All Chapters of 娘の命日に離婚宣告。クズ夫が土下座で大後悔: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話

その言葉に、怜司は息を呑んだ。思い返せば、このところの遥はどこか様子が違っていた。けれど、まさか記憶を消去する手術を受けていたなんて……ふと、背筋が凍るような考えが頭をかすめる。遥は、記憶すらも消し去りたいほど自分を憎んでいたのか。それとも、あの拉致で負った心の傷に耐えかねて、自ら記憶を消したのか。靖也の話から推測するに、おそらく後者だ。苦痛に耐えきれなくなった末の悲壮な決断だったのだろう。あの件については、怜司はずっと自分を責め続けてきた。遥が誰よりも彼を必要としていたとき、一番近くで寄り添い、慰めるべきだったのに、それどころか自分は彼女を疑ってしまったのだから。ただでさえその事実だけで打ちのめされる思いだったのに、そのつらい出来事のせいで、遥が記憶を消すことまで選んでしまったなんて。胸が締めつけられ、呼吸すらままならない。怜司はその場に立ち尽くした。全身の血が凍りついたようで、指先が小刻みに震えだす。遥は記憶を自ら消したのだ。自分のことを跡形もなく忘れてしまってでも、ふたりの間にあったすべてを、もう覚えていたくなかったのだ。胸を生きたまま引き裂かれるような痛みに、思わず身体を折りそうになる。「遥……っ」自分でも驚くほど、声がひどくかすれていた。怜司は遥に手を伸ばした。だが遥は、彼に淡々と一瞥をくれただけで、相手にしようともしなかった。まるで、自分とは何の関わりもない赤の他人を見るような目だった。「あの、すみません。通していただけますか」礼儀正しく、けれどどこまでも冷ややかな声だった。遥は彼の脇をすり抜け、一度も振り返ることなく車に乗り込んだ。ドアが閉まり、エンジン音が響く。怜司は立ち尽くしたまま、遥を乗せた車が遠ざかっていくのを見つめていた。その姿が完全に見えなくなるまで、ずっと。帰国して以来、遥はほとんど家から出ず静養していた。お腹の膨らみもだいぶ目立つようになってきた。会社のことは信頼できる部下に任せてあり、今の彼女が頭を悩ませるような問題はほとんどなかった。ただ、行く先々で、なぜか必ずと言っていいほど怜司の姿があったのだ。ある朝、庭の門扉を開けると、その向こうに怜司が立っていた。腕には立派な薔薇の花束が抱えられていた。花びらには、まだ朝露が光っている。「おはよう」低
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第252話

ところが翌日、玄関先にはまたしても保温容器が置かれていた。中には、出汁の香りがふわりと立ちのぼる、鶏肉と卵の雑炊が入っていた。その横には、1枚のメモが添えられている。【冷めないうちに食べて。ちゃんと栄養も摂れるから】そのメモを見つめているうちに、遥はふと目の奥が熱くなるのを感じた。あの人のことなんて覚えていないはずなのに。どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。いっそ記憶が戻ればいいのに、と思う。彼にされたひどい仕打ちを全部思い出せたなら、こんなふうに、彼のために涙をこぼすこともないはずなのに。……藤井邸に戻った怜司を待っていたのは、大広間に満ちる息が詰まるほど重苦しい空気だった。怜司は広間の中央に立ち、一族の長老たちの鋭い視線を正面から受け止めながら、静かに口を開いた。「靖也への追跡と捜索を、打ち切っていただきたい」「何だと!?」白髪の長老のひとりが勢いよく立ち上がった拍子に、湯呑みが床に落ちて砕け散った。「怜司、靖也が何をしたかわかっているのか。外部の者と内通し、一族を裏切ったのだぞ。一族の掟に照らせば、万死に値する」怜司の表情は平然としていたが、その瞳の奥には底知れない決意が宿っていた。「よくわかっています」「ならば、どうしてあやつをかばう」別の長老が卓を叩いて立ち上がる。