All Chapters of 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ: Chapter 21 - Chapter 30

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第20話 弱い者から配る冬

 夜明け前、風が家々を揺さぶった。 黒森から押し寄せた吹雪は、眠りかけていたエルダ村を再び白い闇へ閉じ込めた。雨戸の隙間から細かな雪が吹き込み、集会所の床へ粉のように積もっている。屋根の上では重い雪がずり落ち、そのたびに梁が低く軋んだ。 見張りに出ていた兵が、扉を肩で押し開ける。「街道が埋まりました! 東の獣道も倒木で塞がれています」 外套へ張りついた雪が、暖炉の熱を受けて黒い水となって滴った。「王都へ出した伝令は」 カルネアが問う。「昨夜のうちに谷を抜けたはずです。ですが、救援隊が同じ道を戻れるかは…」 兵は言葉を濁し、背後の白い闇を振り返った。 風の咆哮が答えの代わりとなった。 リュシエナは長卓へ広げた紙の端を、燭台で押さえた。 無事だった穀物。王都から持参した保存食。村の各家庭が隠し持っていた豆と干し根菜。病人へ与えられる蜜と岩塩。 汚染された麦を除けば、村全体で食べられる量は予想より少なかった。「通常通り配れば、十日です」 集会所へ集まった村人たちの間に、冷たい沈黙が落ちる。「吹雪は三日で止むかもしれない」 村長が言った。「止まっても、道を掘り起こす時間が必要です」 リュシエナは窓の向こうへ目を向けた。枝が折れる鋭い音が、風に混じって聞こえる。「救援が到着する日を、食糧が尽きる日より早いと決めることはできません。最低でも十五日。可能なら二十日持たせます」「二十日だと?」 健康な男が声を上げた。「半分に減らせというのか。雪かきへ出る者まで食えなくなれば、道も開かんぞ」「全員を同じようには減らしません」 リュシエナは新しい紙を広げた。「年齢、体格、病状、身体を使う仕事によって必要量が違います。まず一人ずつ確認させてください」 銀嶺で備蓄を管理していた頃、配給表に記されるのは家名と人数だけだった。幼い子も、病で動けない者も、妊娠している女も、一つの口として同じ印をつけられた。足りなければ家の中で分けろと言われ、声の弱い者から椀が軽くなった。 それを繰り返してはならない。 集会所の壁際へ机を置き、村人を一世帯ずつ呼んだ。 名と年齢。狼へ変身できるか。熱や吐き気はあるか。妊娠している者、乳を与えている者、古傷や持病のある者。雪かき、屋根下ろし、見張り、狩猟へ出る予定。 リュシエナが尋ね、村の治療師が身体を確
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第21話 燃やされた黒霜花

焦げた黒霜花からは、翌朝になっても煤の匂いが消えなかった。リュシエナは集会所の卓上に置いた一本を指先で持ち上げ、焼けた茎の根元を確かめた。黒霜花は寒冷地の岩場に根を張り、雪の下で冬を越す強い植物である。花と葉は失われても、球根さえ残っていれば春を待たずに再び芽を伸ばす。それだけが救いだった。「地上だけなら、まだ間に合います」地図を広げながら告げると、カルネアが眉間へ深い皺を刻んだ。猟師の証言では、群生地は村から北東へ半日ほど登った断崖にある。夏でも足を滑らせれば命を落とす場所で、この吹雪の中では雪崩の危険まで加わる。「却下だ」即答だった。「天候が戻るまで待つ」「いつ戻りますか」「それが分かれば苦労しない」「三日かもしれません。十日かもしれません」「だからといって死にに行く理由にはならない」カルネアの声には苛立ちがあった。それが自分を心配してのものだと、今のリュシエナには少しだけ分かる。以前なら命令へ従っただろう。迷惑をかけたくない。反対されたくない。そう考えて口を閉ざした。だが卓上には、毒入りの薬が流れた経路を記した紙が置かれている。「他の村にも月毒が入っている可能性があります」リュシエナは黒霜花を置いた。「患者が出てからでは遅いのです。待っている間に患者が出れば、解毒薬がありません」「お前自身にもまだ毒が残っている」「だからこそ必要です」カルネアが何かを言い返そうとした時、入口の近くから低い声が落ちた。「行くつもりか」ヴァルゼインだった。リュシエナは彼を見る。暗い金色の瞳は、こちらを止めたいと明らかに告げていた。唇も僅かに動いた。残れ。おそらく、その言葉が出かかったのだと思う。けれどヴァルゼインは言わなかった。一度呼吸を整えるように鼻から息を吐き、問い直す。「行くのか」リュシエナは頷いた。「行きます」短い沈黙が落ちた。「なら、俺も行く」それ以上の説得はなかった。断崖へ向かったのは、ヴァルゼイン、リュシエナ、カルネア、そして山に慣れた兵士四人だった。吹雪は前日より幾分弱まっていたものの、山へ入れば風の音が途端に変わった。黒い針葉樹の枝が唸るように揺れ、雪が顔へ叩きつけられる。足元の雪は深い。一歩進むたび膝近くまで沈み、引き抜けば脚へ重い抵抗がかかる。ヴァルゼインは何度も歩調を
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第22話 王が命じなかったこと

