บททั้งหมดของ 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ: บทที่ 51 - บทที่ 60

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第48話 王の隣へ戻る足

弦が弾けるより先に、リュシエナの胸の奥で銀色の狼が身を起こした。門塔の上、雪を被った胸壁の隙間から、ごく小さな金属の匂いが落ちてくる。これまでなら風と石の冷気へ紛れていたはずのものが、今は妙に鮮明だった。矢羽根が空気を裂く音も、ヴァルゼインの警告よりほんの僅かに早く耳へ届いた。リュシエナは考えるより先に身体を捻り、母の外套を大きく翻して横へ踏み込んだ。銀の矢が胸元を掠め、背後の門柱へ突き刺さった。硬い石へ矢尻が食い込む乾いた音が響き、遅れて外套の肩口へ細い裂け目が走る。皮膚までは届いていない。それでも銀の匂いに胸の内側が一瞬灼けるように疼き、銀狼が低い唸りを漏らした。「リュシエナ!」ヴァルゼインが一歩で距離を詰めた。腕を伸ばしかけたものの、彼女が自分の足で立っていることを確かめると、触れる寸前で止める。その間にも暗い金色の瞳は門塔へ向けられ、黒狼の獣魂が膨れ上がる気配が冷たい夜気を押しのけた。「怪我は」「ありません。肩を掠めただけです」リュシエナは息を整えながら門塔を見上げた。胸壁の陰から、一人の警備兵が弓を投げ捨てるのが見える。男は背を向け、塔内へ続く階段へ駆け込んだ。「上だ!」カルネアの声が門内から飛ぶ。待機していた兵士たちが一斉に塔へ向かい、女戦士自身も剣を抜いて石段へ消えた。セイグは反対側へ回り、逃走経路を塞ぐよう数人へ指示を出す。その直後だった。城門の外から、馬の嘶きと怒声が重なって聞こえた。リュシエナが振り向く。先ほどまで旅立ちのため静かに待機していた街道の向こう、黒い森との境界から複数の人影が現れていた。一人や二人ではない。雪を蹴り上げながら走る者、馬に乗る者、短槍を抱えた者。黒曜狼国の兵装に似せた者もいるが、胸元の留め具や外套の縫い方がわずかに違う。「襲撃!」門兵が叫ぶ。開かれた東門へ、武装した集団が一直線に押し寄せてくる。リュシエナの背中へ冷たいものが走った。東門は今夜だけ、彼女が自由に出ていくため開かれている。通常なら閉門している時刻。門内の警備配置も、平時とは異なる。誰かは知っていた。彼女が今夜ここへ来ることも。門が開くことも。「門を閉めろ!」一人の兵が命じる。「待て!」セイグの声がそれを遮った。門外には、リュシエナのために用意された護衛がいる。馬車の御者も、偶然街道を通っていた商人たちもい
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第49話 番ではなく、同盟者として

番ではなく、同盟者として東門襲撃の翌朝、黒曜王宮には昨夜の戦いの痕跡がまだ残っていた。門柱へ突き刺さった銀矢は調査のため抜かれず、雪の上には踏み荒らされた足跡と、血を洗い流した水が薄く凍りついている。夜明け前まで続いた取り調べで、捕らえられた反乱派のうち三人が口を開き、月神殿から《眠月香》と銀粉、活動資金の一部を受け取っていたことが確認された。彼らが信奉していたのは処刑されたグレイヴァルと、その血を継ぐとされるレグナードだったが、肝心の本人へ直接会ったと証言する者は一人もいない。命令は仲介者を何人も経由し、時には死者の名義で届き、金を渡す者と武器を運ぶ者さえ互いの顔を知らなかった。リュシエナは緊急評議会へ向かう前、自分の執務室で三枚の書類を机に並べていた。中立領への保護移送証、どの国へでも向かえる自由通行証、そして黒曜王宮で官吏として暮らすための正式な居住許可証である。机には銀針が残した小さな穴があり、その横に置かれた三枚の紙を見ていると、この数日の出来事が一度に胸へ戻ってきた。ここから出ていけと脅されたことも、去る自由を本当に与えられたことも、自分の足で東門を越え、もう一度自分の意思で戻ったことも、すべて同じ机の周囲へ積み重なっている。リュシエナは母の灰色の外套の胸元へ黒鉄の徽章を留め、三枚すべてを持って立ち上がった。評議室には、すでに主要な評議官と北部領主たちが集まっていた。最奥の玉座にはヴァルゼインが座り、その右にはセイグ、左にはエルグラドがいる。カルネアは壁際に立ち、昨夜の戦いで負傷した肩へ薄い包帯を巻いていたが、本人は傷など存在しないような顔をしていた。リュシエナが入ると会話が途切れ、幾つもの視線が胸元の監査官徽章と、手にしている書類へ落ちる。以前なら、その沈黙の中から自分を拒む表情ばかり探していたが、今は誰が何を考えているかを急いで決めつけず、自分の席まで歩くことができた。「昨夜捕らえた者の供述をまとめた」セイグが先に報告を始めた。月神殿から渡された金貨の一部には、銀嶺の神殿領でしか流通しない刻印があり、《眠月香》を包んでいた紙にも神殿倉庫の番号が残されていた。だが、反乱派と月神殿が完全に同じ目的を持っているわけではなく、グレイヴァル派は黒狼の純血支配を、月神殿はリュシエナの獣魂とヴァルゼインの結びつきの断絶を求めている。それぞれが相手を利用
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第50話 私が残る城

