森のざわめきが、遠い鼓動のように春香の耳を叩いていた。 祐真の手が腕を掴んでいるのに、それでも彼女の身体は前に進もうとする。 ──紅葉が、あの奥にいる。 理屈ではなく、母親としての直感がそう告げていた。 だが、その先へ足を踏み出すことが、どれほどの“禁忌”かも分かっていた。 「……春香さん、封じたって……誰をですか?」 祐真の声は低く、張りつめていた。 春香は答えられず、森の奥を見つめる。 すると、足元の土がゆっくりと動き、小さな木札が転がり出てきた。 泥にまみれたその札には、墨のような黒い線で「ミオ」と書かれている。 祐真の喉が音を立てた。 「……橘美桜、ですか」 春香はゆっくりとうなずいた。 「三歳だったあの子を……私は、取り戻そうとして……。でも、違った。あの森は“命”を返さない。ただ、別の命を……」 声が震えた。 「──代わりに、持っていくの」 美奈は息を呑み、思わず後ずさる。 「紅葉ちゃんは……それを知ってたんですか?」 春香は震える指先を胸にあて、泣きそうに笑った。 「ええ。あの子は私の日記を読んだの。あの日、隠しておいたのに……。 “お母さん、嘘つきだね”って……笑ってた。 “私、返してくる。あの子の分も、ちゃんと”って──」 静寂が落ちた。 その沈黙を、森の奥からの鈴の音が破る。 チリ……ン。 さっきよりも近い。まるですぐ傍にいるような錯覚。 祐真は懐中電灯を強く握った。 「紅葉は“何かを返すために”森へ入った……。 春香さん、その封印──どこにあるんですか?」
Last Updated : 2026-10-01 Read more