All Chapters of 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話

 写真を送りつけた直後、純生のスマートフォンが再び鳴り始めた。 意味ありげな薄笑いを浮かべたまま、わざと数回着信音を響かせてから電話に出る。その声には、相手が何を言おうとしているのか、すでに分かりきっているような確信が滲んでいた。「どうしたんだ、兄さん。すげえ笑えるだろ?」 電話の向こうで、純希はほんのわずかな間、何も答えなかった。 急かすことなくスマートフォンを耳に当てたまま返事を待ちながら、その視線は静かにプールの中央へ向けられる。一目見ただけで、星奈がひどく衰弱していることは明らかだった。 昨日、星奈がここへ連れてこられたとき、自分でも、ここまで容赦なく一人の人間を傷つけることになるとは思っていなかった。 だが、目の前にいる星奈を見れば見るほど、胸の奥で燻り続けていた怒りは際限なく膨れ上がり、もはや抑えようとしても抑えきれない。 星奈に裏切られたと知ったあの日の絶望と過去の記憶は、獲物に絡みつく毒蛇のように身体へまとわりつき、振り払おうとしても決して離れず、何度も鋭い牙を突き立てては心の奥深くへ新たな傷を刻み続けていた。 そればかりか、純希が時折見せるほんのわずかな迷いや揺らぎさえ、純生の憎しみへ絶えず薪をくべる。 兄が星奈へ少しでも情けを向けるたび、自分が彼女へしてきたことなど、まだ生ぬるいのではないかと思えてしまう。 その優しさに流されやすい性格を、純生は幼い頃から誰よりもよく知っていた。 だから昨日から今日にかけても、純生は兄の気持ちを何度も試さずにはいられなかった。まるで、何度も同じ問いを繰り返し、自分の望む答えだけを確かめようとする意地っ張りな子供のように。 純希が少しも揺らぐことなく、自分の側に立っている。 その揺るぎない事実を、純生は何度でも自分に言い聞かせるように確かめずにはいられなかった。 長く重たい沈黙の末、ようやく純希が静かに口を開く。 電話越しに聞こえてきた声は、なぜかひどく掠れ、わずかに疲労さえ滲ませていた。「純生、ほどほどにしておけ。あんな女のために、お前が自分でも嫌うような人間になるのは見たくない」 人を傷つけることには、純希は昔から慣れていなかった。 どれほど憎い相手でも、目の前で一方的に痛めつけられる姿を見続けていれば、胸の奥には鈍い痛みが積もっていく。 だからこそ純生の変わり果てた姿を
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第22話

「……へえ」 口元が楽しげに歪んだ。 水の中でもがき苦しむ星奈を眺めているだけでは、もう退屈になり始めていた。 純生は椅子からゆっくり立ち上がると、植え込みのそばへ歩み寄り、足元へしゃがみ込んで小石をいくつも拾い集める。 掌の上で転がしながら重さや感触を確かめると、再びプールの中央へ視線を向けた。 必死に身体を支え続ける星奈は、自分へ向けられたその視線にも気づいていない。 純生はそんな彼女を静かに見据えたまま腕を振り上げ、暇つぶしの遊びでも始めるような気軽さで、小石を一つ、また一つと容赦なく投げつけ始めた。 純生の投げる石は、それほど命中率が高くなかった。 もっとも、それは狙いを外しているのではなく、あえて外して遊んでいるだけなのかもしれない。 小石は一つ、また一つと違う場所へ飛び、どれも星奈のすぐ近くへ落ちていく。頬を掠めるように通り過ぎるものもあれば、額へ鈍い音を立ててぶつかるものもあった。「……っ!」 幸い、純生が拾い集めた石はどれもそれほど大きくない。 身体へ当たっても耐えられないほどの痛みではないが、次はどこを狙われるのか分からない恐怖だけが際限なく膨らみ、星奈は身を強張らせたまま動くことすらできなかった。 何度も目を閉じ、この時間が終わるまで耐え抜こうとする。 だが、視界を閉ざした瞬間、どこから石が飛んでくるのかまったく分からなくなり、その見えない恐怖はかえって大きく膨れ上がっていく。「やめて……」 震える声で懇願しても、純生は手を止めるどころか、面白がるように石を投げ続けた。 