Tous les chapitres de : Chapitre 11 - Chapitre 20

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第10話 戻らない

 黒曜城の門を叩く音は、雪の止んだ朝に三度響いた。 一度目は重く、二度目は性急に、三度目には命令の響きがあった。 東塔の薬草庫で帳簿を開いていたリュシエナは、遠い鐘楼から落ちてきた警鐘に顔を上げた。乾燥させた黒針樹の皮が、長卓の上で苦い匂いを放っている。書き留めかけた数字の上に、羽根筆から墨が一滴落ちた。 開いた扉の向こうを、武装した兵が駆けていく。革靴の音が石廊下へ幾重にも反響し、閉じられた窓硝子まで震わせた。「銀嶺の旗だそうです」 薬草庫の若い係が、青ざめた顔で囁いた。 リュシエナの指が強張った。 銀嶺。 その名を聞いただけで、首にないはずの月環が締まる。皮膚の下へ冷たい輪が戻り、呼吸を細く絞るようだった。 昨夜、ネルーヴァから告げられた言葉が、まだ胸の底に沈んでいる。 目覚めるたびに、眠らされていた。 継母の白い手。毎朝置かれた薬杯。飲み干すまで開かなかった扉。記憶は一つ思い出すたび形を変え、優しさに見えていたものの裏側から、黒い染みが広がっていた。「リュシエナ殿」 セイグが戸口に立っていた。いつも乱れのない黒褐色の髪には、外から運ばれた雪が一片だけ残っている。「銀嶺狼群の使節が三名、月神殿の書記を伴って到着した。お前の引き渡しを求めている」「……私に、会うようにと?」「陛下は会う必要はないと仰せだ。部屋へ戻り、扉に鍵を掛けてもいい」 それは命令ではなかった。彼女に選択を渡す言い方だった。 リュシエナは帳簿の上へ羽根筆を置いた。昨夜から、何度も同じ考えが胸を過ぎている。銀嶺の門を越えたはずなのに、追手は森まで来た。城の食卓にまで毒杯が置かれた。部屋へ隠れても、相手の言葉は壁の外で自分の罪を作り続ける。「参ります」「無理に聞く必要はない」「聞かなければ、また誰かが私のために答えることになります」 立ち上がると、椅子の脚が石床を擦った。首と背の傷はまだ疼いたが、足は震えなかった。 セイグは短く頷き、彼女の歩調に合わせて廊下を進んだ。 謁見の間へ続く扉の前には、カルネアがいた。胸当ての上から黒い外套を纏い、剣帯には二本の剣がある。彼女はリュシエナの姿を見るなり眉を寄せた。「来たのか」「はい」「今からでも戻れる」「戻りません」 口にした言葉に、リュシエナ自身が一瞬立ち止まった。 カルネアは何も言わず、扉を開
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第11話 月なしの娘が救う夜

 最初の悲鳴は、日が落ちる前に兵舎から上がった。 続いて、西棟の家族区画で鐘が鳴った。短く二度、間を置いて三度。重病人が複数出たことを知らせる音だった。 薬草庫で在庫を数えていたリュシエナは、階下から駆け上がる足音に顔を上げた。扉が壁へぶつかり、若い治療師が肩で息をする。「ネルーヴァ様からです。兵士が七人、子どもが五人、高熱を出しました。まだ増えています」「症状は」「変身が止まりません」 治療師の声が震えた。「人へ戻った途端、また牙と毛が出る。骨も途中で形を変えて……誰の声も聞こえていません」 リュシエナは卓上の帳簿を閉じた。胸の奥で、眠っていた狼が耳を立てる。 地下治療室へ下りる階段には、すでに薬草を燻す煙が満ちていた。酢に浸した布で口元を覆った兵たちが、患者を載せた担架を次々と運び込む。濡れた毛皮と汗、血、吐瀉物、煮詰めた薬の匂いが石壁の間へ籠もり、息をするたび喉が焼けた。 隔離扉の向こうから、狼の唸り声が響いている。 人でも獣でもない。言葉を作ろうとする喉へ牙が生え、苦痛だけが漏れる音だった。「扉を閉めて! 出入りした者の名を全部記録して!」 ネルーヴァの命令が飛ぶ。袖を肘までまくり、汗で張りついた赤褐色の髪を乱暴に結んでいる。「感染症ですか」 リュシエナが近づくと、ネルーヴァは木皿の上の黒い唾液を布で覆った。「まだ分からない。熱の出方は感染に似ているけれど、獣魂の乱れが早すぎる。あなたは上へ戻って」「手伝えます」「あなたの身体には月毒が残っている。同じ系統なら、誰より危険よ」 奥で男が絶叫した。右腕だけが灰狼の前脚へ変わり、爪が革帯を裂く。肩の骨が盛り上がり、皮膚の下を獣の形が走った。 リュシエナの首筋が疼いた。「原因を探します。患者には触れません」「約束できる?」「今は」 ネルーヴァの目が鋭くなる。だが、別の寝台から呼ばれ、問い返す時間はなかった。「記録台に飲食物と薬の聞き取りがある。共通するものを探して」 地下の隅に設けられた卓には、慌てて書き取られた紙が積まれていた。リュシエナは一枚ずつ並べる。 兵士。三日前から喉の痛み。解熱薬を二度。 炊事係の娘。昨夜発熱。半包。 城壁警備の男。銀矢の古傷あり。朝と昼に一包ずつ。 妊娠六月の洗濯係。頭痛のため四半包。 住む場所も食事も違う。だが全員が、同
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第12話 黒狼王の腕の中

