บททั้งหมดของ 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ: บทที่ 31 - บทที่ 40

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第30話 黒霜花の杯

王の杯は、その日のうちに西棟の治療室へ運び込まれた。祝宴用の食器を扱う部屋から離れた小さな石室には、薬草を煮るための炉と、壁一面を埋める薬瓶の棚がある。冬の午後の日差しは細長い窓からわずかに差し込み、銀製の杯を置いた白布の上へ青白い光を落としていた。ネルーヴァは誰にも触れさせなかった。革手袋を二重にはめ、細い硝子管で杯の内側を何度も拭い、その液を別々の薬液へ落としていく。リュシエナは作業台の向かい側から黙って見守っていた。傍らにはセイグとカルネアが立ち、さらに少し離れた壁際で、侍従長オルネスが両手を背へ回している。銀中毒。眠り薬。獣魂へ作用する薬。一般的な植物毒。どの検査液も、危険を示す色へは変わらなかった。「内側には何もないわ」ネルーヴァがようやく言った。カルネアが腕を組む。「なら、昨日の匂いは何だった」「それを見ているところ」ネルーヴァは杯を横倒しにし、底へ灯りを近づけた。黒曜狼国の王家を示す紋章が刻まれている。三本の爪を背負った黒狼と、その頭上に欠けた月。彫り込みは細く、布で拭くだけでは奥まで届かない。ネルーヴァは細い綿を金具の先へ巻きつけ、紋章の溝をゆっくりなぞった。綿の先が淡く黄褐色に染まる。リュシエナは身を乗り出した。「そこだけ……?」「そうね」抽出液を作り、別の試薬へ落とす。今度は薄い銀色が浮かんだ。ネルーヴァの顔から残っていた柔らかさが消える。「黒霜花よ。昨日嗅いだ匂いと同じ」「毒は?」セイグが問う。「検出されない」「黒霜花だけか」「少なくとも、ここから取れた成分はね」リュシエナは杯を見つめた。もし黒霜花を薬として塗ったなら、内側全体へ痕跡が残るはずだ。ところが成分が検出されたのは、底の紋章の細い溝だけだった。「杯を……洗ったのでしょうか」ネルーヴァが視線を向ける。「何で?」「黒霜花を使った解毒薬で」室内が静まる。黒霜花は月毒を身体から排出するために使われる。同時に、銀を含むいくつかの毒を弱める作用もあると、ネルーヴァから教えられていた。もし毒が付着した杯を解毒薬で洗ったなら、平らな部分は水で流されても、紋章の細い溝にだけ薬の成分が残ることはあり得る。「毒を消した後、ということですか」リュシエナが尋ねる。ネルーヴァはすぐには頷かなかった。「そう見える。でも、そう見せ
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第31話 冬至の香炉

最初に異変へ気づいたのは、胸の奥にいる銀色の狼だった。冬至の祝宴を彩る灯火はまだ消えていない。長卓には銀器が並び、領主たちは掲げた杯を手にしたまま、突然声を上げたリュシエナへ怪訝そうな視線を向けていた。広間の四隅に置かれた香炉からは白い煙が細く立ち昇り、天井近くで幾筋にも分かれている。甘く、重い香りだった。熟れすぎた果実へ蜜を混ぜ、その奥へ冷えた花の匂いを隠したような香りが、吸い込むたび喉の奥へまとわりつく。リュシエナの獣魂は、その香りへ触れた瞬間から身を伏せていた。耳を倒し、腹を床へ押しつけるように丸くなる。呼びかけても顔を上げない。月毒を解毒し始めてから、これほど強く怯えたことはなかった。その感覚とともに、古い記憶が蘇る。銀嶺狼群の月神殿。白い石壁。祈りの前に閉ざされる扉。司祭たちが銀の蓋を外し、小さな香炉へ灰色の香木を落とす音。儀式へ臨む者は心を静めなければならない。そう教えられていた。「《眠月香》……」掠れた声が漏れる。隣にいたネルーヴァが振り向いた。「何?」リュシエナは香炉を指した。「月神殿で使われる香です。獣魂を鎮めるための……でも、こんな量を焚いたら」息を吸っただけで胸が重い。広間の奥では、巨大な狼の姿を持つことで知られる北部領主が首を振っていた。別のアルファは眉間へ指を当て、何度も深く瞬きをしている。変化は静かだった。だからこそ、誰もすぐには危険だと理解できない。酒に酔ったのだと思う者もいる。祝宴用の濃い香が苦手なのだと笑う者すらいた。「大量に吸えば、狼へ変われなくなります」ネルーヴァの顔から血の気が引く。「どれくらいで?」「分かりません。でも月神殿では、儀式の前にほんの少ししか焚きませんでした。アルファの威圧も弱くなると……」言い終わる前に、リュシエナは立ち上がった。「香炉を消してください!」広間全体へ声が響いた。談笑が途切れる。多くの領主が一斉にこちらを向く。その瞬間だった。王の卓へ酒を運んでいた給仕が、盆を傾けた。落としたのではない。左手で盆を立て、その裏へ隠していた右手を抜く。銀色の短剣が灯火を弾いた。「陛下!」給仕が踏み込む。ヴァルゼインの身体も同時に動いた。椅子を後ろへ蹴り飛ばし、倒れた背もたれを盾にする。銀の刃が木を深く削り、乾いた破裂音が響いた。本来なら、
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第32話 王の血を止める薬

