All Chapters of 娘の命日に離婚宣告。クズ夫が土下座で大後悔: Chapter 221 - Chapter 230

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第221話

何も分からないというこの感覚が、遥をひどく不安にさせた。このところの会社の出来事で、彼女は少し疲れを感じていた。靖也が数人の厄介な社員を利用して、会社に混乱を起こしているようだった。影響は小さいとも大きいとも言い切れない程度だった。ただ、今の自分の記憶の中には、靖也という人物はまったく存在しなかった。あるいは、記憶があった頃も、この人物とは絶対に関わりたくないと思っていたのかもしれない。それほど重要な相手ではなかったのかもしれないが、遥はどこか、そう簡単な話では済まないという不吉な予感を抱いていた。社長である遥が少し会社を離れたところで、業務に大きな支障はないだろう。彼女は前もってノレッドに電話を入れていた。彼は、いつでも歓迎すると快く答えてくれた。だが遥が知らないことがあった。ちょうど今、昭がノレッドと激しく言い争っていたのだ。「それはないだろう、ノレッド!お前は医者だ、しかも医者としての崇高な倫理を持っているはずだ!それなのに、遥さんから電話があっただけで、億単位の報酬がかかった大富豪との予約をあっさり後回しにするなんて!」海外の大富豪が、以前からノレッドに診察を依頼していた。その人物の娘が病気で、治療できる可能性があるのはノレッドだけだと言われていたのだ。これまでノレッドはずっと断っていたが、少し前、何かの気まぐれで診療を引き受けることにしたらしい。それなのに、結局それも後回しにしてしまった。昭が覚えているノレッドの台詞はこうだった。「僕のVIP患者が僕を必要としなくなったら、行ってやる」その話を聞いた富豪は激怒し、一体その「VIP患者」とは何者なのかと、ひどく気になっているらしい。ノレッドはお茶を飲みながら、軽く笑って言った。「はっ、僕が君の友人を大切に診ているんだ。喜ぶべきじゃないか」その軽やかな一言に、昭は言葉を失った。彼自身、遥が特別扱いされること自体に不満があるわけではない。「そうじゃないんだ。お前は分かっていないかもしれないが、お前のこの行動は、遥さんを思わぬ危険にさらすかもしれないんだぞ。あの富豪は、お前のVIP患者が誰なのかを血眼になって調べるだろう。その怒りが遥さんに向かうかもしれないんだ」長く海外で暮らしてきたノレッドには、こちらの事情がよく分かっていないのかもしれない
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第222話

「藤井靖也は藤井怜司の従兄弟だ」ノレッドは静かに切り出した。「あのふたりはずっと折り合いが悪かったんだ。藤井靖也は以前、君に対してよからぬ気持ちを抱いていたことがある。君はそれを受け入れなかったばかりか、彼の計画を何度も阻止したんだ。それで靖也は恨みを募らせ、ついには君を拉致する計画まで立てたんだ」拉致?確かに覚えていない出来事だったが、その言葉を聞くだけで背筋が凍りついた。遥の指先に無意識に力が入り、手にした温かい湯呑みがかすかに震えた。「……それで、その後はどうなったんですか」遥の声はわずかにかすれていた。ノレッドはしばらく黙り込み、慎重に言葉を選んでいるようだった。彼は隣に座る昭にちらりと視線を向けた。昭は小さく頷き、先を促した。「その後、君は無事に逃げ出したんだ。ただ、その経験で君は深く傷ついてしまったんだ」ノレッドの声には深い憐れみがにじんでいた。「詳しいことは話さないでおく。ただ、この事件がきっかけで、君が記憶消去を選んだということだけは知っておいてほしい」拉致されたというだけなら、記憶を消すまで思い詰めることはなかったはずだ。しかもノレッド先生は、あえて詳しくは話さないと明言した。つまり、彼女を限界まで苦しめた本当の出来事は、まだ何ひとつ語られていないということだった。遥もそれ以上は追及するまいと決めた。無理に知ったところで、今の自分では受け止めきれないかもしれない。「先生」遥は立ち上がり、深く丁寧に頭を下げた。「教えてくださって、本当にありがとうございます。私にとって、とても大切なことです」ノレッドは穏やかに微笑み、軽く手を振った。「礼なんていらないよ。医者として、当然のことをしただけだ」だが、遥は昭にもきちんと礼を伝えたかった。静かに振り返ると、昭のほうをまっすぐ見た。「昭、今日は本当にありがとう。昭がいなかったら、私、まだ何も知らないままだったと思う」突然礼を言われた昭は、優しく笑った。「そんなに気を遣わなくていいよ。僕たちは友達なんだから、助け合うのは当たり前だろ」ふたりとしばらく穏やかに言葉を交わした後、遥はバッグを手に取り、帰る準備を始めた。「遥さん」ノレッドが静かに呼び止めた。「ひとつ、伝えておきたいことがある」遥は足を
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第223話