 足元から、床の感触が消えた。 リュシエナの膝が折れる。傾いた視界の端で、薬鍋から立つ白い湯気と、石床へ落ちた自分の血が混ざった。 身体が冷たい床へ届くより早く、黒い腕が腰を抱き止めた。 もう一方の腕が背へ回る。銀の短剣に裂かれ、包帯を巻かれたばかりの右手を庇いながら、それでもヴァルゼインは彼女の身体を確かに支えた。 頬が黒い外套へ触れる。森と雪、鉄に似た血の匂いがした。 地下治療室には、荒い呼吸が幾つも重なっていた。だが、先ほどまで壁を震わせていた獣の咆哮はない。寝台に横たわる兵士も、母親の手を握る子どもも、皆、人の姿へ戻っている。黒霜花を煮る鍋の音が、静けさの底でことこと鳴っていた。 リュシエナは重い瞼を持ち上げた。「全員……戻れましたか」 左腕の傷から血が伝い、指先を濡らしている。そのことにも気づかず、寝台の列へ目を向けようとした。「一人も死んでいない」 頭上から落ちたヴァルゼインの声は、いつもより僅かに掠れていた。「妊婦も、子どもも、全員だ」 その答えを聞いた途端、リュシエナの肩から力が抜けた。「……よかった」 外套の胸元へ、自分の血が赤黒い染みを作っている。王が纏うものを汚した。そう理解しただけで、身に染みついた言葉が反射のように喉へ上がった。「申し訳――」「その言葉は今夜、禁止する」 低い声が、謝罪を途中で断ち切った。 ヴァルゼインは彼女の膝裏へ腕を差し入れ、そのまま抱き上げた。身体が床から離れ、リュシエナは息を呑む。傷へ響く衝撃はほとんどなかった。彼は首と背を避け、どこへ力を掛ければ痛まないかを知っているように腕の位置を変えた。 周囲で衣擦れが重なった。 治療師、兵士、薬係。動ける者たちが、通路を開けて一斉に膝をついている。カルネアも、眠った甥を胸へ抱いたまま頭を垂れていた。 黒狼王が運ぶ相手へ向けた礼ではない。王が通るための礼だと分かっている。それでも、敵国の追放者である自分が彼の腕に抱かれ、その光景を皆に見られていることへ、胸の内側が落ち着かなくなる。「陛下、自分で歩けます」「では、立ってみろ」 ヴァルゼインはその場で足を止めた。 責める声音ではない。本当に望むなら下ろすという静かな響きだった。 リュシエナは腕を借りながら足を床へ伸ばした。薄い靴底が石へ触れる。だが体重を掛けた瞬間、膝が内側へ折
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第13話 薬杯を選ぶ手

