All Chapters of 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ: Chapter 61 - Chapter 70

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第58話 母が逃げた夜

ヴァルゼインの右手を包んでいた白い布が外された翌日の夕刻、リュシエナは再び東棟の居室で彼と向かい合っていた。扉は開けたままだった。共鳴期の接触制限は続いており、ヴァルゼインが部屋へ入る前には今日も許可を求めた。彼は入口に近い椅子へ座り、リュシエナは窓辺から少し離れた場所を選んでいる。昨夜まで降っていた雪は止んでいたが、硝子の外には白く覆われた庭が広がり、木々の枝から時折雪の塊が落ちる音が聞こえていた。前に話した時、ヴァルゼインは母エレシアが王宮という檻の中で生きていたところまで語った。父ガルディオンは妻を愛していた。だから失うことを恐れた。だから守ろうとした。その結果、エレシアは自分で行き先を決めることさえできなくなった。リュシエナは、その続きがあることを感じていた。ただし、自分から尋ねるつもりはなかった。ヴァルゼインが今日ここへ来たのは、続きを話すと自ら決めたからだ。「母は一度だけ」彼が口を開いた。声は静かだった。「王宮から逃げようとした」リュシエナの指が膝の上で止まった。「一度だけ、ですか」「ああ」ヴァルゼインは窓の外へ目を向けた。「十八年前。グレイヴァルが反乱を起こす直前だ」幼いヴァルゼインが十歳の頃。レグナードの運命が消えたとされ、王家が大きく揺れた年でもある。「母は何かに気づいていた」「反乱に?」「そこまでは分からない」ヴァルゼインは首を横へ振った。「だが、俺が狙われていることだけは確信していたらしい」リュシエナは黙って聞いた。「当時、俺の食事へ小さな異物が混じったことがあった。毒ではない。銀を削った粉だった」胸の奥の銀狼が低く身を動かす。狼人の子どもへ銀。量が少なくても危険だ。「料理人は処罰された。だが母は納得しなかった。料理人へ銀を渡した者が別にいると訴えた」「調べなかったのですか」「調べた」ヴァルゼインの瞳が僅かに暗くなる。「だが証拠は見つからなかった。父も警備を増やした」「それで、終わった?」「表向きは」リュシエナは息を吐いた。「母は終わったと思わなかった」ヴァルゼインの声が少し低くなる。「夜中に俺の部屋へ来ることが増えた。護衛へ任せず、自分で寝台の下や窓の鍵まで確認していた」幼い王子の寝顔を確かめる母。その姿が容易に想像できた。「ある日、俺の侍従が変わった」
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第59話 完全な狼になる日

ネルーヴァから「封印はほとんど解けている」と告げられた時、リュシエナは喜びより先に、自分の喉がひどく乾くのを感じた。治療室の窓には朝の雪明かりが滲み、卓上にはこれまでの検査記録と、月毒の残留量を記した紙が何枚も並べられている。首周りに蓄積していた銀の反応は以前の一割にも満たず、獣魂の力が胸から四肢へ流れる経路も、ほぼ正常な状態まで戻っているらしい。長い間「月なし」と呼ばれる理由にされてきたものが、もう身体の中にほとんど残っていないという事実は、本来なら待ち望んでいた知らせのはずだった。「次の段階へ進めるわ」ネルーヴァが椅子へ腰を下ろし、記録を閉じた。「完全変身ですか」リュシエナが尋ねると、治療師は迷わず頷いた。「身体だけを見ればね。ただし、できる状態になったことと、やらなければいけないことは別よ。今日でも、一月後でも、やらなくてもいい」その言葉に、胸の奥で銀狼が顔を上げた。以前なら、できるならすぐにやらなければならないと思っただろう。周囲の狼人が十代で済ませることを二十歳になってもできていないのだから、一日でも早く追いつかなければならないと自分を追い立てたはずだ。けれど、カルネアから「お前は遅れていたのではなく、訓練されていなかった」と言われてから、変身は誰かへ能力を証明するための試験ではなくなっていた。「怖いです」リュシエナは正直に言った。ネルーヴァの視線が少し柔らかくなる。「何が一番?」「自分が残るかどうかです」部分変身でさえ、獣魂が表へ出るほど感情が強くなる。銀の網を引き裂いた時には怒りが全身を満たし、ヴァルゼインの匂いを感じれば、自分で止めるより先に胸の奥の狼がそちらへ行こうとした。完全な銀狼になれば、人の身体という境界そのものが消える。四本の脚も、牙も、嗅覚も、すべてが獣魂と一つになった時、リュシエナという意識がどこまで残るのか、誰にも保証できなかった。「特に、ヴァルゼインが近くにいたら」名前を口にしただけで、銀狼が僅かに身じろぎする。「走っていくかもしれません」「可能性はある」ネルーヴァは否定しなかった。「だから訓練場所は選びなさい。誰を近くへ置くかも、あなたが決めていい」リュシエナはその日のうちに答えを出した。完全変身の訓練は、王都北側の城壁から半刻ほど離れた雪原で行う。黒き森からも王宮からも距離があり、周囲に
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第60話 追わない黒狼

