All Chapters of 天上天下唯我独妻!!〜私、最強の御曹司よりも強いらしいですよ?〜: Chapter 1 - Chapter 10

48 Chapters

第1話 婚約者からの呼び出し・前編

 ホテルの自動扉を抜けた瞬間、磨き上げられた床にシャンデリアの光が落ちた。 御影直哉(みかげ・なおや)が所属する法律事務所の創立記念レセプションは、このホテルの大宴会場で開かれる。受付開始までまだ四十分もあるのにロビーには濃紺や黒のスーツを着た人たちが集まり始めていた。 私はコートの襟を整え、ガラスに映った自分を確認する。 淡いベージュのワンピース。直哉が選んだ小さな真珠の耳飾り。左手には婚約指輪。 どれも今日のために用意したものだった。 来年の春には、この指輪が結婚指輪へ変わる。 私はそれを疑ったこともなかった。◇◇◇◇『会場へ入る前に話したいことがある。少し早く来てくれる?』 昼過ぎに届いた直哉からのメッセージは短かった。 結婚式か新居の話だろうか。それとも今夜、婚約者として紹介したい相手がいるのかもしれない。 直哉は仕事の内容を私に話さない。けれど事務所の会食や式典へ招かれる時は、出席者について事前に教えてくれることがあった。 直哉の隣に立つことには慣れていた。 相手の名前と肩書を覚え、話題を邪魔せず、会話が途切れた時だけ自然に言葉を添える。司法修習を終えたばかりの頃から彼を支えてきた私には、それがいつしか当たり前になっていた。 先月、七年勤めた会社も辞めた。 結婚後はさらに忙しくなる直哉を家庭で支えてほしいと頼まれたからだ。迷いはあった。それでも二人で決めたことなら、新しい生活を築いていけると思った。「小春」 名前を呼ばれて振り向く。 柱のそばに立つ直哉はいつもと変わらず整っていた。濃紺のスーツも銀縁の眼鏡も隙がない。ただ、その顔には再会した時の笑みがなかった。「早かったね」「直哉が早めにって言ったから。もう会場へ入る?」「いや。こっちで話そう」 彼は私の返事を待たず、宴会場とは逆の廊下へ歩き出した。 案内されたのは小さな応接室だった。窓もなく、中央に低いテーブルとソファが置かれている。 直哉は私のコートを預かろうとしなかった。 そんな些細なことが妙に引っかかった。「座って」「うん」 向かい合って腰を下ろす。 テーブルの上には水すら用意されていない。直哉は指を組み、しばらく私を見ていた。法廷へ出る前でも顧客へ難しい説明をする時でも、彼は言葉に迷わない人だった。 その直哉が何度も息を整えている。「
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第2話 婚約者からの呼び出し・後編

 言葉は聞こえているのに、胸の奥まで届かなかった。 直哉は私を見ている。いつもと同じ落ち着いた目だった。その静けさが今はひどく遠く感じる。「理由を聞いてもいい?」 どうにかそれだけを口にした。「桐谷紗英さんと結婚することになった」 桐谷紗英。 直哉が勤める法律事務所の共同代表の娘で、同じ事務所に所属する弁護士だ。何度か挨拶をしたことがある。黒髪を短く整えた物静かな女性で、華やかな社交の場より書類の山が似合う人だった。「いつから?」「紗英さんと将来について話し始めたのは三か月ほど前だよ」 三か月。 私が会社へ退職の意向を伝えたのは二か月前だった。「その時、私との結婚はどうするつもりだったの?」「まだ決めていなかった。だから確定する前に小春を不安にさせる必要はないと思ったんだ」 直哉は淡々と続けた。「今後、事務所の経営にも関わっていくなら、同じ法律家である紗英さんの方が互いを支えやすい。共同代表も僕を後継者の一人として考えてくれている。感情だけでは決められないこともあるんだ」「感情だけで七年も一緒にいたつもりはないけど」「もちろん分かっているよ。小春が支えてくれたことには感謝している」 感謝。 その言葉が、終わった仕事への挨拶のように聞こえた。「私が会社を辞めることを止めなかったのは?」「そのことは本当に申し訳ないと思っている。当面の生活費は僕が負担する。住んでいる部屋も次の仕事が決まるまではそのまま使っていい。必要なら再就職先も紹介できる」「そういう話じゃないでしょう」「小春。今は感情的になっている」 柔らかな声だった。 昔はその声を聞くと安心した。直哉は私より先のことを考え、間違いのない答えを選んでくれる人だと思っていたからだ。 でも今、彼が整えているのは自分の選択だけだった。 私が仕事を失ったことも、結婚を信じて準備していた時間も、金額や条件へ置き換えれば処理できると思っている。「直哉は傷が少ない形を選んだつもりなんだね」「ああ。お互いにとって、それが一番だと思う」「私に相談する前に全部決めておいて?」「話し合っても結論は変わらなかった」 迷いのない返事だった。 私は左手を見た。 細い輪の中央で小さな石が光っている。直哉と一緒に選んだ日のことを覚えている。高価すぎるものはいらないと言った私へ、長く
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第3話 ならば俺がもらう・前編