第13話 薬杯を選ぶ手 黒い薬湯の表面に、窓から差す朝の光が細く揺れていた。 湯気はほとんど立っていない。それでも薬杯が卓へ置かれた瞬間、焦がした根と濡れた土に似た苦い匂いが、リュシエナの喉を塞いだ。 十歳の冬の朝が、目の前へ戻ってくる。 冷えきった寝室。銀の盆。白い指で差し出される小さな杯。 飲みなさい。 あなたのためなのよ。 寝台の上に置いていた右手が震えた。指を押さえようと左手を重ねても、震えは腕へ昇り、肩まで細かく揺らす。「リュシエナ?」 ネルーヴァが薬杯から手を離した。 北塔の客室には、黒霜花と白樺の内皮を煮た匂いが満ちている。暖炉の火は明るく、扉にも鍵が掛かっていない。目の前にいるのはラヴィナではない。分かっているのに、舌の奥へ、まだ飲んでもいない苦みが広がった。 飲まなければ、父に叱られた。 薬杯を倒した朝は、床に膝をついて謝らされた。吐き出せば、ラヴィナが汚れた寝衣を摘まみ上げ、悲しそうに首を振った。『役立たずだから、薬さえ満足に飲めないのね』 責めるよりも優しい声だった。だからこそ幼いリュシエナは、自分が継母を傷つけたのだと思った。 杯の縁へ手を伸ばす。 だが、指は途中で止まった。近づけば近づくほど息が浅くなり、胸の奥の狼が暗い場所へ身を縮める。「申し訳ありません」 掠れた声が落ちた。「飲まなければいけないことは、分かっています」「飲まなければいけないから飲むのは、もうやめなさい」 ネルーヴァは静かに薬杯を卓上へ戻した。 責める色も、急かす響きもなかった。黒い液面から距離ができるだけで、リュシエナの肺へ少し空気が戻る。「でも、解毒を始めなければ」「始めるかどうかを決めるのは、あなたよ」「治療師の指示へ従わなければ、治るものも」「私は治療師。あなたより薬を知っている。でも、あなたの主人ではないわ」 ネルーヴァは薬箱を開き、小さな硝子瓶と紙包みを取り出した。白い布を卓へ広げ、その上へ薬草を一種類ずつ並べる。 黒い細根。半透明の花弁。薄く削られた白い樹皮。赤褐色の種。「これが黒霜花の根。血に戻った銀毒を吸着させ、汗と尿へ出す。多すぎれば腎を傷めるし、手足が痺れることもある」 次に、煤のような花弁へ指を移す。「花は獣魂の高ぶりを鎮める。ただし眠気が強い。あなたの場合、狼まで眠らせすぎないよう、
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第14話 切り取られた頁

第14話 切り取られた頁 寝台から立ち上がっただけで、足の裏に冷たい汗が滲んだ。 リュシエナは窓辺の椅子へ手を伸ばし、崩れそうになる膝を支えた。解毒を始めて三日。高熱は下がったが、身体の奥では、黒霜花に追われた銀の粒がまだ細く蠢いている。首の包帯の下が脈打つたび、指先に弱い痺れが走った。「立ってよいとは言ったけれど、倒れてよいとは言っていないわ」 背後でネルーヴァが腕を組んでいた。「倒れてはいません」「椅子と壁の両方に掴まっている状態を、立っているとは呼ばないの」 リュシエナは反論を諦め、ゆっくり椅子へ腰を下ろした。卓上には黒い薬湯と砂時計が置かれている。自分で選んだ杯は、今も恐ろしい。それでも中身を確かめ、飲む時刻を自分で決められるだけで、震えは少しずつ短くなっていた。 扉が叩かれた。 入ってきたセイグは、両腕に三冊の帳簿を抱えていた。濃茶の革表紙には雪解け水の跡があり、一番下の冊子だけ、角が黒く汚れている。「頼まれていた交易帳簿だ」「見つかったのですか」「薬草庫のものだけではない。北門の入城記録、第二倉庫の受領簿もある」 ネルーヴァの視線が、帳簿からリュシエナへ移る。「一刻だけよ。眩暈が出たら終わり」「分かりました」「返事だけは素直なのよね」 不満そうに言いながらも、ネルーヴァは窓際の卓へ椅子を寄せ、背に当てる厚い布を持ってきた。セイグも急かさず、彼女が座り直すまで待つ。 帳簿を開くと、乾いた紙と古い墨の匂いが立った。 薬を運んだ商隊名。国境を越えた日。荷を受け入れた倉庫。検品した薬係と立ち会った門番の印。冬白草や灰棘草の重量まで、黒曜の記録は細かく残されている。 リュシエナは同じ薬が入った過去の頁を三つ開き、横へ並べた。記録の順は決まっている。商隊の印、荷車の数、箱の重量、封蝋の状態。最後に検品者が薬草を一つまみ焼き、煙の色を記す。 正常な十箱には、すべて「煙、白」とある。 毒が混じった二箱だけ、煙の記録へ辿り着けない。「灰棘草へ月毒が混じっていれば、焼いた煙は銀青色になります。検品していれば、薬草に詳しくない者でも違いへ気づいたはずです」「だから記録ごと消したか」 セイグの声へ、リュシエナは頷いた。「問題の箱は、薬庫で最後に開けた二箱です」 リュシエナは箱番号を書いた紙を受領簿の横へ置いた。「外箱の木
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第15話 城壁の下の月祠