黒曜城へ戻った時には夜が深くなっていた。城門の松明が風に煽られ、黒い石壁へ揺れる影を落としている。国境へ銀嶺狼群の兵が集まり始めたという報告はすでに届いており、廊下を行き交う兵士たちの足音には普段にはない張り詰めた速さがあった。その騒ぎの中で、ヴァルゼインは自分の傷について何も言わなかった。リュシエナが気づいたのは、城内へ入ってからだった。黒い上衣の脇腹へ、乾いた血とは異なる新しい赤が広がっている。「待ってください」ヴァルゼインが振り向く。「何だ」「傷が開いています」「この程度なら――」「その言葉は聞きません」思ったより強い声が出た。自分でも驚いた。周囲にいた兵士たちも一瞬こちらを見る。ヴァルゼインは何も言わず、暗い金の瞳だけを細めた。「……ネルーヴァのところへ行ってください」「今は負傷者を診ている」「だからといって、放っておいていい理由にはなりません」「誰が治療する」リュシエナは口を閉じた。薬草と簡単な処置ならできる。銀嶺でルナ候補として学ばされた知識の中には、戦傷の手当ても含まれていた。「私がします」言ってから、胸が強く鳴った。相手は黒狼王。それ以前に。運命の番だと言われた男。肌へ触れることになる。獣魂がどう反応するか分からない。けれど、傷を放置する方が嫌だった。「……簡単な処置ならできます」ヴァルゼインは数秒黙った後、頷いた。彼の私室へ入るのは初めてだった。思っていたより質素で、寝台と机、武器掛け、大きな暖炉しかない。豪華な装飾も、王の権威を誇示する品もなかった。ヴァルゼインが上衣を脱ぐ。布が擦れる音が妙に大きく聞こえた。その下の肌に、赤黒い傷が走っている。断崖へ身体を打ちつけた傷だけではない。脇腹へ、小さな銀の破片が深く刺さっていた。リュシエナの息が止まる。「これ……」「岩に仕込まれていたらしい」「分かっていたのですか」「戻る途中でな」「なぜ言わなかったのです」思わず問い詰めるような声になる。ヴァルゼインは椅子へ腰を下ろした。「歩けたからだ」「歩ければ傷ではないのですか」「そうは言っていない」「同じです」言いながら、胸の奥が妙に熱くなる。腹が立っていた。誰に対してなのかも分からない。傷を仕込んだ者。黙っていたヴァルゼイン。そして、誰かが自分を救う
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第23話 救出という名の狩り