曜王宮での正式な居住登録は、東門襲撃から三日後の朝に行われた。夜のうちに降った雪は薄く、窓の外では朝日を受けた屋根の縁から雫が落ちている。王宮東棟の登録室は華やかな場所ではなく、壁一面に革張りの台帳が並び、古い紙と乾いた墨の匂いが静かに漂っていた。リュシエナは登録官の前に置かれた一冊の大きな帳簿を見つめながら、胸元に留めた黒鉄の月形徽章へ無意識に指を触れた。登録簿には、黒曜狼国で長期居住する者について細かな項目が設けられていた。出生地、所属する群れ、血統、家名、現在の職務、王国民との婚姻関係、そして運命の番の有無まで記入するようになっている。リュシエナは最初の欄へ銀嶺狼群と記し、血統についても知っている範囲だけを簡潔に書いたが、家名の欄へ来たところで筆を止めた。紙の白い余白を見つめていると、追放の夜に父から告げられた言葉と、数日前に届いた「戻れば家族として扱う」という手紙が、まるで同じ声で耳の奥へ蘇った。フェルディス。かつては、それを失うことが自分自身を失うことのように思えていた。生まれた家の名であり、母が嫁いだ先の名であり、幼い自分が何者なのかを他人へ説明するための最初の言葉だったからだ。けれど追放された夜、その名は父の一言で取り上げられ、今度は戻れば返してやるという条件のように差し出されている。リュシエナは筆を持ったまま、静かに息を吐いた。「家名は記さなくても構いませんか」向かいに座る登録官は、四十代ほどの灰狼だった。彼は一瞬だけ戸惑い、規則書へ視線を落とした後、「王国法上、家名を持たない居住者もおりますので、本人が使用しない意思を示すのであれば空欄でも登録できます」と答えた。以前なら、それでも周囲にどう思われるかを考え、父に背いているような罪悪感から書いてしまったかもしれない。しかしリュシエナは何も記さず、その次の職務欄へ筆を移した。《黒曜狼国薬糧監査官 リュシエナ》文字を書き終えた瞬間、胸の奥に静かな重みが落ちた。誰かに与えられた娘としての立場でも、選ばれるのを待つルナ候補でもない。自分が働き、その結果として得た役職と、自分自身の名だけだった。最後に残ったのは、番の欄だった。筆先が止まる。空欄の向こうに、ヴァルゼインの顔が浮かんだ。森で初めて名を尋ねてくれた男。自分の首は自分のものだと告げ、番だからと所有しなかった男。銀の矢を受け、獣
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第51話 銀狼は眠らない