 男の視線は冷たかった。 私を値踏みしているようには見えない。ただ長い間探していたものを確かめるように、まばたきもせず見つめている。 黒いスーツは仕立てのよさが一目で分かった。背が高く、肩も広い。整った顔立ちなのに近寄りがたいのは、表情に愛想というものが一切ないからだろう。 今の私には知らない人の機嫌まで考える余裕はなかった。 目を伏せて通り過ぎようとした時、背後で扉が開く。「小春、待って」 直哉が追ってきた。「今の状態で一人になるのはよくない。車を用意するから、今日は家まで送るよ」「大丈夫。自分で帰れる」「そういう問題じゃないだろう。君は突然のことで混乱している。今すぐ金銭的な援助まで断る必要はないよ」「今決めても、明日決めても同じだから」「感情が落ち着けば考えも変わる。七年一緒にいた僕には分かるよ」「分かっていたら、こんな形にはしなかったと思う」 直哉の眉がわずかに寄った。「僕だって何も考えずに決めたわけじゃない。事前に話したとしても、結論は変わらなかった。なら、不確かな段階で君を悩ませる必要はなかっただろう」「傷つけたくない人間の仕事を辞めさせておいて、別の女との結婚を決めるのか」 低い声が廊下へ落ちた。 私も直哉も黒いスーツの男を見る。 直哉の顔から初めて余裕が消えた。「……皇さん」 男は直哉へ視線を移した。「御影直哉。お前の説明は最初から最後まで自分に都合がいい」「これは私たちの問題です。部外者に口を挟まれる理由はありません」「人目のある廊下で女を追い回し、自分の正当性を聞かせておいて部外者も何もない。聞かれたくなければ、先に話を終わらせておけ」 直哉は眼鏡の位置を直した。「事情をご存じない方に判断されることではありません。僕は彼女の生活が不安定にならないよう、必要な補償を提示しています」「補償を提示すれば誠実だとでも?」「少なくとも責任を放棄するつもりはありません」「違うな。お前がしているのは責任の処理だ」 男は一歩も動かないまま言葉を重ねた。「お前は婚約者へ結婚後の退職を求めた。その裏で別の女との婚姻を検討し、話がまとまるまで事実を伏せた。自分だけ退路を確保した後で婚約を解消し、相手が失った仕事と時間を金で精算しようとしている」「将来を考えれば合理的な選択です。感情だけで結婚を決める方が無
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第4話 ならば俺がもらう・後編

