理人さんが訪ねてきた翌日、私は定時を少し過ぎてから本社を出た。 帝人さんは海外支社との会議中だ。終了は早くても一時間後になる。「先に帰るのか」 会議室へ入る直前まで不満そうにしていたけれど、勤務時間が終わったのだから当然だと説明すると、しぶしぶ納得してくれた。 最近は一度で話が通じることも増えている。 少しずつ成長しているらしい。 エントランスを抜けると、外はすでに暗くなっていた。 ガラス張りのビルへ街の灯りが映り、行き交う社員たちの姿が重なる。昼間より冷えた風に肩をすくめ、駅へ向かおうとした時だった。「倉橋小春さんですね?」 名前を呼ばれて足を止める。 三十代後半ほどの男性が、少し離れた場所に立っていた。 濃い灰色のコートに細身の眼鏡。柔らかな笑顔を浮かべているけれど、見覚えはない。「どちら様でしょうか」「突然申し訳ありません。東都経済の有馬と申します」 差し出された名刺には、経済誌の編集部と記されていた。「記者の方ですか?」「ええ。皇グループについて取材しております」「取材でしたら広報部を通してください」 名刺を受け取らずに答えると、有馬さんは困ったように笑った。「公式な取材では聞けないこともありまして」「でしたら、なおさら私からはお話しできません」 専属秘書になって日が浅いとはいえ、社外秘の情報を扱っている。 知らない相手へ話せることなど何もない。「仕事のお話だけではありません」 有馬さんの声が少し低くなった。「皇帝人氏とのご関係について、少し伺いたいのです」「お答えできません」「婚約を解消された直後、皇氏から求婚され、その数日後には専属秘書として入社された。世間が知れば、ずいぶん興味を持つ話だと思いませんか?」 指先から温度が引いた。 求婚については、ホテルの廊下に居合わせた人間がいる。入社も社
Last Updated : 2026-07-29 Read more