All Chapters of 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

 純生の言う「楽しませる」が何を意味しているのか、星奈には分からなかった。 その言葉を口にした純生から、じっと意味ありげな視線を向けられているうちに、星奈の表情には先ほどまでとは違う恐怖が滲み始める。 襟元を掴んでいた手をそっと離し、今度は身体に掛かっていた布団を慌てて胸元まで引き上げた。純生の視線から少しでも多く身体を隠そうとするように、両腕で布団をきつく抱え込む。 警戒を露わにして身体を守ろうとするその仕草も、純生にはただ滑稽にしか映らなかった。「ははっ。お前、まさか本当に、俺がお前の身体に興味を持ってるとでも思ってんのか? 気持ち悪いんだよ」 以前のわがままな令嬢だった頃の星奈なら、こんな言葉を投げつけられた瞬間、黙って耐えるはずなどなかった。 それなのに今は、まるで自分に身体を狙われているとでも言いたげに、怯えきった態度を見せている。 その姿を目にしているだけで、純生は吐き気がするほど不快になった。 星奈がいつまでこんな芝居を続けるつもりなのか。 どこまで追い詰めれば耐えきれずに化けの皮を剥がすのか。 確かめてやりたいという思いが、胸の奥からじわじわと湧き上がる。 純生はおもむろに手を伸ばし、星奈が胸元へ抱え込んでいた布団を乱暴に奪い取ると、ベッドの脇へ放り投げた。 その勢いのまま大きく一歩踏み込み、両膝をベッドの上につく。 真正面から星奈と向き合い、逃げ道を塞ぐように上半身をわずかに傾ける。片手を彼女のすぐ傍らへつき、その身体へ覆いかぶさりそうなほど距離を詰めた。「……やめて!」 布団を剥ぎ取られた星奈は、弾かれたように全身を縮こまらせた。 大きく見開かれた瞳が、ゆっくりと距離を詰めてくる純生を追っていた。両腕を咄嗟に胸元へ引き寄せ、身体を守るように小さく縮こまる。 頭の中にはまだ霞がかかったような朦朧とした感覚が残っていた。熱のせいで頭痛は途切れることなく続き、思考もひどく鈍っている。 どうして突然こんな状況になったのか。純生が何をしようとしているのか。何一つ整理できないまま、不安だけが膨らんでいく。「何だよ。ちゃんと抵抗しないと、本当に俺に抱かれるかもしれないぞ?」 その言葉に、星奈はびくりと肩を震わせた。逃げようにも逃げ場はない。ただ身体を強張らせ、浅い呼吸を繰り返すばかりだった。 そんな反応が、純生にはま
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第32話

 星奈の切実な懇願に重なるように聞こえたのは、いつからそこにいたのか、開いた扉の向こうに立つ純希の声だった。 純希の顔からは、何の感情も読み取れない。 静かな視線だけが、ベッドの上にいる二人へ注がれている。星奈の姿をほんの数秒、掠めるように見つめ、その目は大切な弟である純生の上で止まった。「よぉ、兄さん。まだ寝てなかったのか?」 まさか、こんな肝心なところで純希が現れるとは思わなかった。 純生はわずかに眉を寄せ、すぐにあることに気づく。純希が扉をノックする音を、自分は一度も聞いていない。 兄はずっと前から扉の外に立ち、中の会話を聞いていたのかもしれない。黙って様子を窺い続け、とうとう見過ごせなくなって声を上げたのだろうか。 廊下から差し込む明かりのせいか、純希の顔色はどこか青白く見えた。 固く結ばれた唇が、わずかに強張っている。一度だけ喉仏がゆっくりと上下した。 純生から向けられる探るような視線を受けても、純希は何も言わない。 重苦しい沈黙が、しばらく二人の間に横たわった。 純希はベッドの上にいる星奈へもう一度だけ目を向け、ようやく口を開いた。「部屋から声が聞こえたから、様子を見に来た。……純生、あとで自分が後悔するようなことはするな」「兄さんは、何のことを言ってるんだ?」「……」「さっき兄さんが言ったんだろ? こいつには、俺の好きなように何をしてもいいって」 純希の反応を窺うように言いながら、純生は片腕を伸ばし、目の前にいる星奈の身体を力任せにベッドから引き起こした。 