遥は会社に戻ってからも、すぐに反撃には出なかった。靖也が社内に人を送り込んできた以上、相応の準備をしているに違いない。下手に動けば、藪をつついて蛇を出すようなもので、むしろ相手に手痛い反撃の機会を与えることになる。そこで遥は、静かに動く方針を選んだ。表向きは社内の混乱にまったく気づいていないふうを装い、靖也の操る「厄介者」たちが好き勝手に振る舞うのを、しばらく泳がせておくことにした。社内の空気は、次第に張り詰めていった。数名の古参社員が、長年の勤務実績を盾に取り、公然と会社の資金を流用し、職権を濫用し、ついには遥の権威に公然と楯突くような態度を取り始めたのだ。社員たちは不満を募らせ、社長はもう会社を掌握できていないのではないかと、陰で噂し合っていた。「社長、最近どうしたんだろう。なんであんな問題を放っておくんだ?」「そうだよな、このままじゃ会社は彼らに食い物にされるぞ」「まさか、靖也たちに怯えて手が出せなくなってしまったんじゃないだろうな」遥はそうした噂に一切耳を貸さず、相変わらず定刻どおりに出社し、粛々と日々の業務をこなしていた。その静けさに、厄介者たちはますます図に乗り、会社の資産をさらに大胆に食い物にしていった。だが彼らは知らなかった。遥の沈黙の裏には、緻密に練り上げられた反撃の計画が隠されていたことを。遥は最も信頼するチームを密かに動かし、彼らの一挙一動を調べさせていた。資金の流れ、業務上の連絡記録、そして社内での重要な決定事項。遥はその一つひとつを明らかにしていった。さらに、秘密のルートを通じて、彼らと靖也との確かな繋がりを示す証拠も手に入れていた。時が経つにつれ、遥の手元に集まった証拠は、揺るぎないものとなっていった。遥は暗闇に潜むヒョウのように、静かに反撃の機会を待っていた。そして、何の変哲もないある朝、遥はついに動いた。このまま何もしなければ、社員たちの不満が爆発しかねない。彼女は会社の幹部全員を招集し、緊急会議を開いた。表情ひとつ変えずに、あの「厄介者」たちに対する不正の調査結果を発表したのだ。出席者たちはこれまで、彼らの横暴な振る舞いに深い嫌悪を募らせていた。「これが、あなたたちの過去半年間の財務記録よ。すべての資金の行き先が、明確に記されているわ」遥の声
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第224話