先ほど電話で純希へした約束も、兄を安心させるためだけの口先にすぎなかったのだろう。 それでも星奈は、そのやり取りを聞いたとき、胸のどこかでほんのわずかな期待を抱いてしまっていた。 もうすぐここから出してもらえるのではないか。これ以上苦しめられることはないのではないか。 そんなささやかな希望は、あっけないほど簡単に打ち砕かれた。 純生は数分ものあいだ、飽きることなく星奈へ石を投げ続ける。 やがてようやく満足したのか、両手へ付いた砂埃を払うように軽く叩くと、星奈へ一言も残さないまま背を向け、そのまま庭の奥へ姿を消した。「……」 あとに残されたのは、水面の揺れる広いプールの中で、ただ一人取り残された星奈だけだった。 数分ものあいだ呆然
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第23話

 ひどく気が動転していたのだろうか。星奈は何度門を押しても、なかなか開けることができなかった。 ようやく鍵を外していなかったことに気づき、震える右手で慌てて鍵を回す。 もう一度勢いよく門を押し開けたその瞬間、後頭部の髪を、不意に強く掴まれた。「……っ!」 激しく後ろへ引き戻され、そのまま地面へ叩きつけられる。 痛みに顔を歪めながら見上げると、そこには愉快そうな笑みを浮かべた純生が立っていた。「いや……」 自分が開けた門は、すぐ目の前にある。 外へ通じるわずかな隙間を見た途端、星奈は無我夢中で身体を起こし、最後の力を振り絞って飛び出そうとした。 だが、あと一歩というところで、純生はその動きをすべて見抜いていたかのように腕を掴む。「きゃっ……!」 容赦なく地面へ投げ倒され、受け身も取れないまま身体を強く打ちつけた。 苦痛に息を詰まらせる星奈を見下ろしながら、純生はゆっくりと門へ手を伸ばす。 わずかに残っていた外への隙間が、静かに閉じられていく。 逃げ道は、完全に断たれた。 純生はゆっくりとしゃがみ込み、怯えきった星奈と視線の高さを合わせる。「逃げるつもりだったのか?」 そう問われた途端、星奈は息をすることさえ忘れたように身体を強張らせた。 慌てて俯く。 何度か瞬きをしただけで堪えきれなくなった涙が頬を伝い、地面についた自分の手の甲へぽたりと零れ落ちる。 その一滴だけが、冷え切った全身の中で、唯一温もりを感じさせるものだった。「私……帰りたいんです……」「何だよ。自分が来たいときに勝手に来て、帰りたくなったら勝手に帰れるとでも思ってんのか?」 純生の声には、隠そうともしない嘲りが滲んでいた。「まさか、ここが昔の千堂家と同じで、いつでもお前を歓迎してくれる場所だとでも思ってたのか?」 その言葉は一本一本が鋭い棘となり、容赦なく星奈の胸へ突き刺さっていく。「わ、私が悪かったです……。来るべきではありませんでした。ごめんなさい……」 俯いたまま震える声で謝り続ける星奈は、純生の顔を見ることすらできない。「だから……もう帰らせてください……お願いします……」 必死の懇願にも返ってきたのは、純生の冷えきった笑いだけだった。 純生は無造作に星奈の髪を掴むと、そのまま乱暴に顔を持ち上げる。「……っ」 強引に視線を合わせら
last updateLast Updated : 2026-08-16
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第24話

 突然、鼻も口も冷たい水で塞がれ、星奈は反射的にもがくように両手を動かした。 けれど、その抵抗はあまりにも弱々しく、純生の腕を押し返すことすらできない。 必死に苦しむ星奈の姿を見下ろしながら、純生は一瞬、本気でこのまま息の根を止めてしまおうかと思った。 心の中でゆっくりと時間を数え、星奈が限界まで耐えた頃を見計らって、ようやく濡れた髪を掴んだまま顔を水面から引き上げる。「げほっ……ごほっ……!」 空気へ縋りつくように何度も激しく咳き込み、大きく息を吸おうとしても、締めつけられるような苦しさは胸から少しも消えなかった。 純生はそんな星奈へ休む間も与えない。 呼吸がわずかに整い始めたのを見計らうと、再び後頭部を掴み、容赦なく顔を水へ押し沈めた。