第15話 城壁の下の月祠 ずるり、と。 暗闇の奥で、何かを引きずる音がもう一度した。 地下道の入口から吹き出す風が灯火を細く揺らし、倉庫の床へ並ぶ影を歪ませる。湿った土と古い蝋、その下に血のような鉄の匂いがあった。 カルネアは剣を抜き、灯具を持つ兵へ下がるよう顎で示した。「私とセイグで先を調べる。陛下とリュシエナは地上へ」「俺に指図するな」 ヴァルゼインの声は低かったが、怒気はない。カルネアも怯まずに返す。「王が正体の分からぬ穴へ先頭で入る方が問題です」「だからお前たちが先を見ろ。俺は入口に残る」 セイグが縄を腰へ結び、一端を兵へ渡した。カルネアも灯具を受け取り、身を屈めて穴へ入ろうとする。「待ってください」 リュシエナは杖へ体重を預けながら、偽壁の縁へ近づいた。 灯りが動いた一瞬、地下道の壁に細い刻みが見えた。泥で半ば埋もれているが、三日月を二つ重ね、その中央へ縦線を引いた印だった。「これは、月神殿の道標です」 カルネアの足が止まる。「読めるのか」「古い形です。銀嶺の神殿でも、今は祭具庫の石扉にしか残っていません」 リュシエナは膝をつき、刻みへ触れずに目を凝らした。三日月の下には、爪で引っ掻いたような短い線が七本ある。「『七歩の先で月へ背を向けよ』。道が分かれるという意味だと思います」 セイグが暗闇を見た。「罠かもしれない」「逆に読めば罠になるよう作られた印です。意味を知らず、月のある方へ進めば危険な道へ出る」「ほかにもあるか」「灯りを近づけていただければ」 ヴァルゼインがリュシエナを見下ろした。「お前が入る必要はない」「印の写しを持ち帰れば、地上でも読めます」 セイグの提案は正しい。安全だけを考えるなら、リュシエナが地下へ入る理由はない。 けれど、音の奥には行方不明の倉庫係がいるかもしれない。毒の経路を知る者も、月神殿の命令も、この道の先にある。印は泥や崩落で欠けている。写し取った線だけでは、刻まれた位置や向きまで読めない可能性があった。「私にしか読めないものがあるなら、行きます」 声は震えなかった。 ヴァルゼインはすぐに頷かなかった。彼女の杖、首の包帯、まだ血色の戻りきらない顔を順に見る。「危険だ。残る選択もある」「分かっています」「途中で戻ることもできる」「はい」「それでも行くのか」
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第16話 目覚めてはならない娘

 捕らえられた男は、夜が明けても震えていた。 黒曜城の北棟、その最奥にある取調室には窓がない。石壁へ掛けられた灯具の火が、冷たい隙間風に細く揺れ、椅子へ縛られた男の影を床いっぱいに引き延ばしていた。湿った祈祷衣からは土と古い香油の匂いが立ち、砕き根の粉に灼かれた目は赤く腫れている。 それでも、身体には新しい傷一つなかった。 両手首を留めているのも鎖ではなく、獣毛を編んだ太い縄だった。銀で獣魂を傷つけることを、ヴァルゼインが禁じたのだ。 リュシエナが部屋へ入ると、男の呼吸が止まった。 腫れた瞼が限界まで見開かれる。椅子を倒しかねない勢いで身を引き、縄の擦れる音を立てた。「来るな」 声が裏返っていた。「月なしではない。お前は……違う。月を欠いた女などではない」 リュシエナは扉のそばで足を止めた。首には新しい包帯が巻かれ、右手には杖を持っている。襲われた恐怖は、銀の針が風を切った感触となって、まだ皮膚のすぐ外に残っていた。 ヴァルゼインが半歩前へ出る。彼女を隠しきる位置ではない。ただ、男との直線上に黒い肩が置かれた。「所属を言え」 セイグが卓上へ、地下の月祠で見つけた焼印の写しを置いた。 男は唇を固く結んだ。しかし、カルネアが祈祷衣の裏から見つけた銅札をその横へ落とすと、乾いた音に肩を震わせる。銅札には欠けた月と七本の麦穂が刻まれていた。「月神殿の下位司祭に与えられる札だ。名は」 沈黙が石壁を冷やした。「……ハルヴァ」「誰の命令で黒曜城へ入った」 ハルヴァの喉仏が上下する。答えないまま、視線だけがリュシエナへ戻った。「封じられた器。なぜ立っている。なぜ、黒きもののそばにいる」「器とは、何を指しているのですか」 リュシエナは自分の声が静かなことに驚いた。 男は笑おうとしたらしい。だが、ひび割れた唇から漏れたのは、泣き声に似た息だけだった。「我らは眠りを守った。月がそう命じた。目覚めれば、皆が失う。銀も、黒も、古い血に呑まれる」「私へ毒を与えることが、守ることなのですか」「お前ではない」 ハルヴァは縄に縛られた指を曲げ、爪で掌を掻いた。「中にいるものだ。あれは月へ跪かない。月環が砕ければ――」 言葉が途切れる。男は何かを恐れるように天井を見た。 セイグが一枚の紙を取り上げた。昨夜見つかった暗号文の末尾には、命令を受け
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第17話 許さなくていい