ヴァルゼインが王の寝室へ運び込まれた頃には、黒曜城の祝宴の音は完全に途絶えていた。つい先ほどまで領主たちの杯が触れ合い、冬至を祝う声が天井へ響いていたはずの王宮は、今や息を潜めた獣のように静まり返っている。廊下では武装した兵士が数歩ごとに立ち、出入りする者の名が一人ずつ記録されていた。窓の外では雪が強まり、風が硝子を細かく叩いている。その音さえ、寝台の周囲に集まった者たちには遠く感じられた。白い寝具の上に横たわるヴァルゼインの肌から、普段の血色は失われていた。脇腹へ突き刺さった矢はすでにネルーヴァによって取り除かれている。だが傷口には厚い布を幾重に重ねても血が滲み続け、交換されたばかりの包帯が早くも暗い赤へ染まり始めていた。「押さえて」ネルーヴァの声が低く飛ぶ。助手が両手で布を押さえる。別の治療師が銀毒を吸着する薬泥を傷の周囲へ塗った。通常なら狼人の身体は人間より遥かに治癒が早い。ましてヴァルゼインほど強い獣魂を持つアルファなら、深い裂傷でも血が固まり始めるはずだった。それが起きない。傷の周囲へ黒い毛が一瞬浮かび上がっては、すぐ皮膚の下へ消えていく。獣魂が傷へ集まり、治そうとしている。けれど何かに押し戻されている。「また駄目」ネルーヴァが薬瓶を置いた。机の上には、すでに使われた薬が並んでいた。銀中毒の治療薬、止血薬、獣魂の暴走を抑える煎液。そのどれも十分な効果を示していない。リュシエナは寝台のすぐそばに立っていた。手を伸ばせばヴァルゼインへ触れられる距離だったが、触れなかった。彼の血に濡れた自分の指は、祝宴の広間を出る前に何度も洗った。それでも爪の間へ残っている気がしてならない。「脈は?」「速い。弱くなってる」ネルーヴァが答える。リュシエナの胸の奥で、銀色の狼が落ち着きなく歩き回っていた。ヴァルゼインの獣魂が苦しんでいることを感じているのかもしれない。普段なら彼が近くにいるだけで立ち上がる気配が、今は耳を伏せ、低く喉を鳴らしている。扉が開いた。セイグと数人の評議官が入ってくる。その中の一人が寝台を見るなり顔を強張らせた。「陛下のご容体は」「見れば分かるでしょう」ネルーヴァは振り返りもしなかった。評議官は言葉を失い、それでも続けた。「銀嶺狼群へ使者を出すべきです」リュシエナが顔を上げる。「何を求めるのですか」
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第52話 あなたを欲しがる狼