「当主だから何でも通るとでも思っているのか。藤井家の掟は、いつからそんなに軽いものになった」怜司はゆっくりと顔を上げた。その声は、ひどく冷たかった。「代わりに、俺が竹刀で9回打たれる罰を受けます」そのひと言で、広間はしんと静まり返った。藤井家には昔から、重大な過ちを犯した者を仏間に正座させ、竹刀で背中を9回打つというしきたりが残っている。今ではほとんど行われることのない、藤井家で最も重い制裁だ。ここ百年で最後まで耐えきった者はわずか3人。それ以外の者は、命を落とすか、二度と元の身体に戻れなかったという。「……っ!正気か」筆頭の長老が、震える指で怜司を指さした。「一打ちでも受ければ、軽くても身体が不自由になり、悪ければ命を落とすのだぞ」怜司の口元に、苦い笑みが浮かんだ。「正気です」「どうしてそこまでするの?」それまでずっと黙っていた大叔母が、不意に口を開いた。「あんな人でな
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第253話

7打目を受けたとき、怜司はついに耐えきれず、前のめりに崩れて床に手をついた。喉の奥からこみ上げた血が、仏間の床に飛び散る。誰もがこのまま倒れると思ったそのとき、怜司は歯を食いしばり、震える脚に力を込め、再び身体を起こした。9打目を受け終えたとき、怜司の背中は血に染まっていた。意識が遠のいていく。それでも必死に顔を上げ、筆頭の長老を見据えた。「これで、靖也を許してもらえますね……」筆頭の長老は複雑な表情でうなずいた。怜司の口元がかすかにほころぶ。次の瞬間、目の前が真っ暗になり、その身体は重く床に崩れ落ちた。意識が途切れる最後の一瞬、遥が目の前に立って、こちらへ手を差し伸べている。そんな幻を見た気がした。この痛みを味わうことで、遥が受けてきた苦しみのすべてを少しでも理解できるのなら、それでいい。それに、自分が受けたのは所詮、身体の痛みにすぎない。遥が受けた心の痛みに比べれば、取るに足らないものだ。怜司はすぐさま藤井グループ系列の病院へと運ばれた。担架は血でぐっしょりと濡れ、廊下に点々と赤い跡を残していく。すでに連絡を受けていた駿は、医療チームを率いて手術室で待ち構えていた。怜司の血まみれの背中を目にした瞬間、駿は息を呑んで目を見開き、手にしていたバインダーを歪むほど強く握りしめた。「何を考えてるんだ、あいつはッ!」歯を食いしばったまま、押し殺した声で吐き捨てる。「竹刀であそこまで打たれたのか。自分が不死身だとでも思っているのか!」だが、今は怒っている場合ではない。駿は深く息を吸って無理やり気持ちを落ち着けると、手術用手袋をつけ、すばやく処置に取りかかった。竹刀で何度も打たれた背中には、赤黒い腫れと裂けた傷がいくつも残っていた。中には骨が見えそうなほど深く裂けた箇所もあり、傷口はすでに炎症を起こしかけていた。駿の額に汗がにじむ。傷口をひとつずつ確認しながら、出血を抑え、消毒と縫合を慎重に進めていく。どれだけそっと触れても、意識のない怜司の身体は痛みに反応するようにわずかにこわばった。駿は表情を曇らせたまま、黙々と処置を続けた。「血圧が低下しています!」看護師が緊迫した声で告げる。「急いで輸血の準備を!」駿の声は張り詰めていたが、その手は一瞬たりとも止まらなかった。処
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第254話

