All Chapters of 娘の命日に離婚宣告。クズ夫が土下座で大後悔: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話

そのことに思い至った昭は、ぞっとした。あれほど芯の強かった遥が、こんな痛ましい状態にまで追い込まれてしまうとは。昭は嫌な予感を覚えた。だが、その答えは、これから行われる手術で明らかになるはずだった。本当は、他人の心の中を覗き見るなど決して望んではいなかったが。どうやっても調べがつかないこの一件は、記憶消去手術の際、脳波を通じて遥の記憶を映像として再現できるという。その過程は本人にとって非常に苦しいものだが、それもまた記憶を消すために避けられない工程だった。その頃、遥は静まり返った屋敷の中で、虚ろな表情のまま座り、絶えずお腹を押さえていた。それは遥にとって、生き続けるための希望だった。泣き叫びたいのに、涙はもう一滴も出てこなかった。昭は、かつて多くの人から注目されていた遥がこんな痛ましい姿になってしまったことに、思わず重いため息をついた。彼は温かいミルクを入れたカップを手に、遥のそばに歩み寄った。「医師とはもう話をつけたよ。明日の夜には手術ができるそうだ」遥は顔を上げ、その言葉を聞いた瞬間、目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとして、ついに堪えきれず声を上げて泣き出した。「ありがとう……!」もう長いこと、思い切り泣くことさえできなかった。今、ようやく真っ暗な世界に一筋の光が差したような気がして、涙が止まらなかった。「大丈夫だよ、遥さん。あの苦しい記憶が、もう君を苦しめることはなくなるよ。回復したら、また仕事を始めればいい。手のリハビリも、専門の人を探して手伝ってもらうから」人が深い絶望の底に落ちている時、最も必要なのは一筋の光だ。昭のその力強い言葉は、まさに遥にとっての一筋の光だった。そして、その言葉は確かに効果があったようで、遥は少し気力を取り戻したように見えた。「うん。昭がよければ、これからも曲を作って力になりたいわ」それを聞いた瞬間、昭の表情がぱっと明るくなった。彼は遥の才能を誰よりも心から認めていたから、その一言は昭にとって何よりのご褒美だった。「もちろん構わないさ。新作を楽しみにしているよ、作曲家さん」ふたりはその話題をきっかけに、たわいのない穏やかな会話を続けた。昭はその様子をそっと観察していたが、確かに最初の頃よりは落ち着いているように見えた。だが昭が知らなかったことがある。それ
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第212話

「そのリスクというのは……」ノレッドが詳しい説明を始めようとする前に、遥はその言葉を遮った。「大丈夫です。どんな不測の事態が起きても、もう何も怖くありません」どんな危険が待っていようとも、遥は今の地獄のような苦しみから、1日でも早く逃れたかったのだ。「分かりました。では準備をしますので、少々お待ちください」説明を最後まで聞こうともしない様子から、遥がどれほどギリギリまで追い詰められているかは十分に伝わっていた。まさに窮地に追い込まれた末の決断だった。人は極限まで追い詰められると、後先を考える余裕もなくなるものだ。「それでは、遥さん。こちらへどうぞ」ノレッドの自宅には、専用の医療室が設けられていた。屋敷というよりは、彼専用の病院と呼んだほうが近かった。1階は生活スペース、2階は娯楽施設、3階が医療室になっていた。昭の話から推測する限り、彼の診察を受けるのは非常に難しく、今はほとんど第一線を退いているらしかった。ノレッド自ら執刀し、しかもこの自宅で治療を受けられるのは、極めて限られた人間だけだった。遥も、その数少ない患者のひとりだった。「これから薬を注射します。怖がらなくて大丈夫ですよ。手術の流れを簡単に説明しますね。あなたの苦しい記憶は、手術中にもう一度鮮明に浮かび上がってきます。