「ただいま戻りました」と告げた翌朝、リュシエナは夜明けの鐘よりもずっと早く目を覚ました。何か悪い夢を見たわけではない。胸を締めつける痛みも、月毒の解毒を始めた頃のような熱もなかった。それなのに薄暗い寝室で目を開いた瞬間、世界そのものが昨日までとは違う場所へ変わってしまったように感じられた。最初に聞こえたのは、廊下を歩く侍女の足音だった。柔らかな室内靴が石床を踏み、十二歩ほど進んだところで止まり、陶器同士が小さく触れ合う。次には中庭を掃く箒の音が聞こえ、湿った雪を石畳から押し退けるざらりとした響きまで分かった。さらに意識を向けると、三階ほど下にある厨房から俎板を叩く刃物の音が届き、遥か離れた厩舎では一頭の馬が鼻を鳴らし、蹄で床を二度蹴っている。「……何なの」リュシエナは寝台の上で身を起こした。すると今度は、自分の衣擦れさえ耳元で鳴らされたように大きく響き、反射的に両耳を塞ぐ。けれど意味はなかった。音は耳からだけではなく、床や壁、空気の震えまで通して身体の内側へ流れ込んでくるようだった。視界もおかしい。夜明け前で室内はほとんど暗いはずなのに、窓辺の椅子へ掛けてある母の灰色の外套の縫い目まで見える。暖炉に残った炭の割れ目、床板についた細い傷、枕元の薬瓶の硝子へ浮かぶ小さな気泡まで、見ようと意識する前から輪郭が立ち上がっていた。けれど最も耐え難かったのは匂いだった。枕に残る乾いた薬草。寝具を洗った石鹸草。昨夜燃やした薪の煙。蝋燭に混ぜられた獣脂。窓枠を固定する鉄釘。廊下を通った侍女の香油。その向こうにいる衛兵の革鎧と、狼人特有の体温を帯びた匂いまで、境目なく一度に押し寄せてくる。「待って……一つずつ……」誰に言うでもなく呟いた。胸が速く上下し、息を吸うほど新しい匂いが増えるため、むしろ呼吸することが怖くなる。解毒中に高熱を出した時とは違う。身体が弱っているのではなく、今まで閉ざされていた扉が一斉に開き、そこから世界が雪崩れ込んできているようだった。その時だった。何百もの匂いの中で、一つだけが突然鮮明になる。黒い森。凍った夜気。雪。革。わずかな鉄。それから、深い森の奥で燃える火のような、温かく重い獣の匂い。リュシエナの呼吸が止まった。「ヴァルゼイン……」考えて探したわけではなかった。王が今、数階下の私室にいる。起きている。窓辺では
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第34話 死者の名を着た暗殺者

祝宴の翌朝、黒曜王宮から祝いの名残はほとんど消えていた。冬至を彩るため大広間へ吊られていた銀灯はそのまま残されていたが、床には割れた杯の跡があり、壁際にはまだ消しきれない《眠月香》の甘い匂いが薄く染みついている。領主たちの大半は客室から出ることを禁じられ、城門は閉ざされ、回廊の角ごとに武装した兵が立っていた。普段なら朝食を運ぶ使用人の声が飛び交う時間にも、聞こえるのは鎧の擦れる音と、誰かが低い声で身分を確認するやり取りばかりだった。リュシエナは王の寝室に隣接した控えの間で、冷めた薬茶を両手に包んでいた。昨夜ほとんど眠っていないせいで、瞼の裏には鈍い痛みが残っている。それでも意識は奇妙なほど冴えていて、ヴァルゼインの手が自分の手首を掴んだ感触も、傷口から流れていた血の色も、まだ数刻前の出来事のように鮮明だった。袖の下には、彼の指が残した赤い痕が薄く残っているが、痛みよりも彼が生きているという事実の方が強く胸を占めていた。扉の向こうではネルーヴァが治療を続けている。血は止まり、獣魂の暴走も収まったものの、銀毒と急激な解毒の反動によってヴァルゼインは再び眠りへ落ちていた。目を覚ませば話せる程度には回復していると聞かされているが、王が評議会へ姿を見せられないというだけで、城内の力関係がわずかずつ変わり始めていることをリュシエナにも感じ取ることができた。「監査官殿」呼ばれて顔を上げると、セイグが立っていた。いつも乱れのない黒い上衣には今朝ばかりは細かな皺が残り、目の下には薄い疲労の影がある。彼の隣にはカルネアがいて、片手に古びた兵籍簿、もう片方に新しい書類の束を抱えていた。「暗殺者の身元が分かった」リュシエナは椅子から立った。「昨夜の二人ですか」「正確には、名乗っていた者の身元だ」セイグは卓上へ兵籍簿を開いた。そこには二人の男の名、出身村、所属部隊、階級、家族構成が細かな文字で記録されている。その下に、三年前の日付とともに死亡の印が押されていた。一人は北西国境で起きた雪崩による死亡、もう一人は国境沿いの盗賊討伐で戦死。死亡確認者の署名だけでなく、遺族へ弔慰金が支払われた記録まで残されている。「では、本当に死んでいるのですか」リュシエナが問うと、カルネアが首を振った。「名簿の男たちはな。昨夜捕まえた連中は別人だ」彼女は別の紙を取り出した。拘束後に洗浄
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第33話 暴れる黒狼