怜司は長いあいだ黙っていた。もう返事はないのだろう。駿がそう思いかけたころ、ようやく小さな声がした。「……少しでも、返したかったんだ」遥が味わった苦しみを、遥が流した涙を返したかったんだ。たとえ、その1万分の1でも。駿は青白い怜司の顔を見つめ、ため息をついた。手を伸ばして布団の端を整えてやりながら、珍しく穏やかな声で言う。「今は傷を治すことだけ考えろ。余計な心配はするな」怜司はわずかに顔をこちらへ向けた。漆黒の瞳に、すがるような色が浮かんでいる。「駿。遥に、来てもらえないか」駿の手が止まり、喉がぎゅっと詰まった。どう伝えればいいのだろう。怜司が病院に運び込まれたその日のうちに、駿は遥のもとを訪ねていたのだ。……7日前。遥のマンションの前で、駿はインターホンを3度鳴らし、ようやくドアが開いた。遥は飾り気のないルームウェア姿で、長い髪を無造作にまとめていた。その表情はひどく冷めている。「何かご用ですか」駿は息を吸い、単刀直入に切り出した。「怜司が大怪我をして、意識が戻らないんです。どうか一度、会いに来てもらえませんか」遥の指先が一瞬だけこわばった。だが、すぐに力を抜き、それどころか小さく笑い声までこぼした。「あの人が生きようが死のうが、私には関係ありません」駿は眉を寄せる。「竹刀の刑を受けたんです。危うく命を落とすところだったんですよ」遥の瞳がかすかに揺れた。だが、それもほんの一瞬のことだった。彼女は顔を上げ、残酷なほど冷たい声で言い放つ。「自業自得でしょう」「遥さん!」駿はとうとう声を荒らげた。「あいつがここまでしたのは、遥さんに償いたかったからじゃないですか!」「償う?」遥の唇が、皮肉げに吊り上がった。「竹刀で何回か打たれたくらいで、全部帳消しにできるとでも思ってるんですか?」駿は言葉を失った。遥はそれ以上何も言わず、背を向けてドアを閉めようとする。駿はとっさにドアに手をかけて押さえ、すがるような声で頼んだ。「せめて一度だけでいいです……顔を見に行ってやってもらえませんか」遥は動きを止めた。背を向けたまま数秒黙り込み、やがて冷たい言葉だけを残した。「結構です。あの人とは、とっくに縁は切れていますから」……我に返った駿は、弱り
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第255話

アラーム音が、病室の静けさを破った。駿がはっと顔を上げる。モニターには、さっきまで規則正しく続いていた緑の波形が、激しく乱れて映し出されていた。正常な心拍を示さなくなり、警告音が鳴り続けている。「怜司ッ!」駿はベッドに駆け寄り、怜司の反応と脈を確かめた。「心室細動だ。除細動器を準備!」病衣の胸元を開くと、胸に貼られたモニターの電極があらわになった。背中には7日前に負った傷が残り、包帯に血がにじんでいた。看護師がすばやく除細動器を運んできた。駿は胸骨圧迫を始めるよう指示すると、電極パッドを装着させた。「離れて!200ジュールに設定してチャージ!」全員が患者から離れたのを確認し、駿が電気ショックを与えた瞬間、怜司の身体が、死にかけた魚のようにびくんと跳ね上がり、重く沈んだ。だが、モニターには依然として乱れた波形が映っていた。「胸骨圧迫を再開!もう一度、チャージ!」胸骨圧迫を再開し、再び電気ショックを与えると、緑の波形がようやく規則正しいリズムを取り戻し始めた。駿は冷たい金属のベッド柵に額を押し当てた。スクラブの背中は冷や汗でぐっしょりと濡れている。「……これ以上、精神的なショックを受けたら、もうもたない」独り言のようにつぶやいたが、その言葉がどれほど無力かは自分が一番よくわかっていた。遥の冷たい答えを知ってから、怜司の容体は坂を転げ落ちるように悪化していったのだ。あれほど強かった男の生きる気力が、たったひと言でこんなにもあっけなく砕けてしまうなんて。窓の外は土砂降りだった。ガラスを伝ってゆがむ雨筋を見つめながら、駿は心を決めた。黒い高級車が激しい雨を切り裂くように走る。赤信号を3つも無視して車を走らせ、駿は再び遥のマンションの前に立った。顎を伝う雨水が、足元のマットにぽたぽたと落ちていく。ドアが開いた。遥は薄暗い玄関の奥に立っていた。シルクのガウンの裾から、細い足首がのぞいている。「前にも申し上げたはずです――」「あいつ、死にかけてるんです」駿は彼女の言葉を遮った。喉の奥から絞り出すような、ひどくかすれた声だった。「ついさっき、心臓が止まりかけて、2度も電気ショックを与えたんです」遥のまつげが、ほんのかすかに震えた。「……私には関係ありません」背を向けようとした遥の手
