All Chapters of 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ: Chapter 1 - Chapter 10

23 Chapters

登場人物や設定

世界観・用語獣魂狼人の内側に宿るもう一つの魂。通常は十六歳から十八歳までに目覚め、狼への変身が可能になる。月なし十八歳を過ぎても獣魂が目覚めなかった者への蔑称。群れでは結婚、継承、戦闘参加を厳しく制限される。運命の番月神によって定められた唯一の相手。匂い、体温、獣魂の反応によって互いを認識する。契りの番家同士の婚約や政治的な理由で結ばれる伴侶。運命の番とは異なるが、アルファの宣誓によって正式な関係となる。ルナアルファの伴侶であり、群れの共同統治者。単なる妻ではなく、治療、備蓄、孤児保護、裁判、外交を担う。銀首輪《月環》ルナ候補の証。アルファ本人にしか外せない。公衆の前で外されることは、最大級の拒絶と屈辱を意味する。銀嶺狼群《ルーメル》リュシエナが生まれ育った群れ。血統と戦闘能力を重視する。黒曜狼国《ヴァルグラッド》複数の群れを統一した北の狼国。銀嶺狼群では、残虐な黒狼たちの国だと教えられている。ネタバレなしの登場人物プロフィールリュシエナ・フェルディス二十歳/身長165センチ。銀嶺狼群のルナ候補として育てられた女性。淡い灰金色の長髪と、霧がかった月灰色の瞳を持つ。十八歳を過ぎても狼へ変身できず、群れでは「月なし」「飾りのルナ」と蔑まれている。大人しく従順に見えるが、本来は観察力が鋭く、理不尽を正確に記憶している。薬草、備蓄管理、古い群れの記録に詳しい。誰かを見捨てることができない一方、自分が傷つくことにはひどく無頓着。感情を荒らげるより、静かな言葉で相手の矛盾を突くタイプ。長年の冷遇から謝る癖が染みついている。ヴァルゼイン・ノクスハルト二十八歳/身長192センチ。黒曜狼国を統べる黒狼王。夜色の髪、暗い金色の瞳、左の眉から頬へ伸びる薄い傷を持つ。狼の姿は通常のアルファを遥かに上回る巨躯の黒狼。敵対者には一切の容赦を見せず、全群れから「月を喰らう王」と恐れられている。声を荒らげることはほとんどなく、短い命令だけで周囲を従わせる。情ではなく責任を基準に動く現実主義者。所有欲は強いが、相手の同意を奪う行為を嫌悪する。リュシエナを弱者として庇うのではなく、本人が選択できる立場へ戻そうとする。ローディク・アルヴェスタ二十四歳。銀嶺狼群の新アルファで、リュシエナの元婚約者。誇り高い銀狼。強さと血統こそが統治者の価値だと信
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第1話 銀の首輪が落ちた夜

第1話 銀の首輪が落ちた夜 七つ目の鐘が鳴り終わると、大広間を満たしていた人々の息が、ひとつの大きなうねりとなって天井へ昇った。 銀嶺狼群《ルーメル》に新たなアルファが立つ夜だった。 高窓の外では雪が絶え間なく降っている。青白い月光は磨き上げられた石床に細長く差し込み、壁際に灯された獣脂の燭台を冷たく照らしていた。暖炉には太い薪が惜しみなくくべられているのに、壇上のすぐ下に跪くリュシエナの指先は、とうに感覚を失っていた。 寒さのせいではない。 首には、細工銀の輪が嵌められている。 銀首輪《月環》。十六歳の婚約式で、ローディク自身の手によって着けられたものだ。四年間、一度も外されたことはない。入浴の時も、眠る時も、熱を出して寝込んだ時でさえ、それは彼女の喉元にあった。 