「……っ!」 同じことを、何度も、何度も繰り返す。 抵抗する力は、そのたびに目に見えて弱まっていった。 一度目より二度目、二度目より三度目と、もがく手から力が失われ、やがて身体はほとんど動かなくなる。 最後には顔を水へ沈められても、星奈は指一本動かすことなく、されるがままになっていた。 まるで、生きることさえ諦めてしまったかのように。 水の中から引き上げられるたび、息もできないほどの苦しさに顔を真っ赤に染めることだけは、最後まで変わらなかった。「ごほっ……げほっ、げほっ……」 それが何度繰り返されたのか、星奈にはもう分からない。 プールサイドへ縋りつくように身体を預け、ひたすら苦しそうに咳き込み続ける。 今度は、純生も頭を水へ沈めようとはしなかった。 ようやく終わったのだろうか。 そんな淡い期待が胸をよぎった、その直後だった。 まだ咳の治まらない星奈の身体を、純生は容赦なく蹴り飛ばす。「……っ!」 そのまま身体は再びバランスを崩し、水しぶきを上げながらプールの中へ叩き落とされた。「姫様よ、今度また逃げようなんて考えたら、自分が生きてここを出られるかどうか、よく考えるんだな」 冷たく言い放つと、純生は一度も振り返ることなく、その場を立ち去っていく。 星奈は全身を震わせながら、逃げるようにプールの反対側の隅まで移動した。 両手でプールサイドの縁を固く掴み、そのまま身体を預ける。 何の支えもない場所で爪先立ちを続けるよりは、こうして縁へ掴まっていたほうが、まだわずかに身体への負担
last updateLast Updated : 2026-08-16
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第25話

 深い眠りの底で、星奈は誰かが何度も自分の名前を呼んでいるような気がしていた。 遠くから響いてくるその声を聞きながら、どうにか応えようとしても、全身が目に見えない何かにきつく縛りつけられているかのように動かない。 肌の一寸一寸にまで鉛が染み込んでいるような重苦しさがまとわりつき、声を返すことも、指先をほんの少し動かすことさえできなかった。 熱に浮かされた意識は深い闇の中を漂い続け、身体そのものが目を覚ますことを拒み、何も考えずこのままずっと眠っていたいと訴えているようだった。 星奈は、そのまま長いあいだ眠り続けた。 時間がどれほど経っても高熱は一向に下がらず、火照った身体からは絶えず汗が滲み、浅く不規則な呼吸だけが静かな部屋の中に繰り返されていた。 医師が一度診察に訪れ、薬を処方してからも星奈はなかなか目を覚まさなかった。 ベッドの傍らでその様子を見続けていた純希は、とうとう痺れを切らし、管理人を通じて再び医師を呼びつけると、なぜこれほど時間が経っても意識が戻らないのかと苛立ちを隠そうともせず問い詰めた。「それはですね、千堂様。こちらのお嬢さんは、かなり衰弱しているうえに高熱も続いており、決して軽い状態とは言えません。高熱や極度の疲労によって意識がなかなか戻らないこと自体は、十分に考えられます。それに……あくまで可能性の一つではありますが、心身ともに強い負担を受けた患者の場合、本人が無意識のうちに外界から逃れようとし、目を覚ますことを拒むような状態になることもあります」 そう慎重に説明した医師は、純希がわざわざ管理人に命じ、遠方から呼び寄せた者だった。 純希はもともと、自分や家族の身体を任せる医師を選ぶ際の基準が非常に厳しい。 千堂家の診察を任されるには、学歴や経歴、これまでの実績はもちろん、人柄や信用に至るまで、さまざまな面から厳格な審査を通過しなければならなかった。 この別荘は人里からあまりにも遠く離れ、最寄りの町へ出るだけでもかなりの時間がかかる。 星奈が突然高熱を出したこともあり、東京から普段千堂家を診ている医師をすぐに手配する余裕などなかった。 純希としては決して満足できる選択ではなかったものの、今は悠長に医師を選んでいる場合でもなく、管理人に命じて近隣で診察に来られる者を探させ、ようやく見つかったこの医師を臨時で呼び寄せるし
