جميع فصول : الفصل -الفصل 20

38 فصول

第10話 写り込んだ腕時計

 雨の夜から二日後、紬の携帯電話へ一枚の写真が届いた。 午前五時十二分。台所では味噌汁の鍋がかすかに煮立ち、だしと大根の匂いが白い湯気に混じっていた。紬は卵焼きを巻きながら、作業台の端で震えた電話へ目を向けた。 卓臣からかもしれないと思った。 横浜へ二泊の出張に出ている。昨夜、紬が送った〈到着しましたか〉という連絡には返事がなかった。朝食は必要ないと分かっていても、何時に戻るのかくらいは知っておきたかった。 火を弱め、濡れた指を前掛けで拭いてから画面を開く。 送り主は華怜だった。 海の見える客室の写真が、大きく表示された。 磨かれた窓の向こうに、朝の海が広がっている。水平線の上には淡い光が差し、波へ細長い銀色の道を作っていた。窓際の卓には、金の縁取りがある小鉢や、厚く切られた刺身、伊勢海老の殻を添えた皿が並んでいる。徳利の隣には、細い脚の酒器が二つあった。〈友達と温泉。姉ちゃんには一生無理だろうけど〉 短い文章の末尾に、笑顔の記号が添えられていた。 紬は何も返さず、火へ目を戻そうとした。 その時、写真の右端に写り込んだものが目に留まった。 料理を挟んだ向こう側に、男の腕があった。 濃い色の長袖を肘近くまで捲り、酒器へ手を伸ばしている。顔も身体も画面の外へ切れているが、骨張った手首には銀色の腕時計が巻かれていた。 紬の呼吸が止まった。 盤面は深い紺色。細い銀の針。日付を示す小窓。右下の縁には、斜めに走る小さな傷がある。 写真を拡大した。 指で触れるたび画像が荒くなり、料理の輪郭は崩れた。それでも傷だけは消えなかった。四時と五時の目盛りの間、硬いものへ擦りつけたような白い線。 卓臣の時計と同じだった。 似ているだけではない。 結婚十周年の春、紬が贈ったものだった。 当時はまだ、卓臣が紬の給与通帳を取り上げる前だった。毎月の給料からわずかな額を残し、子どもが熱を出せばそこから診察代を払い、八重に急な買い物を頼まれれば補った。その残りを何年もかけて貯めていた。 十周年が近づいた頃、卓臣が雑誌を開きながら、その時計を指した。「取引先の奴が着けてた。こういうの一つくらいないと、舐められるんだよな」 欲しいとは言わなかった。 けれど紬は、それが欲しいという意味だと思った。 貯金の大半を下ろし、駅前の時計店へ一人で行った。店員は
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第11話 消えた妹

 午後九時を過ぎても、御厨家の台所には夕食の匂いが重く残っていた。 焼き魚の脂、味噌汁の湯気、八重が床へ落とした煮物の甘い醤油。換気扇を回しても、十人分の食事が終わったあとの空気はなかなか薄くならない。 紬は最後の皿を洗い、濡れた指で排水口の屑を集めていた。 卓臣は夕方、急な出張が入ったと言って家を出ていた。行き先も戻る時刻も告げず、紬が畳んだワイシャツを旅行鞄へ乱暴に押し込んでいった。 玄関に置かれた銀色の腕時計は、いつの間にかなくなっていた。 携帯電話が鳴った。 前掛けのポケットで震える音に、紬の肩がこわばる。卓臣からの連絡かと思ったが、画面に表示されたのは久世静江の名だった。 電話へ出る前から、胸の奥が冷えた。「もしもし」『あんた、華怜に何を言ったの』 耳へ当てた途端、怒鳴り声が響いた。「何も言ってないよ」『嘘つかないで! 律君とこそこそ会って、あることないこと吹き込んだんでしょう』「会ってなんか……」 雨のバス停が浮かび、言葉が途切れた。 会っていないとは言えない。だが、華怜を傷つける話などしていなかった。「華怜に何かあったの?」 電話の向こうで、静江が荒く息を吸った。『いなくなったのよ』 紬の手から、濡れた布巾が落ちた。「いなくなったって、どこに?」『分からないから言ってるんでしょう! 九時過ぎに律君へ写真を送って、それから連絡がつかないの』「どんな写真?」『薬の瓶と、腕の傷よ。もう終わりにするって』 静江の声が一度掠れ、すぐ怒りへ戻った。『姉ちゃんにも、さよならって伝えてって書いてあったそうよ』 台所の時計が秒を刻んでいた。 紬は作業台へ手をつき、身体を支えた。十五歳の夜、華怜が鋏を握った姿が、割れた鏡とともに蘇る。白い手首に浮いた赤い線。妹を殺したくないなら律を譲れ、と命じた母の声。「警察には?」『律君が連絡したわよ。病院にも電話してる。でも、あの子が死ぬつもりなら、そんなもの間に合わないかもしれないでしょう』「私も、何か――」『華怜が死んだら、あんたのせいだからね』 息が止まった。『あんたが律君の前へ出てきたから、華怜がおかしくなったの。昔みたいに、また妹から奪おうとした。もしあの子に何かあったら、一生許さない』「私は奪ってない」 声が、思いがけず口から出た。 静江も黙った。
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第12話 二人分の嘘