逃がすつもりなどないと示すように、そのまま自分の腕の中へきつく抱え込む。「……っ!」 星奈の身体は純生の胸元へ強く押しつけられ、腕の中にすっぽりと閉じ込められるように身動きを封じられた。 純生はどちらかといえば愛嬌のある顔立ちをしている。そんな印象とは裏腹に、その体つきは紛れもなく成人男性のものだ。 普段のゆったりとした服装の下には、無駄なく引き締まった硬い体躯が隠れていた。こうして隙間もないほど密着させられて初めて、星奈は二人の間にある力の差を嫌というほど思い知らされる。 まして今の星奈は、高熱のせいでまともに力さえ入らないほど弱りきっていた。 振りほどこうにも腕にはほとんど力が入らず、純生の拘束は少しも緩まない。 強い腕にきつく押さえ込まれている
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第33話

「いや……」 星奈の拒絶する声はあまりにも小さく、消え入りそうなほどか細かった。 彼女を腕の中に抱え込んでいる純生にしか届かないほどの声だったが、当の純生の意識は、部屋の扉の傍らに立つ純希へすべて向けられている。 腕の中で怯えたように身体を震わせている星奈には、ほんのわずかな注意さえ払っていなかった。 先ほど純生が口にした言葉は、純希にとってもよほど衝撃的だったらしい。 自分の耳を疑うように目をわずかに見開いたまま、しばらく言葉を失っていた。 長い沈黙の末、ようやく困惑を滲ませるように眉を寄せる。 その表情には、純生から突然突きつけられたあまりにも荒唐無稽な要求を、いったいどう受け止めればよいのか分からないという戸惑いがありありと浮かんでいた。 どれほど仲のよい兄弟であっても、越えてはならない一線はある。 ましてや、そんな私的なことにまで踏み込むなど、純希には到底受け入れられるものではなかった。 何度考えてみても、純生の要求を了承するという結論には辿り着けない。「……純生、そんなことは……」「ははははっ……兄さん、まさか本気で考えてたのか? そんなこと、人に見せられるわけないだろ。たとえ兄さんが本当にいいって言ったとしても、傍で見せたりなんかしないよ」「……」 純希が冗談として聞き流すこともできず、本気で考え込んでいたことがおかしかったのか、純生は堪えきれないように軽やかな笑い声を響かせた。 その笑いには悪びれた様子など微塵もなく、むしろ兄の反応を面白がり、心から楽しんでいるような愉快な響きさえ滲んでいた。 笑いながら片手を星奈の背後へ回し、その顎を指先で強く挟み込む。 逃げる隙すら与えないまま、無理やり自分のほうへ顔を向かせると、怯えきった表情を間近から覗き込むようにわずかに頭を傾けた。 互いの吐息が触れそうなほどゆっくりと距離を詰め、今にも星奈の唇へ口づけようとするような素振りを、わざと見せつける。「もちろん、兄さんがどうしても見たいって言うなら、拒むつもりはないけど。それとも、三人で一緒にしたい? 俺はそれでも構わないよ」 純生の言葉は、その場の思いつきだけで次々と変わっていく。 結局のところ、そのどれもが純希の反応を窺うために口にしているだけなのだろう。 つい先ほどまでの発言と食い違っていても、純生自身はそんなこ
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第34話

 すべて純希の反応を探るための芝居だったとはいえ、部屋に二人きりになってからも、純生はすぐに腕の中の星奈を放そうとはしなかった。 頭の中では、先ほど純希が見せた細かな反応を一つ一つ繰り返し思い返している。あの一瞬の表情や視線の揺らぎまで思い返すたび、口元には満足そうな笑みが浮かんでいた。 しばらくして我に返ると、そこでようやく、自分の腕の中へ星奈を抱えたままだったことを思い出したように視線を落とす。「お姫様、兄さんに行かれて悲しいか? 元婚約者だもんな。本当は兄さんに抱いてもらいたかったんだろ。残念だったな。