「ただいま戻りました」と告げた翌朝、リュシエナは夜明けの鐘が鳴るよりもずっと早く目を覚ました。何か恐ろしい夢を見たわけではなく、胸を締めつける痛みや月毒の解毒時に経験した発熱もない。それなのに、まだ薄闇の残る寝室で瞼を開いた瞬間、世界だけが一夜のうちに別のものへ変わってしまったように感じられた。目覚めたばかりの頭では理解できないほど多くの音が、四方から一斉に流れ込んできたからだった。最初に意識へ引っかかったのは、廊下を歩く侍女の足音だった。柔らかな室内靴が石床を踏み、十二歩ほど進んだところで一度止まり、盆の上に載せた陶器が小さく触れ合う。次には中庭で雪を払う箒が石畳を擦る音が聞こえ、そのさらに下では厨房の刃物が俎板へ一定の間隔で当たっていた。三階も離れているはずなのに、肉ではなく硬い根菜を刻んでいるのだと分かるほど音が鮮明で、意識を向ければ遠い厩舎で一頭の馬が鼻を鳴らし、蹄で床を二度蹴った響きまで拾えてしまう。「……何、これ……」リュシエナは寝台の上で身を起こし、反射的に両耳を押さえた。しかし音は少しも遠ざからなかった。自分の寝間着が擦れる音すら耳元で布を裂かれたように大きく、寝台の木枠が体重を受けて軋む低い振動まで骨を通して伝わってくる。耳だけで聞いているのではなく、床も壁も空気も、城中で起きていることを身体へ教えようとしているようだった。視界にも異変があった。窓の外はまだ夜明け前で、普段なら暖炉の残り火を頼りにしなければ家具の形さえ曖昧な時間なのに、椅子へ掛けてある母の灰色の外套の縫い目まで見える。床板についた細い傷、枕元の薬瓶に浮かぶ気泡、昨夜消した蝋燭の芯に残る灰まで、見ようと意識するより先に輪郭を持って迫ってきた。光が強くなったのではなく、自分の目が暗闇を拒まなくなっているのだと理解した時、リュシエナの背筋へ小さな震えが走った。けれど、最も酷かったのは匂いだった。枕へ移った黒霜花の残り香、洗った寝具に使われた石鹸草、冷えた薪、蝋燭に混ぜられた獣脂、窓枠を固定する鉄釘、廊下の侍女が髪につけている香油、それから扉の外に立つ衛兵の革鎧と体温まで、一度の呼吸で全部が押し寄せてくる。人と狼人の匂いの違いまで、今まで意識したことがなかったのに分かってしまい、息を吸えば吸うほど世界が自分の内側へ入り込んでくるようで、リュシエナは浅い呼吸を繰り返した。「待っ
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第52話 あなたを欲しがる狼

評議会が始まってから四半刻も経たないうちに、リュシエナは自分が何一つまともに聞けていないことへ気づいた。長卓の中央ではエルグラドが王宮物資規則の改訂案を説明している。燃料庫の出納を月ごとではなく十日ごとに照合すること、薬庫の夜間開封には二名以上の立ち会いを必要とすること、死亡者名義の身分証を再確認すること。そのどれも本来なら薬糧監査官として聞き逃せない内容だった。ところが紙へ視線を落としているのに、意識は別の場所ばかりを追っていた。紙が擦れる。一枚、めくられる。ヴァルゼインが報告書の頁を変えた。視界へ入れていないのに分かる。右手の親指が紙の端へ触れ、残る四本の指が卓上を軽く押さえたことまで、見ていたかのように浮かんだ。続いて低い声が聞こえる。セイグへ何かを尋ねているだけなのに、他の評議官の声より輪郭が鮮明で、まるで耳元で囁かれているように響いた。リュシエナは帳簿へ視線を固定した。見るな。そう自分へ言い聞かせる。しかし、見なければ余計に分かる。ヴァルゼインが呼吸をする。衣服が僅かに擦れる。傷の残る脇腹を庇ったのか、椅子へ座り直した。そのたび胸の奥の銀色の狼が耳を立てる。――いる。分かっている。同じ部屋にいるのだから、分かっていて当然だ。それなのに銀狼は、王が一度瞬きをするほどの些細な変化まで確かめようとするように、彼の気配へ意識を張りつけていた。「監査官」エルグラドの声が飛んだ。リュシエナは反射的に顔を上げる。「はい」「聞いていたか」胸が跳ねる。長卓の何人かがこちらを見ていた。「申し訳ありません。最後の部分を、もう一度お願いします」以前なら、失敗を隠すため分かったふりをしたかもしれない。けれど今日は無理だった。内容を聞いていないまま賛同する方が危険だと、自分へ言い聞かせる。エルグラドは眉を寄せたものの、責めずに紙へ視線を戻した。「使用人棟の燃料受領を、棟責任者一人ではなく実際の利用者二名にも確認させる案だ。お前が以前出した意見を組み込んだ」「賛成です。ただし、文字を書けない使用人もいますから、印か指紋で確認できる形にした方がいいと思います」「分かった。追記する」話はそれで終わった。リュシエナは息を吐き、もう一度帳簿を見る。今度こそ集中しなければならない。そう思った瞬間。ヴァルゼインが椅子から立っ
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第53話 番から逃げる権利