ヴァルゼインの身体に最初の異変が走ったのは、薬を飲み干してからほんの数十呼吸後だった。脇腹から溢れ続けていた血は確かに遅くなっている。厚く重ねた布を押し当てても、先ほどまでは瞬く間に深紅へ染まっていたものが、今は赤い染みの広がりを鈍らせていた。けれど安堵する暇もなく、寝台の上でヴァルゼインの背中が大きく反り、筋肉が強張る。人の形を保っていた右腕には皮膚の下から墨を流したような黒が走り、それを追うように硬い黒毛が肘から手首へ一気に広がった。「陛下!」ネルーヴァが寝台へ身を寄せる。その瞬間、ヴァルゼインの右手が跳ね上がった。人の指だったものが途中から鋭い爪へ変わり、治療師の喉元を狙うように空を裂く。ネルーヴァが辛うじて身体を引くと、爪先は彼女の胸元を掠め、背後の木棚へ深い傷を刻んだ。薬瓶が幾つも床へ落ちた。硝子の割れる鋭い音と、苦い薬草の匂いが一瞬で寝室へ広がる。「下がって!」ネルーヴァが叫ぶ。ヴァルゼインの喉から、低い唸り声が漏れた。それは人間の声ではなかった。完全な狼へ変じた時に聞いたものとも違う。人の喉と獣の胸の奥が同時に震えているような、苦痛を押し殺した音だった。肩から胸にかけて黒毛が浮かび、次の瞬間には消える。頬骨がわずかに前へ張り出し、犬歯が伸びたかと思えば、人の顔へ戻る。身体の内側で何かが暴れている。リュシエナの胸の奥にいる銀色の狼が、突然立ち上がった。先ほどまで怯えるように丸くなっていた獣魂が、今は耳を立てている。自分より遥かに巨大な何かを感じ取っているはずなのに、逃げようとはしなかった。むしろ。苦しんでいる黒狼の方へ行こうとしている。「皆、部屋を出て」ネルーヴァが命じた。助手たちが顔を見合わせる。「ですが、先生」「今の陛下には誰が味方か分からない。獣魂の理性が完全に崩れているわ。近づく人数が増えるほど、敵に囲まれたと認識する」言葉を証明するように、ヴァルゼインの身体から見えない圧力が放たれた。空気そのものが重くなる。胸を上から押さえつけられたように、息ができない。扉際に立っていた若い衛兵が、膝から崩れ落ちた。「ぐ……っ」隣の兵士も片膝をつく。命じられていない。それでも身体が勝手に服従する。アルファの威圧だった。それも普段のヴァルゼインが意識して抑えているものとは比べものにならない。理性による
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第35話 信じる理由

衛兵の遺体が発見されたという報告は、夜が明ける前に王宮中へ広がった。客室前の廊下は封鎖され、物置へ続く床には白い布が敷かれた。夜勤の兵士たちは一人ずつ別室へ呼ばれ、勤務交代の時刻、持ち場を離れた時間、廊下を通った者について何度も同じ質問を受けている。リュシエナの部屋へ差し込まれた紙も、彼女が触れた位置を残したままセイグの手へ渡された。偽造された筆跡で書かれていた『王が死ぬ前に、西門から逃げろ』という一文は、彼女を助ける忠告ではなく、逃亡者に仕立てるための仕掛けだとしか思えなかった。それでも、疑いは軽くならなかった。むしろ一人の衛兵が殺されたことで、状況は悪化した。朝の検分で客室の壁を調べていた宮務局の職員が、寝台の裏に古い木扉を発見した。壁板と同じ色に塗られ、長年使われていなかったように見えたが、押せばまだ動く。開いた先には、人一人が身を屈めて通れるほどの狭い通路が続いていた。「使用人用の抜け道です」宮務局の男が松明を掲げる。「先王のさらに前の時代、暖炉用の薪や湯を人目につかず運ぶために使われていたものと思われます。現在の王宮図面には記載されておりません」リュシエナは扉の前から暗い通路を見つめた。知らなかった。昨夜、寝台の下から紙の擦れる音を聞かなければ、この壁に扉があることすら気づかなかっただろう。けれど、知らなかったという言葉だけでは、自分の潔白を証明できないことも分かっていた。「この通路は、物置の近くへ?」セイグが尋ねる。調査役の兵士が頷いた。「途中で三本に分かれます。一つは洗濯場、一つは旧厨房、もう一つが西側の物置裏へ通じています」空気が変わった。衛兵が殺され、隠されていた場所。そこまで、この客室から人目につかず移動できる。「つまり」後ろに立っていた評議官の一人が低く言った。「監査官は部屋を抜け、見張りを殺して戻ることができた」カルネアが振り返った。「できた、というだけだ」「十分な疑いだろう」「通路を知っていた証拠は?」「知らなかったという証拠もない」リュシエナは二人の間へ視線を落とした。胸の奥がじわじわと冷えていく。銀嶺でも同じだった。何もしていない証拠を出せと言われる。知らないものを知らなかったと証明しろと言われる。できなければ、黙って受け入れるしかなかった。「私は、この通路の存在を知り
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第36話 古い忠臣の房飾り

