気をつけて。履き慣れない靴で疲れただろう」 店員たちの前で完璧な微笑みを浮かべる理玖の顔を見て、凜は息を呑んだ。 これまでのような、冷酷な独裁者の顔はどこにもない。そこにいるのは、妻を深く愛し、慈しむ『完璧な夫』そのものだった。 突然の出来事に、頬が熱を持つ。――いつも、こうならいいのに……。 けれど、昨夜の理玖の言葉が脳裏に蘇った。『外では完璧で愛し合っている夫婦を演じろ』 凜は引き攣りそうになる頬の筋肉を必死に動かし、店員たちに向けて「……今日はよろしくお願いします」と、口角を上げた。「さぁ、どうぞこちらへ。特別室をご用意しております」 外商担当に先導され、一般客のいない専用のエレベーターに乗り込む。 密室の中で、理玖は凜の腰に回した手を絶対に離そうとしない。それどころか、逃げ出さないとでも言
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第十六話 交わらない体温

 傾きかけた午後の陽光が、流れる車窓を白く飛ばしていく。 後部座席に山のように積まれたブランド品の紙袋が、車の揺れに合わせてかすかに擦れる音を立てていた。 助手席に座っていた凜は、長時間の試着と極度の緊張によって、精神的にも肉体的にも疲労の限界を迎えていた。 アイスブルーのシルクのワンピースは肌触りがいいはずなのに、今は見えない鎖のように身体を重く締め付けている。 新品のパンプスの中で、熱を持って浮腫んだ足を揉みほぐす。――早く、帰りたい。 無機質で冷たい、あのタワーマンション。それでも、今はあのキングサイズのベッドに身を投げ出したかった。 シートに深く身体を沈め、半ば放心しながら窓の外の景色を眺める。 しかし、流れていく街並みに、凜はふと違和感を覚えた。 六本木へ向かうはずの車は、まったく違う方角を走っている。「あの……」 思わず声が漏れた。「なんだ」 前を向いたまま、理玖が短く応じる。「道、違いますよね。マンションは……」「まだやらないといけない事があるだろうが」 理玖の冷ややかな声が、車内の静寂を切り裂いた。「……え?」 凜の鼓動が、嫌な音を立てて早まった。「これから、『明京大学医学部附属病院』に向かう」 その言葉に、凜は弾かれたように顔を上げた。「病院って……まさか、お父さんに会うんですか……?」「当然だろ。これから毎月莫大な治療費を出してやるスポンサーとして、一言挨拶しておく義務があるからな」 淡々と告げられた理由に、凜の血の気がすっと引いていく。「でも、父は寝たきりで、それに……」「なんだ。親に俺を紹介するのは不満か?」 理玖がハンドルを握ったまま、ちらりと凜を睨んだ。その漆黒の瞳に
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第十七話 色褪せた夜

「今日はもう疲れただろ。休んでろ」 理玖のマンションに帰ってきて早々、彼はそれだけを告げて書斎に入っていく。「……はい」 凜はブランド品の山をウォーキングクローゼットの前に運びながら、力なく返した。 運び終えるや否や、ワンピース姿のままベッドに倒れ込む。 何も考えたくなかった。 書斎からは、理玖の話し声がかすかに聞こえる。電話でもしているのだろうか。 やがて、廊下を歩く足音が遠ざかり、玄関ドアの開く音がして、閉じた。 部屋に静寂だけが漂う。 凜は瞼を閉じた。 たった一日のはずが、もう何日も経ってしまった気がする。 暗闇の中で、ふと、生温かい風の匂いがした。* * *「ねぇ、理玖くん。将来、もし一緒に住むことができたらさ……」 いつかの放課後。夕焼けに染まる屋上で、隣に座る理玖の顔を見上げながら口にした夢。「安物でもいいから、お揃いのマグカップ買ってさ。毎朝二人で温かいコーヒー淹れて、くだらない話して笑いたいな」「なんだよそれ。今はまだ無理やけど、絶対、世界で一番いいマグカップ買ったる。だから、もうちょっとだけ待っててくれ」「ううん、なんでもええの。理玖くんと一緒なら、なんでも」 理玖が少し赤くなった顔で、照れくさそうに笑う。「俺さ、高校卒業したら……働こうと思うんだ」 理玖が一瞬言葉を詰まらせたが、凜はただ静かに聞いていた。 グラウンドから響く運動部の掛け声が、どこか遠く聞こえる。「あーもう、こんなとこおった。三人で一緒に帰ろって言ってたのにー」 背後から、菜央の声がした。振り返ると、菜央が大袈裟に頬を膨らませていた。「なんの話してたの?」「将来、どうしようかって」 凜がおどけて答えると、理玖は頭を掻きながら、そっぽを向いた。「そう言えば、二人とも進路
last updateLast Updated : 2026-07-22
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第十八話 遠い体温