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第256話

力の抜けた手から、ハンカチがするりと床へ滑り落ちた。貴子はそれに気づくこともなく、ただ呆然と前を見つめていた。そして激しく咳き込み、胸をかきむしるように押さえた。遥がとっさに駆け寄って震える身体を支えると、触れた肌はぞっとするほど冷たかった。「薬……ポケットに……」遥がポケットを探ると、ニトログリセリンの錠剤が見つかった。すぐにその錠剤を貴子の舌の下に入れると、顔を上げ、駿に向かって叫んだ。「早く循環器内科の先生を呼んでください!」駿はすぐに医療スタッフを呼び、貴子の状態を確認し始めた。「いいの……それより先に、怜司を……」貴子は遥の手首を強くつかんだ。驚くほどの力だった。「あの子……今夜は、もたないかもしれない……」薄暗い病室で、モニターの赤いランプが点滅していた。戸口に立った遥は、ベッドの上の男が誰なのか、一瞬わからなかった。全身にいくつものチューブがつながれていた。酸素マスクの下で、怜司の唇は紫がかっていた。何より痛々しかったのは、シーツの端からのぞく包帯だった。何重にも巻かれたガーゼに、絶えず血がにじみ出ている。「遥さんの声は、ちゃんと聞こえてるはずです」点滴の滴下速度を調整しながら、駿が低い声で言った。「まだ深い昏睡状態ですが、遥さんの声を録音したものを流すと、反応が見られることがあるんです」遥はゆっくりとベッドに近づいた。モニターの心拍数が、急に45から68へ上がり、またゆっくりと下がっていく。遥は思わず手を伸ばしかけた。けれど、怜司の指先に触れる寸前で止まった。指先にはパルスオキシメーターが挟まれ、血の気の失せた白い肌の下に、青紫の血管がくっきりと浮いていた。「何でもいいから、声をかけてあげてください!」駿が急に声を荒らげた。「こいつのこと、恨んでるんでしょう?死にかけてる今、罵りの言葉のひとつでもぶつけてやらないんですか!」窓の外で、雷鳴がとどろいた。そのとき遥は、怜司の固く閉じた目尻から、ひとすじの涙が伝い落ちるのを見た。「怜司」ようやく、遥は口を開いた。ささやくような声だった。「約束したでしょ。生きて償うって」モニターの心拍数が大きく変動した。駿が駆け寄り、瞳孔の反応を確かめて声を上げる。「意識が戻りかけてる!そのまま話しか
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第257話

モニターの電子音が、静かな病室にやけに大きく響いていた。遥はベッド脇の椅子に座り、看護師が怜司の背中の血のにじんだ包帯を交換するのを見守っていた。看護師が怜司の身体を横向きに支え、最後のガーゼを外した瞬間、遥は思わず顔をそむけた。縦横に走る傷口は、見ているだけでつらかった。「終わりましたよ」看護師がそっと声をかける。「少し休まれてはいかがですか。隣の病室が空いていますので」遥は首を横に振り、鼻から栄養チューブを入れられた怜司の青白い顔に目を落とした。あの夜からの3日間、彼は一度も目を開けていなかった。ときおりかすかに震えるまつげだけが、彼がまだ生きていることを示していた。「鈴木先生から伝えるように言われたんですが」看護師はドアの前で振り返った。「お祖母様は峠を越えられました。今は12階の循環器内科にいらっしゃいます」「ありがとう……ございます」遥の声はかすれていた。ドアが閉まり、病室は静まり返った。いつの間にか、窓の外の雨はやんでいた。遥は何かに引き寄せられるように手を伸ばし、怜司の頬に触れる寸前で止めると、代わりにサイドテーブルに置かれた湿らせた綿棒を手に取った。「ほんと、あなたって」乾いてひび割れた唇を、そっと湿らせていく。「どうしようもないばかね」そのとき、怜司が突然、綿棒を軽くくわえた。驚いた遥は、危うくコップをひっくり返しそうになる。いつの間にか、怜司がうっすらと目を開けていた。その目は涙の膜でぼんやりと潤んでいたが、そこにははっきりと遥の姿が映っていた。