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第26話

「そ、それは……」 突然話を振られた医師は、何度か口を開きかけたものの、すぐには答えられなかった。 星奈の体温は、測るたびに異常なほど高い数値を示していた。仮病である可能性は低いと伝えようとした医師は、慎重に言葉を選びながら口を開いた。「ええと、その……現在の状態を見る限りでは……」 仮病である可能性は極めて低い。そう続けようとしたところで、純生の視線が真っ直ぐに向けられた。 その目に浮かぶ露骨な警告を読み取った医師は、喉まで出かかっていた言葉を咄嗟に呑み込み、気まずそうに視線を逸らした。 結局、医師の口から純生の言葉を肯定する返事が出ることはなかった。 それだけでも十分気に障ったらしく、純生は見るからに不機嫌そうに表情を冷たくし、今度は純希の同意を確かめるように兄へ目を向けた。「兄さんも、今回は俺がやりすぎたと思ってるのか? このクソ女がこんな状態になったのは、俺のせいだって?」 純希はゆっくりと純生へ視線を向けた。その眼差しには責めるような色も、咎めるような厳しさもなかった。 そこにあるのは、昔から何ひとつ変わらない、弟に対する穏やかな優しさだけだった。「そんなことは思っていない、純生。星奈の身体が弱すぎるだけだ。お前は何も悪くない」 迷いのない声だった。 純生が何をしたのか、純希自身が知らないわけではない。それでも弟を責めるという考えは、最初から彼の中には存在していなかった。 そう言って弟を慰めたあと、純希は再び医師へ向き直った。純生へ向けていた穏やかな眼差しは消え、声にも有無を言わせぬ冷たさが戻っている。「先生、それなら必要な点滴と注射を追加してください。できるだけ早く意識を戻せるよう、必要な処置はすべてしてもらいたい」 一度言葉を切り、純希は眠り続ける星奈へ目を向けた。 高熱に苦しんでいることなど分かっている。 身体が限界まで弱っていることも、医師の説明を聞けば理解できた。それでも、このまま何も知らないように眠り続けることを許してやるつもりはなかった。「あの女には、まだ俺たちへ返してもらわなければならないものがある。これ以上、いつまでも眠らせておくつもりはありません」「えっ……あ、はい。分かりました、千堂様」 純希の言葉に、医師は驚きのあまり目を見開いた。 異議を唱える勇気などあるはずもなく、慌てて必要な薬剤を
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第27話

 医師がすでに別荘を出たという管理人からの報告を聞き、純希は目の前のノートパソコンからゆっくりと視線を外した。 画面にはまだ処理しなければならない仕事がいくつも残されていたが、すぐに作業へ戻ることはせず、しばらく考え込んでから確認するように口を開いた。「この近くに泊まれる場所は用意したのか?」「少し離れた町の宿に、先生のお部屋を取っております。隣町ではございますが、緊急の際にも車ならそれほど時間はかかりません」 純希は小さく頷き、ようやく椅子の背もたれへ深く身体を預けた。 長時間仕事を続けていたせいなのか、それともここ数日の出来事に神経を削られているせいなのか、その端正な顔には隠しきれない疲労が濃く滲んでいた。「純希様……それから、恵子という女性が警察を連れて、何度かこちらへ押しかけてきました。かなり強く柚木様との面会を求めていましたので、その都度こちらで宥め、お引き取り願いましたが……」「ああ、分かった」 純希はそれ以上詳しく尋ねることもなく、淡々と返事をした。 管理人は僅かに躊躇した様子を見せ、まだ何か言い残しているようにその場を動こうとしない。「もう一つございます。純生様が先ほど、先生から何かを受け取っていたようでして。おそらく……」 そこまで話したところで、管理人は急に口籠もった。 医師から何を受け取ったのか、はっきり確認したわけではない。 純生が何をするつもりなのかも分からない以上、憶測だけで告げるのは差し出がましいように思え、どう伝えるべきか迷ったまま言葉が続かなくなった。 純希はそんな管理人の様子を見て、僅かに眉を寄せた。「構わない。