国境の雪原には、二つの色が向かい合っていた。東側には黒曜狼国の黒旗。西側には銀嶺狼群の銀旗。その間を隔てるのは、雪に半ば埋もれた古い境界石と、わずか数十歩の白い空間だけだった。風が吹くたび旗が激しく鳴る。黒曜側の兵士たちは槍を立てたまま動かず、銀嶺側では狼の姿を取った兵たちが低く喉を鳴らしている。リュシエナは黒い外套の襟を押さえ、境界線へ向かって歩いた。足が重い。寒さのせいだけではない。銀嶺の匂いがする。雪。松。狼。子どもの頃から身体へ染みついていた故郷の匂い。胸の奥に懐かしさが生まれる前に、門が閉じる音を思い出した。誰も追ってこなかった雪道。そのあと現れた狼たち。背中を裂かれた痛み。「止まるか」後ろからヴァルゼインが問う。リュシエナは振り返った。彼は自分より半歩後ろにいる。前へ出て守ろうとはしていない。「いいえ」「分かった」それだけで、また歩き出す。境界石の向こう側。白い軍装を纏った男が一歩前へ出た。ローディク。あの夜と同じ銀髪。同じ灰青色の瞳。けれどアルファの装束を着た彼は、以前より大きく見えた。違う。大きく見えていたのだ。四年間、見上げ続けたから。リュシエナが近づくにつれ、ローディクの表情が変わった。最初は安堵に似たもの。次に、疑い。最後には露骨な不快感。彼の視線は、リュシエナの顔ではなく黒い外套へ向いていた。「随分と黒狼に取り入ったようだな」久しぶりに聞く声だった。胸が締めつけられると思っていた。泣きたくなるかもしれないとも。けれど実際に聞いてみれば、ただ寒かった。「私は捕らえられていません」リュシエナは答えた。ローディクの眉が寄る。「月毒で判断力を失っているだけだ」「月毒を受けていることは事実です」「なら話は早い。戻れ」あまりにも当然のような口調。「月印を盗んだ罪については、月神殿へ慈悲を求めてやる」リュシエナはしばらく彼を見た。「私を追放したことは、覚えていますか」銀嶺側がざわめいた。ローディクの目が僅かに鋭くなる。「今はその話をしているのではない」「私は、その夜に群れを出されました」「新しいルナの立場を守るための一時的な措置だ」言葉が変わっている。追放だったはずのものが、一時的な措置。殺されかけたことは事故。月毒は黒曜で受けた
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第24話 私は攫われていない

矢は、リュシエナの胸へ届かなかった。金属が空気を裂く音の直後、目の前へ黒い腕が伸びた。ヴァルゼインの手。矢柄がその掌へ収まっている。勢いを完全には殺せず、革手袋が裂けた。血が滲む。それでも矢尻は、リュシエナの胸元から指二本ほどのところで止まっていた。「動くな」ヴァルゼインの声が低い。矢を雪へ落とす。カルネアが即座に叫んだ。「射手を捕らえろ!」黒曜兵たちが森へ走る。銀嶺側も混乱した。「こちらではない!」「誰が射た!」兵士の声が飛び交う。ローディクが背後を振り返る。「止まれ! 勝手に動くな!」だが遅い。リュシエナは雪へ落ちた矢を見た。黒い液体が矢尻に薄く塗られている。鼻へ刺激のある金属臭。「銀毒……」ヴァルゼインが矢を拾おうとする。「触らないでください」思わず手首へ触れかけ、寸前で止める。「革越しでも危険です」布を何重にも重ねて矢を包む。獣魂を一時的に麻痺させる銀毒。深く刺されれば、人の身体でも心臓が止まる。狙いは明白だった。殺すための矢。森から怒号が響いた。しばらくして、カルネアが一人の男を引きずるように連れてきた。男の両腕は後ろへ拘束されている。「放せ!」暴れる顔を見た瞬間。リュシエナの身体が凍った。知っている。「……あなた」男も彼女を見た。一瞬だけ、目が見開かれた。追放の夜。自分を追った狼。沢を越え。黒き森まで追跡し。最後に剣を振り上げた男。右腕には、あの革紐がある。「この男です」声が震えた。カルネアが振り向く。「何だ」「私を追った番兵です」周囲が静まり返った。ローディクの表情が硬くなる。男の顎が僅かに動いた。リュシエナは気づいた。奥歯。地下月祠で捕らえた司祭。自害しようとした刺客。同じ動き。「口を開けて!」男へ飛びつく。カルネアが顎を掴む。「何だ」「毒です!」リュシエナは薬草袋を開いた。ネルーヴァから渡されていた緊急用の中和薬。完全には効かない。それでも死ぬまでの時間を延ばせる。男の口へ押し込む。吐き出そうとする顎を押さえる。「飲んで!」「離せ!」「死なせません」男が睨む。「黙れ……月なしが」胸が痛んだ。以前なら、その一言で手が止まったかもしれない。今は止めない。「死んで終わらせないでください」男の
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第25話 黒き城に得た席