ヴァルゼインから居室の移動を提案されたのは、二人が共鳴期のあいだ距離を置くと決めた翌朝だった。リュシエナの執務室には変化がない。銀針の傷が残る机も、黒鉄の徽章も、新しく作り直された監査印もそのままだった。変えるのは仕事ではなく、生活する場所だけだという。現在の居室は王の私室と同じ中央棟にあり、階こそ違うものの、狼人の嗅覚なら互いの気配を拾えるほど近い。それならば、とヴァルゼインは王宮の最東端にある客室区画を候補として示した。「監視を増やすということですか」リュシエナが尋ねると、彼は首を横へ振った。「逆だ」卓上には王宮の簡略図が広げられている。ヴァルゼインの指が中央棟から東棟へゆっくり移った。石造りの回廊を二本挟み、中庭と書庫まで間にある。日常的に顔を合わせる必要がなければ、半日姿を見ないことも珍しくない距離だった。「俺の匂いが届きにくい場所へ移る」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で銀狼が激しく身を起こした。嫌だ。まだ声として明瞭ではない。それでも、拒絶だけははっきり伝わる。リュシエナは胸元へ手を置いた。「そこまでする必要がありますか」質問した自分自身が、一番戸惑っていた。昨日は距離を置きたいと告げた。それなのに、本当に離れる方法を用意されると胸が苦しくなる。ヴァルゼインの気配が届かない場所を想像するだけで、銀狼が落ち着きを失い、身体の奥から彼のところへ戻れと押してくる。ヴァルゼインはその反応を察したようだったが、近づかなかった。「必要があるかどうかを決めるのも、お前だ」「私が?」「ああ」彼は図面の横へ三枚の紙を置いた。一枚目には、現在の生活をそのまま続ける案。居室も食事も評議会も変えず、ただ本人の許可なく接触しない。二枚目は一部だけ距離を取る案だった。居室を東棟へ移すが、食事や評議会では同席する。必要な仕事では直接話し、それ以外では会わない。最後の紙には、生活圏をほぼ完全に分ける案が書かれていた。居室は東棟。食事は別。訓練時間も別。評議会は必要な議題がある時だけ同席する。報告は原則として書面かセイグを通し、私的な訪問もしない。偶然会った場合でも、リュシエナが望まなければ距離を詰めない。「こんなものまで作ったのですか」「必要だと思った」「陛下ご自身で?」「エルグラドに規則として問題がないか確認させただけだ」リュ
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第54話 狼になれないのではなく

東棟へ居室を移して三日目の朝、リュシエナは黒曜城の北側にある訓練庭へ立っていた。夜のうちに降った雪は端へ寄せられ、黒い石を敷き詰めた広場だけが露出している。空気は鋭く冷え、息を吐くたび白く曇ったが、月毒の解毒が進んでから体温そのものが以前より高くなったのか、寒さは思ったほど苦にならなかった。庭の中央にはカルネアが腕を組んで立ち、その少し離れた場所ではネルーヴァが薬箱と椅子を用意している。ヴァルゼインの姿はなく、意識を向ければ西棟の奥にかすかな気配を感じられるものの、リュシエナはそれ以上探さないよう呼吸を整えた。「先に言っておく」カルネアが剣帯を外し、壁際へ置いた。「今日は戦わない。走らない。狼になろうともしない」リュシエナは思わず聞き返した。「狼にならないのですか」「そうだ。まず狼になろうとするな」意外な指示だった。獣魂を持つ狼人なら、訓練とは完全な狼へ変身し、その状態を長く維持することから始めるものだと銀嶺では教えられていた。十二歳を過ぎても変身できない子どもは遅れているとされ、十八歳を越えれば獣魂そのものが存在しないと扱われる。リュシエナも幼い頃、他の子どもたちが次々と狼へ姿を変える訓練場の端で、一人だけ人の姿のまま立たされていた記憶があった。カルネアは彼女の表情を見て、鼻から息を吐く。「いきなり全部変えようとするから失敗する。今のお前は、長い間まったく使っていなかった筋肉を動かそうとしているのと同じだ」「でも、東門では両腕が変わりました」「危機に反応して獣魂が飛び出しただけだ。自分で出したわけじゃない」その違いを言われ、リュシエナは両手を見た。銀の網へ絡め取られた時も、旧離宮でダルグの槍を弾いた時も、獣魂は自分を守るため勝手に現れた。確かに、自分から「腕を狼へ変えよう」と考えて成功したことは一度もない。「では、何から?」カルネアが自分の頭を指差した。「耳だけ」リュシエナは瞬きをした。「耳?」「狼の耳だけ出せ。人の耳はそのままでも構わない。最初から綺麗にやろうとするな」ネルーヴァが横から口を挟む。「痛み、眩暈、吐き気、胸の圧迫感があったらすぐ言うこと。黙って続けたら今日の訓練はその場で終了よ」「分かりました」「その返事を信用したいところね」念を押され、リュシエナは苦笑した。広場の中央へ立ち、目を閉じる。以前なら「
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第55話 黒狼王は番を持たない