雪原を蹴るたび、銀狼となったリュシエナの身体はさらに速くなった。四本の脚が深い雪へ沈むより先に次の一歩が前へ出て、白銀の毛を冬の風が後ろへ流していく。王都北門から鳴り響いた警笛も、遠くで自分を呼ぶカルネアの声も聞こえていたが、意味を理解することと従えることは別だった。鼻腔いっぱいに広がる無数の匂いの中で、黒狼の気配だけがあまりにも強く、銀狼の意識はそこへ引かれている。ヴァルゼイン。城の中にいたはずの彼が、自分の変身を感じ取ったことまで、理由もなく分かる気がした。共鳴が胸の奥ではなく全身へ広がり、心臓が打つたび、黒狼の存在へ向かって見えない糸を引かれている。リュシエナは止まらなければと思ったが、同時に会いたいという歓喜がそれを上回り、どちらが自分の感情なのか考える時間さえ四本の脚は与えてくれなかった。王都の城壁が近づく。北門の前では警備兵たちが混乱していた。巨大な銀狼が一直線に王都へ突進してくるのだから、事情を知らない者なら弓を構えても不思議ではない。それでもリュシエナの首には何の印もなく、彼女が止まらないまま射程へ入れば、銀狼を敵と誤認する兵が現れる可能性もあった。ところが。門兵たちが一斉に弓を下ろした。城門の内側から、さらに重い獣の気配が現れたからだった。黒。白い雪を割るように、巨大な黒狼が門をくぐる。通常の狼人とは比べものにならない巨躯。夜そのものを固めたような毛並みと、暗い金色の瞳。胸元には以前受けた傷の名残がわずかに残っているものの、その姿を見間違えるはずがなかった。ヴァルゼイン。銀狼の身体が歓喜に震えた。足がさらに速くなる。自分でも驚くほどの勢いで雪を蹴り、黒狼へ向かって駆ける。胸の奥で喜んでいた銀狼と、今の身体はほとんど分かれていない。ようやく会えた。近くへ行きたい。匂いを確かめたい。身体を寄せたい。そんな欲求が言葉になるより早く全身を動かし、黒狼までの距離が一気に縮まった。三十歩。二十歩。十歩。もうすぐ届く。銀狼は前脚へ力を込めた。そのまま跳びつこうとした。黒狼が、一歩後ろへ下がった。リュシエナの身体が僅かに乱れる。予想していなかった。銀狼も戸惑った。黒狼は逃げない。背を向けもしない。ただ、一歩だけ距離を増やした。リュシエナは速度を落とせないまま、さらに前へ出た。黒狼もまた後ろへ下がる。今度
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第61話 狼の姿で泣く