今のお前には、兄さんを惹きつける魅力なんか少しも残ってないみたいだけど」 先ほど、純希が星奈の懇願を振り切るように扉を閉ざし、何事もなかったかのように部屋を出ていった姿を思い出すと、純生は堪えきれないように喉の奥で笑いを漏らした。「だったら、俺に取り入ったほうが――」「いや……!」 純生のもう片方の手がゆっくりと自分の胸元へ伸びてくるのを察した瞬間、それまで必死に押し殺していた恐怖を突き破るように、悲しみと悔しさが一気に胸の奥から溢れ出した。 泣き腫らして熱を帯びた目には、たちまち涙が滲む。 大粒の涙が次々と目尻から零れ落ちる。それでも純生が怖くて、声を上げて泣きじゃくることさえできなかった。 喉の奥から小さく嗚咽を漏らしながら、肩を震わせ、ただ静かに涙を流し続けることしかできない。 悲しみに耐えきれず涙を流す星奈を見ても、純生は意地の悪い笑みを浮かべるだけだった。 ――まただ。 また星奈が、いつもの手を使っている。 泣いて可哀想なふりをすれば、自分の心を動かせるとでも思っているのだろう。 そんな手が、通用するはずはなかった。 心の中ではそう吐き捨てながらも、星奈の服を引き開こうとしていた手は、その胸元へ触れる寸前でぴたりと止まっていた。 そのまま先へ伸びることはなく、結局、本当に触れようとはしない。「何だよ。少しくらい泣けば、俺に通用するとでも思ったか?」 純生の問いかけに、星奈は小さく首を横へ振った。 涙を武器にしようとしたわけではない。ただ、自分でもどうすることもできなかったのだ。 必死に否定しようとしても、涙は止まるどころか次々と溢れ出し、頬を伝って零れ落ちていく。 やがて、そのうちの何粒かが純生の手の甲へぽ
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第35話

 星奈は、またこのまま苦しみに耐えながら、一晩を過ごさなければならないのだと思っていた。 扉が閉ざされた瞬間、きつく目を閉じる。 少しでも早く眠ってしまえば、この暗闇がもたらす恐怖と向き合わずに済む。そう思い、無理にでも意識を眠りへ沈めようとした。 ほんの少し前に、十数時間にも及ぶ昏睡から目を覚ましたばかりだった。 身に着けた服はまだ湿ったまま肌に張りつき、不快な感触が全身へまとわりついている。発熱のせいで頭も身体も鉛のように重く、じっとしているだけでも耐え難いほど苦しかった。 そんな状態で、思いどおりに眠りへ落ちられるはずがない。 恐怖は無数の小さな虫のように、再び星奈の全身を隙間なく這い回り、逃げ場のない息苦しさで胸を締めつけていく。 星奈は服の袖で何度も涙を拭った。 それでも涙は次から次へと溢れ出し、拭っても拭っても止まる気配はない。まるで涙そのものが枯れることを知らないかのように、頬を伝い続けていた。 この別荘へ実質的に閉じ込められてから、まだ三日目のはずだった。 それなのに星奈には、もう何週間も、あるいは何か月も、この暗く冷たい場所で苦しみ続けているようにしか思えなかった。 声を押し殺し、小さく嗚咽を漏らしながら泣き続けるうち、星奈はたまらなく恵子に会いたくなった。 記憶を失った自分が、最初に出会った人。 何も分からず、帰る場所さえ失っていた自分を何の見返りも求めず受け入れ、家族のように優しく守ってくれた人だった。 恵子は今、どうしているのだろう。 自分と同じように不安を抱え、星奈を助けようと必死になりながらも、何もできずにいるのだろうか。 そんなことを考えていた、そのときだった。 不意に、扉の向こうから小さな物音が聞こえた。誰かが外にいる。そんな気配に、星奈の身体はびくりと強張る。「……っ!」 星奈はびくりと肩を震わせ、反射的に壁際へさらに身体を縮めた。 また純生が戻ってきたのだと思った。 大きく目を見開き、恐怖に身体を強張らせたまま、物置の扉をじっと見つめ続ける。 やがて扉がゆっくりと軋む音を立てながら開き、暗闇の中へ細い光が静かに差し込んできた。 その光の向こうに立っていたのは、何を考えているのか少しも読み取れない無表情な純希だった。 純生ではなかった。 ただそれだけのことで、張り詰めていた星奈の胸
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第36話