王宮図書庫の最奥には、昼でも夜のような薄暗さが残っていた。高い窓には雪明かりが差しているものの、何代にもわたって積み上げられた書架が光を遮り、通路へ届く頃には青白い帯へ変わっている。革張りの古書、乾いた紙、保存のために焚かれた防虫草の匂いが重なり、今のリュシエナには一冊ごとの革や墨の違いまで分かりそうだった。共鳴期について調べたいと図書官へ申し出たのは、獣魂訓練を始めてから数日後のことだった。ネルーヴァから最低限の説明は受けている。それでも、番同士がどの程度まで互いを感じるようになるのか、距離を置けば共鳴が弱まるのか、過去に似た事例があったのかを、自分でも確かめておきたかった。何かを知らないまま、月神殿の説明だけを信じることにはもう戻りたくなかった。図書官は最初、医学書と獣魂研究の記録を何冊か出した。しかし、そこに書かれている内容は簡素だった。運命の番。獣魂同士の共鳴。互いの匂いへの過敏な反応。危機の察知。長期間引き離された場合の衰弱。どれも伝承と観察記録が混ざっており、明確な基準はほとんどない。リュシエナは頁をめくりながら、眉を寄せた。「黒狼王家の記録にも、番について書かれたものがありますか」図書官の指が止まった。白髪の老人だった。長くこの図書庫を管理しているらしく、古文書の位置をほとんど記憶している。「ございます」「読めますか」老人は少し迷った後、上段の鍵付き棚を見た。「王族史の公開部分であれば」梯子を使い、厚い一冊を取り出す。表紙には黒狼と欠けた月の紋章が焼きつけられていた。歴代黒狼王の即位、婚姻、子ども、戦争、領土の変遷が年代順に記されている。リュシエナは窓際の閲覧台へ運び、一代ずつ読み進めた。古い時代の王たちは、現在よりも獣魂の血統を強く重んじていたらしい。第五代黒狼王は、他群れの赤狼を運命の番として迎えたことで長老たちと対立した。第八代王は番を持たず、政治的婚姻だけを結んでいる。第十一代には、運命の番を失った王が十年以上再婚せず、弟へ王位を譲った記録まであった。そこには、美しい伝説だけではない。番を愛した者。憎み合った者。運命の相手であっても離別した者。「番だから必ず一緒にいるわけではない……」小さく呟く。銀嶺で教えられていたものとは違う。月神に選ばれた唯一の相手なら、従い、結ばれ、生
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第56話 檻の中の王妃