もう一度その苦しみを味わうことになるかもしれませんが、耐えられますか?」苦しい記憶が再び現れなければ、それを消すこともできないのだ。その言葉を聞いて、遥の顔はさらに青ざめたが、それでも遥は迷うことなく答えた。「耐えられます」本当は、わざわざ再現するまでもないことだった。彼女の脳裏では、それらの生々しい苦しみはいつでも、どこにいても彼女を苛み続けていたのだから。たとえそれが、断片的な形であったとしても。だが、それが再びすべて一度に鮮明に蘇ってくるのだと思うと、やはり少しだけ恐ろしかった。「それでは、こちらに横になってください」遥は少し体をこわばらせながら手術台に横になった。ノレッドは、何本ものケーブルがつながったヘッドギアを遥にそっと装着した。遥はゆっくりと目を閉じた。しばらくして、肌に注射針が刺さる感覚があった。その後、頭がひどくぼんやりとし、次々と過去の場面が脳裏に浮かび上がってきた。記憶を消す
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第213話

昭はそれを拒むことなく、小さく頷いた。「ああ。このことは、お前に言われなくても怜司に話すつもりはないよ」少なくとも昭は、怜司が真実を知れば、また遥に執着してつきまとうだろうと考えていた。それは昭が望む結果ではなく、ましてや遥自身が望む結果でもないはずだった。最初の頃の幸せな記憶が映し出されている間は、遥の表情にそれほど苦しみは表れていなかった。だが、記憶が進むにつれて、辛い出来事も次々と映し出されていく。遥は少しずつ眉をひそめるようになり、昭も、その後に起きた過酷な出来事を次々と目の当たりにした。遥の反応を見る限り、確かに苦しんではいるものの、それほど激しい感情の起伏は見られなかった。やがて、記憶は遥が拉致された場面に至った。怜司が花梨を選んだあの場面でも、遥に大きな感情の揺れは見られなかったのだ。昭にはもうはっきりと分かっていた。遥をここまで絶望させたのは、絶対にこの出来事のせいではない。ノレッドもこれまで数々の修羅場を見てきた人間だったが、遥が歩んできた壮絶な人生を目の当たりにし、思わず眉をひそめた。「君の友人は、本当に悲惨な人生を送ってきたんだな……」昭は強く拳を握りしめた。彼もまた、遥の人生のあまりの苦しさを痛感していた。怜司は遥にふさわしくない。少なくとも昭はそう確信している。遥にはもっとふさわしい相手がいるはずだ。実のところ、今回ノレッドに協力を頼んだのには、昭なりの密かな思惑もあった。遥が経験したことを知れば、ノレッドも彼女を好きになるのではないか。彼のこの友人は、変わり者で人付き合いが苦手で、口も悪い。だが、この男に心から愛される女性は、きっと幸せになれる。「ああ。この先を見るのは、僕も耐えられなくなりそうだ」遥の記憶は、ほぼ見終えていた。だが、遥を今のこの状態にまで追い込んだのは、絶対にこれまでの出来事ではない。ノレッドもずっと遥の記憶を冷静に見続けていた。これまでの悲惨な経験が遥の心を限界まで脆くしたことは確かだろう。だが、記憶を追体験している遥の反応を見る限り、今のような姿にまで心が完全に壊れてしまった理由としては、まだ説明がつかなかった。やがて、遥が突然激しくもがき始める場面に差し掛かった。昭もその恐ろしい映像を目にした――靖也が、あの薬剤の作用を残忍な口調で説明して
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第214話