隠し通路から見つかった黒い房飾りは、朝になってもセイグの机の中央に置かれていた。窓の外では夜の雪が止み、薄い冬の日差しが王宮の石壁へ反射している。房を形作る黒い絹糸はその光を吸い込み、根元の銀金具だけが冷たく光っていた。金具には小さな王冠と、その下へ侍従長を示す三本線が刻まれている。王宮の正式装束を管理する被服係にも確認させたが、同じ意匠を身につけられる者は現職の侍従長オルネスだけだった。本人は、呼び出しを受けても驚かなかった。深緑の上衣を着た老狼は、いつもと同じ落ち着いた歩調で調査室へ入り、机の房飾りを見るとわずかに眉を下げた。「それでございましたか」カルネアの目が鋭くなる。「知っているのか」「私のものであれば」オルネスは近づきすぎない位置で立ち止まった。「数日前、一本紛失しております」セイグが腕を組む。「報告は」「しておりません」「なぜだ」「制服の房飾り一つで王宮警備を騒がせる必要はないと判断いたしました。予備もございましたので」カルネアが鼻を鳴らした。「随分都合がいい話だな」「そう思われるのも当然でございましょう」オルネスは反論しなかった。リュシエナはその横顔を見ていた。王の杯から黒霜花の匂いが見つかった時も、彼は同じだった。声を荒らげない。自分へ疑いが向けられても、不快感を見せない。長く王宮に仕えてきた者だからこそ身についた落ち着きなのか、それとも何かを隠している者の慎重さなのか、表情だけでは判断できなかった。「私をお疑いになるのであれば、居室も所持品もお調べください」オルネスが言う。「鍵も提出いたします」腰から小さな鍵束を外し、机へ置いた。「抵抗しないのか」カルネアが問う。「抵抗すれば疑いが晴れますか」リュシエナは僅かに目を見開いた。数日前、自分が言った言葉に似ている。オルネスもそれに気づいたのか、一瞬だけ彼女を見る。「陛下がお生まれになる前から、私はこの王宮におります」老狼は静かに続けた。「隠し通路の存在も知っています。王室食器庫へも入れます。陛下の私室へ近づく理由も作れる。暗殺を企てる立場として適していると疑われるのは、理解しております」セイグは鍵を受け取った。「では調べる」「どうぞ」オルネスの居室は、侍従長という地位から想像するより質素だった。長年使い込まれた机、寝台
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第37話 黒い冠を望んだ血