 律は華怜の番号へ、もう一度電話をかけた。 車内へ短い呼び出し音が流れ、すぐに機械の声へ切り替わる。 電源が入っていないか、電波の届かない場所にある。 何度聞いても同じ案内だった。 律は通話を切り、すぐにかけ直した。画面を押す指の動きだけが速く、表情は凍りついたように動かない。 路肩へ停めた車の外では、深夜の繁華街がまだ眠らずにいた。信号の色が濡れた道路へ滲み、遠くで救急車の音が細く伸びている。酒に酔った人々の笑い声も、閉じた窓を通すと水の底から聞こえるようだった。「電源は、まだ?」 紬が尋ねると、律は首を横に振った。「切れたまま」 声は平らだった。けれど電話を握る右手には力が入り、治りかけた掌の傷が赤く開きかけている。 紬の携帯電話には、華怜から送られてきた旅館の写真が表示されていた。 海を望む客室。華やかな料理。二つの酒器。画面の右端へ写り込んだ、銀色の腕時計。 律の家族カードが使われた旅館の名は、箸袋へ印刷された「汐路」と一致している。 それでも、何かが違うかもしれないと思った。 違っていてほしいと思った。 紬は写真へ二本の指を置き、ゆっくり広げた。 腕時計の傷を越え、男の腕、その後ろにある窓まで画像を動かす。早朝の海を映す大きなガラスには、室内の様子が薄く反射していた。 最初は、窓枠の影だと思っていた。 明るさを上げると、向かい合って座る二人の輪郭が浮かんだ。 一人は肩までの髪を垂らし、酒器を持っている。華怜が写真を撮るため、身体を少し斜めへ傾けているのだろう。 その向こうに、男性の広い肩が映っていた。 顔は光に溶け、目鼻までは分からない。 けれど身につけているシャツには見覚えがあった。 黒に近い濃紺。襟の内側だけに細い灰色の線が入り、袖口には黒い小さなボタンが二つ並んでいる。 出張へ出る前、紬がアイロンをかけたものだった。 右の袖口は、一度ボタンが取れている。卓臣は替えのボタンを探す時間さえ惜しみ、さっさと直せとシャツを紬へ投げた。まったく同じものが見つからず、予備の一回り小さなボタンを縫いつけた。 窓に映る男の右袖にも、大きさの違う二つの黒い点があった。 紬の指が、画面の上で止まった。「どうした?」 律の声に、紬は電話を胸元へ引き寄せた。「何でもありません」「何か見つけたんだろ」 問い詰め
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第13話 海の見えるホテル