 凜は昼間購入したブランド物の整理を終え、再びリビングのソファに座り込んでいた。 また一つの番組が終わって、気付けば時刻は二十三時を回っている。 理玖からの連絡はない。広い部屋には、自分以外の気配は完全に消え失せていた。――お風呂入ろう……。 ローテーブルにリモコンを置き、重い腰を上げて洗面所に向かう。 脱ぎ捨てたアイスブルーのシルクのワンピースには、深い皺が走っていた。 指先でそっとなぞると、滑らかな生地に荒れた肌が引っかかる。 広大で無機質なバスルームで熱いシャワーを浴びても、身体の芯に巣食った冷えは取れなかった。 洗面所に戻り、籠の中に入れたままだった薄いピンク色のサテンパジャマに袖を通す。 胸元のネックレスが小さく鳴った。 濡れた髪を乾かし、再び薄暗いリビングへと戻る。 ふと、キッチンの扉横に置かれた、ビニール袋と、その横に置かれた紙袋が目に入った。食器用洗剤とコーヒー豆だ。「そうだ……洗い物、しないと」 誰にともなく呟いて、ローテーブルに置かれたままのマグカップを持って、シンクへと向かう。「あ、スポンジ……」 仕方なく、指先に洗剤を垂らして擦る。けれど、マグカップの底に蓄積していたコーヒー渋は取れなかった。 諦めて、軽く水を切って食洗機で乾かす。 数分もかからずに洗い終わってしまった。 紙袋からコーヒー豆を取り出す。 最高級のコーヒー豆だと百貨店の外商が言っていたもの。 それはスーパーでよく見かける袋ではなく、あの夜のシャンパンを思わせるような、深く黒いガラスボトルに密閉されていた。 冷たいガラスの感触に、喉の奥に黄金色の苦みが蘇って、指先がかすかに震える。――折角やし、淹れてみようか。 そう思い、ボトルのコルクに手をかけて、ふと動きを止めた。『毎朝二人で温かいコーヒー淹れて、くだらない話し
last updateLast Updated : 2026-07-25
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第十九話 温かいトンカツ

 通勤ラッシュの時間帯は過ぎたとはいえ、地下鉄の車内はまだ会社員たちの熱気に満ちていた。 この時間帯の電車に乗るのは、久しぶりだった。 他人の吐息が髪にかかる。 何より、見知らぬ他人の鞄や肩がぶつかるたび、昨日理玖に買われたばかりの高級シルクのワンピースが傷つかないかと、気が気ではなかった。 汚してしまえば、またどんな冷たい言葉を投げつけられるか分からない。 凜は革の鞄を抱き締めるようにして縮こまる。 慣れないパンプスの爪先が痛む。 汗ばんだ額を撫でる荒川区の風は、どこか懐かしい気がした。 一度、元の自宅へ戻ろうかとも思ったが、そのまま駅前の定食屋へ向かうことにした。 アルバイトまではまだ時間があったが、昼食の仕込みをしているはずだ。 暖簾のかかっていない引き戸を開く。 カウンター席の裏で小気味よい包丁の音を鳴らしていた店長がこちらを見た。「おう、凜ちゃん。どうした、やけに早いじゃねえか」「ちょっと理由があって……。あの、昨日は急にお休みをいただいて、すみませんでした」 凜が頭を下げると、店長の視線が凜の服に止まり、にやりと口角を上げた。「いいってことよ。昨日、低い声の男から電話がかかってきた時は驚いたけどな。『白鳥凜は休ませる』なんて、えらく威圧感のある彼氏さんじゃないか」「えっ、違っ……あの、あれはそういうのじゃなくて」「隠さなくていいって! 随分とめかし込んじゃって。彼氏さんに、大事にされてんだな」 店長は恰幅の良い肩を揺らして、豪快に笑う。「違うんです、本当に……」「いいじゃねえか。いつも同じパーカー着てがむしゃらに働いてたんだから、たまには彼氏に甘えて、お洒落もしねえとな!」 悪気のない、心からの言葉だった。 しかし、それがかえって凜の胸
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第二十話 逃げ場のない部屋

 町屋駅から六本木へ向かう電車の中、凜は生きた心地がしなかった。 スマートフォンの暗い画面に表示されていた、理玖からの『逃げるのか?』というメッセージが、網膜にこびりついて離れない。 電車を待つ間も何度も電話をかけたが、無機質な呼び出し音が響くだけだった。メッセージを送っても返信はない。 理玖を怒らせてしまったのではないかと焦燥が這い上がり、指先が氷のように冷たくなっていく。 乗り換えの駅の雑踏を、慣れないパンプスで必死に走った。踵には靴擦れができ、ずきずきと痛んだ。 ようやく辿り着いた、六本木のタワーマンションの最上階。 エレベーターを降りた凜は、毛足の長い内廊下のカーペットを蹴るようにして走り、理玖の部屋のドアの前に辿り着いた。 息が上がり、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち付けている。額に滲んだ汗が冷たく頬を伝った。 震える指で鞄から鍵を取り出し、センサーにかざす。乾いた電子音が、内廊下のカーペットに吸い込まれていく。 重いドアを肩で押し開けた。 荒い呼吸音が、白黒の大理石で統一された玄関に木霊する。 急いで靴を脱ぎ捨ててリビングへと向かうと、部屋の中は異様なほど暗かった。 巨大なガラス窓の向こうに広がる青空が、ひどく無機質に切り取られて浮いている。 照明の点いていない広大な空間に、氷のように張り詰めた空気が漂っていた。「――何をしていた」 薄闇の中から、地を這うような低い声が落ちた。 凜の肩がびくりと跳ねる。 窓から射し込む陽の光を背に受けて、黒い本革のソファに深く沈み込んでいる影があった。理玖だ。「だって、アルバイトは続けてもいいって……」 言い訳は、理玖の舌打ちに掻き消された。 凜は反射的に身を竦めた。 理玖がゆっくりと立ち上がる。凜の足元に彼の影が伸びてきた。 逆光で表情は読めないが、その全身から放たれる
last updateLast Updated : 2026-07-27
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