 乾ききらない墨が、紙の上で鈍く光っていた。 窓の外では細かな雪が降り続いている。白く霞んだ中庭の向こうで、見回りの兵が歩くたび、革靴の底が凍った石を擦る音がした。部屋には暖炉の火が入っていたが、机へ向かうリュシエナの指先は、いつまでも冷たかった。 父上へ。 そう書いたところで、筆が止まる。 なぜ、幼い私へ毒を飲ませることを許したのですか。 私の獣魂について、どこまで知っていたのですか。 門を閉ざしただけでなく、なぜ番兵に追わせたのですか。 胸の内には幾つもの問いがあった。地下の月祠で見つけた調合記録も、年齢ごとに増やされた月毒の量も、父の顔を思い浮かべれば鋭い欠片となって喉へ集まった。 けれど、筆先から落ちた言葉は違った。『このたびは、私のことで多大なご迷惑をおかけし、申し訳ありません』 そこまで書き、リュシエナは息を止めた。 違う。 謝りたいのではない。 知りたいのだ。なぜ自分の身体が壊され、なぜ命まで奪われかけたのか。父は知らなかったのか。それとも、知りながら毎朝の薬杯を見ていたのか。 紙を脇へ退け、新しい一枚を置く。 雪明かりを受けた紙面は、責めることさえ拒むように白かった。『突然の書状をお許しください。黒曜狼国の皆様へご迷惑をおかけしていることは、すべて私の至らなさが――』 まただ。 筆を置く音が、静かな部屋へ硬く響いた。 首元が締めつけられる。月環はもうない。包帯も薄くなり、傷は少しずつ塞がっている。それでも、息を深く吸おうとすると、銀の輪が残っているような錯覚がした。 二枚目も伏せる。 三枚目には、最初から問いを書こうと決めた。『父上は、私へ月毒が与えられていたことを――』 そこまで進んだ筆先が震え、黒い雫を落とした。滲んだ墨の縁が、ゆっくりと紙の繊維へ広がっていく。 父が知らなかったと答えたら、どうするのか。 ラヴィナ一人の仕業だったと告げられれば、まだ父を信じられるのか。 知っていたと答えたら。 役立たずのお前を家へ置くために必要だった。ミレシアを守るには仕方がなかった。お前一人が耐えれば丸く収まったのだ。 あの低い声でそう言われたなら、自分はまた謝るのではないか。 ご期待に沿えず、申し訳ありませんでした、と。 リュシエナの指が紙を掴んだ。乾かない墨が掌へ移る。三枚目の手紙は小さく潰れ、
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第18話 三十日だけの仕事

