All Chapters of 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

 突然襲いかかった衝撃と激しい痛みによって、星奈の意識は一瞬で覚醒した。 同時に、自分が今どのような状況に置かれているのかも鮮明に思い出す。 髪を引かれた痛みに耐えきれず、息を呑んでいた唇をすぐに固く噛み締めた。 床へ倒れ込んだまま、全身へ走る痛みに耐えながら、星奈は震える腕へ力を込め、ゆっくりと身体を起こそうとする。 その背中へ、不意に重い衝撃がのしかかった。 星奈が起き上がろうとしていることに気づいた純生が、背中を片足で容赦なく踏みつけたのだ。「うっ……!」 押し潰すような力が背中へ加わり、星奈の身体は再び無理やり床へ押さえつけられた。「俺、昨日はお前を階段下の物置に閉じ込めたよな? なのに、どうしてここにいるんだ? 服まで着替えて、こんな立派なベッドで寝てさ」 純生は星奈の身に起きた変化を、一つひとつ確かめるように口にした。 わざわざ問いかけるまでもなく、それが誰のしたことなのか、純生には最初から分かっている。 兄が星奈を哀れみ、情に流された。 そんな事実は、純生には到底認められるものではなかった。 星奈が可哀想なふりをして純希の同情を誘い、うまくたらし込んだからこそ、あの兄は心を動かされた。 そう思うほうが、純生にはずっと都合がよかった。「さすが柚木家のお姫様だな。泣いて可哀想なふりをして、男をたらし込むのは相変わらず得意みたいじゃん。昨日、俺がいなくなったあと、どんな真似をして兄さんをその気にさせたんだ? 俺にも見せてみろよ」 言葉を重ねるたび、星奈の背中を踏みつける足にも少しずつ力が込められていく。 ときおり、純生はわざと足の力を緩めた。 星奈が逃れられると思い、ほんのわずかでも身体を起こそうとするたび、純生は再び足を持ち上げ、先ほどよりさらに強い力で容赦なく背中を踏みつける。「やめて……」 何度も踏みつけられた背中には焼けつくような痛みが走っていた。 ただ、発熱で朦朧としていた頭だけは昨日よりいくらか冴え始めている。 昨日打たれた解熱剤の注射と栄養剤が効いたのか、頭を内側から割られるような激しい痛みも、以前ほどではなくなっていた。 もっとも、今はそんな変化を気にしていられる状況ではない。しばらく星奈を踏みつけていた純生も、ようやく気が済んだらしい。 最後に足を退けると、今度は星奈の髪を根元から鷲掴みに
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第42話

 管理人の言葉によって、鋏でもう一度星奈の髪を滅茶苦茶にしてやろうとしていた純生の思惑は、ひとまず遮られた。 こんな朝早くから、純希がわざわざ管理人を寄越して朝食へ呼びに来た。 その事実だけで、純生は何かを察したらしい。喉の奥から低く愉しげな笑いを漏らす。「いいよ。朝飯を食いに行こうか」 床へ倒れ込んでいる星奈を、その場へ置いていくつもりはなかった。 純生は星奈の細い手首を掴み、無理やり立ち上がらせる。そのまま抵抗する隙も与えず、引きずるようにして食堂へ向かった。 別荘の中は、ひどく静まり返っていた。 食堂へたどり着くまで、広い廊下に響いていたのは、純生に引かれて足をもつれさせる星奈の慌ただしい足音と、二人のやや荒い息遣いだけだった。 純希はすでに食卓へ着いていた。 純生が星奈を連れて姿を現すと、その様子を目にした純希の唇が、ごくわずかに開く。何かを口にしかけたようにも見えたものの、結局は何も言わず、その言葉を静かに飲み込んだ。 純生は純希と向かい合う椅子へ腰を下ろす。 それでも、星奈の手首を掴んだ手だけは決して離さなかった。 星奈が傍らに立ったままでいると、不満そうに小さく舌打ちを鳴らし、掴んでいた腕を内側へ勢いよく引き寄せる。「きゃっ……!」 突然身体を引かれた星奈は大きく体勢を崩し、そのまま純生の椅子の傍らへ倒れ込むように座らされた。「お姫様、食事をするなら、きちんと座らないとな。ご立派な作法はどうしたんだよ?」 純希は固く唇を引き結び、その光景を黙って見つめていた。 食卓の上には、二人分の朝食が整然と並べられていた。 それ以上、純希が星奈へ視線を向けることはない。背筋をまっすぐ伸ばしたまま両手を胸の前で合わせ、静かに「いただきます」と口にすると、何事もなかったかのように食器を手に取り、ゆっくりと食事を始めた。 そんな純希とは対照的に、純生は目の前へ並べられた朝食にすぐ箸をつけようとはしなかった。 しばらく純希が食事をする様子を眺めたあと、純生はゆっくりと床へ座らされた星奈へ視線を移した。 何かを思いついたらしく、口元へ薄い笑みを浮かべる。そのまま自分の前へ置かれていた飯椀を手に取ると、何の躊躇もなく椀をゆっくりと傾けた。 中に盛られていた白いご飯が、そのまま星奈の目の前の床へすべて落とされる。 まだ温かなご飯は
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第43話

