四月の雨が、新緑の街路樹を濡らしていた。中谷朱里は、傘を持たずに会社を出た自分を心底呪っていた。天気予報では晴れのはずだったのに、午後から急に雲行きが怪しくなり、今では本格的な雨に変わっている。「最悪……」スマートフォンで時刻を確認する。午後六時四十分。重要なクライアントとの打ち合わせが明日の朝一番にあるというのに、資料を会社に忘れてきてしまった。新人の頃から完璧主義で通してきた朱里にとって、こんな失態は許されない。雨脚が強くなる中、朱里は意を決してビルから駆け出した。会社まで三ブロック。全力で走れば五分とかからない。濡れるのは我慢するしかない──。「中谷さん!」背後から声をかけられ、朱里は振り返った。雨の向こうから、黒い傘を差した男性が走ってくる。平田嵩。営業部のエース。朱里より三つ年上で、社内でも評判の好青年。「どうしたんです、こんな雨の中」嵩は息を切らしながら朱里に傘を差し掛けた。「傘、お持ちじゃないんですか?」「あ、いえ……資料を取りに戻るだけなので」朱里は慌てて答えた。傘の下に入ると、彼の体温が近くに感じられる。シャツに残る微かな香水の匂い。整った横顔。心臓が、さっきまでの雨よりも激しい音を立てている。「資料って、明日の朝のプレゼンの?」「え……どうして知ってるんですか?」「噂で聞いたんです。中谷さんが大きな案件を任されてるって。すごいじゃないですか、入社二年目でクライアント相手にプレゼンなんて」嵩の声には
Última actualización : 2026-07-07 Leer más