十八年前の記録には、ひどく乾いた言葉しか残されていなかった。反逆。王位簒奪未遂。処刑。追放。没収。黄ばんだ紙の上に並ぶ文字だけを追えば、すべては遠い昔に終わった出来事に見える。けれどリュシエナは、死者の遺品保管庫から失われた六箱分の記録を前にして、その過去が今も王宮の壁の内側で息をしているような感覚を拭えなかった。灯火に照らされた古い名簿の最上段には、先王の弟グレイヴァル・ノクスハルトの名があり、その隣には現在の王家に酷似した黒狼の紋章が刻まれている。ただ一つ違うのは、狼の頭上に浮かぶ月の向きだけだった。「グレイヴァルは、どのような方だったのですか」リュシエナが尋ねると、帳簿の向こうでエルグラドの指が止まった。老狼は昨夜自ら運び込んだ記録の整理を手伝うため、朝になっても執務室に残っていた。彼の隣にはセイグがおり、少し離れた窓辺ではカルネアが古い軍務記録をめくっている。誰もすぐには答えず、紙の擦れる乾いた音だけが部屋へ落ちた。やがてエルグラドが低く口を開いた。「強い男だった。少なくとも、本人はそう信じていた」「先王陛下の弟ですよね」「ああ。先王より五歳下で、黒狼としての獣魂だけを比べれば兄を上回っていたと言われている。純血の黒狼こそ月神に選ばれた支配者であり、他群れとの婚姻も、人間との交易も、王家の血を濁らせる行為だと公然と主張していた」リュシエナの眉がわずかに寄る。銀嶺狼群でも血統は重んじられていた。希少な白狼へ変身できるミレシアが賞賛され、自分は狼へ変われないという理由だけで価値を失った。それでも、グレイヴァルの思想はさらに極端だったらしい。「黒曜狼国が今のように複数の群れを束ねる国になったのは、先王の政策によるところが大きい」セイグが続ける。「南方の赤狼群、東部の灰狼群、獣人ではない人間商人とも協定を結んだ。グレイヴァルはそれを弱体化と呼んだ」「そして、幼い陛下を王位から排除しようとした」リュシエナが言うと、エルグラドの目が僅かに暗くなった。「当時の陛下は十歳だった」数字を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。十歳。自分がラヴィナから毎朝滋養薬を渡され始めた頃と同じ年齢だった。「先王が国境視察中に負傷した時、グレイヴァルは王が死んだという偽報を流した。王太子だった陛下を王宮から連れ出し、継承資格を放棄させようとしたらしい。従わなけれ
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第38話 名前を失った女官

逃亡した女官の名は、ミアナ・レグレスと記録されていた。年齢は三十七歳、王宮勤続十五年。十八年前の王位継承争いが終わってから三年後、地方領主の推薦を受けて下働きとして黒曜王宮へ入り、読み書きと礼式の知識を買われて徐々に役目を上げ、現在では侍従長オルネスの補佐を務めていた。勤務態度は実直で、遅刻も無断欠勤もなく、使用人同士の揉め事を仲裁することさえあったという。記録だけを読めば、王を殺すために十五年も城へ潜んでいた女には見えなかった。けれど今、その女の部屋には血のついた衣服だけが残され、庭へ続いた足跡は意図的に偽装されていた。本人は王宮の外へ逃げたように見せかけながら、実際にはまだ城内のどこかにいる可能性が高い。しかも暗殺者たちは顔の輪郭や髪色だけでなく、本来の体臭まで薬で変えていた。狼人が鼻で相手を見分けられるという黒曜狼国の常識そのものが、もはや安全を保証してくれない状態だった。その日の午後から、王宮の空気は目に見えて変わった。厨房では食事を受け取る使用人が減り、毒見を終えた皿であっても、自室へ持ち帰って口をつけない者が出始めた。警備隊では交代のたびに互いの顔を見せ、過去の傷痕や声、家族しか知らない質問まで使って本人確認を行っている。長く一緒に働いてきた侍女同士でさえ、廊下ですれ違えば一瞬足を止め、鼻先を僅かに動かして相手の匂いを確かめるようになった。その光景を、リュシエナは二階の回廊から見下ろしていた。「これも目的だったのでしょうか」隣に立つセイグへ尋ねる。中庭では、荷車を引いていた若い使用人が衛兵に止められていた。顔を確かめられ、名前を聞かれ、袖をまくるよう求められている。確認が終わって解放されても、男は何度も後ろを振り返っていた。「何がだ」「誰が誰なのか分からなくすることです」セイグはすぐには答えず、中庭へ視線を落とした。風が黒い外套の裾を揺らし、遠くの塔から時刻を告げる鐘が一度響く。「王を殺せなくても、王宮が互いを信用できなくなれば十分です。料理人は侍女を疑い、衛兵は同僚を疑い、領主たちは王宮の警備そのものを疑う。誰かが顔を変えられるというだけで、今まで十五年一緒に働いてきた人まで疑わなければならなくなる」「厄介なのは事実だ」「でも、顔だけを探しても見つからないと思います」セイグの視線がこちらへ動いた。リュシエナは手にしていた
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