銀狼から人の姿へ戻った瞬間、リュシエナは雪の上へ膝をついた。変身が解ける時の痛みは、思っていたより穏やかだった。四本の脚を支えていた骨格が少しずつ人の形へ戻り、白銀の毛が淡い光となって皮膚へ吸い込まれていく。耳が元の位置へ戻り、爪が短くなり、低かった視界が上がっていく。その一つ一つを確かめる余裕があるほど意識は明瞭だったのに、完全に人へ戻った途端、胸の奥へ押し込めていたものだけが堰を切った。涙が落ちた。最初は、自分でも気づかなかった。雪へ落ちた雫が小さな穴を作り、その上へ次の一滴が重なる。頬が冷たいのは冬の風のせいだと思ったが、目元を拭おうとした指へ次々と濡れた感触が触れ、そこで初めて自分が泣いているのだと分かった。「リュシエナ」少し離れた場所から、ヴァルゼインの声が聞こえる。人の姿へ戻ったらしい。黒狼の巨大な気配は薄くなり、代わりに見慣れた夜色の髪と黒い外套が視界の端へ入った。彼は近づかない。完全変身の直後で、自分の感情と銀狼の欲求をまだ切り分けられない可能性があることを知っているからだろう。少し前まで鼻先を触れ合わせ、肩を寄せて伏せていたにもかかわらず、人へ戻った途端に距離を取り直している。そのことが、ひどく彼らしいと思った。「どこか痛むか」ヴァルゼインが尋ねる。リュシエナは首を横へ振ろうとした。けれど一度動かしただけで、また涙が溢れた。「違い……ます」声まで震えている。自分でも何が悲しいのか分からない。悲しいのだろうか。嬉しい。それは確かだった。怖かった。それも確かだった。悔しい。それもある。どうして今まで、自分はあれほど長い時間、自分の狼がいないと信じ込まされていたのか。どうしてあんなにも大きく、強く、美しい銀狼が自分の中にいたのに、自分自身までその存在を疑ってしまったのか。全部が一度に押し寄せる。カルネアとネルーヴァが近づいてきた。ネルーヴァは診察のためすぐ触れようとはせず、少し距離を残してしゃがむ。「意識は?」「あります」「自分の名前は?」「リュシエナ」「ここは?」「王都北側の……雪原です」「吐き気は?」「ありません」「眩暈」「少しだけ」ネルーヴァは頷いた。「なら急がなくていい。しばらく座ってなさい」カルネアは腕を組んだまま、リュシエナを見下ろした。「初回としては上出
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第62話 運命なら断れるのか

完全変身に成功してから三日目、リュシエナは自分の身体の変化を、喜びより先に警戒するようになっていた。銀狼になれたこと自体は何度思い返しても嬉しく、雪原を四本の脚で駆けた感覚を思い出すだけで胸の奥が温かくなる。けれど、目覚めた銀狼が強くなった分だけ、ヴァルゼインとの共鳴も以前とは比べものにならないほど鮮明になっていた。彼がどこにいるか分かるだけではなく、強い感情や痛みまで、時折自分のものと間違えそうな近さで流れ込んでくる。その日も、リュシエナは東棟の執務室で北部村落から届いた配給記録を確認していた。数字の食い違いへ赤い印を入れている最中、突然、右脇腹の奥がひやりと冷えたように感じ、続いて鈍い痛みが胸へ響いた。自分の身体を確認しても傷はなく、銀狼だけが西棟の方角へ向かって耳を立てている。嫌な予感がして立ち上がった直後、廊下からカルネアの声が聞こえた。「王なら訓練場だ。古傷を少し開いただけだから走るな」扉を開ける前に言われ、リュシエナは動きを止めた。「どうして分かったんですか」「お前が今にも飛び出しそうな顔してたからだ」カルネアは呆れたように腕を組んでいる。ヴァルゼインは訓練中、冬至祭で受けた脇腹の傷を僅かに開いたらしいが、ネルーヴァがすでに診ており、縫い直すほどではないという。それを聞いて安心した瞬間、胸の奥の銀狼まで目に見えて落ち着いた。「……今の痛み、陛下のものだったんですね」「たぶんな」「本人が何も言っていないのに」「完全変身してから、番の共鳴が一段深くなったんだろ」カルネアはそれ以上気にした様子もなく去っていったが、リュシエナはすぐ机へ戻れなかった。以前ならヴァルゼインが遠くにいても居場所が分かる程度だったものが、今は傷の場所まで身体へ伝わる。もしもっと深く結びついたら、どこまで互いの境界が薄くなるのだろう。逆の出来事も起きた。翌日、薬庫の棚を調べていた時に金属金具で人差し指を浅く切っただけなのに、一刻もしないうちにヴァルゼインから短い書面が届いた。《怪我をしたか》と一行だけ書かれており、誰からも報告を受けていないことは後で確認できた。リュシエナが《紙で押さえれば止まる程度です》と返すと、《ならいい》とだけ戻ってきたが、共鳴を通して感じていた黒狼の警戒は、それを読む頃になってようやく薄れた。痛みだけではなかった。ヴァルゼインがレグナー
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第63話 あなたがいない静けさ