だがノレッドは個人的に、こうした深い憎しみを抱えずに生きたほうが、遥にとってより良い人生になるのではないかと思っていた。「本当にありがとう、ノレッド。ここまで気を配ってくれるとは思わなかったよ」その言葉を口にして、昭はやっと重い肩の荷が下りたような気がした。ここ数日、遥の苦しむ姿を見るたび、彼自身の胸も痛んでいたのだ。「ちょっと無理な頼みなんだけど、最近会社の仕事が忙しくてね。しばらく遥さんの面倒を見てもらえないかな。それに、お前は遥さんの主治医でもあるし、そのほうが回復にもいいと思うんだ」実のところ、昭はこのふたりを引き合わせたいという思いも抱いていた。もちろん、この頼みも半分はノレッドがどう動くか試すためのものだった。何しろ、昭はこの友人の極端な性格を誰よりも分かっている。こんな面倒な頼みを引き受けてもらうのは、不可能に近い。そう思いながら、彼はあくまで軽い調子で口にしたつもりだった。「いいよ。最近は暇だから」「……え?」そのあっさりとした返事を聞いた昭は、その場で石のように固まってしまった。信じられないという顔でノレッドを見つめる。「お前、本当に引き受けるのか?」ノレッドはそれ以上は答えず、黙って機器の片付けを始めた。こんな急展開があるとは思わず、昭は内心ではすっかり満足していた。「ありがとう。じゃあ、僕は会社に戻るよ」早々にその場を離れたのは、ふたりきりの時間を作るためでもあり、会社が本当に忙しいからでもあった。そして何より、この変わり者の友人がこんな頼みを受け入れるなど、二度とない機会だ。早く退散するに限る。ノレッドはハーフで、医学の天才だった。国内で活動した期間より、海外で過ごした時間のほうが長かった。昭が知る限り、ノレッドには特に親密な交際相手もいなかった。かつて恋人がいたと聞いたことはあるが、その後なぜ別れたのかについて、ノレッドは一切語らず、昭もあえて聞かなかった。今回こちらに戻ってきたのも、ちょっとした暇つぶしのようなものだった。何しろ、ノレッドの診察を受けたいと望む者は世界中にごまんといて、予約を取ることすら至難の業だったのだ。「昭、遥さんが調べていた件の黒幕は、西園寺家なんだろう?」出口に向かっていた昭は、その鋭い一言に思わず立ち止まった。「そうだ。僕も遥さん
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第215話

遥が映像を見ると、この屋敷を訪れ、目の前の男と話している自分の姿が一部始終映っていた。ノレッドはそこで、遥がなぜここに来たのかを淡々と説明した。耐えきれないほどの苦しみがあったからだと。その苦しみの具体的な内容までは語らず、あくまで大まかな状況だけを伝えるにとどめた。「そういうことだったんですか……」映像を見た限り、確かにこれは自分から望んで頼んだことだった。それでも今は、何も覚えていない。何も覚えていないという恐怖が、遥を絶望的な気持ちにさせた。心理面の診療にも詳しいノレッドには、遥の動揺がすぐに分かった。「もうひとつ、以前あなたが録った動画があります。見てみてください」その映像には、ごく基本的な情報だけが語られていた。映っているのは、間違いなく自分自身だった。映像で語られていたのは、次のようなことだった――自分は菅原遥という名で、ピアノが好きで、楽曲制作を仕事にしていること。西園寺昭と仕事で組んだことがあり、昭は仕事上の取引相手であり、依頼主でもあること。そして、このノレッドという医師もまた、昭が紹介してくれた人だということだった。映像の中の自分の言葉によれば、自分が味わった苦しみはすべて藤井怜司という男によるものであり、彼は自分の子供を無残に死なせ、さらに今お腹にいる子供まで傷つけようとしていた。映像の中の遥の様子からは、その男への激しい憎悪と嫌悪が見て取れた。その男は、ひどい悪事を働いてきた人間なのだと感じた。「ありがとうございます、先生」聡明な遥は、すぐにおおよその事情を呑み込んだ。実は、この映像には一部編集が加えられていた。彼女はもともと、菅原家を陥れた黒幕は西園寺家で、最も疑わしい人物は西園寺善起だと語っていた。だが、ノレッドと昭は話し合った末、その部分を映像からカットしていた。ふたりは、遥がこれ以上憎しみの中で生きていくことを望まなかったのだ。もちろん、ノレッドは昭にも伝えていた。もし西園寺家に対処する必要があれば、いつでも力になると。それもまた、彼なりの、この依頼人への厚意だったのだろう。「どういたしまして。ここは僕の家ですから、これから何か困ったことがあればすぐに言ってください。手術後は状態が不安定になる可能性もありますから、体調を確認しておく必要があります」ノレ