その後、捜査が進み、この数人は業務上横領や背任などの疑いで逮捕された。その知らせを聞いた靖也は、怒りに任せて手にしていた湯呑みを床に叩きつけた。「遥……!」彼は歯を強く食いしばりながら、低く吠えるように呟いた。その目には激しい怒りが満ちていた。菅原グループをすでに掌握したも同然だと思っていたのに、まさか遥が裏でこれほど緻密な罠を張り巡らせていたとは思いもしなかった。靖也はやむなく、あの「厄介者」たちとの繋がりを完全に断ち切った。自分までこの件に巻き込まれるわけにはいかない。だが、これで終わるはずはない。靖也がこのままあっさりと手を引くとは、とても考えられなかった。会社の経営は正常な状態を取り戻し、社員たちの遥への敬意は、かつてないほど高まっていた。彼らはようやく理解した。遥社長は決して弱かったわけではない。ずっと以前から、水面下で周到に策を練っていたのだと。「社長、本当にすごいです!」アシスタントの宮下が興奮した様子で言った。「私たち、会社が潰れると思っていたのに、まさかこんな計画を前から準備されていたなんて」遥はどこか疲れた表情を見せた。「これはまだ始まりに過ぎないわ。藤井靖也は簡単に私たちを見逃さないから」靖也がなぜここまで自分に異常な執着を見せるのか、遥にはまだ分からなかった。本当に、計画を潰したというだけの理由なのだろうか。ノレッドは自分の部屋でお茶を一口含み、やがてスマホを取り、昭に電話をかけた。電話の向こうから、すぐに昭の声が聞こえてきた。どこかからかうような響きがあった。「おや、まさかあのノレッド先生がわざわざ電話をくれるなんて。またどうせ、厄介事を持ち込んでくる気だろう」ノレッドは軽く笑い、気軽な口調で答えた。「昭、その言い方だと、僕がいつも君に厄介事を持ち込んでいるみたいに聞こえるな」「違うのか?」昭は笑いながら聞き返した。「さあ言ってみろ、今回は何だ」ノレッドは湯呑みを置き、椅子に深く背を預け、窓の外の遠い空を見上げながら、淡々と言った。「ただ、遥さんの件、見事な手際だったと伝えたかっただけだ。僕が思っていたより、彼女はずっと賢い人だった」「当然だろ。遥さんはやっぱりすごいよ。あんな短期間でここまで立て直すなんて、なかなかできることじゃないぞ」ノレ
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第225話

遥が自室でくつろいでいると、スマホが小さく震えた。画面を見ると、ノレッドからのメッセージだった。【遥、近々海外で済ませなければならない仕事があってね。よかったら一緒に来て、気分転換でもしないか。最近ずいぶん無理をしているようだし、環境を変えるのも療養のひとつだと思うんだ。治療の一環として、少し検討してみてくれないか】遥はその文面を見つめ、わずかに眉をひそめた。ノレッドとは、次第に友人のような関係になっていた。自分はたしかに、心も体もすっかり疲れ切っていた。会社のゴタゴタはひとまず落ち着いたものの、靖也からの脅威はまだ去っておらず、怜司からの度重なる連絡にも正直疲れを感じていた。少し距離を置いて、自分の気持ちを整理したい。今はそんな気分だった。迷っているうちに、スマホがまた震えた。今度は怜司からのメッセージだった。【遥、最近顔色が良くないようだから、気分転換に旅行へ連れていきたい。前からお前が行きたがっていた場所へ行こう。ゆっくり話もしたい】同じタイミングでふたりから旅行に誘われたことになる。このところ、怜司が自分に向ける執着は、たしかに感じ取れていた。けれど遥はわかっていた。これはきっと、彼がこれまで自分にしてきたひどい仕打ちを後悔しているからなのだろう、と。具体的にどんなひどい仕打ちなのかは知らないが、映像を見ただけでも、相当ひどいことをしたのは間違いないと思っていた。もし最初から今のように優しくしてくれていたなら、きっと彼のそばを離れなかっただろう。人というのは本当に、手にしているもののありがたみを忘れ、手に入らないものばかり欲しがるものだ。だから遥は、今さらそんな態度を取られても、心を動かされるつもりなど最初からなかった。遥はすぐに怜司へ返信した。【忙しいから無理よ】細かい事情をいちいち説明する気にもならなかった。送信すると、遥はためらいなく怜司とのメッセージ画面を閉じ、ノレッドへの返信に切り替えた。【ええ、一緒に行くわ。出発はいつ?】ノレッドの返事はすぐに届いた。【明後日の朝8時、迎えに行くよ】遥はスマホを置き、窓の外を眺めた。今回の旅は、気分転換というだけでなく、煩わしい日々からしばらく逃れるための絶好の機会でもあった。……2日後の朝、ノレッドは約束
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第226話