《番拒み》の薬が効き始めた翌朝、リュシエナは目を覚ましてからしばらく、自分の身体の中で何が変わったのか分からなかった。東棟の窓から淡い冬の日差しが差し込み、暖炉には昨夜の熾火がわずかに残っている。廊下では早番の侍女が水差しを運び、中庭では雪を払う箒が石畳を擦っていた。音も匂いも完全変身以前より鮮明なままだったが、その中から無意識に探していた一つの気配だけが、どこにも見当たらなかった。ヴァルゼインがどこにいるのか分からない。意識を西棟へ向けても、黒狼の熱は届かない。王の私室にいるのか、すでに執務へ出ているのか、それとも訓練庭にいるのかさえ判断できなかった。以前なら意識するより先に分かっていたことが、今は王宮にいる何百人ものうちの一人として遠くへ沈んでいる。胸の奥では銀狼が落ち着きを失っていた。完全に眠っているわけではない。自分自身の獣魂として存在していることは分かるが、黒狼へ伸びていた見えない糸だけが切れたようだった。何度か胸の内側を歩き回った後、銀狼はやがて伏せたものの、耳だけはどこかを探すように立っている。「七日だけだから」リュシエナは寝台の上で胸へ手を当てた。銀狼へ言ったのか、自分へ言ったのか分からない。それでも、不思議な解放感があった。ヴァルゼインの匂いへ身体が勝手に反応しない。遠くで何かが起きても胸がざわつかない。会いたいのか、獣魂に引かれているだけなのかと、一つの感情が生まれるたび立ち止まって考えなくてもいい。自由。そう思った。薬を飲んだ初日は、本当に何ともなかった。午前中は北部村落の備蓄計画を確認し、昼にはエルグラドと新しい燃料支給制度について話し合った。午後はカルネアとの獣魂訓練へ出て、自分の意思で耳と爪だけを出し、元へ戻す練習を繰り返した。銀狼は黒狼を探して何度か不満を示したが、以前のように身体ごと引っ張られる感覚はない。ヴァルゼインのことを考えなかったわけではなかった。ただ、考えたとしても胸の奥から強い反応は返らない。それが新鮮だった。夕方、自室へ戻りながらリュシエナは、自分が一日をほとんど問題なく過ごせたことへ小さく安堵した。もしかすると、これまで自分がヴァルゼインへ感じていた多くのものは本当に共鳴によるものだったのかもしれない。そう考えると少し胸は痛んだが、その痛みさえ獣魂から流れ込んだものではなく、自分自身の
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第64話 黒狼王が怖かった少年

《番拒み》の薬が効いている六日目の午後、リュシエナはヴァルゼインへ面会を申し入れた。共鳴が薄れている今だからこそ、聞いてみたいことがあった。東棟へ移ってから二人が会う回数は必要最低限に抑えられているため、場所には互いの私室ではなく、王宮北側の小さな応接室を選んだ。窓からは雪を被った中庭が見え、石造りの壁際では小さな暖炉が燃えている。以前なら部屋へ入った瞬間に黒狼の気配を拾っていたが、今のリュシエナには、向かいの椅子へ座るヴァルゼインはただ一人の男として見えていた。それでも、会えて嬉しいと思う。その感情を、もう銀狼のせいにはしなかった。「聞きたいことがあると言っていたな」ヴァルゼインが言う。「はい」リュシエナは膝の上で指を組んだ。「あなたが王になった頃のことです」暗い金色の瞳が僅かに細くなる。「母の話の続きか」「少し違います」エレシアが亡くなった夜のことは聞いた。父ガルディオンが愛ゆえに妻を縛り、番命によって王宮へ戻したことも。その結果、幼いヴァルゼインと母が反乱の炎へ巻き込まれたことも。けれど、十歳で母を失った少年が、その後どのように今の黒狼王になったのかは知らない。「話したくなければ、断ってください」最初にそう付け加える。ヴァルゼインはしばらく窓の外を見た後、視線を戻した。「何を知りたい」「十八歳で王位を継いだと聞きました」「ああ」「それまでの八年間と、その後を」彼の指が肘掛けへ置かれる。「長いぞ」「今日は時間があります」「監査官が暇なのか」「仕事は終わらせました」「珍しい」「失礼ですね」思わず返すと、ヴァルゼインの口元がほんの少し動いた。その小さな変化を見て、リュシエナの胸が温かくなる。共鳴はない。それでも嬉しい。やがてヴァルゼインは息を吐いた。「母が死んだ後、俺はしばらく王太子として扱われなかった」「なぜですか」「獣魂が安定しなかったからだ」リュシエナの眉が寄る。ヴァルゼインは十歳のあの夜、炎の中で初めて完全な黒狼へ変身したという。それまでにも部分的な獣化はできていたが、巨躯の黒狼へ完全に姿を変えたのは、母の身体の下から這い出した直後だった。「敵兵を見た」声は淡々としている。「母の血が自分の手についていた。頭の中には、何もなかった」リュシエナは黙って聞いた。「気づいた時には、人の姿
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第65話 レグナードからの招待状