 廊下の空気が止まった。 婚約を破棄された直後に、知らない男性から求婚される。 そんな出来事を理解するための経験を私は持っていない。「……どちら様ですか?」 どうにか出てきたのは、それだけだった。 男の目が見開かれる。 先ほどまで直哉を一言も逃さず追い詰めていた人とは思えないほど、明らかな動揺だった。「俺が分からないのか?」「すみません。どこかでお会いしましたか?」「会った。何度も話した」「仕事関係でしょうか?」「違う」 男は即答した後、なぜか言葉を失った。 直哉が低い声で私を呼ぶ。「小春。この方は皇帝人(すめらぎ・みかど)さんだ。皇グループの次期総帥といわれている」 皇帝人。 名前は知っている。 国内外にいくつもの企業を抱える皇グループ。その創業家に生まれ、若くして中枢を任されている人物だ。経済誌で見た写真より実物の方がずっと威圧感がある。 だからといって、求婚を受ける理由にはならない。「皇さん。彼女は混乱しています。これ以上、無責任な冗談を――」「俺は冗談で結婚を口にしない」 帝人さんは直哉を一瞥した。「それに勘違いするな。俺はお前との婚約に遠慮して、何もせずにいたわけではない」「……どういう意味ですか」「小春を見つけた時には、すでにお前との婚約が成立していた。それでも俺は求婚するつもりだった。誰を選ぶか決めるのは小春であって、お前ではないからな」 あまりにも堂々とした発言だった。 婚約者がいる女性への求婚を宣言しているのに、後ろめたさが一欠片もない。「なら、なぜ今まで何も――」「見つけたばかりだった。今の小春がどこで暮らし、何をしているのかを確認していたところへ、お前が別の女と結婚するらしいと聞いた」 帝人さんの視線が鋭さを増す。「事実を確かめに来てみれば、この有り様だ。お前は自分から婚約を解消した。今さら俺の求婚へ口を挟む立場ではない」「問題しかありません」 思わず口を挟むと、帝人さんは素直にこちらを向いた。 直哉へ向けていた冷たさが少しだけ薄れる。「何が問題だ」「私は今、婚約を破棄されたばかりです。それに帝人さんのことを何も知りません」「俺はお前を知っている」「一方だけ知っていても結婚はできませんよ」「い、いや、それはだな……」 帝人さんが初めて言葉に詰まった。 私の言ってい
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第5話 泣き虫のみーくん

 ひかりの森幼稚園の園庭には大きなクスノキがあった。 枝は空を覆うほど広がり、太い根が地面からいくつも顔を出していた。先生からは危ないから木の裏へ行かないようにと言われていたけれど、子どもにとって「行ってはいけない場所」は「行ってみたい場所」とほとんど同じだ。 あの日も私は先生の目を盗み、クスノキの裏へ回った。 誰かの泣き声が聞こえたからだ。「返せよ」「泣いたら返してやる」「もう泣いてるじゃん」 年長組の男の子が三人いた。 その真ん中に小さな男の子が座り込んでいる。白い頬を涙で濡らし、膝の上で手を握っていた。 男の子たちの一人が赤い車のおもちゃを高く掲げる。「それ、みーくんのでしょ!」 私はクスノキの陰から飛び出した。 三人が振り返る。相手は私より大きかったけれど、人数まで数える余裕はなかった。「返しなさい!」「お前には関係ないだろ」「あるもん!みーくんが泣いてるでしょ!」「弱い奴が悪いんだよ」 その言葉に腹が立った。「弱い子から大勢で取る方が弱虫でしょ!」 私は赤い車を持っている男の子へ手を伸ばした。届かない。相手は面白がってさらに腕を上げる。 ならば先生を呼ぶしかない。「返さないなら園長先生に言う!クスノキの裏に来てたことも、おもちゃを取ったことも、全部言うから!」 三人の顔色が変わった。 ここへ来てはいけないと言われていたのは、私たちだけではない。「告げ口するのかよ」「返さない人が悪いんでしょ!」 しばらく睨み合った末、赤い車が足元へ落とされた。「もう行こうぜ」 三人は不満そうに走り去っていく。 私は車を拾い、座り込んでいる男の子へ差し出した。「はい。もう取られちゃ駄目だよ」 みーくんは両手で車を受け取った。 けれど涙は止まらない。「返ってきたのに、どうしてまだ泣いてるの?」「……こわかった」 か細い声だった。 みーくんは同じ年なのに小さくて色が白く、少し走っただけでも息を切らしていた。幼稚園もよく休んでいたから、皆と遊ぶことも少なかった。 私は腰へ両手を当てた。「男の子なら、いつまでも泣かない!」 みーくんの肩が跳ねる。「悔しかったんでしょ?だったら強くなりなさい!強くなったら今度はみーくんが、弱い子を助けるの!」「ぼくが……?」「そうだよ。泣いてるだけじゃ、おもちゃも守れ
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第6話 約束は約束