「……遥」かすれた息のような声が漏れた。遥は勢いよく立ち上がった。椅子の脚が床をこすり、鋭い音を立てる。ナースコールを押さなければ。すぐに駿に知らせなければ。頭ではそうわかっているのに、足が根を張ったように動かない。その場に立ちすくんだまま、遥は怜司が苦しそうに手を持ち上げるのを見ていた。点滴の針の痕がいくつも残る手が震えながら動き、最後に病衣の2番目のボタンのところで止まった。「何してるの!?動かないで」ようやく声が出た。遥は駆け寄って、その手首を押さえる。手のひらの下で感じる脈は弱々しく、燃えるように熱い。肌と肌が触れ合った瞬間、怜司が激しく咳き込み、口元から鮮やかな赤い血がにじんだ。「先生
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第258話

かつての遥は、あのつらい記憶に耐えきれず、記憶を消去する手術を受けた。けれど今なら、過去の出来事を第三者のような目で振り返ることができる。実際に経験したときほどの痛みを味わうことはないだろう。少なくとも、あのときほど苦しむことはないはずだ。「ええ。あいつは……遥さんのために、死にかけたんです。でも、遥さんを責めるつもりはありません」駿は屋上で静かにそう言って、まっすぐ遥を見た。「ただ、遥さんには、自分の気持ちにちゃんと向き合ってほしいんです」その言葉に、遥は沈黙した。――自分の気持ちに向き合う。怜司のことなんて好きじゃない。そのはずなのに、気づけばまた惹かれてしまっている。結局、私はあの人を好きになることから逃れられないのだろうか。「しばらくは、私が看病します」遥は静かにそう告げた。駿の言葉に正面から答えたわけではない。それでも駿は、そのひと言を聞いて深く安堵した。怜司が命を取りとめたのは、奇跡と言ってもいいほどだった。だからこそ、遥にはどうしても怜司のそばにいてもらわなければならない。そうでなければ、再び生きる気力を失ってしまうかもしれないのだから。それからの日々、遥は毎日怜司の看病を続けた。「今日はお体を拭きますね」看護師がワゴンを押して入ってきて、必要な清拭用品を並べた。「鈴木先生が、そろそろ半流動食を始めてもいいって。経鼻栄養チューブも、午後に交換しますね」遥はうなずき、タオルを固く絞った。布団の端をめくると、幾重にも巻かれていた包帯は大半が外され、赤黒い打撲の痕や、まだ生々しい傷痕があらわになっていた。タオルで鎖骨のあたりを拭いたとき、怜司のまつげが小さく震えた。この半月、こうしたかすかな反応はたびたびあった。けれど、何度か一瞬目を開けることはあっても、意識がはっきり戻ることはなかった。遥はいつの間にか、手を動かす合間に彼の眉間のしわを確かめるようになっていた。そこにしわが寄るのは、痛いという合図なのだ。遥の手からタオルが滑り落ち、洗面器に跳ねた水が袖口を濡らした。看護師が出ていくと、遥は何かに引き寄せられるように身をかがめた。ふたりの距離が、ぐっと近くなる。「……そこまでする価値、あるの?」吐息が彼の肌にかかるほど近かった。「あなたのことを忘れた女のために」
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第259話

それを聞くと、駿は少し表情をゆるめ、眼鏡の位置を直した。「目を覚ましたということは、状態がよくなってきている証拠です。それに今の反応からすると、あいつは無意識のうちに、遥さんを強く頼りにしているようです。できるだけ安心させて、気持ちを落ち着かせてやってください。興奮しすぎると、身体にまた負担がかかりますから」そう言ってカルテを閉じると、駿は遥と一緒に病室へ向かった。病室では、怜司がベッドに横たわったまま、じっと戸口を見つめていた。顔色は相変わらず青白く、唇にも血の気がない。遥と駿の姿が戸口に現れた瞬間、その目に光が宿った。けれど、すぐにどこか不安げな色が浮かぶ。遥はベッドのそばへ行って腰を下ろし、眉間に寄ったしわをそっと指でのばした。