 評議室の長卓には、空いた椅子が一つだけあった。 誰かが用意したものではない。 リュシエナは扉の脇に重ねられていた予備の椅子を自分で運び、卓の末席へ置いた。脚が石床を擦る鈍い音に、先に集まっていた評議官たちの視線が一斉に向く。 窓の外は雲が低く、朝だというのに室内は薄暗い。獣脂の蝋燭が幾本も灯され、溶けた蝋と乾いた羊皮紙の匂いが漂っていた。 リュシエナは椅子へ座らず、その背へ手を添えた。 指先には、昨夜の墨がまだ薄く残っている。「発言をお許しください」 長卓の奥に立つヴァルゼインが、短く頷いた。「話せ」 彼は彼女を紹介しなかった。番であるとも、王が保護する客人であるとも告げない。何を求め、何を差し出せるかを、リュシエナ自身の言葉へ委ねていた。「冬季薬糧監査官として、三十日間働くことを申し出ます」 室内の空気が僅かに動いた。 衣擦れ。椅子の軋み。誰かが鼻から短く息を吐く音。 リュシエナは用意した一枚の文書を卓へ置いた。「閲覧を求めるのは、王都と北部村落の食糧、薪、薬草に関する備蓄記録です。各地の不足量を確認し、余剰のある倉庫から再配分する案を作成します。移送の決定権は求めません。軍の人数、配置、武器、兵糧庫に関わる記録にも触れません」「敵国の帳簿を扱った女へ、こちらの倉を開けろと?」 長卓の中ほどで、灰色の髭を蓄えた評議官バルガスが口を開いた。 地下の取調室で捕虜の獣魂を裂くべきだと主張した男だった。今日も細い目には冷たい疑念が浮かんでいる。「どの倉に何が足りないか分かれば、兵が何日動けるかも推測できる。軍事記録へ触れぬと言えば安心するとでも思ったか」「懸念はもっともです」 リュシエナは反論せず、文書の端へ指を置いた。「ですから、軍へ納める前の民生用備蓄に限ります。閲覧中は必ず黒曜の記録官を同席させ、写しの持ち出しもしません。三十日後、作成した資料はすべて返却します」「返したところで、頭の中へ残る」 別の評議官が低く言った。「それは否定できません」 誤魔化せば、かえって疑いが深くなる。「私は数字を覚えます。それを役立てるために、この職を求めています」「銀嶺へ知らせるためではないと、どう証明する」「証明できるのは、これからの行動だけです」 リュシエナの声は静かだった。「最初から信頼していただけるとは考えていま
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第19話 黒森の村

第19話 黒森の村 少年の睫毛には、溶けない霜が張りついていた。 カルネアの外套へ包まれても、小さな身体の震えは止まらない。唇は青紫に変わり、胸は浅く速く上下している。雪の中を走り続けた裸足には、細かな裂傷が無数に刻まれていた。 リュシエナは橇から薬草箱を下ろし、少年のそばへ膝をついた。「名前を教えてくれる?」「……ニル」 掠れた声が、風に消えかける。「ニル、手を見せてください。痛いところへ触れる前に言います」 少年はカルネアの胸元へ顔を寄せたまま、指だけを差し出した。爪の間まで入り込んでいた黒い氷は、薬草を温めた布で包むと少しずつ水へ戻った。 黒い色は血でも毒でもない。森の煤が雪と混じったものだった。「村で何があった」 カルネアが声を落として尋ねる。「夜から、風が……道がなくなった。倉が潰れて、屋根が落ちた」 ニルは何度も息を継いだ。「みんな熱い。吐いて、指が痛いって。母さんが、黒狼になって助けを呼べって……でも途中で、足が」「エルダ村か」 少年が頷く。 エルダは、リュシエナが帳簿で不足を見つけた谷沿いの村だった。黒い針葉樹に囲まれ、冬には北風が谷底へ溜まる。王都からの道は一本しかなく、あの吹雪に塞がれれば孤立する。 カルネアが北の空を睨んだ。「斥候。村までの道を見ろ。崩落があれば戻って知らせろ」 二人の兵が狼へ姿を変える。黒い毛並みが雪を払い、たちまち木立の奥へ消えた。「視察は中止します」 リュシエナは橇へ積んだ薬草箱と保存食を見た。「この物資を救援へ回してください」「お前の権限は配分案の作成までだ」 カルネアの指摘に、リュシエナは銅印を握った。革紐越しに、角ばった形が掌へ触れる。「分かっています。ですから、部隊長であるあなたへ要請します。エルダ村を確認し、緊急配分が必要か判断してください」 カルネアの赤褐色の瞳が細くなる。 一瞬の沈黙のあと、彼女は頷いた。「要請を受ける。視察隊は救援隊へ変更。王都へ伝令を出せ。追加の食糧と治療師を求める」 命令が飛ぶと、兵たちが素早く動いた。 ニルには温めた蜂蜜水を少しずつ飲ませ、橇の中央へ寝かせる。カルネアが自分の外套を掛けたまま立ち上がったため、肩へ容赦なく雪が積もった。「寒くありませんか」「この程度で凍えるなら、北部隊の指揮は執れん」 短く答え、カルネ
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