今夜、彼がアルファの座を継げば、月環に新たな誓印が刻まれる。 そうして自分は正式なルナとなる――そのはずだった。 白銀の旗が、吹き込む風もないのに微かに揺れた。壇上へ続く三段の階の上には、銀狼を彫った黒木の玉座が置かれている。その前に立つローディクは、儀礼用の濃紺の外套を肩から垂らし、胸元を銀の留め金で飾っていた。 昨夜、リュシエナが縫い留め直したものだった。 古い金具の裏にひびが入っていることに気づき、祝宴の備蓄を確かめ終えたあと、夜半まで灯りを残して直した。彼が大勢の前で恥をかかぬように。新しい統治の初日に、ほんの小さな綻びも生まれぬように。 留め金は、今夜のために作られた品のように輝いている。 ローディクは一度も、リュシエナを見なかった。 代わりに彼の隣へ立っていたのは、淡い金桃色の髪を結い上げた少女だった。 ミレシア。 十八歳になったばかりの異母妹は、月白の衣を纏っていた。雪よりも淡い絹に銀糸で月桂樹を縫い取った、ルナだけに許される装いである。胸元には母ラヴィナから贈られた真珠が連なり、頬には祝宴の熱を映したような薄紅が差していた。 彼女がわずかに身じろぎすると、柔らかな衣擦れが広間のざわめきを裂いた。 リュシエナは自分の袖へ目を落とした。 着ているのは、灰色の礼装だった。朝、用意されていた衣を疑いもしなかった。月白は宣誓の直前に運ばれるのだと侍女から聞かされ、頷いた。疑問を口にすれば、晴れの日に面倒を増やすなと叱られる気がしたからだ。 だが、月白の衣は
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第2話 誰も追ってこなかった

 祝宴の太鼓が三度鳴るより早く、追放命令は読み上げられた。 血の付いた銀首輪《月環》は、まだ大広間の石床に落ちたままだった。 その傍らへ、月神殿の従僕が白木の書見台を運んでくる。上には、銀嶺狼群《ルーメル》の紋章を刻んだ羊皮紙が置かれていた。広げられた紙は端まで平らで、たった今用意されたものには見えない。黒い封蝋もすでに乾き、狼の横顔が深く鮮明に押されている。 リュシエナは血の滲む首元を手で押さえながら、ゆっくり顔を上げた。 月祠長オルディスは彼女を見なかった。乳白色の石を嵌めた杖を傍らへ立て、祝詞を読む時と変わらぬ厳かな声で告げる。「リュシエナ・フェルディス。汝は新たなルナの地位を脅かし、群れの調和を乱す恐れがある。よって、アルファの名において、今夜限りで銀嶺狼群から追放する」 広間を満たしていた歓声が、奇妙な静けさへ変わった。 誰かが驚いて杯を置く。銀器と卓が触れ合う小さな音が、ひどく遠くまで響いた。 リュシエナは最初、言葉の意味を掴めなかった。月環を外されても、薬草や備蓄を管理する役目くらいは残されると思っていた。 だが、彼女へ残される隅は、初めからどこにもなかった。「……追放、ですか」 掠れた声で尋ねる。 オルディスの指先が羊皮紙の上を滑った。「月が天頂へ昇るまでに領地を出よ。その後も境界内に留まった場合は、群れへ敵意を持つ侵入者と見なし、処分する」 処分。人の命を奪うという意味を、紙の上だけで清潔にした言葉だった。高窓の月が頂へ届くまで、二刻も残されていない。「せめて、朝まで――」 言いかけた声を、ローディクが遮った。「必要ない」 彼は壇上でミレシアの腰へ手を回したまま、冷ややかにリュシエナを見下ろしていた。「お前がここにいれば、新しいルナへ余計な噂が立つ。今夜のうちに出ていけ」 ミレシアが新しい月環へ指を重ねる。「お姉様がここにいれば、おつらいでしょうし……離れた方が、きっとお互いのためになります」 健気に庇う声だった。リュシエナは妹の首にある銀輪を見た。四年かけても、自分の居場所にはならなかったものを。「異議を申し立てることはできますか」 広間の空気が張り詰めた。父ガルディオの眉間に皺が刻まれ、ラヴィナは膝の上で扇を握り締める。 オルディスだけは表情を変えない。「アルファの継承と群れの安寧に関わる緊
