ホテルの自動扉を抜けた瞬間、磨き上げられた床にシャンデリアの光が落ちた。 御影直哉(みかげ・なおや)が所属する法律事務所の創立記念レセプションは、このホテルの大宴会場で開かれる。受付開始までまだ四十分もあるのにロビーには濃紺や黒のスーツを着た人たちが集まり始めていた。 私はコートの襟を整え、ガラスに映った自分を確認する。 淡いベージュのワンピース。直哉が選んだ小さな真珠の耳飾り。左手には婚約指輪。 どれも今日のために用意したものだった。 来年の春には、この指輪が結婚指輪へ変わる。 私はそれを疑ったこともなかった。◇◇◇◇『会場へ入る前に話したいことがある。少し早く来てくれる?』 昼過ぎに届いた直哉からのメッセージは短かった。 結婚式か新居の話だろうか。それとも今夜、婚約者として紹介したい相手がいるのかもしれない。 直哉は仕事の内容を私に話さない。けれど事務所の会食や式典へ招かれる時は、出席者について事前に教えてくれることがあった。 直哉の隣に立つことには慣れていた。 相手の名前と肩書を覚え、話題を邪魔せず、会話が途切れた時だけ自然に言葉を添える。司法修習を終えたばかりの頃から彼を支えてきた私には、それがいつしか当たり前になっていた。 先月、七年勤めた会社も辞めた。 結婚後はさらに忙しくなる直哉を家庭で支えてほしいと頼まれたからだ。迷いはあった。それでも二人で決めたことなら、新しい生活を築いていけると思った。「小春」 名前を呼ばれて振り向く。 柱のそばに立つ直哉はいつもと変わらず整っていた。濃紺のスーツも銀縁の眼鏡も隙がない。ただ、その顔には再会した時の笑みがなかった。「早かったね」「直哉が早めにって言ったから。もう会場へ入る?」「いや。こっちで話そう」 彼は私の返事を待たず、宴会場とは逆の廊下へ歩き出した。 案内されたのは小さな応接室だった。窓もなく、中央に低いテーブルとソファが置かれている。 直哉は私のコートを預かろうとしなかった。 そんな些細なことが妙に引っかかった。「座って」「うん」 向かい合って腰を下ろす。 テーブルの上には水すら用意されていない。直哉は指を組み、しばらく私を見ていた。法廷へ出る前でも顧客へ難しい説明をする時でも、彼は言葉に迷わない人だった。 その直哉が何度も息を整えている。「
Last Updated : 2026-07-21 Read more