《番拒み》の薬が効いている六日目の朝、黒曜王宮へ一通の書状が届いた。いつもの密書ではなかった。門衛から宮務局へ、宮務局からセイグへと正式な手順で渡された封筒には、差出人を隠そうとする様子がない。厚い黒紙の中央へ、現在の王家が使うものとはわずかに意匠の異なる狼の紋章が押され、その頭上には逆向きの月が浮かんでいた。十八年前に処刑されたグレイヴァルが用いていた、旧王家印だった。リュシエナが評議室へ入った時には、すでに封は開かれていた。長卓の中央へ書状が置かれ、ヴァルゼイン、セイグ、カルネア、エルグラドがそれを囲んでいる。番拒みの薬によって黒狼の存在はほとんど感じられない。それでも、ヴァルゼインの横顔を見た瞬間、彼が普段より強く顎へ力を入れていることは目で分かった。「レグナードからですか」リュシエナが尋ねる。セイグが頷いた。「本人を名乗っている」紙をこちらへ向ける。文字は整っていた。王宮の書記が使う形式に近いが、もっと古い書式だった。《黒曜狼国現王ヴァルゼイン・ノクスハルト殿。王位継承権について話し合うため、明日、日没前に黒森の旧祭壇へ来られたし》その下に条件が続く。同行を許すのは二名のみ。ヴァルゼイン。リュシエナ。それ以外の兵を一定距離以内へ入れれば、会談は行わない。「罠です」セイグは迷いなく言った。「疑う余地がない」カルネアも腕を組む。「王と監査官を二人だけで森へ呼び出す理由なんて、一つしかないだろう」ヴァルゼインは書状から目を離さない。「続きがある」セイグが紙の下部を指す。リュシエナは視線を落とした。《なお、先王妃エレシア・セレンの死について、王宮記録から消された証拠を保持している》胸が僅かに強張る。ヴァルゼインの顔は動かない。さらにその下。リュシエナ自身に向けたような一文があった。《銀狼リュシエナへ。お前の獣魂の封印を命じた者の名も知っている》指先から温度が消えた。誰が。ラヴィナだけではない。月毒には月神殿でしか扱えない鉱石が混じっていた。幼い自分へ何年も薬を飲ませ、月環を使って獣魂そのものを封じた計画には、家族以外の誰かがいる。そしてレグナードは、その名を知っていると言う。「行く必要はありません」ヴァルゼインの声が先に落ちた。リュシエナは顔を上げる。「陛下は?」「俺は行く」「では、
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第66話 もう一人の黒狼