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第3話 追放者を狩る牙

 遠吠えが途切れたあとも、雪原はしばらく声の余韻を抱いていた。 低く、短く、三つ。 リュシエナは北へ向けていた足を止めないまま、母の外套の内側で薬草袋を握り締めた。 あれは群れの狼なら誰でも知っている合図だった。右から追い立てる者、左を塞ぐ者、正面で獲物の動きを止める者。それぞれの位置を、遠吠えの高さと長さで知らせ合う。 三頭いる。 閉ざされた門の向こうで、爪が石を蹴る音がした。 次いで、重い閂が持ち上げられる。 リュシエナは振り返らなかった。 薄い礼装靴で雪を踏み、丘の北斜面へ急ぐ。雪は脛近くまで積もり、一歩進むたびに足を取られた。冷水を吸った靴の中で爪先の感覚は消え、息を吸うたび、月環に裂かれた喉がひりつく。 背後で門が開いた。 祝宴の音楽が、ほんの一瞬だけ大きく聞こえた。 直後、風を裂く足音が三つ、雪原へ放たれる。 速い。 人の足で競える速さではなかった。 狼へ変じられる者なら、ここで獣魂を解き放ち、四本の脚で森へ駆け込める。けれど、リュシエナの内側に狼の姿はない。どれほど胸へ呼びかけても、長いあいだ返ってきたのは空虚な沈黙だけだった。 それでも彼女は、恐怖のまま直線には走らなかった。 風は東から吹いている。 北斜面の先には、雪に埋もれた白樺の林がある。その西側には、冬になると表面だけが凍る細い沢が流れていた。沢沿いには獣の掘った穴が多く、雪の下には折れた枝や露出した根が隠れている。 リュシエナは雪の下に見える僅かな窪みを選び、斜めに丘を下った。 備蓄係だった頃、冬の薬草が足りないと言われるたび、彼女はこの森へ入った。護衛を頼めば余計な人手を使うなと叱られ、籠と小刀だけを持たされて。凍った沢も、眠る熊の巣も、雪の下で赤い実を残す低木も、自分の足で覚えた。 あの頃の寒さが、今になって道を教えている。 後方から唸り声が近づく。 ちらりと肩越しに見ると、月光を弾く銀色の影が丘を下っていた。 一頭ではない。 三頭の狼が、互いに距離を保って走ってくる。 中央の一頭は頭を低くし、リュシエナだけを見ていた。残る二頭は左右へ広がり、白樺の林を大きく回り込もうとしている。 群れを追われた者が境界を越えるまで見届ける護送ではない。 逃げ道を塞ぎ、疲れさせ、確実に喉を取るための動きだった。 狩りだ。 胸の奥が、冷たい指で掴
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第4話 黒い獣の森