黒曜城の評議室へ入った瞬間、リュシエナは自分へ集まる視線の数を知った。長い黒檀の卓を囲むのは、王国の軍務、財務、農務、司法を担う者たち。壁際にも記録官や補佐官が立ち、窓の外には雪に閉ざされた王都が見える。ここへ最初に足を踏み入れた時、自分は敵国から流れ着いた負傷者に過ぎなかった。今は違う。けれど、それが受け入れられているという意味ではない。「銀嶺狼群と月神殿、その双方を相手取る危険があります」年嵩の評議官が口火を切った。「この女一人を庇護するため、王国全体を危険へ晒すべきではありません」別の者が頷く。「中立領へ送ればよい。命を奪うと言っているのではない。黒曜国内へ置く必要がないと言っている」女。この女。敵国人。何度も同じ呼び方をされる。リュシエナは膝の上で指を組んだ。以前なら、迷惑をかけないため退室したかもしれない。自分から中立領へ行くと言っただろう。ヴァルゼインへ視線を向ける。王座に座る彼は何も言わない。番だから残す、と宣言すれば議論は終わる。黒狼王の威圧を使えば、反対者を黙らせることもできる。それでもしない。「本人へ聞け」ただ、それだけだった。リュシエナは息を吸った。立ち上がる。衣擦れの音が静かな室内へ響いた。卓上へ、一冊ずつ資料を置く。「私が黒曜狼国へ到着して以降、確認された事件を報告します」声は僅かに硬かった。けれど続ける。「最初に、私が長年着けていた月環から月毒が検出されました。その後、黒曜城へ納入された薬からも同種の毒が発見されています」一冊目。「納入記録は切り取られていましたが、筆圧痕から取引経路を復元しました」二冊目。「城壁の下から月神殿の月祠が発見され、命令書が残されていました」三冊目。「エルダ村では、食糧の横流しに同一商隊が関与しています」四冊目。「国境では、私を殺そうとした銀嶺狼群の番兵を生きたまま確保しています」室内から私語が消えていく。リュシエナは最後に、自分が作成した紙束を置いた。「これは北部四村の冬季備蓄改善案です」評議官の一人が眉を上げる。「亡命の審議ではなかったのか」「ですから、置いていただく理由を説明しています」自分でも驚くほど自然に答えられた。「私は、陛下の番だから置いてほしいのではありません」一瞬。空気が変わった。ヴァルゼインを
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第26話 客人のままなら

新しい執務室の扉を開けた瞬間、リュシエナは足を止めた。朝の黒曜城には、まだ夜の冷えが残っていた。細長い窓から射し込む冬の光は青みを帯び、磨かれた石床と黒木の家具の輪郭だけを淡く浮かび上がらせている。暖炉には昨夜の灰しか残っておらず、部屋の空気には新しい紙と乾いた木材、それからわずかな鉄の匂いが混じっていた。昨日までなかったものが、机の中央にある。一本の銀針だった。細身の針は黒木の天板へ深く突き立てられ、その下に一枚の紙を縫い留めている。朝の光を受けた銀色は澄み切っていて、かえって不穏だった。リュシエナは扉の敷居を越えた場所で動かなかった。胸元では、黒鉄で作られた月形の徽章が衣服の布越しに冷たい。評議会が彼女を王国直属の薬糧監査官として正式に認めた翌朝だった。壁際の棚には帳簿が並べられ、窓のそばには彼女が地図を広げられるよう大きな作業台まで用意されている。この部屋に置かれているもののほとんどが、まだ彼女の手に馴染んでいない。それでも、机だけは昨日から何度も触れた。初めて、自分の仕事をするために与えられた机だった。その中央を、銀針が貫いている。リュシエナは呼吸を整え、針ではなく紙へ視線を落とした。『客人のままなら、生かしておいた』筆跡は整っていた。怒りに任せて書き殴った文字ではなく、一本一本の線が一定の力で引かれている。相手を怯えさせたいというより、事実を通告するような書き方だった。喉の奥が冷たくなる。客人。昨日までなら、少なくともそう呼ぶ者もいた。敵国から逃げ込んだ女。黒狼王が保護している女。傷が癒えるまで城へ置かれている存在。だが評議会は、彼女に役職を与えた。俸給と、執務室と、発言するための席を与えた。だからこそ、この言葉なのだ。客人のままなら。つまり、誰かにとって問題なのは、彼女が生きていることだけではない。黒曜狼国で立場を得たことだった。リュシエナは机へ一歩近づいた。銀針へ触れない距離で身を屈める。紙の端に、ごく微量の黒い粉が付着していた。煤に似ている。だが、暖炉から飛んだものとは考えにくい。机の周囲には同じ粉がない。薬草を扱ってきた癖で、指先が伸びる。粉を摘み、匂いと粒子を確かめようとした。その指が寸前で止まった。首筋が脈打つように痛んだ。地下月祠の暗闇。灯りが消えた直後、自分の首を狙って飛んできた銀
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第27話 黒曜王宮の作法