「怜司、嘘じゃないよ。夢なんかじゃない。私、本当にここにいるから」怜司の視線が、遥と駿のあいだを行ったり来たりする。その声は震えていた。「遥……本当に、遥なのか」「うん、私よ」遥は彼の手を握り、自分の頬に押し当てた。体温を、ここにいることを、確かに感じてもらえるように。「ほら、鈴木先生もいるでしょ。全部本当のことよ」怜司の目に涙がにじんだ。喉仏が上下し、不意に声を詰まらせる。「遥、すまなかった。あのとき守ってやれなくて……靖也のせいで、あんな目に遭わせて。今回も、真相を確かめようとして心配をかけたな」遥の目元がうっすらと赤くなり、小さく首を横に振った。「そんなこと言わないで。私のためにここまでしてくれて、命まで懸けてくれたのに、責めたりなんかしないよ」そうは言ったものの、心の底では、彼を許すつもりなどなかった。ただ、今は彼の命がかかっている。そう言うしかなかったのだ。駿がベッドのそばに来て、怜司の診察を始めた。手を動かしながら口を開く。「怜司、君はまだかなり弱ってるんだ。あんまり興奮するなよ。目が覚めたんなら、おとなしくしてろ」けれど怜司は聞こえていないかのように、遥だけを見つめ続けていた。「遥、俺は今までお前をひどく傷つけてきた。たとえ記憶をなくしても、あのつらい過去をなかったことにしていいはずがない。ずっと考えてたんだ。もっと早く俺が靖也の企みに気づいていれば、遥があんな苦しみを味わうこともなかったのにって」遥は胸を痛めたように彼を見つめ、目
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第260話

遥がこれからのことに思いを巡らせていると、病室のドアが開いた。入ってきたのは花梨だった。完璧にメイクをしているのに、目元だけは赤く潤んでいて、思わず守ってやりたくなるような雰囲気を漂わせている。「怜司、怪我をしたって聞いて。心配でひと晩中眠れなかったの」花梨はベッドのそばまで来ると、涙声でそう言った。そこで遥の姿に気づき、一瞬動きを止める。その目に嫉妬の色がよぎったが、すぐに可憐な笑みを貼りつけた。花梨の姿を認めた途端、怜司の表情が冷たくなった。無意識のうちに眉間にしわが寄る。以前、花梨の虚言に踊らされたせいで、遥をさらに危険な目に遭わせるところだった。そのことを思い出すと、今の彼女にはどうしても不信感が拭えなかった。「お前、何をしに来た」温度のない、凍りついた声だった。花梨は彼の態度に傷ついたように、身体を小さく震わせた。「莉奈がまた具合を悪くして、ずっとパパに会いたいって泣いてるの。私じゃどうしようもなくて、それで仕方なく……」そう言いながら、涙も出ていない目元を指先でぬぐってみせる。怜司の表情が、わずかにやわらいだ。莉奈には何の罪もない。「莉奈を連れてこい。治療は病院に手配させる」花梨は一歩前に出て、怜司に触れようと手を伸ばした。だが、怜司はさりげなくそれをかわした。「怜司がいないあいだ、私ひとりで莉奈の面倒を見て、本当に大変だったのよ。あなたが怪我をしたって聞いて、胸が張り裂けそうで……」花梨は悲劇のヒロインにでもなったつもりで、自分がどれほどつらかったかを延々と並べ立てはじめた。遥はそばに立ったまま、その「お芝居」を黙って眺めていた。だが、とうとうこらえきれず、思わずぱちぱちと拍手してしまった。――この人が、以前の私の敵だったの?記憶をなくしてから、花梨の「健気なヒロイン」ぶりを目の当たりにするのはこれが初めてだった。正直なところ、白々しいにもほどがある。以前の自分がこの女とどう渡り合っていたのかはわからない。けれど、こうなった以上、まずは彼女に少し思い知らせてやろう。遥は怜司にぴたりと寄り添い、とびきり優しいまなざしで彼を見つめた。「ねえ怜司、私、この人嫌い。それに、この人がいたら怜司がゆっくり休めないでしょ」まさかここまであからさまに言われるとは思っていなかった
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