 旅館の自動扉から現れたのは、濃紺の制服を着た夜勤の従業員だった。 紬の足が止まる。 男は駐車場を見回し、二人に気づくと、警戒をにじませながら近づいてきた。潮風に制服の裾が揺れ、胸元の名札が外灯を反射する。「お客様でしょうか」 律が一歩前へ出た。「雨宮華怜という女性を捜しています。先ほど警察から、こちらへ確認が入っているはずです」 従業員の表情がわずかに変わった。「伺っております。ただ、宿泊されている方のお名前やお部屋について、私どもからお答えすることはできません」「妻から自殺をほのめかす連絡がありました」 律は携帯電話を見せた。薬の瓶と傷の写真。もう終わりにするという文章。従業員は画面へ目を落としたが、首を横に振った。「事情は警察の方へお伝えください。当館は警察からの確認には対応いたしますが、ご家族であっても個人情報をお教えすることはできません」「無事かどうかだけでも」「申し訳ございません」 礼儀正しい声は、それ以上踏み込ませない硬さを持っていた。 紬は少し離れた場所で、白い旅行鞄を見た。 台車へ積まれていた鞄は、いつの間にか従業員が玄関脇へ移していた。持ち手で揺れる金木犀の飾りが、華怜の存在を何よりはっきり示している。「あの鞄は」 紬が口にすると、従業員はすぐに台車の前へ立った。「お荷物についてもお答えできません」 律の携帯電話が震えた。 警察からだった。 彼は数歩離れて通話へ出た。短い返事を繰り返し、途中で一度、目を閉じる。 通話を終えると、紬のもとへ戻った。「華怜の安全は確認できたそうだ」「怪我は?」「命に関わる状態じゃない。本人が誰とも話したくないと言っているらしい」 紬は息を吐いた。 安堵した途端、膝から力が抜けそうになった。華怜は生きている。薬を飲んではいない。傷も、少なくとも治療が必要なほどではない。 律は安堵したようには見えなかった。 掌の傷をかばうように指を曲げ、旅館の明るい玄関を見つめている。「警察は?」「本人に帰宅の意思がなく、事件性も認められないから、これ以上は介入できないそうだ。旅館や部屋の前で騒がず、帰ってくれと言われた」 夜勤の従業員は、話が終わったことを確かめるように一礼した。「ご理解ください」 自動扉が開き、暖かな照明が足元へ伸びた。男と白い旅行鞄は、その光の中
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第14話 返された十五歳

第14話 返された十五歳 旅館の白い建物がバックミラーの中で小さくなっても、律は何も言わなかった。 海沿いの道には、夜と朝の境目が薄い灰色となって横たわっていた。街灯はまだ点いているのに、東の空には冷たい光が滲み始めている。ワイパーが昨夜の雨粒を一度だけ拭い、乾きかけたガラスの上で鈍い音を立てた。 紬は膝の上で両手を重ねていた。指先に力を込めていなければ、何かが震え出しそうだった。卓臣が華怜の髪へ触れた手。甘やかに細められた目。重なった唇。まぶたを閉じても、見たものは暗闇の裏側へ鮮明に浮かんだ。 携帯電話は何度も震えた。卓臣から届いた〈飯を用意しとけ〉という文字も、八重からの着信も、そのまま画面の下へ沈んでいった。律の携帯も、センターコンソールの上で二度、短く震えた。彼は視線を落としただけで手を伸ばさなかった。 やがて車は細い脇道へ折れた。防風林を抜けると、人気のない海岸が開けた。夏には海水浴客が来るのだろう。色の褪せた監視台と、固く閉ざされた売店が、明けきらない光の中で置き忘れられたように立っている。 律は砂の入り込んだ駐車場の端へ車を停めた。 エンジンが切れると、急に波の音が近くなった。寄せては崩れ、引いては砂利をさらう。一定に聞こえるのに、同じ音は一つもない。車体を揺らす風は塩と濡れた木の匂いを運び、冷えた窓ガラスを白く曇らせた。「少しだけ、ここにいてもいい?」 律の声は低く、疲れていた。紬を引き留める響きではなかった。帰るために呼吸を整える時間を求めているように聞こえた。「はい」 それだけ答えると、喉の奥がひりついた。 律はハンドルへ両手を置いたまま、海を見た。右の掌には昨夜開いた傷が細く走り、乾ききらない血が黒ずんでいる。旅館の駐車場で強く握りしめていたせいだろう。けれど彼はその手を隠しもしなければ、見せつけもしなかった。 長い沈黙の間に、空の色が少しずつ変わった。鉛色だった水平線の縁へ、淡い青が差してくる。遠くで海鳥が一声鳴いた。「十五の時」 律がようやく口を開いた。 紬の肩がわずかに強張った。彼はそれに気づいたらしく、言葉を急がなかった。ハンドルから左手を離し、結婚指輪のある指をゆっくり握り込む。金属が朝の光を冷たく返した。「川沿いで、急に飽きたと言われただろう。最初から好きじゃなかった、と」 波音の向こうから、冬
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第16話 妹の問い