 星奈は純希と二人きりになることなど、ほとんどなかった。 純希も純生と同じようなことを自分へするのか分からず、物置の隅で身体を小さく縮めたまま、震えるような気持ちで彼が次に何をするのかを待ち続ける。 純希は、自分から星奈へ触れようとはしなかった。「出ろ。俺についてこい」 長い沈黙の末、純希がようやく口を開いた。 その低い声を耳にした途端、星奈はびくりと肩を震わせ、何かを拒むように反射的に首を横へ振る。 その怯えきった反応を目の当たりにした純希は、眉間へ深く皺を刻んだ。 胸の奥で膨らみ続けていた苛立ちを押し殺すように一度だけ息を吐き、低く抑えた声で警告する。「星奈、俺の我慢を試すな」 純希の部屋も二階にあった。 だが、そこには純生もいた。 物置から出てきた星奈を冷たい目で一瞥すると、純希は何も説明しないまま歩き出し、そのまま一階にある空き部屋へ連れていった。 二階の部屋と比べると、内装はずっと簡素だった。 置かれている家具はどれも小ぶりで、見るからに安価なものばかりだった。部屋に備えつけられた浴室も狭く、浴槽はなく、簡素なシャワー設備があるだけだった。 浴室を目にした途端、星奈の足がぴたりと止まった。 以前、この場所で純生に容赦なく冷たい水を浴びせ続けられた光景が、鮮明な記憶となって脳裏へ蘇る。 純希も、同じことをするつもりなのではないか。 そう思った瞬間、身体の奥から恐怖が込み上げる。星奈は浴室の入口に立ち尽くしたまま、どうしても中へ足を踏み入れることができなかった。 純希には、星奈が何を考えているのか分からない。 ただ、人形のように立ち尽くし、何もかもを恐れて震えているその姿を見ていると、胸の内には苛立ちばかりが募っていった。「中へ入って、身体を洗え」 そう言うと、純希は部屋に置かれた小さなテーブルの上から、あらかじめ用意しておいた着替えを手に取り、そのまま星奈へ放るように投げ渡した。「洗い終わったら、それに着替えて出てこい」手渡された柔らかく清潔な服に触れながら、星奈はしばらく目の前の状況を理解することができずにいた。 純希が何を考えているのか分からないまま、服を胸へ抱き寄せ、恐る恐る浴室へ足を踏み入れる。何度も不安そうに振り返ったものの、純希はその場に立ったまま微動だにせず、星奈のあとを追って浴室へ入ってくる気
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第37話

 ほんの一瞬、目の前にいる純希の姿が純生と重なって見えた。 恐怖に駆られた星奈は反射的に後ずさろうとしたものの、手首を純希に強く掴まれていたため、思うように逃げることができない。 冷たい表情を浮かべる純希を見つめていると、身体へ刻み込まれた痛みとはまったく違う、胸の奥をぎゅっと締めつけられるような疼きが不意に込み上げてきた。 その痛みに耐えきれず、星奈は無意識に俯き、それ以上純希の顔を見ることができなくなってしまう。「ご……ごめんなさい」 手首を掴む純希の力は強く、純生に握られたときと変わらないほど痛かった。 純希にも殴られるのではないかという恐怖が一気に込み上げ、何かをされる前に謝らなければと、星奈は慌てて声を絞り出す。 その直後、手首へ食い込む指の力がさらに強くなったように感じられ、星奈は怯えきったまま何度も何度も謝罪を繰り返した。「ごめんなさい……私が悪かったです……」「……」 純希は何も答えなかった。 自分の言葉やほんのわずかな動きだけで、いちいち大きく怯える星奈を見つめ、純希は唇をきつく引き結んだ。 純希はこれまで、人を殴ったことなど一度もなかった。純生のように、何のためらいもなく誰かへ暴力を振るうことなど、自分にはどうしてもできない。 先ほどは感情に任せて冷酷な言葉を口にしたものの、いざ本当に星奈へ何かをしようとしても、自分に何ができるのか、何をすればいいのかさえ分からなかった。 短い沈黙の末、純希は胸の内に溜まった苛立ちを振り払うように、星奈の手首を乱暴に振り放す。「身体を洗ってこい。何度も同じことを言わせるな」 低く抑えられたその声には、隠そうとしても隠しきれない不機嫌さが滲んでいた。 