第4話 黒い獣の森 黒狼は、一度も吠えなかった。 牙を剥いて威嚇することも、身を低くして飛びかかる素振りを見せることもない。 ただ、暗い金色の瞳で、剣を振り上げた男を見ていた。 その静けさが、咆哮よりも恐ろしかった。 刺客の腕が震える。「なぜ、ここに……」 掠れた声とともに、男は後ずさった。 黒狼の前脚が雪を踏む。 僅か一歩だった。 それだけで二頭の間にあった距離が消えた。 男が剣を横へ薙ぐ。銀嶺狼群《ルーメル》の紋を刻んだ刃は黒い毛先を掠めることすらできず、空を切った。 次の瞬間には、男の身体が雪の上へ叩き伏せられていた。「ぐっ……!」 黒狼の前脚が胸元を押さえつける。 革鎧が軋んだ。 その下から、骨の耐える鈍い音がした。 男は剣を取り落とし、両手で巨大な前脚を押し返そうとする。だが、岩を動かそうとしているようなものだった。黒狼は力を込めた様子さえなく、刺客の身体を雪へ沈めている。 リュシエナは針葉樹の根へ背を預けたまま、声も出せずに見ていた。 逃げなければならない。 目の前の獣が刺客を殺している間に、少しでも遠くへ。 頭では分かっているのに、膝から下は冷えと失血で感覚を失っていた。指先は母の外套を掴んだ形のまま固まり、浅い呼吸を繰り返すたび背の傷が脈打つ。 黒狼が僅かに顔を下げた。 太い牙が、男の喉へ近づく。 刺客の目が恐怖に見開かれた。 その時、森の奥で雪を踏み荒らす音がした。 二つ。 沢の向こうへ残った銀狼たちが、血と仲間の匂いを追ってきたのだ。 針葉樹の間から現れた二頭は、刺客を見て唸った。一頭は目を涙で濡らし、もう一頭の銀毛には細い枝が絡んでいる。 左右へ分かれ、黒狼を囲もうとする。 しかし、黒狼が顔を上げた瞬間、二頭の足が同時に止まった。 森の空気が変わった。 雪を孕んだ風が途絶え、垂れ下がっていた枝さえ凍りついたように動かなくなる。 目には見えない重みが、地面へ落ちた。 リュシエナの肺も強く圧迫される。傷の痛みとは違う。身体の内側に存在するはずの獣魂が、圧倒的な力を前にひれ伏そうとしている。 目覚めていないはずのものが、胸の奥で小さく身を縮めた。 アルファの威圧。 ローディクの就任式でも感じなかったほど濃く、古い森そのものへ染み込んだ力だった。 二頭の銀狼は耳を伏せ、腹が雪
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第5話 跪いてでも

 煮詰めた薬草の匂いが、浅い眠りの底まで降りてきた。冬白草と、血を補う赤根を合わせた匂いだ。 誰かが自分へ薬を使った。 そう気づいた瞬間、意識が急速に浮かび上がった。 瞼を開く。 見知らぬ天井があった。 黒褐色の梁には、見慣れた月桂樹の彫刻も月神の紋もない。 暖炉の薪が小さく爆ぜた。 赤い火が石壁を照らし、厚い毛織りの天蓋へ揺れる影を作っている。 リュシエナは呼吸を止め、耳を澄ませた。 近くに人の気配はない。 窓は鎧戸で閉ざされ、扉には内側から使える鍵がある。暖炉脇には血に染まった布がまとめられていた。 自分は寝台の上にいる。 喉元と背中には包帯が巻かれ、濡れた礼装の代わりに生成りの寝衣を着せられていた。 最後の記憶が断片となって蘇る。 暗い金色の目。 黒狼。 自分を抱き上げた、夜色の髪の男。 ――ヴァルゼイン陛下。 敵国の兵が、確かにそう呼んだ。 リュシエナは身を起こそうとした。 背へ鋭い痛みが走る。「……っ」 息を詰め、再び枕へ沈みかける。それでも片腕で身体を支え、周囲を見回した。 鎖はない。 手首にも足首にも枷は嵌められていない。寝台の柱へ縄が結ばれた痕さえなかった。 枕元の卓には湯気の消えた薬湯と、水差し、小さな呼び鈴が置かれている。 その隣に、果物を切るためらしい細身の小刀があった。 捕虜の手が届く場所へ刃物を置く。 罠なのか。 それとも、彼らは自分を脅威にすら数えていないのか。 母の外套は、暖炉から離れた椅子の背へ掛けられている。 泥と血は落とされ、裂けた裾も仮縫いされていた。 黒狼王の外套は、その隣へ丁寧に畳まれている。 