翌朝、黒曜城を覆う雪は夜半よりさらに深くなっていた。窓の向こうでは、尖塔の縁に積もった白が朝の風に削られ、細かな粉雪となって中庭へ舞い落ちている。遠くで馬の嘶きが聞こえ、その少し後から厨房の鐘が鳴った。石造りの城は外から見れば凍りついた巨大な獣のようだったが、内部ではすでに何百という足音が動き始めている。リュシエナは新しい執務室の机で、前日セイグから渡された王宮倉庫の一覧へ目を通していた。机の中央には、小さな穴が残ったままだった。銀針を抜いた痕。帳簿をめくるたび、視界の端へ黒い点が入る。消そうと思えばすぐ消せる傷だった。木片を埋め、表面を磨けばほとんど分からなくなる。それでも、リュシエナは残すと決めた。そこに傷があるからこそ、自分がその隣で仕事を続けていることを確かめられる。筆先で倉庫番号を書き写していると、廊下を近づいてくる足音が聞こえた。一定だった。城内を急ぐ兵士とも、忙しく働く使用人とも違う。速くも遅くもなく、曲がり角でも歩調が変わらない。自分が歩けば周囲が道を空けることに、長い年月をかけて慣れている者の足音だった。扉が三度叩かれる。「どうぞ」リュシエナが筆を置く。入ってきた男は、六十を越えているように見えた。元は黒かったのだろう髪には白が多く混じり、後ろへ隙なく撫でつけられている。目尻には深い皺があり、灰黒色の瞳は老いてなお鋭かった。濃灰色の上衣には余計な装飾がなく、左腰から下げられた幾つもの鍵だけが、歩くたび小さく触れ合っている。宮務卿エルグラド。先王の時代から黒曜王宮の規律を預かり、城内の使用人、部屋、備品、倉庫、儀礼を統括してきた老狼だった。彼は部屋へ入り、リュシエナより先に机を見た。銀針の穴にも気づいたはずだった。だが、顔色は変わらない。「昨日は随分と騒がせたらしいな」声は低く、乾いていた。「ご心配をおかけしました」反射的に出た謝罪へ、自分で気づく。けれど、その先は続けなかった。エルグラドは机の穴へ視線を落としたまま言う。「王宮内の事件は宮務局が調べる。監査官は冬季備蓄だけを見ていればいい」忠告というより、境界線を引く言葉だった。ここより先へ入るな。リュシエナは椅子から立たず、静かに顔を上げた。「この部屋も、備蓄帳簿も、同じ王宮の中にあります」エルグラドの眉がわずかに寄る。「敵国の作法
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第28話 偽りの監査印