旧祭壇へ降り始めた雪は、三人の間へ薄い膜を作るように積もっていった。崩れた石柱の向こうでは黒き森が静まり返り、遠くで枝から雪が落ちる音だけが聞こえる。レグナードは祭壇の端へ寄りかかったまま、首から下げた幼児用の銀首輪を指先で弄んでいた。ヴァルゼインは剣の柄へ手を置いているが抜かず、リュシエナも小刀を構えたまま距離を保っている。番拒みの薬が効いている今、ヴァルゼインの黒狼が何を感じているのかは分からない。それでも、男の横顔に浮かぶ警戒は目で見れば十分だった。「証明しろ、と言ったな」レグナードが笑みを残したまま外套の胸元を開いた。鎖の下、鎖骨から左胸へかけて、黒い痣のような紋が浮かんでいる。三本の爪を背負った黒狼、その上に欠けた月。王家の紋章とよく似ているが、墨でも焼印でもなく、皮膚の内側から滲み出したような色をしていた。ヴァルゼインの目が細くなる。「黒曜紋か」「さすがに知っているか」リュシエナは二人を見比べた。ヴァルゼインの身体にも同じものがあるのだろうかと一瞬考えたが、尋ねる必要はない。レグナードはその視線に気づいたらしく、紋を隠さず続けた。「黒曜紋は、ノクスハルト王家の直系にだけ現れる。生まれた直後には薄く、最初の完全変身を終えると濃くなる。薬で描けば匂いが変わるし、皮膚を切って似せても獣魂の流れまでは再現できない」「それだけでは足りない」ヴァルゼインの返答は冷静だった。「当然だ」レグナードは外套の内側から細長い革筒を取り出し、雪の上へ投げた。ヴァルゼインはすぐ拾わず、リュシエナも触れない。しばらくしてレグナードが肩を竦める。「毒は塗っていない。そこまで信用がないとは悲しいな」「あると思っていたのか」「ないだろうな」セイグやネルーヴァがいれば、まず薬物を確認したはずだ。今は二人しかいない。リュシエナは手袋をはめたまま細い枝で筒を転がし、封蝋や粉の付着がないことを確かめた後、ヴァルゼインへ視線を送った。「開けますか」「ああ。ただし素手では触るな」「分かっています」革筒の中から出てきたのは、古い出生記録の写しだった。紙は黄ばみ、端には十八年前の王宮書記局の印がある。《レグナード・ノクスハルト。父グレイヴァル・ノクスハルト。母セレナ・ヴァルディア》。出生時刻、立会い治療師、獣魂反応まで細かく記され、その下には当時の王家医師と侍従の
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第67話 銀首輪を作らせた黒狼

黒曜城へ戻った直後、レグナードから渡された命令書は王家文書庫ではなく、まずセイグの管理下にある証拠保管室へ運ばれた。羊皮紙そのもの、墨、押印された凹凸、署名の筆跡、そのすべてを別々に調べるためだった。リュシエナは自分の名が書かれた紙を手放すことへ一瞬だけ躊躇したが、レグナードの持ち物だった以上、偽造の可能性を消さないまま結論を出す方が危険だと理解している。自分の身体へ何年も食い込んでいた銀首輪の起源が書かれているからこそ、感情より先に証拠を確かめなければならなかった。鑑定には王宮書記官、古文書官、封印管理官、それからエルグラド本人まで立ち会った。黒曜王家の印には時代ごとに僅かな違いがあり、王冠の爪数、月の欠け方、狼の尾の角度まで登録されている。現在ヴァルゼインが使用している王印とは形が異なり、グレイヴァル派が使う逆月印とも一致しない。二十年以上前、まだガルディオンが王太子から王へ移った頃に制定され、十数年間だけ使われていた古い王家印だった。「本物です」古文書官の老人が、拡大鏡を置きながら言った。部屋の空気が重く沈む。リュシエナは机の向こうに置かれた羊皮紙を見つめた。書類の末尾には月祠長オルディス・メルカーンの署名がある。そのさらに上、命令を承認する位置へ押されている黒曜王家の印も本物だった。「保管者は」ヴァルゼインが低く問う。封印管理官が一度息を呑んだ。「当時、この級の王印を保管できたのは王のみです」「名を言え」「……先王ガルディオン陛下です」リュシエナの胸が冷たくなる。ヴァルゼインの父。エレシアを愛し、番命によって王宮へ戻し、その後一生それを悔いた男。そして。自分が生まれるより前から。銀狼を封じる命令へ、王家の印を与えていた可能性がある。「私が生まれたのは、その後ですよね」自分でも確認する必要がないことを尋ねた。エルグラドが答える。「ああ」声が重い。「命令書の原案が作られたのは、お前が生まれる約二年前だ」二年前。まだリュシエナという名前すらない。銀嶺のどこかに、将来生まれるかもしれない子ども。ただそれだけの存在へ。月毒。銀首輪。獣魂の封印。それらが準備されていた。「なぜ」声が掠れた。誰も答えない。リュシエナは羊皮紙へ近づいた。首輪の寸法は出生後に追加されたらしく、別の墨で何度も書き換えられてい
last updateLast Updated : 2026-09-06
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