 確かに、ずいぶん強くなったようだ。 幼い頃は少し走っただけで息を切らしていた。細い腕で赤い車を抱え、年上の子たちに囲まれただけで動けなくなっていたはずだ。 今の帝人さんは私より頭一つ以上高い。上質なスーツの上からでも肩や胸板の厚みが分かり、まっすぐ立つ姿には押しても揺らぎそうにない力強さがあった。 肉体だけではない。 直哉が言葉を選んで正当化していたことを、帝人さんは一つずつ退けた。相手が弁護士でも、大勢の企業を抱える立場でも関係ないのだろう。 少し強くなりすぎた気もする。「俺は約束を果たした」 帝人さんは疑いようのない事実として告げた。「したがって、お前は俺との結婚を考える義務がある」「義務まではないと思います」「約束した」「幼稚園児の時ですよ?」「年齢は約束の効力を左右しない」「法律では左右すると思いますけど」 少し離れた場所で直哉が何か言いたそうな顔をした。けれど今だけは弁護士として口を挟まれても困る。 帝人さんは眉一つ動かさない。「俺は法的義務の話をしていない。お前が俺に条件を提示し、俺はそれを満たした。ならば検討するのが筋だと言っている」「考えてあげるとは言いました。でも、結婚するとは言っていませんよね?」「考えれば俺を選ぶ」「どうして断言できるんですか」「俺以上の男はいない」 迷いのない返答だった。 ここまで堂々と言われると、腹が立つより先に感心してしまう。 昔のみーくんは、どこへ行ってしまったのだろう。「帝人さんがすごい人なのは分かりました」「ならば――」「でも、私は帝人さんのことを何も知りません」 帝人さんの言葉が止まった。「強いことも、お仕事ができることも分かります。昔の約束をずっと覚えていてくれたことも、嬉しくないわけではありません」 あの日のことを二十年以上忘れず、本当に強くなろうとした。 その時間まで笑うことはできなかった。 私にとっては記憶の底に沈んでいた一日でも、帝人さんにとっては違ったのだろう。「ですが、帝人さんが覚えているのは幼稚園児の私です。今の私が何を考えて、どんな人生を送りたいのかは知らないですよね?」「調べれば分かる」「そういうところです」「何がだ」「書類や人から聞いた話で分かることと、本人を知ることは違いますよ」 帝人さんは口を開いた。 けれど反
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第7話 婚約破棄の夜

「今日から俺を知れ」 帝人さんは結婚式の日取りでも決めたような顔で言った。「今日はもう帰ります」「なら送る」「結構です」「遠慮するな」「遠慮ではなくお断りしています」 帝人さんの眉が寄る。 この人の中には、好意を断られるという前提がないらしい。「一人で帰れると言っているんです」「婚約を破棄された直後だぞ」「だからといって歩けなくなったわけではありません」「判断力は落ちている可能性がある」「帝人さんの求婚を断れたので大丈夫です」「それは判断を誤っている」 会話がまったく進まない。 直哉は少し離れた場所で黙っていた。帝人さんが現れてから、私と二人で話していた時の余裕が消えている。「小春。やはり僕が送るよ」「必要ない」 答えたのは私ではなく帝人さんだった。「あなたに決める権利はありません」「婚約を解消した直後の男と二人きりにする方が不自然だ。話が終わっていないと言って、また自分に都合のいい説明を聞かせるつもりだろう」「僕たちは七年も一緒にいたんです」「七年かけても、この女が何を嫌がっているのか分からなかったらしいな」 直哉の顔が強張る。 帝人さんは容赦がない。 言っていることは間違っていないけれど、今はこれ以上争ってほしくなかった。「帝人さん」「何だ」「直哉と話したくないのは私です。帝人さんが追い払わなくても、自分で断れます」「……そうか」「はい」 帝人さんは直哉を見た。「聞いたな」 結局追い払うらしい。「小春。また日を改めて連絡する」「荷物のことだけでいいから」「今日は感情的になっている。今後のことは――」「御影さん」 私は直哉の言葉を遮った。「これ以上言われると、本当に七年間が嫌な思い出になりそうなの。今日は帰って」 直哉の唇が止まった。 傷ついたような顔をされても、今は優しい言葉を探せない。 彼はしばらく私を見た後、何も言わずに応接室へ戻っていった。 廊下に静けさが戻る。 そこで初めて、張りつめていた足から力が抜けそうになった。 大丈夫だと思っていた。 指輪も返した。お金も部屋もいらないと言えた。私は自分で帰れるし、明日からのことも自分で決められる。 それでも七年がなくなった事実は、すぐに飲み込めるほど小さくなかった。「小春」 帝人さんの声が少し低くなる。「座るか
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第8話 翌朝の求人票・前編