一方、怜司は執務室で、スマホに映る遥の返信を見つめ、眉間にしわを寄せていた。これまでも幾度となく拒まれ、メッセージが未読のまま放置されたこともあれば、電話を何度も拒まれたこともあった。それでも怜司は、以前の遥とは何かが違う気がしていた。少なくとも、言葉遣いや口調が以前とは少し違っていたのだ。怜司は内線で秘書を呼び出した。「遥の最近の予定を調べろ。何か予定が入っていないか確認してくれ」このところ遥は会社の件にかかりきりだった。靖也が厄介な社員たちを使って遥を妨害していることは、怜司もよく知っている。陰ながら、幾度となく手を貸してもきた。命令を受けた秘書は、すぐに調査に取りかかった。この程度なら、短時間で調べ上げるのも難しくなかった。だが調べ終えたあと、秘書は浮かない顔をしていた。どうも言いにくそうな様子だった。その変化に気づいた怜司は、不機嫌そうに声を上げた。「何かあるなら言え」秘書は内心びくつきながらも、覚悟を決めて口を開いた。どうせこの後、怒鳴られることになるのは目に見えていた。「社長……遥様は今朝、ノレッド医師とともに出国されました。行き先はA国です」「ノレッド?」怜司の顔から、瞬く間に表情が消えた。拳を握り締め、その瞳の奥には暗い炎が宿っていた。今の怜司が最も聞きたくない名前だった。ノレッドという名前には、覚えがある。遥の心理カウンセリングを担当する医師として、彼はずっと彼女のそばにいた。怜司はとうに、ノレッドの遥への態度が尋常ではないことに気づいていた。しかも今回のA国行きには、自分との共同事業の件も絡んでいる。藤井グループのA国法人も、自分の管轄下にある。だからノレッドの名を知らぬわけではない。ただ、遥がどうしてこの男と知り合ったのかが気になった。おそらくは、昭が引き合わせたのだろう。それなら、昭は遥に恋愛感情を抱いていないのかもしれない。となれば今回の渡航も、ノレッドの方から遥を誘ったのだろう。だが、自分の誘いを断った遥が、よりによってノレッドとは一緒に行くというのか。秘書は社長の冷えた視線を見て、また怒りが募っているのだとすぐに察した。「……どうして、彼女は行く気になったんだ」怜司が低く問う。もちろん秘書に答えられるはずもなく、秘書自身にも、怜司が本当に
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第227話

A国に到着した遥とノレッドは、ノレッドの運転する車で郊外にある一軒の屋敷へ向かった。周囲は静養にふさわしい静かな環境で、たしかになかなか魅力的な観光地だった。「ここが、こちらでの僕の滞在先だよ。ゆっくり休んで」ノレッドは荷物を運びながら、柔らかな声で言った。遥は頷き、彼のあとについて中へ入った。ここはノレッドが普段から暮らしている家ではなく、あくまで一時的な滞在先らしい。それにしても、ノレッドの住まいはひとつではない。国内にも、A国にも拠点がある。おそらく他の土地にも、似たような場所を持っているのだろう。あちこちを自由に行き来できる暮らしは、彼らしいのかもしれない。屋敷の内装はシンプルながら上品で、床から天井まで届く大きな窓の外には広々とした庭が広がっていた。差し込む陽光が部屋全体を明るく照らしている。「先に休んでいて。少し用事を片付けてくるから」ノレッドは荷物を置き、部屋を出ていった。遥はソファに腰を下ろし、周囲を見渡した。彼の気遣いは至れり尽くせりで、むしろ少し落ち着かなくなるほどだった。自分に対して、あまりにも良くしてくれる。この優しさが医師としての職務ゆえなのか、それとも別の理由からなのか、遥にはまだわからなかった。しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。ノレッドが玄関のドアを開ける音に続いて、男の切羽詰まった声が聞こえてきた。「ノレッド先生、やっとお戻りに……!娘の具合が、日に日に悪くなっているんです。ずっとお待ちしておりました。ようやくお会いできた!」その声に気を引かれ、遥は思わず戸口へ近づき、そっと様子をうかがった。中年の男性が焦った表情で、分厚い診療記録を手にノレッドに訴えている。身なりは明らかに豪華で、身につけた装飾品もきらびやかだった。ノレッドは落ち着いた様子でその書類を受け取り、素早く目を通すと、小さく頷いた。「わかりました。すぐに病院へ向かいましょう」男は目を赤くし、感謝の言葉を重ねた。「ありがとうございます、先生!何とお礼を申し上げればよいか……」「お気になさらず。先に向かっていてください。僕もすぐに行きますから」男は何度も頷きながら言った。「はい、承知いたしました。お待ちしております」ノレッドは簡単に荷物をまとめて階上へ向かい、様子をうか
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第228話