廊下から足音が近づいてきた。 リュシエナは反射的に卓上の小刀へ手を伸ばした。 冷たい柄を掴む。 身体を起こし、刃先を扉へ向けた瞬間、背中の傷が引き攣れた。 包帯の下で皮膚が開く。 熱い血が滲み、寝衣へ広がっていくのが分かった。 扉が開いた。 先に入ってきたのは、深い赤茶色の髪を高く結い上げた女だった。 年は二十代半ばほど。灰緑色の衣の上に革の前掛けを着け、腕には新しい包帯と薬瓶を抱えている。切れ長の目が、寝台の上で刃物を構えるリュシエナと、血の滲んだ包帯を順に見た。 その後ろに、ヴァルゼインが立っていた。 黒い上着の襟元を閉じ、腰には剣を帯びている
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第6話 運命など信じない

 朝の光は、黒い城の窓へ届く頃には薄い灰色になっていた。 リュシエナは寝台の上で目を覚まし、最初に扉を見た。 鍵は掛かったままだった。 昨夜、ネルーヴァが部屋を出たあと、自分の手で回した鍵だ。眠っている間に誰かが入った形跡もない。枕元の小刀も、手を伸ばせば届く場所に置かれたままだった。 胸へ手を当てる。 あの声は、もう聞こえない。 ――見つけた。 夢だったのかもしれない。失血と熱で意識が混濁し、黒狼王から告げられた言葉を、自分の内側の声と取り違えただけなのかもしれない。 それでも、胸の奥には小さな熱が残っていた。 暖炉の火よりも弱く、けれど消えない熱。 リュシエナが呼吸を深くすると、それに合わせるように一度だけ脈打った。 扉が三度、一定の間隔で叩かれた。 身体が強張る。「誰ですか」「ヴァルゼインだ」 名乗る必要のない王が、扉の向こうから自ら名を告げる。 リュシエナは毛布の上に置いていた鍵へ触れた。「何のご用ですか」「客人としての扱いを説明する。今でなくていいなら、昼に改める」 勝手に入ろうとはしない。 リュシエナは寝衣の襟を整え、椅子に掛けられていた厚手の肩掛けを羽織った。背中を動かすたび、縫われた傷が鈍く引き攣れる。 小刀を卓へ置くか迷い、手元へ残した。「……お入りください」 鍵を開け、寝台へ戻る。 扉が静かに開いた。 ヴァルゼインは一人だった。 黒い上着の上へ毛皮の外套を纏い、片手には数枚の羊皮紙と鉄製の鍵を持っている。室内へ入ると、まず卓上の小刀へ視線を落とした。「今日は正しく持てそうだな」「使わずに済むことを願います」「俺もだ」 彼は寝台へ近づかず、暖炉の前にある椅子へ座った。リュシエナが見下ろされないよう選んだのか、立っている時より視線が近い。 羊皮紙を卓へ置く。「ここは黒曜城の北棟だ。お前は捕虜ではない」「客人だと?」「そう扱う」 ヴァルゼインは一枚目の紙を彼女へ向けた。黒曜狼国《ヴァルグラッド》の王印が押されている。文字は太く簡潔で、余白には城内の簡単な見取り図が添えられていた。「傷が治るまで滞在できる。この部屋はお前の許可なく開けさせない。内鍵に加えて、外から使える鍵も渡す」 鉄の鍵を卓へ置く。「北棟の回廊、中庭、治療室、食堂、書庫の一部は自由に歩いていい。武器庫と地下牢、
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第7話 眠っていた声