ヴァルゼインは、しばらく窓の外を見ていた。東棟の客室には、雪の夜特有の静けさが満ちている。窓硝子の向こうでは黒き森の輪郭が闇へ溶け、細かな雪だけが灯りを受けて白く浮かんでいた。リュシエナとヴァルゼインの間には、接触制限を決めた時と同じだけの距離がある。彼は入口近くの椅子から一歩も動かず、リュシエナも窓側の椅子へ座ったまま、続きを求める言葉を口にしなかった。話すかどうかを決めるのは彼だ。自分がそうしてもらったように。やがてヴァルゼインが低く息を吐いた。「母は、黒曜狼国の貴族ではなかった」声は普段と変わらない。淡々としている。けれどリュシエナには、彼の呼吸がわずかに深くなったことも、膝の上で組まれた指へ力が入ったことも分かった。共鳴期に入ってから、彼の些細な変化を拾いすぎる自分を恐れていたが、今はそれを勝手に意味へ変えないよう意識する。「南方の小さな狼群の生まれだった。名はエレシア・セレン。王族でも、高位の家でもない」リュシエナは初めて聞く名を心の中で繰り返した。エレシア。昨夜、黒い封蝋の手紙へ書かれていた名前。「父が南方遠征へ出た時に出会った」「先王陛下が?」「ああ。当時、父はまだ王太子だった」ヴァルゼインは視線を窓へ戻す。「戦ではなく、国境周辺の狼群をまとめるための遠征だった。そこで母と会い、互いが番だと分かったらしい」らしい。その言い方に、リュシエナは何か引っかかった。「ご本人から聞かれたのではないのですか」「父からはな」短い返答だった。「母は、その頃の話をほとんどしなかった」部屋の中で暖炉の薪が小さく爆ぜた。リュシエナは両手を膝へ置いたまま、黙って待つ。「記録には、父が母を熱烈に愛したと書かれている」ヴァルゼインの口元がわずかに硬くなる。「何度も南方へ使者を送り、王都へ迎えるために母の群れへ莫大な贈り物をした。母が王宮へ入る時には、城門から王宮まで黒狼兵が並んだ。先王が身分の低い番を正式な王妃へ迎えた、美しい婚姻だったと」リュシエナの胸の奥で、銀狼が静かに耳を立てる。「でも、違ったのですか」「全部が嘘だったとは思わない」ヴァルゼインは否定しなかった。「父は母を愛していた」言葉に迷いがない。「それだけは事実だ」リュシエナは少し意外に感じた。これから語るものが苦しい過去だと分かっているのに、
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第57話 それでも扉を閉めなかった

ヴァルゼインが母エレシアについて語った夜、リュシエナはなかなか眠れなかった。東棟の窓へ当たる雪の音を聞きながら寝台へ横になっても、頭の中には同じ言葉が繰り返し戻ってくる。愛していたから守った。守りたかったから外へ出さなかった。王妃を危険から遠ざけるという名目は正しく見え、それを望んだのが王の番であるなら、周囲の誰も強く異を唱えられなかった。けれど、その結果としてエレシアは一人で雪を踏む自由さえ失った。胸の奥では銀狼が落ち着かず身を動かしていた。ヴァルゼインの匂いは東棟までほとんど届かない。それでも意識を深く向ければ、遠い西棟に黒狼の気配があることだけは分かる。銀狼は何度もそちらを向き、そのたびリュシエナは自分の呼吸へ意識を戻した。会いたいという感情を否定する必要はないが、それに従わなければ不安でいられない関係にはなりたくなかった。そして、危ういのはヴァルゼインだけではない。彼は自分の中に父と同じ欲求があると認めた。しかし、リュシエナの中にも同じ種類のものがある。銀狼は彼を求め、遠ざかれば不満を示し、近づけば身体の奥から喜ぶ。それをすべて黒狼王の所有欲だけの問題にしてしまえば、自分側の欲求から目を逸らすことになる。夜半を過ぎた頃、リュシエナは寝台の中で小さく呟いた。「私も、自分を全部信用しているわけではないんだね」銀狼は返事をしなかった。ただ、暗闇の中で月灰色の瞳だけがこちらを見ているように感じた。翌朝、リュシエナはヴァルゼインへ面会を申し入れた。接触制限を決めた以上、必要のない私的な訪問はしない約束だったが、制限そのものについて話す必要があると書面で伝えると、王の執務室ではなく、中央棟と東棟の間にある小会議室が指定された。互いの生活圏のどちらにも属さない場所を選んだのだと気づき、それだけでも彼らしいと思った。ヴァルゼインは先に来ていた。長机を挟んだ向こう側へ座り、リュシエナが入っても立ち上がらない。近づかないという約束を守るためだろう。黒い上衣の袖口から見える右手には傷がなく、昨夜語った過去を引きずっている様子も外からは分からない。それでも共鳴を意識すれば、黒狼の気配は普段より静かだった。「話とは」ヴァルゼインが問う。リュシエナは向かいの椅子へ座った。「接触制限を、続けたいと思っています」暗い金色の瞳がわずかに動く。「分かった」それ
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