記憶を消去してからというもの、遥の心はさほど大きく揺れることはなかった。怜司は煩わしい相手ではあるものの、それで気持ちが乱れるほどではない。もし本当に動揺した出来事を挙げるなら、それは記憶を失う前のことだ。「以前、少し大変なことがあって……その時は、精神的にもかなり動揺しました」医師は頷くと、続けていくつかの検査を行い、やがて口を開いた。「検査の結果を見る限り、赤ちゃんの状態は今のところ安定しています。ただ、以前に受けた心身への負担が、胎児の発育に多少影響しているようです。できるだけ休息を取って、無理をしないこと。それから、妊娠を維持するためのお薬も、指示どおりに飲んでください」その言葉を聞いて、遥はほっと胸を撫で下ろした。思えば、これまで自分自身の体をあまり労ってこなかった。お腹の子のことさえ、一時は忘れがちになっていたのだ。「先生、以前にもいくつか薬を飲んでいたんですが、それが妊娠に関係する薬だったのかどうか……」それまでノレッドは、子どものことを一度も口にしていなかった。だから彼女は、あの薬は記憶のことに関係するものだとばかり思っていた。それを聞いた医師は、少し眉をひそめた。「以前のお薬も医師が処方したものなら、おそらく問題ないとは思いますが、念のため確認させてください。できれば、その薬を持ってきて見せてください。ほかの薬との飲み合わせも確認しておきたいので」遥は、ノレッドが以前自分に飲ませていた薬のことを思い出した。あのとき彼は薬の効能を一切説明せず、ただ時間どおりに飲むようにとだけ言っていた。今になって思えば、あれは妊娠に関係する薬だったのかもしれない。ノレッドは、ずっと前から自分の体の状態を把握していたのかもしれない。それでも黙っていたのは、彼女を余計に心配させたくなかったからだろうか。ノレッドが自分に向けてくれていた気遣いは、思っていた以上に深いものだったのかもしれないと、遥はようやく気づいた。病院で妊娠を維持するための薬を受け取った遥は、それを手に、ノレッドが戻ってきたら尋ねてみようと考えていた。そのとき、前方から激しい言い争いの声が聞こえてきた。顔を上げると、数人の男たちがひとりの少女を取り囲み、乱暴な口調で何かを強要しているのが見えた。少女はまだ若く、質素な服を着てい
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第229話