純生のすることは放っておけ」「……かしこまりました。申し訳ございません、差し出がましいことを申しました」 それ以上口を挟むつもりはないと察した管理人は深く一礼し、静かに書斎を出ていった。 扉が閉じると、部屋の中には再び静寂が戻った。 純希はノートパソコンの画面へ視線を戻したものの、一度途切れてしまった集中力はなかなか元に戻らない。 表示されている文字を目で追っても内容が頭に入らず、しばらくして諦めたように息を吐くと、椅子から立ち上がって書斎の窓辺まで歩いていった。 大きな窓の向こうには、夜の闇に沈んだ別荘の庭が広がっている。 昼間なら丁寧に手入れされた木々や芝生が見渡せる場所も
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第28話

 そこはもともと、この別荘に到着した純生が自分の寝室として選んだ部屋だった。 星奈が意識を失い、純希がプールから救い出したあとも、空いている客室ならほかにいくらでもあった。それでも純生は、わざわざ彼女を自分の部屋へ運ぶよう求めた。 本人が言うには、いつ目を覚ますか分からない星奈を、自分の目の届くところに置いて監視するためらしい。 あのとき、純希は自分の目の前で、星奈の身体がゆっくりとプールの底へ沈んでいくのを見た。 頭の中が一瞬にして真っ白になり、何かを考えるよりも先に身体が動いていた。 気づいたときにはすでにプールへ飛び込み、冷たい水の中へ腕を伸ばし、沈みかけていた星奈の身体を抱き上げていた。 水面へ引き上げた星奈はぐったりとして、純希の腕の中でもほとんど反応を見せなかった。濡れた髪が頬や首筋へ張りつき、力の抜けた身体からは水が絶え間なく滴り落ちている。 純希はそんな星奈を抱えたまま純生の部屋まで運び、できる限り慎重にベッドへ寝かせた。 そのあいだ、まともに何かを考えた記憶はほとんどなかった。 どうして自分が迷いもせず飛び込んだのか、なぜこれほど必死になって星奈を助けようとしたのか、考える余裕さえないまま、身体だけが勝手に動き続けていた。 星奈をベッドへ下ろし、呼吸をしていることを確かめてからようやく、張り詰めていた意識が少しずつ戻ってきた。 そのときになって初めて、純希は自分の指先が微かに震え続けていることに気づいた。 寒さのせいではない。 そのことが分かってしまった瞬間、純希は自分でも説明できない苛立ちを覚えた。 純生にだけは悟られたくなかった。まだ処理しなければならない仕事が残っているように装い、濡れた服を着替えると、そのまま書斎へ籠もった。 医師が到着するまで仕事に意識を向けようとしたものの、ノートパソコンの画面を眺めている間も、プールの底へ沈んでいく星奈の姿だけが何度も脳裏に浮かんでは消えた。 再び純生の部屋を訪れた純希は、扉を軽く叩いてから中へ入った。 純生は椅子を星奈のベッド脇まで運び、そこに深く腰掛けていた。 星奈の傍を離れるつもりはないらしく、片手には一本の注射器を持ち、退屈を紛らわせるように指先で弄んでいる。 純希の姿に気づくと、純生はすぐに顔を上げた。「兄さん、仕事は終わったのか?」「ああ」 純希
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第29話

「……」 純希はすぐには答えなかった。 過去にどれほど親しくしていたとしても、星奈は純生にとって幼い頃からよく知る友人であり、何より兄の婚約者だった女性だ。 今となってはどれほど強く憎み、散々酷い目に遭わせていても、かつて義姉になるはずだった相手との間にある一線まで、純生は自分から越えるつもりはなかった。 もっとも、純希が本当に何とも思わないのであれば、話は別だった。 濡れた服を脱がせて着替えさせる程度のことなら、自分がやってやっても構わない。 そんな考えを抱いた純生は、黙り込んだ兄の顔をじっと眺め、わざと軽い調子で口を開いた。「まあ、柚木家との婚約はもうとっくに解消したんだし、この女は兄さんの婚約者でも何でもない。だったら今さら俺に裸を見られたところで、別に問題ないよな?」 純生は純希の反応を確かめるように、一言一言わざとゆっくりと告げた。 