第16話 妹の問い 携帯電話の画面には、夜明けの光より先に、華怜の言葉が浮かんでいた。〈ねえ、姉ちゃん〉〈昨日、律と一緒だった?〉 細い文字の下で、入力欄の縦棒が明滅している。 紬はシーツを胸元へ引き寄せた。指先に力が入ると、白い布へ深い皺が寄った。空調の音は昨夜と変わらないのに、部屋の温度だけが急に下がったようだった。 隣で律が身を起こす。衣擦れの音が近くに響き、紬の肩が小さく揺れた。触れられると思ったのではない。誰かに画面を奪われ、返事を命じられることへ、身体が先に備えたのだ。 律はその動きを見て、伸ばしかけた手を止めた。「見てもいい?」 紬が携帯電話を傾けると、律は手に取らず、距離を置いたまま文字を読んだ。眠気の残っていた目が静かに細められる。「すぐには返さない方がいい」 低い声だった。「でも、返さなかったら……」「何をされるか分からない?」 紬は頷いた。 華怜から問いかけられた時、返事を待たせてはいけなかった。幼い頃からそうだった。青いリボンをどこへ隠したのか。律と何を話したのか。母へ告げ口したのか。黙っている時間が長いほど、華怜は泣き、物を投げ、静江は紬を責めた。 答えが決まっている問いもあった。 姉ちゃんなら譲ってくれるよね。 私のことが大切だよね。 返すべき言葉を少しでも間違えれば、華怜は自分の腕へ爪を立てた。紬が何を思っているかではなく、華怜の望む答えをどれだけ早く差し出せるかが、家の平穏を決めていた。「華怜は、知っているんでしょうか」 声が掠れた。「まだ分からない」「だって、こんなふうに」「知っているなら、あいつは疑問の形では送ってこない」 律は枕元に置かれた自分の携帯電話を見た。画面には、華怜からの不在着信が幾重にも並んでいる。留守番電話の印も十を超えていたが、再生しなかった。「華怜は何度もこうやって確かめてきた。俺が遅くなった時も、女性社員から連絡があった時も。事実を持っているように見せて、相手が何を隠しているのかを話させる」「では、嘘をつけば」「嘘を勧めているわけじゃない」 律の声は少しだけ硬くなり、すぐに和らいだ。「ただ、怯えたまま返事をして、紬が言う必要のないことまで差し出すのは違う。何を答えるかは、紬が決めていい」 何を答えるかは、自分が決める。 それだけのことが、紬には
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第17話 妻の帰宅

 御厨家の屋根が見えたところで、紬の足は一度止まった。 午前七時を少し回った住宅街には、朝食の匂いが漂っていた。どこかの家から焼いたパンの香ばしさが流れ、別の窓からは味噌汁の湯気が白く昇っている。食器の触れ合う音。子どもを急かす母親の声。道路を渡る自転車のベル。 どれも、これまで紬が毎朝つくってきた音だった。 けれど今朝だけは、その音の外側にいる。 海辺の駅から乗り継いだ電車とバスの冷えが、まだ身体へ残っていた。仕事用の靴は長く歩いたせいで踵が擦れ、足を踏み出すたびに細い痛みが走る。潮の匂いはもう服に残っていないはずなのに、家へ近づくほど、自分だけが海をまとっているように感じられた。 携帯電話は鞄の底へ入れてある。〈だったら、どうして二人ともホテルにいたの?〉 華怜の問いは、画面を伏せても消えなかった。 返信はしていない。 何と答えても、もう嘘になる。捜していただけではない。けれどすべてを差し出せば、華怜はそれを刃物に変える。紬には、黙ることしか選べなかった。 門扉へ手をかける。金属は朝露で冷えていた。 庭には卓臣の黒い車が停まっている。 海辺の旅館で見た車と同じナンバー。同じ後部扉のへこみ。二日前には会社の駐車場へ置いてあるはずだった車が、今は出張から帰った夫の車として、何事もなかったように家の前へ収まっている。 紬はしばらく、その傷を見つめた。 見間違いではない。 胸の内でそう言った時、以前のように自分の記憶を疑う声は起こらなかった。 玄関の鍵を差し込む前に、内側から扉が開いた。 結莉が立っていた。寝癖のついた髪を片側だけ結び、皺の寄った部屋着を着ている。紬の顔を見ても安堵せず、唇を尖らせた。「遅い。お腹すいた」「……ごめんなさい」 言葉は癖のように出た。「昨日もパンだったんだよ。おばあちゃん、何にも作ってくれないし」 結莉は紬の鞄へ手を伸ばした。「お土産は?」「ありません」「どこか行ってきたのに?」 その声を聞きつけて、家の奥で椅子を引く音がした。「帰ってきたのか」 八重の声だった。 紬は靴を脱いだ。床板の冷たさが、薄い靴下を通して足裏へ沁みる。玄関には家族の靴が乱れている。誰も揃えなかった靴を、いつものように直そうと屈みかけた。 今は先に来な。 八重の苛立った声が飛ぶ。 紬は靴へ伸ばした手を戻
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第18話 初めての拒絶