 夜半を過ぎた頃、首の傷が脈打ち始めた。 初めは、包帯の下へ小さな火種が残っているような熱だった。 リュシエナは寝台の中で何度か身じろぎし、毛布を顎まで引き上げた。暖炉の火は落ちかけ、室内には夜の冷気が忍び込んでいる。それなのに、首から胸へ流れる熱だけが少しずつ強くなっていった。 唾を呑み込むと喉が焼ける。 呼吸をするたび、月環の形に沿って皮膚の奥を細い針が巡った。 水を飲もうと腕を伸ばす。 指先が水差しへ届く前に、卓の縁へぶつかった。 金属の杯が床へ落ち、乾いた音を立てる。 拾わなければと思った。 だが、寝台の端へ足を下ろしただけで床が大きく傾いた。視界の中で暖炉の火が二つに割れ、石壁が波打つ。「……大丈夫」 誰もいない部屋で、自分へ言い聞かせる。 銀嶺では熱を出しても、朝の仕事までに下がれば病人とは見なされなかった。水を飲み、汗をかけば治る。忙しい者たちを起こしてはいけない。 染みついた考えのまま、呼び鈴へ伸ばしかけた手を引く。 その時、扉が叩かれた。「リュシエナ?」 ネルーヴァの声だった。 答えようとしたが、喉から掠れた息しか出ない。 扉の向こうで鍵の金具が鳴る。「入っていい?」 内側から鍵を掛けている以上、リュシエナが開けなければ誰も入れない。 寝台から立ち上がろうとする。 膝が崩れ、床へ手をついた。 物音を聞いたネルーヴァが、扉を強く叩く。「返事だけして。開けられないなら、兵に壊させる」「……入って、ください」 どうにか声を押し出し、枕元に置いていた鍵を床へ滑らせた。扉の下には僅かな隙間がある。金属の鍵が向こう側へ抜ける。 すぐに錠が回った。 ネルーヴァが薬箱を抱えて入ってくる。その後ろにはヴァルゼインがいた。 二人の姿を認めるより早く、リュシエナの身体が傾いた。 ネルーヴァが腕を掴む。「熱い……陛下、寝台の反対側を」 ヴァルゼインはすぐには触れなかった。「リュシエナ。支える」 熱に浮かされた頭でも、その短い予告だけは聞こえた。 頷くと、背の傷を避けて腕が差し入れられる。 二人に支えられ、寝台へ戻された。 ネルーヴァの冷たい手が額へ触れる。「いつから?」「分かりません。眠っていて……」「首は?」「熱い、です」 包帯へ触れられただけで、身体が跳ねた。 ネルーヴァの表情が険
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第8話 王の客人

 熱が退いた朝、城の北塔には雪を含んだ風がまとわりついていた。 細い窓の向こうで、雲が黒い森の梢を低く押さえている。暖炉の火は燃えていたが、包帯の下では、剥ぎ取られた月環の輪郭が脈に合わせて疼いた。 寝台の脇に立ったネルーヴァは、巻き直した包帯の端を指先で押さえた。「熱は下がった。けれど、傷が塞がったわけじゃない。歩くなら壁づたい。倒れたら、今度は寝台へ縛る」「鎖はないと聞きました」「布紐ならいくらでもあるわ」 冗談とも脅しともつかない声音だった。リュシエナがわずかに口元を緩めると、ネルーヴァの琥珀色の目が一度だけ和らいだ。 そのとき、廊下を急ぐ靴音が扉の前で止まった。控えめな叩音のあと、黒衣の侍従が深く頭を下げる。「評議会が始まりました。陛下より、リュシエナ殿は部屋で休むように、と」 何について話し合うのか、尋ねる必要はなかった。 銀嶺から届いた抗議文。秘宝を盗んだという濡れ衣。敵国に追われた女を匿うことの重み。昨夜、兵士を鎮めた力も、疑念を消すとは限らない。 リュシエナは膝の上で両手を組んだ。指先が冷え、爪の色が薄い。「私の処遇が決まるのですね」 侍従は答えず、視線を床へ落とした。その沈黙は、肯定よりも正直だった。「評議室へ案内してください」「陛下は、お休みになるようにと」「休んでいる間に、誰かが私のために責任を負うことはできません」 立つと、背の傷が熱い糸で引かれたように痛み、息が止まった。