それでも純希は何も答えない。 その沈黙がかえって面白かったのか、純生の口元に意地の悪い笑みが浮かんだ。「……それとも、兄さんは嫌なのか? 婚約がなくなったあとも、この女を自分のそばに置いて弄びたいっていうなら、俺は別に反対しないけど」 冗談めかした口調でありながら、その視線はずっと純希の表情を窺っていた。「……」 純希の喉が僅かに動いた。 星奈はもう自分の婚約者ではない。 それどころか、今の純希にとっては憎むべき相手でしかないはずだった。 誰に身体を見られようが、自分には何の関係もない。そう思えば、純生の言葉など笑って聞き流せるはずだった。 頭ではそう分かっているのに、純生が星奈の濡れた服を脱がせ、その肌に触れる光景を想像した途端、胸の奥に説明のつかない不快感がじわりと広がった。 それが何なのか、純希は考えようとしなかった。 表情が微かに強張り、無意識のうちに唇を固く結ぶ。何か言おうとしても、喉の奥に引っかかった言葉はどうしても声にならなかった。 純希はただ、ベッドに横たわる星奈をじっと見つめた。 長い沈黙の末、純希はようやく星奈から目を逸らした。 純生にこれ以上何かを悟られることだけは避けたかったのか、強張っていた表情を無理に緩め、弟へごく薄い笑みを向ける。「お前の好きにすればいい、純生」 純希はそう言い残すと、まるで逃げるように部屋を出ていった。  一人残された純生は
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第30話

 首を動かすことさえ恐ろしいのか、ぎこちなく、ひどくゆっくりと頭を巡らせ、声が聞こえたほうへ顔を向ける。常夜灯の淡い明かりは暗がりの奥までかすかに届き、そこへ座る純生の輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせていた。 それだけで十分だった。 視線が重なる。 瞬く間に、冷たい恐怖が蔦のように足元から這い上がり、身体へ、胸へ、喉へと絡みついていく。息をすることさえ忘れたように身体は硬直し、反応は何拍も遅れた。 やがて、押し殺しきれなくなった悲鳴が喉の奥から弾けるように迸る。「いや……!」 純生はただ愉しげに、その様子を眺めていた。 自分しかいないと思い込み、ようやくわずかに緩んでいた表情が、自分の姿を認めた途端、ゆっくりと恐怖一色へ塗り替えられていく。 瞳は怯えに大きく揺れ、血の気はみるみる失われ、唇まで小刻みに震え始める。 その変化があまりにも愉快で、純生は込み上げる笑いを抑えきれず、肩を震わせながら喉の奥で何度も低く笑った。 もともと純生は、星奈が目を覚ましたら、医師から受け取った数種類の薬をすぐにでも彼女の身体で試してみるつもりだった。 どれも人に苦痛を与えられる薬だった。本来は何を治療するためのものなのか、純生はろくに説明も聞いておらず、覚える気もない。 いくつかは服用すれば激しい腹痛を引き起こすらしい。純生が興味を持ったのは、それが本当に説明どおりの苦痛を与えるのか、それだけだった。 今すぐにでも試してみたくて仕方がない。 そんなことを考えながら星奈へ目を向けると、彼女はいつの間にか無意識に身体を後ろへ引いていた。 ほんの少しでも純生から遠ざかろうと、ベッドの上で怯えたように身を縮めている。 その姿を見た瞬間、純生の口元がゆっくりと歪む。 薬を使うのは、もう少しあとでもいい。 ――もっと面白い遊びがある。 純生はほんの数歩で星奈の目の前まで距離を詰めた。 逃げ場を失った星奈の身体が、目に見えて強張った。 小刻みに震える肩、怯えた嗚咽を何度も漏らす唇、純生の一挙一動を窺うように揺れる瞳。そのすべてを間近でじっくりと眺めながら、純生は込み上げる笑いを喉の奥へ押し殺した。 こんなにも怯えている。 今すぐ何かする必要などない。 何をされるのかも分からないまま震えている星奈を、もっと追い詰め、もっと怯えさせたくなった。「なあ
last updateLast Updated : 2026-08-19
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