 眠った気がしないまま朝になった。 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の隅に積まれた段ボール箱を白く照らしている。 箱の側面には太いペンで、新居、台所、寝室と書いてあった。 直哉と暮らす部屋へ運ぶためにまとめた荷物だ。 食器は二人分を一組にして包んだ。冬物の服は新居の収納に合わせて減らし、棚へ飾る写真も選んだ。 昨日まで未来の準備だったものが、一晩で行き先をなくしている。 左手には婚約指輪の跡が薄く残っていた。 そこへ触れそうになり、手を引っ込める。 泣かなかったわけではない。 昨夜、玄関の鍵を閉めた途端に涙が出た。 悲しいのか悔しいのか、自分でも分からなかった。ただ七年間信じていたものが音もなく崩れ、その瓦礫の中へ一人で取り残された気がした。 直哉との生活に合わせて会社も辞めた。 退職した日は同僚たちが花束をくれた。寂しくなったら戻ってきてくださいと笑ってくれた後輩へ、幸せになりますと答えた。 あの時の私は、何一つ疑っていなかった。 朝になっても何かが解決したわけではない。 けれどお腹は空くし、今日は燃えるゴミの日だ。 人生は意外と容赦なく続くらしい。 私は部屋着の上へカーディガンを羽織り、ゴミ袋をまとめた。婚礼関係のパンフレットが目に入り、いったん手を伸ばしてからやめる。 今すぐ全部捨てなくてもいい。 捨てられる時に捨てればいい。 そう思える程度には、昨夜より落ち着いていた。 冷蔵庫を開けると卵が二つ残っている。直哉が泊まりに来ると思って買っておいたものだ。 一人分なら一つで足りる。 フライパンを出したところで玄関の呼び鈴が鳴った。 時計は午前九時を少し過ぎたばかりだ。 宅配便にしては早い。 モニターを確認すると、昨日ホテルで会った男性が立っていた。『榊原です。帝人様の命により参りました』 朝から聞きたくない名前だった。 婚約を破棄されたその日に求婚し、次は秘書になれと言い出した人だ。できれば一晩くらい現実を整理する時間が欲しかった。 けれど帝人さんに、人を待つという発想はなさそうだった。 私は急いで顔を洗い、髪を一つにまとめた。昨日の化粧が少し残っていたことに気づき、見なかったことにしたくなる。 扉を開けると、榊原さんは黒いスーツ姿で立っていた。 昨夜遅くまでレセプションにいたはずなのに、一
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第9話 翌朝の求人票・後編