 その夜、御厨家の明かりが一つずつ消えても、紬の仕事だけは終わらなかった。 夕食の皿を洗い、十人分の洗濯物を干し、岩蔵の身体を拭いて着替えさせる。寝具についた汚れを落としている間にも、八重は廊下の向こうから明日の朝食に使う大根を切っておけと命じた。 午前七時過ぎに帰宅してから、紬は一度も座っていない。 朝、床へ置かれたステンレスの器からは食べなかった。 八重に何度命じられても、紬は床へ手をついたまま器へ顔を近づけなかった。最後には八重が器を蹴り、残飯と冷たい汁が床へ広がった。紬はそれを拭き、そのあと家族の朝食を作った。 床を拭いたことも、食事を作ったことも以前と同じだった。 けれど、あの器から食べなかった。 誰にも褒められず、何も変わらなくても、その事実は胸の奥に小さく残っていた。 台所の時計が十一時四十八分を指している。換気扇の低い音と、冷蔵庫の唸りだけが聞こえた。大根を刻む包丁の音を立てないよう、紬は刃をゆっくり下ろした。二階では子どもたちが眠っている。八重と繁政の部屋からは、テレビの音が途切れ途切れに漏れていた。 卓臣は夕食のあと、風呂へ入ってから寝室へ上がった。 食卓では紬へほとんど口をきかなかった。けれど、黙っている間も視線だけがまとわりついていた。紬が鍋を運ぶ時。湊人へ汁椀を渡す時。俯いて米をよそう時。 どこで夜を明かした。 誰に触られた。 口に出さない問いが、背中や首筋を這っているようだった。 最後の大根を保存容器へ入れた時、廊下の向こうで床板が鳴った。 足音はゆっくり近づいてきた。 卓臣が台所の入口に立っている。濃い色の寝間着を着て、片手で襟元を緩めていた。風呂上がりの石鹸に混じり、酒の臭いがした。「おい」 名前ではない。 紬は包丁を洗い、布巾で水気を拭った。「何でしょうか」「来い」 それだけ言い、卓臣は背を向けた。 いつものことだった。 寝室へ呼ばれる時、理由を尋ねることは許されない。疲れていても、傷が痛んでも、翌朝が早くても関係なかった。行かなければ卓臣は台所まで戻り、腕をつかんで連れていく。 紬は包丁を棚へ戻した。布巾を畳み、濡れた指を前掛けで拭う。 足がすぐには動かなかった。 昨夜のホテルの部屋が蘇る。 顔に触れてもいい? 嫌なら、ここでやめる。 あれは、遠くへ置いてきたはずの声だ
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第19話 妹の訪問