ネルーヴァが肘を支えた。「歩く速さは私が決めるわよ」 借りた濃紺の衣を整え、母の灰色の外套を肩へ掛ける。洗われた布の背には新しい縫い目が走っていた。それを指でなぞると、胸の奥に傷とは別の温度が灯った。 評議室の扉へ近づくにつれ、低い声が石壁を震わせて聞こえてきた。「銀嶺は、女一人の引き渡しを月神への忠誠と結びつけている。拒めば神殿を介し、周辺の群れにも黒曜が秘宝を奪ったと触れ回るでしょう」 セイグの声だった。冷静で、だからこそ事態の硬さが際立つ。「戦を仕掛ける兵力はなくとも、戦を始めさせる舌はある、か」 別の老いた声が続く。「彼女が陛下の番であるという感覚は、我らには重い。しかし国境の外で証文にはなりません」 しばし、誰も口を開かなかった。 王命で押し切れる男が、それをしていない。その事実がリュシエナの足を重くした。
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第9話 毒杯の匂い

 白煙は、床を這うより早く食卓の脚へ絡みついた。 甘く熟した葡萄の香りが、一息のうちに焼けた金属の臭気へ変わる。リュシエナが払い落とした杯は、黒石の上で細く回り続けていた。縁から滴った深紅の雫が触れるたび、石肌が小さく泡立つ。 ヴァルゼインの腕が彼女の前を塞いだ。「息を止めろ。下がれ」 低い声に、食堂の空気が鋭く張る。カルネアはすでに椅子を蹴って立ち、腰の剣へ手を掛けていた。セイグは卓上の布を掴み、煙の上へ被せようと身を屈める。 その向こうで、給仕だけが動かなかった。 青ざめた顔。開ききった瞳。両手は空になった葡萄酒の瓶を抱えたまま、強く震えている。「瓶を置け」 カルネアが命じた。 給仕の喉仏が上下した。怯えているように見えた。だが、下がった右肩の陰で、その指が腰布の内側へ滑り込むのを、リュシエナは見た。「気をつけ――」 声が終わる前に、瓶が床へ叩きつけられた。 砕ける音が食堂を満たす。給仕は破片を踏み越え、隠し持っていた短剣を抜いた。蝋燭の火を弾いた刃は、白ではなく、濡れた月のように鈍く青い。 銀。 ヴァルゼインを避け、刃先が横へ流れた。 まっすぐ、リュシエナの喉へ。 身体が動かなかった。沢の岸で迫った牙と、森で振り上げられた剣が重なる。傷口の下で心臓だけが暴れ、椅子の背へ押しつけた指が白くなる。 黒い影が視界を断ち切った。 ヴァルゼインが半歩踏み込み、刃を素手で掴んだ。 銀の切っ先が掌を裂く。肉を擦る湿った音とともに、赤い血が手首を伝った。獣の焼けるような匂いが立ち、彼の眉間へ深い皺が刻まれる。「陛下!」 カルネアの声が飛ぶ。 ヴァルゼインは刃を放さなかった。掌から煙にも似た白い息が立つほど銀が食い込んでも、暗い金色の瞳は給仕だけを見据えている。 次の瞬間、短剣を握る手首を外へ捻った。 骨の鳴る音。給仕の膝が崩れる。ヴァルゼインは相手の肩を掴み、石床へうつ伏せに押さえ込んだ。銀の短剣が転がり、カルネアの靴がそれを遠くへ蹴る。「誰の命令だ」 給仕の頬が床へ押しつけられた。息が荒く、唇の端に唾液が光っている。「答えろ」 ヴァルゼインの声は低かった。怒鳴り声ではない。それでも暖炉の火まで縮んだように、部屋の温度が落ちた。 給仕が笑った。 ひどく小さな、喉の奥だけで鳴る笑いだった。「月は……見ている」 男
last updateLast Updated : 2026-07-27
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