純希の手が離れた瞬間、星奈は弾かれたように数歩後ろへ下がる。あまりにも慌てて足を動かしたせいで途中で躓き、そのまま転びそうになりながらも、どうにか踏みとどまった。 怯えたように純希の顔を素早く一度だけ窺うと、先ほど床へ落としてしまった着替えを慌ただしく拾い上げ、そのまま逃げ込むように浴室へ駆け込んでいく。 勢いよく扉を閉めると、狭い浴室の中に自分一人しかいないことを何度も確かめるように見回した。 鏡へ映った変わり果てた自分の姿を目にした途端、それまで必死に押し殺していたさまざまな感情が、堰を切ったように一斉に胸の奥から込み上げ
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第38話

「……っ!」 鋏を目にした瞬間、星奈は息を呑み、全身がびくりと震えた。 反射的に浴室の扉の陰へ身体を引っ込めると、怯えきった瞳だけをわずかに覗かせ、声も出せないまま扉の向こうから純希の様子を窺う。 すでに星奈が浴室から出てきたことへ気づいている純希が、そのまま見逃してくれるはずもなかった。「星奈、こっちへ来い」 純希をこれ以上待たせる勇気は、星奈にはなかった。 激しく脈打つ鼓動が胸を圧迫し、息苦しささえ覚える中、星奈は恐怖を押し殺しながら、一歩、また一歩と怯えた足取りで純希の前へ近づいていく。 前回、純生はこの鋏で星奈の髪を容赦なく滅茶苦茶に切った。 今度は純希が、この鋏を使って自分に何をするつもりなのか分からない。 顔いっぱいに恐怖を滲ませながら近づいてくる星奈を見つめ、純希は堪えきれないように眉を寄せた。 何も説明しないまま、手にした鋏の柄で目の前に置かれた椅子の背を軽く叩き、そこへ座るよう静かに促す。 星奈は純希と鋏を何度も見比べながら、おずおずと椅子へ腰を下ろした。 純希は新しい清潔なバスタオルを持ってくると、その肩から身体を包み込むようにそっと掛ける。 やがて耳元で、しゃきっ、しゃきっと鋏が髪を切る乾いた音が静かに響き始めた。 純希は何も言わない。 星奈も身体を強張らせたまま、息を詰め、声を出すことさえできなかった。 最初のうちは恐怖を抑えきれず、肩も指先も小刻みに震え続けていた。 しばらく時間が経ち、純希は自分を傷つけようとしているのではなく、純生に滅茶苦茶にされた髪を整えようとしているだけなのだとようやく気づく。 その瞬間、張り詰めていた身体から少しずつ力が抜け、強張っていた肩もわずかに下りていった。 純希は、決して髪を切ることに慣れているわけではなかった。 これまで誰かの髪を切った経験など、純希には一度もなかった。 ただ、星奈の髪はあまりにも酷い状態だった。毛先の長さはばらばらに切り揃えられ、見るに堪えないほど乱れきっている。 純希には、そのまま放っておくことがどうしてもできなかった。とはいえ、こんな山奥の別荘へ短時間で美容師を呼ぶことなどできるはずもない。結局、自分で少しでも整えるしかないと判断したのだ。 専門家のように綺麗に仕上げることはできなくても、少なくとも今よりましな状態にはできる。 二人の
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第39話

 それは、純希がずっと星奈へ問い続けたかったことだった。 星奈が姿を消してから今日まで。彼女が自分たちを裏切ったと知ったあの日から、純希は一日たりともその問いを忘れたことはなかった。 裏切られたことへの激しい憎しみと、どれほど時間が経っても決して癒えることのない胸の痛みに苛まれながら、来る日も来る日も、その理由だけを何度も何度も考え続けてきた。 それでも、どうしても答えだけは見つけられなかった。 星奈が千堂グループの機密資料を持ち出す前日の夜まで、二人はソファへ肩を寄せ合い、これから迎える結婚式について幸せそうに語り合っていた。 式場はどんな雰囲気にするのか。会場はどう飾りつけ、どんな花を選ぶのか。 これから二人で築いていく未来を思い描き、その一つひとつを語り合うたび、胸には果てしない期待が膨らんでいた。 