 私はテーブルへ広げられた資料を見直した。 募集されているのは帝人さん専属の秘書だった。 来客や会議の調整だけではない。国内外への出張手配、各グループ会社との連絡、機密資料の管理。緊急時には予定をすべて組み替え、帝人さんの判断を関係部署へ正確に伝える必要がある。 役員秘書として働いてきた経験は生かせそうだ。 ただし前職とは会社の規模が違いすぎる。「私を採用することは、昨日突然決まったんですよね?」「帝人様の中では決定しております」「会社としては?」「何も決まっておりません」 そこはまともで安心した。「帝人様は今すぐ雇えとおっしゃいましたが、職歴と能力を確認せず採用することはできません。正式な面接と実務試験を受けていただきます」「落ちる可能性もあるんですね」「当然ございます」 榊原さんの返答に遠慮はなかった。 むしろその方がありがたい。 婚約を破棄された私を哀れんで用意された仕事なら、受けるつもりはない。 けれど本当に人手が必要で、これまでの経験を評価してくれるというなら話は違う。 結婚するために辞めた仕事を、もう一度始める。 何もすることがないまま、この部屋で段ボール箱を眺め続けるよりはいい。「帝人さんが求婚したことは、採用に影響しますか?」「させません」 榊原さんは即答した。「少なくとも私が行う評価には、一切影響させるつもりはございません。秘書は帝人様の近くで機密情報を扱う仕事です。私情で選べる役職ではありませんので」「帝人さんも納得しているんですか?」「形式上は」「形式上……」「能力が足りなければ採用しないとお伝えしました。帝人様は、足りないはずがないとお答えになりました」「昨日再会したばかりなのに?」「その点も指摘いたしました」 どうやら榊原さんは、私が考えるよりずっと苦労している。 私はもう一度求人票を見た。 給与は前職より高い。仕事の責任を考えれば当然なのだろうが、数字を見るだけで背筋が伸びる。 勤務開始日は相談可能。 面接を受けても、採用を断ることはできる。 ここで決めるのは就職だけだ。結婚とは関係ない。 少なくとも私の中では。「面接だけなら、受けてみたいです」「承知しました」 榊原さんは表情を変えず、スマートフォンを取り出した。「帝人様へお伝えします」「今からですか?」
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第10話 帝人様の秘書・前編

 面接当日、私は皇グループ本社の前で足を止めた。 空を映す黒いガラスの外壁は、見上げても最上階まで目で追えない。正面玄関へ吸い込まれていく人々は皆、歩く速度まで決められているように見えた。 つい数日前まで、私は結婚後の新居に置く食器を選んでいた。 それが今は、国内有数の企業グループへ再就職の面接に来ている。 人生の方向転換が急すぎて、まだ自分のことではないような気がする。 けれど鞄の中には履歴書があり、着ている紺色のスーツも今日のために選んだものだ。役員秘書として働いていた頃に何度も袖を通した服なのに、結婚を理由に退職してからはクローゼットの奥へしまったままだった。 襟元を整え、正面玄関をくぐる。 広いエントランスには磨かれた石材が使われ、靴音が高い天井へ静かに響いていた。 受付で名前を告げると、ほどなく榊原さんが現れた。「お待ちしておりました、倉橋様」「本日はよろしくお願いいたします」「こちらこそ。先にお伝えしておきますが、帝人様からは採用するよう命じられております」「やはりですか」「ただし、私の評価には一切影響いたしません。能力が基準に達していなければ不採用とします」 遠慮のない言葉だった。 けれど私は、その厳しさに安心した。「よろしくお願いします」「帝人様にも同じことを申し上げたのですが、倉橋様が不採用になるはずはないと断言されました」「昨日再会したばかりなのに、ずいぶんな自信ですね」「帝人様は、自分の判断を疑うという工程を省略なさいますので」 榊原さんの口調は淡々としている。 おそらく冗談ではない。 案内されたのは最上階ではなく、人事部の面接室だった。 室内には榊原さんのほか、人事部の女性が一人待っていた。五十歳前後だろうか。柔らかな雰囲気をまとっているが、こちらを見る目はよく人を観察している。「人事・組織開発担当の早乙女です。本日はよろしくお願いいたします」「倉橋小春です。よろしくお願いいたします」 席に着くと、まずこれまでの職歴について質問された。 新卒で入社してから七年間、役員秘書として勤務していたこと。途中から役員二名の予定を並行して管理し、会社統合の際には秘書室の業務整理にも関わったこと。来客対応や出張手配だけでなく、部門間の連絡調整や緊急時の予定変更も任されていたこと。 話しているうちに、
last updateLast Updated : 2026-07-21
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