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第216話

記憶は失っても、体にはまだ以前の感情が残っているようだった。ふとした拍子に、涙がこぼれることがあった。けれど悲しいという感覚はなく、ただ心にぽっかりと穴が空いたような気分になるだけだった。「これが後遺症というものなのかしら……」遥は小さく呟き、頬を伝う涙をそっと拭った。かつて受けた苦しみが、どれほど深刻なものだったのか。今の自分の状態が、それを如実に物語っていた。同時に、遥は菅原家の事業にも改めて目を向け始めていた。自分で残した動画のおかげで、自分も会社を持っていることは分かっていた。記憶が欠落しているのは厄介だったが、遥は会社の資料に丹念に目を通して経営状況を把握し、幹部たちとも連絡を取り合った。遥が姿を消していた間、菅原家の事業は多少停滞していたものの、大きな影響は受けていなかった。それを知って、遥はわずかに安堵した。とはいえ、これは誰かが陰で支えてくれていたとしか考えられない。だが、それが誰なのかは分からなかった。遥は以前と同じように会社へ出勤するようになり、オフィスの窓際に立ち、温かいコーヒーの入ったカップを手にしていた。窓ガラス越しに、賑わう街並みを見下ろしていた。忙しい日々を送るうちに、意図せず涙がこぼれることも確かに減っていた。その日、出社すると、見知らぬ男がビルの入り口に立ち、じっとこちらを見つめているのに気づいた。その眼差しは、こちらを威圧するようなものだった。けれど、遥は特に深く考えなかった。ほどなく、受付からの内線が鳴った。「菅原社長、藤井様という方がお会いしたいとおっしゃっています」受付の声に、遥は一瞬戸惑った。――藤井?その名字に心当たりはなかった。ただ、あの動画に「藤井怜司」という男の名前が出てきたことだけは覚えていた。つまり、先ほど自分を見つめていた男が藤井怜司なのだろう。「お引き取りいただくよう伝えてください」遥の声は落ち着いていて、迷いのかけらもなかった。「ですが……藤井様はどうしてもお会いしたいとおっしゃっていて、お断りしても、会えるまで待つとおっしゃっています」受付の声には深い困惑がにじんでいた。遥の眉間に深い皺が寄った。藤井という苗字を聞いただけで、反射的に冷や汗がにじんだ。「それなら、そのままお待ちいただいて」遥は冷た
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第217話

遥はスマホを強く握りしめ、指先がわずかに白くなった。知らないふりなどしていない。本当に、この男のことを何ひとつ知らないのだ。少なくとも、今の自分の記憶ではそうだった。だが、これまでのやり取りを経て、目の前にいるこの男が怜司だということだけは確信していた。遥は怜司を正面から見据え、冷たく言い放った。「もう一度言いますが、私はあなたを知りません。これ以上付きまとうなら、すぐに警察を呼びます」指はすでに発信ボタンにかかっていた。怜司の瞳が暗く沈み、ふいに手を伸ばして遥の細い手首を掴んだ。力はそれほど強くはなかったが、電話をかけるのを阻むには十分だった。「遥、頼む……そんなことはしないでくれ」その声は痛ましいほどかすれ、必死に感情を抑えつけているようだった。「俺はただ、靖也がお前に何をしたのか知りたいだけだ。今のお前の様子が……心配なんだ」手首を握られた瞬間、全身に強い恐怖と嫌悪感が込み上げた。振り払いたくても、簡単には逃れられなかった。「放して!」遥は焦りと恐怖を募らせながら叫んだ。「何を言っているのか分からない!靖也って誰?そんな人、知らない!もう近づかないで!」怜司は眉をきつく寄せ、手を放さないまま、むしろさらに身を寄せた。「遥、お前が俺を憎んでいるのは分かっている。でも、何も知らないふりをするのはやめてくれないか」目の前の男は、遥が話したがらないだけだと思っているらしい。