「遥さん、お願い。一緒にうちに帰ってくれませんか?」その声には、裏表のない素直な気持ちがこもっていた。遥自身、特に急ぎの用もなく、この少女にどこか好感を抱いていた。「いいわよ。送っていくわ」ひとりで帰らせるには、まだ幼い。せっかくの縁だ、家まで送り届けよう。雨音(あまね)・カストと自称した少女と並んで歩きながらも、遥の胸中にはどこかざわつくものが残っていた。先ほどの騒動。彼女を助け出したのは確かだが、どうにも腑に落ちないところがあった。そんなことを考えながら顔を上げると、黒服の男たちが数人、殺気を漂わせながら足早にこちらへ向かってくる。そのうちのひとりは、銃を手に構え、氷のように冷たい眼差しを遥に向けた。「止まれ。何者だ。なぜお嬢様に近づいた」男は怒鳴り、銃口をぴたりと遥へ向けた。まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった。遥が事情を説明するより早く、雨音がさっと前へ進み出て、遥を庇うように両手を広げた。「やめなさい!この方は私の恩人よ。さっき遥さんが助けてくれなかったら、あの連中にひどい目に遭わされていたんだから!」雨音の言葉に、黒服の男たちは一瞬動きを止めた。銃を構えていた男も銃を下ろし、険しい表情を緩めた。「お嬢様、ご無事でしたか。お嬢様に危険が迫っているとの連絡を受け、急いで駆けつけました」黒服の男が説明する。雨音は不満げに眉をひそめた。「私は平気よ。遥さんを怖がらせないでちょうだい」男たちは頷いて少し距離を取ったが、それでも遥を警戒する視線だけは決して外さなかった。どうやら雨音は、想像以上に裕福で由緒ある家の娘らしい。これほどの護衛を連れているとは。ただの富裕層の令嬢というわけでもなさそうだ。「遥さん、ごめんなさい。驚かせてしまいましたよね」雨音が振り返り、申し訳なさそうに言った。それにしても、どこか引っかかる。これほど裕福な家の娘が、なぜひとりで出歩いていたのか。護衛たちは危険を知らせる連絡を受けていたはずなのに、なぜもっと早く駆けつけなかったのだろうか。誰かが、わざと雨音を危険な目に遭わせようと仕組んだのではないか。そんな疑念が拭えなかった。遥は小さく首を横に振り、彼女の頭を優しく撫でた。「気にしないで。ただの誤解だから」雨音はぱっと笑みを
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第230話

遥は静かに微笑み、小さく会釈した。「お気になさらないでください。たまたま通りかかっただけですので」ところが、そのとき傍らから冷ややかな声が割って入った。「ふん。本当に善意からの行動か、分かったものじゃないわ。雨音、得体の知れない人間に騙されないようにね」振り向くと、少し離れたところに、腕を組んだ若い女性が立っていた。鋭い視線で、値踏みするように遥の全身を眺めている。雨音が不快そうに眉をひそめた。「お姉ちゃん、どうしてそんな言い方をするの?遥さんは私を助けてくれたのに」若い女性は冷ややかに笑った。「命の恩人、ねえ。最初から仕組んだ自作自演かもしれないでしょう。最近はうちに取り入るためなら、どんな手でも使う輩がいるんだから」この女性は雨音に敵意を抱いているようで、その敵意が遥にも向けられているのだろう。遥は淡々と返す。「何か誤解なさっているようですね。私は通りがかりに、雨音さんが困っていたので手を貸したにすぎません」若い女性は鼻で笑った。「口では何とでも言えるわ。腹の底で何を企んでいることやら」雨音の父親が慌てて間に入った。「こら、その辺りにしなさい。我が家の大切なお客様だ。そんな失礼なことを言うんじゃない」女性はふんと鼻を鳴らし、踵を返してリビングを出ていった。雨音は申し訳なさそうに遥を見上げた。「ごめんなさい、遥さん。従姉は少し考え方が極端で……どうか気にしないでください」遥は小さく首を横に振った。「大丈夫。気にしていないから」雨音の父親も愛想よく笑みを浮かべた。「あぁ、遥さん、どうか気を悪くなさらないでください。さあ、まずは掛けてお話を」突然の温かいもてなしに戸惑いながらも、遥は頷いて雨音とその父親とともに席に着いた。リビングでふたりと談笑していたそのとき、見覚えのある人物が入ってきた。藤井怜司だった。遥は思わず、手にしていたティーカップを取り落としそうになった。まさかこんな場所で、怜司と顔を合わせることになるとは思ってもみなかった。怜司は仕立てのいい黒のスーツに身を包み、表情は冷たく引き締まっていた。怜司の視線がリビングを一巡し、ちょうど遥の視線とぶつかった。彼もまた、意外そうにかすかに眉をひそめた。「藤井さん、よくいらっしゃいました」雨音
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