第19話 妹の訪問 玄関の呼び鈴が鳴った時、紬は岩蔵の汚れた寝間着を洗っていた。 洗面台に張ったぬるい水は灰色に濁り、消毒液と洗剤の匂いが狭い脱衣所へこもっている。袖をまくった腕には、昨夜卓臣につかまれた指の跡が紫色に残っていた。水に浸すたび皮膚の内側が鈍く痛み、紬は何度も息を止めた。 呼び鈴がもう一度鳴る。「聞こえないのかい!」 居間から八重の声が飛んだ。「今、行きます」 紬は濡れた手を前掛けで拭き、袖を下ろした。鏡へ映った頬には薄く粉をはたいてある。それでも平手を受けた側だけがわずかに腫れ、唇の内側にはまだ切れた傷があった。 廊下を急ぐと、背中にも痛みが走る。 玄関の磨りガラスの向こうに、細い人影が見えた。 扉を開ける前から、甘い金木犀の香りがするような気がした。「こんにちは、姉ちゃん」 華怜が立っていた。 柔らかな焦げ茶色の髪は肩の上で艶やかに巻かれ、淡い水色のワンピースには皺一つない。唇には血色のよい紅が引かれ、耳元では小さな石を連ねたイヤリングが朝の光を受けて揺れていた。 海辺の旅館から送られてきた写真で、華怜がつけていたものだった。 片手には有名な洋菓子店の大きな紙袋を提げている。「急にどうしたの」「近くまで来たから。姉の嫁ぎ先へご挨拶に来るのに、理由がいる?」 華怜は笑った。 後半だけは、家の中にいる者へ聞かせるためのよそゆきの声だった。「まあ、華怜さんじゃないの」 八重が居間から出てきた。先ほどまで紬を呼びつけた声とは違い、目尻を下げ、頬へ笑みを浮かべている。「ご無沙汰しております。急にお邪魔してしまって」「何を言うの。いつでも来てちょうだい。相変わらずきれいな妹さんねえ。姉妹なのに、こうも違うものかしら」「もう、八重さんったら」 華怜は恥ずかしそうに肩をすくめた。イヤリングが軽く鳴る。その仕草までよく計算されているように見えた。 八重は菓子の紙袋を受け取り、表の金文字を見て目を輝かせた。「こんな高い物を」「律がいただいた物なんですけど、二人では食べきれなくて。よかったら皆さんで」 嘘だと紬には分かった。 箱には今朝の日付が印字された小さな購入証が貼られていた。華怜はわざわざ店へ寄り、この家へ来るために買ったのだ。「さあ、上がって。あんた、何をぼんやりしてるんだい。華怜さんにお茶を出しな
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第20話 一度だけの約束

 雨宮律が紬のレジへ並んだのは、華怜が御厨家を訪れてから四日後のことだった。 午後三時を過ぎた店内には、夕方の混雑が始まる前の緩い静けさがあった。天井から流れる明るい音楽に、冷蔵棚の低い唸りと、買い物籠が重なる乾いた音が混じっている。 紬は前の客へ釣り銭を渡し、次の籠を引き寄せた。 缶詰。食パン。牛乳。即席の味噌汁。ミネラルウォーター。 籠の中身を見ただけで、誰が買いに来たのか分かった。 商品を取る指が一瞬止まる。「いらっしゃいませ」 顔を上げずに言った。 律も何も言わなかった。 バーコードを読み取る電子音が、一定の間隔で響いた。食パンの袋を傷つけないよう端を持ち、牛乳を横にしないよう袋の底へ入れる。いつもなら無意識にできる動作へ、紬は一つずつ意識を置いた。 目を上げてはいけない。 声を聞いてはいけない。 あの夜は一度だけだと決めた。律も分かったと言った。ここで客と従業員として会計を終えれば、それでいい。「二千百六十八円です」 律が支払い用のカードを差し込む。 端末の処理を待つ数秒が長かった。 カードを返す時、どうしても視界へ手が入った。ホテルの駐車場で開いていた掌の傷は薄い線になっていたが、指の付け根に新しい擦り傷がある。 紬は反射的に顔を上げかけ、途中で止めた。「ありがとうございました」 商品を渡す。 律は袋を受け取った。 何か言うのではないかと、紬の肩が固くなる。けれど彼は一度、小さく頭を下げただけだった。 背の高い影がレジの前から離れる。 自動扉が開き、午後の白い光が差し込む。律は振り返らずに店を出た。 紬は次の客へ向き直った。「お待たせいたしました」 自分の声が、思っていたより普通に聞こえた。 その後も客は途切れた。野菜を詰めた籠。夕食の惣菜。子どもの菓子。何十点もの商品が紬の手を通り過ぎる。 それなのに、律の買った物だけが記憶に残った。 即席の味噌汁。 食パン。 二人暮らしの家へ持ち帰るには、ひどく簡素だった。「御厨さん、手が止まってる」 背後から奈津子の声が刺さった。「申し訳ありません」「この前は男と駐輪場で話し込んで、今度はレジで見つめ合うの? 勤務中なんだから、そういうのやめてくれる?」「見つめ合ってはいません」 言葉が出たあとで、紬は自分に驚いた。 奈津子も眉を上げた。
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