だが、そう思われているのなら、遥もこれ以上説明するつもりはなかった。あの動画で、過去の自分がこの男を激しく憎んでいたことは確認していた。だからこそ、記憶を失った事情まで明かすつもりはなかった。「覚えてない……本当に覚えてないの!」遥の声には悲鳴のような響きが混じり、目元がわずかに赤くなっていた。「放してよ!こんな話、もう聞きたくない!」怜司は遥の苦しげな表情を見て、また何か辛い記憶を思い出させてしまったのだと思い、弾かれたように手を放し、一歩後ろへ下がった。「すまない、遥。無理に迫るつもりはなかったんだ」手首の自由を取り戻した遥は、すぐに数歩下がり、怜司との距離を取った。呼吸はまだ荒く乱れたままで、その瞳には警戒と不安が色濃く浮かんでいた。「出ていってください」その声は、先ほどよりもさらに冷たかっ
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第218話

さらに、怜司は目の前の男が口にした「心理面の治療」という言葉に強く気を留めた。やはり、遥の心に何らかの深刻な問題が起きているということか。「……分かった。帰る」怜司の声には嫉妬がにじんでいたが、遥の危うい状態を考えると、これ以上刺激して怒らせるわけにはいかなかった。怜司は仕方なく踵を返し、執務室を出ていった。扉が重く閉まり、室内には一瞬にして深い静寂が戻った。遥の体はわずかに震え、呼吸はまだ整わないままだった。彼女は椅子に座り直し、デスクの角を白くなるほど強く握って、必死に気持ちを落ち着かせようとした。ノレッドが静かに歩み寄り、そっと遥の肩を叩いた。声は柔らかかった。「遥さん、大丈夫ですか?何かお手伝いできることはありますか?」遥は顔を上げた。今、ノレッドに対しては、ただ深い感謝の気持ちしかなかった。「ありがとうございます。先生が間に入ってくださらなかったら、私、どうすればいいか分からなかったと思います」ノレッドは安心させるように微笑み、遥の気持ちをなだめるように言った。「当然のことをしたまでです。今はしっかり休んで、気持ちを落ち着けることが大切です。あまり緊張したり、不安になったりしないようにしてください。よければ、少しお話しして、気持ちを落ち着けるお手伝いをしましょうか?」遥は深く息を吸い込んだ。「はい、ありがとうございます」「今はもう、あの人のことを覚えていないんですよね。それでも顔を見ると、拒絶反応が出るんですか?」その指摘に、遥は言葉を失った。確かに、あの人の記憶は一切ない。それでも、本能的な恐怖が先に出てしまう。それだけで、あの男が自分にどれほど深い傷を残していったかが痛いほど分かるのだ。「ええ。怖いんです、あの人が」遥は力なく頭を垂れた。自分でも、なぜこれほど怖いのか分からず、戸惑っているようだった。「大丈夫ですよ。ゆっくりでいいので、深呼吸してください」ノレッドの瞳には、冷たい光が宿っていた。記憶消去は間違いなく成功した。それなのに、怜司というあの男は、記憶を失った今でも、遥をこれほどまでに苦しめることができるのか。「大丈夫です。実は、あの人に対しては怖いという気持ちのほうが強くて、それほど辛いとは感じないんです」ノレッドは遥としばらく穏やかに話を交わし、状態
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第219話

遥は執務室に座ったまま、硬い表情を浮かべていた。指先でデスクを軽く叩きながら、冷たい眼差しを向けていた。怜司の突然の訪問が、ようやく取り戻した平穏をかき乱していたのだ。さらに彼女を苛立たせたのは、社長の許可もなく怜司を執務室まで通した者がいたという事実だった。遥は内線のボタンを押し、冷え切った声で告げた。「警備責任者を、すぐにここへ呼んで」ほどなく、警備責任者がひどく慌てた様子で執務室に駆けつけてきた。彼は遥の前に立ち、額に脂汗を浮かべ、事態の深刻さを察しているようだった。「菅原社長、お呼びでしょうか」その声はわずかに震えていた。遥は顔を上げ、刃のように鋭い視線を向けた。