偽造された監査印の印影は、灯火の下で見比べても、一見しただけでは本物と区別がつかなかった。リュシエナは机へ両肘をつかず、背筋を伸ばしたまま二枚の書類を並べていた。一枚は前夜、彼女の部屋へ黒炭を運び込むために使われた伝票。もう一枚は、自分が実際に署名し、監査印を押した北部備蓄の照合書だった。窓の外では朝の雪が細く降っている。黒曜城の高い窓を打つ風の音に混じり、廊下から早番の使用人たちが行き交う足音が聞こえた。暖炉には正規の薪が燃えているものの、部屋に満ちる暖気より、机の上に置かれた二つの印影の方が彼女の意識を強く引きつけていた。形は同じ。周囲を囲む文字も、中央の月も、縁取りの幅もほとんど一致している。だが、同じではない。リュシエナは指先を紙の上へ滑らせ、偽の印影の中央で止めた。「……傾いている」対面に立っていたセイグが身を屈める。「どこがだ」「月です」本物の印影を横へ寄せた。「私の印は、月の上端が外枠のこの文字と平行になります。こちらは、ほんの少し右へ傾いています」セイグの灰色の瞳が細くなった。注意して見なければ気づけない違いだった。しかも、紙質や押す力によって生じる歪みに見えなくもない。だがリュシエナは数日間、何度も自分の印を押してきた。力を強く入れても、机の端で押しても、月の向きそのものは変わらない。「型を取ったのではなく、印影から彫ったのかもしれません」彼女が言うと、セイグは腕を組んだ。「本物を直接見られなかったからか」「可能性はあります」リュシエナは自分の銅印を掌へ載せる。手の中へ収まるほど小さい。けれど、これがあるだけで倉庫へ入り、物資の記録を確認し、正当な範囲なら出納に異議を申し立てることができる。受け取ったのは、評議会の場だった。その後は一度も他人へ預けていない。眠る時も、衣服の内側へしまっていた。「型を取るには、この印そのものを見るか……」リュシエナは紙へ視線を落とす。「私が押した書類を手に入れる必要があります」セイグは即座に扉の外へ立つ兵士を呼んだ。「過去三日、監査官の印が使われた書類をすべて集めろ。写しではなく原本だ」「すべてですか」「すべてだ。保管先に理由を説明する必要はない。王命として扱え」兵士が走り去る。リュシエナは思わず顔を上げた。「王命ですか」「陛下から、印に関する調
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第29話 王の食卓に座る女

冬至の祝宴を五日後に控え、黒曜王宮は朝から落ち着きを失っていた。正門には各地から到着した馬車が列を作り、雪を踏み固めた中庭では、従者たちが毛皮の外套や贈答品の箱を次々と運び込んでいる。厨房へ続く裏門には肉、根菜、樽詰めの果実酒が積まれ、普段なら静かな回廊にも見慣れない領主家の紋章を胸につけた者たちが行き交っていた。祝いの日を迎えるための華やかな騒がしさであるはずなのに、リュシエナにはどこか息苦しく感じられた。自分の監査印を模した偽物。夜間に開けられた西棟薬庫。一本だけ失われた黒霜花。偶然と呼ぶには、重なりすぎている。評議室へ入ると、長机を囲む者たちの視線が一斉に集まった。数日前までは敵国から逃げ込んだ女を見る目だった。今はそこへ、別の色が混じっている。警戒。王の番だという噂。そして、黒曜王宮の帳簿へ手を伸ばし始めた女への不快感。リュシエナは自分の席へ座った。机の最奥にはヴァルゼイン。その右側へセイグ、左側には宮務卿エルグラドがいる。カルネアも国境部隊の代表として列席していた。議題が冬至の祝宴へ移ると、エルグラドが手元の書類を閉じた。「先に確認しておきたいことがございます」白髪交じりの黒髪は今日も乱れなく整えられている。老狼の声音は穏やかだったが、室内の空気がわずかに変わった。「リュシエナ監査官を、冬至の大宴へ出席させるお考えはございませんな」数人の評議官が顔を上げる。ヴァルゼインはすぐに答えなかった。「理由は」「監査官は官吏です。領主ではない。まして王族でもない」エルグラドはリュシエナを見ない。あくまで制度について語る形を崩さなかった。「冬至の大宴は、各領主が王への忠誠を再確認する席でもあります。銀嶺狼群を追放された女を陛下の近くへ置けば、意味を取り違える者が出るでしょう」「何を取り違える」問い返すヴァルゼインの声が低い。エルグラドは一瞬だけ沈黙した。「正式なルナとして認められた、と」室内の空気が重くなる。リュシエナは膝の上で指を重ねた。胸の奥では、銀色の狼が僅かに身じろぎしている。正式なルナ。その言葉を聞けば、かつてならローディクの隣に立つ自分を思い浮かべた。月白の衣。銀首輪。群れの前で跪き、選ばれるのを待つ女。今では、その記憶さえ遠く感じる。「私は出席を望んでいません」リュシエナが言
last updateLast Updated : 2026-08-22
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