まるでこの世界には互いしか存在しないかのように満たされ、相手を疑うという発想さえ浮かばないほど、幸せな時間だった。 人の心が変わることはある。 それでも、あれほど何の前触れもなく、たった一晩ですべてが覆ってしまうはずなどない。 昨日まで幸せそうに笑っていた人間が、翌日には何もかもを裏切って姿を消す。そんなことが、本当にあるはずがない。「どうして……なんだ……」 力を失ったように純希の腕がゆっくりと下がる。手にしていた鋏も、その手から滑り落ちそうなほど力なく身体の脇へ垂れ下がっていた。 星奈へ説明を求めながら、純希はもう気づいていた。 自分は心のどこかで、すでに星奈を許せる理由を探し始めていることに。 もし星奈にも、誰にも打ち明けられない事情があったのなら。 もし、そうするしかなかった理由をたった一人で抱え込んでいたのなら。 何も知らないまま裏切ったと決めつけていた自分を納得させられる真実があるのなら――。 今この瞬間、純希は痛いほど強く願っていた。 どうか星奈の口から、すべてを覆せるような真実を聞かせてほしい、と。 けれど、星奈にはそれができなかった。 背中をわずかに丸め、椅子の上で小さく身体を縮こまらせたまま、震える指先をぎゅっと握り締める。 純希が問いを重ねるたび、その声が少しずつ柔らかくなっていることにも気づいていた。 低く抑えた声の奥には、隠しきれないほど微かな懇願と、ほんのわずかな優しささえ滲んでいるように
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第40話

 純希は、星奈が答えるのを辛抱強く待ち続けた。 あえて急かすこともせず、彼女が自分から口を開くまで、ただ長い時間その場へ立ち尽くしている。 初めは胸の奥にかすかに残っていた期待も、沈黙が長引くにつれて少しずつ冷えきっていった。失望と怒りは静かに胸の奥へ広がり、やがて身体の隅々まで満ちていく。 そんな中、ようやく星奈の口から返ってきたのは、消え入りそうなほど小さな一言だけだった。「ごめんなさい……」 純希には、その謝罪が自らの裏切りを遠回しに認めた言葉としか聞こえなかった。 星奈も謝罪の言葉を口にしたあと、不安で胸をいっぱいにしたまま、純希の反応を待ち続けていた。 いくら待っても何も返ってこない。 重苦しい沈黙に耐えきれなくなり、星奈は恐る恐る身体をわずかに捻り、背後に立つ純希の様子を窺う。 ほんの一目見ただけで、星奈の身体は大きく強張った。 純希の目は赤く染まっていた。 必死に涙を堪えているように見え、薄暗い黄色の照明の下でも、その瞳には今にも零れ落ちそうなほどの涙が滲んでいる。 星奈と重なった眼差しには、言葉では言い表せないほど激しい感情が渦巻いていた。 再会してからずっと星奈の前で作り続けてきた冷たい表情も、今は崩れかけている。隠そうとしても隠しきれないほど深い傷が、その顔には痛々しいほどはっきりと浮かんでいた。 鋏を握る手にも、知らず知らずのうちに強い力が込められている。 指が食い込むほど強く握り締められたプラスチックの持ち手からは、ぎしり、と軋むような音さえ聞こえてきた。 星奈はひどく動揺した。 傷ついた純希の姿を目にしていると、自分の胸まで同じように締めつけられていく。これまで純生に殴られたどの痛みよりも、胸の奥を容赦なく締めつけるその苦しさのほうが、ずっと耐え難く感じられた。 気づけば恐怖さえ忘れ、星奈は純希の手へ触れようと、反射的に腕を伸ばしていた。「違うんです……私、事故に遭って、それ以前のことを何も覚えていなくて……」「黙れ」 純希は近づいてきた星奈の手を激しく振り払う。 その勢いのまま、握り締めていた鋏まで床へ投げ捨てた。 鋏は近くの棚へ激しくぶつかり、硬い音を響かせたあと、床へ落ちて甲高い金属音を立てる。 部屋を出ようとした純希は、不意に足を止めた。一度だけゆっくりと振り返り、星奈を深く見つめる
last updateLast Updated : 2026-08-24
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