「今日、藤井怜司をここへ通したのは誰?会社には明確な規則があるでしょう。私の許可なく、誰も執務室に入れてはならない。一体どういう警備体制になっているの?」責任者は深く頭を下げ、動揺した声で答えた。「こっ、これは……私たちの不手際です。今日の担当警備員が……藤井様を社長のご主人だと思い込んでいて、それで止めずに通してしまったようです……」「ご主人!?」遥の声が一段と高くなった。その不快な言葉を聞くだけで、胸が痛んだ。「私たちはすでに離婚しているわ。それを知らなかったとでもいうの」責任者はさらに緊張し、慌てて説明した。「いや、その警備員たちは、一部の古参社員から、おふたりはまだ離婚していないという噂を聞いていたようで、それで……」遥の眉間がきつく寄った。彼女は冷酷に言い放った。「その警備員たちをここに呼んで。それと、その下らない噂を流していた古参社員たちも一緒に。一体誰がそんな根も葉もない話を広めているのか、はっきりさせてもらうわ」責任者はすぐに頷き、逃げるように執務室を出ていった。昭から聞いた話では、遥は離婚後、その事実をすでに周囲に知らせていたはずだった。記憶を失う前の自分が、怜司を会社に入れないよう指示していたことも、昭から聞いていた。それなのに、今になって勝手に通す者がいるとは。しかも、理由があまりにも馬鹿げている。ほどなく、数名の警備員と古参社員たちが執務室に呼ばれてきた。彼らは遥の前に立ったが、どこか見下したような態度で、社長である遥を軽んじていた。遥は彼らを冷ややかに見渡した。誰か後ろ盾
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第220話

遥はその場で怒りを爆発させることはせず、ぐっと胸の内に押しとどめ、まずは彼らに少し痛い目を見せることにした。「噂を信じただけだと言うのなら、その行動の責任は自分たちでしっかり取ってもらうわ。今日から1週間、出勤停止処分にするわ。それから、しっかり反省文を書いて提出してちょうだい。また同じようなことがあったら、それなりの責任を取ってもらうわ」古参社員たちは、いきなり出勤停止を言い渡されるとは思っていなかったのだろう、顔には明らかな不満の色が浮かんだ。その中のひとりが口を挟んだ。「我々は会社の古株ですよ。そんな処分は、あまりにも情がなさすぎませんか?」遥は冷笑した。――どうやら私はずいぶん舐められたものね。社長に向かってこんな口の利き方をするとは!「会社のルールはルールよ。誰であろうと、破れば責任を負う。あなたたちは長く勤めている社員だからこそ、率先して規則を守るべきでしょう。それなのに、自分たちから規則を破るなんて、話にならないわ」古参社員たちは遥の圧倒的な気迫に気圧され、それ以上は言い返すことができず、不満げに執務室を後にした。全員が出ていった後、遥は静かに椅子の背にもたれかかった。この件は、そう単純なものではない。これほど堂々と会社の規則を無視できるのは、間違いなく裏で糸を引いている者がいるからだ。彼女は内線のボタンを押した。「財務部と監査部の責任者を、すぐに呼んで」ほどなく、ふたりの責任者が慌てた様子で執務室に駆けつけた。「社長、お呼びでしょうか」遥は頷き、冷徹な眼差しで言った。「最近の会社の帳簿に不審な点がないか調べてちょうだい。特に、あの古株たちが担当している案件は念入りにね」監査部の責任者はすぐに頷いた。「かしこまりました。すぐに調査を始めます」ふたりが動き出す前に、遥はきつく念を押した。「この件は絶対に秘密にしておいて。誰にも知られないように。憶測ではなく、客観的な証拠が欲しいの」ふたりは慌てて頷き、執務室を出ていった。数日後、監査部の責任者が、分厚い報告書を持って遥の執務室を訪れた。責任者の表情は険しく、調査結果が決して良くないものだったことは明らかだった。「こちらが調査の結果です」彼は報告書を手渡した。「あの古参社員たちが担当していた案件に
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