 純希は黙々と朝食を口へ運んでいた。 星奈の置かれた状況など最初から目に入っていないかのように、一度も視線を上げることなく、ただ静かに自分の食事だけを続けている。 最初から最後まで星奈の反応をじっと見つめ続けていたのは、純生だけだった。 星奈の視線が純希へ向けられたことに気づくと、その喉の奥から嘲るような笑いが低く漏れる。 そもそも純生は、純希へ見せつけるためだけに、わざわざその目の前でこんな真似をしていた。 たとえ純希が星奈を哀れに思ったとしても、弟である自分の前で堂々と彼女を庇うことなどできない。 それどころか、今の様子を見るかぎり、純希は本当に星奈を気にかけていないようだった。 純生はしばらく返事を待っていたものの、星奈はいつまで経っても床へ落ちたご飯を拾おうとはしない。 その態度に苛立ちは少しずつ募っていき、やがて脅しつけるような低い声で言い放った。「お姫様、食べないなら、今日はもう何も食わせないからな」 もし今これを食べなければ、このあと一日中、何も口にできないかもしれない。 迷い続ける星奈の心とは裏腹に、飢えきった身体は自尊心よりもずっと正直だった。 自分の身体が無意識に動いていることへ気づいたときには、星奈の手はすでに床へ伸び、まだ熱の残るご飯を拾い上げていた。 別荘の床は、一見したところ綺麗だった。 管理人が毎日欠かさず掃除をしているのだろう。掌へ載せたご飯にも、目立った埃や汚れはほとんど付着していない。 その事実だけが、今の星奈にとっては、かろうじて自分を納得させられる唯一の慰めだった。 白いご飯からは、炊きたて特有の香ばしい香りとともに、うっすらと湯気が立ち上っている。指先へ触れる米粒は温かく、ふっくらと柔らかかった。 きっと上等な米を使っているのだろう。 本来なら、米本来の甘みと豊かな香りを存分に味わえる、とても美味しいご飯だったはずだ。 それなのに、口へ運んだ瞬間、星奈には米の甘みも香りもまったく感じられなかった。 口の中いっぱいへ広がったのは、耐え難いほど苦く重たい味だけだった。 無理やり喉の奥へ呑み込んでも、その苦味はいつまでも舌へまとわりつくように残り続ける。まるで今受けている屈辱を、この苦い味とともに星奈の記憶へ深く焼きつけ、決して忘れさせまいとしているかのようだった。 星奈は再び床へ手を
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第44話

 純生が星奈へ与えたのは、白いご飯だけだった。 目の前へ並べられたおかずには、まだ一度も箸をつけていない。「それなら、管理人にもう一杯よそってもらえ」 純希は最後まで、星奈の存在を意識的に避けるように言葉を選んでいた。 彼女が床へ座らされていることも、床へ落とされたご飯を拾って食べさせられていることも、その惨めな姿について一切触れようとはしない。 そんな純希の態度を見た純生は、わずかに眉を上げる。 何かを確かめるように、探るような笑みを口元へ浮かべながら問いかけた。「兄さん、今日は『やりすぎるな』って俺に言わないの?」 誰に対して、何をやりすぎるなと言うのか。 純生はあえて主語を口にしなかったものの、純希にはその意味が十分伝わっていた。 短い沈黙が流れる。 やがて純希は感情の浮かばない冷えきった声で答えた。「……お前が楽しいなら、好きにすればいい。俺はもう気にしない」「本当に?」「ああ」 あまりにも冷淡な返事だった。 その一言だけで、勘の鋭い純生には十分だった。 昨夜、自分の知らないところで、純希と星奈の間に何かがあったのだろう。 そうでなければ、あれほど何度も「やりすぎるな」と釘を刺してきた兄が、一夜にしてここまで突き放した態度へ変わるはずがない。 純生はその変化がおかしくてたまらず、思わず吹き出しそうになる。 けれど、兄が何より食事の作法を重んじることを思い出し、喉の奥まで込み上げた笑いをどうにか押し殺した。 愉しげな表情のままダイニングルームの中へ何気なく視線を巡らせているうちに、ふと昨日、医師から受け取った薬のことを思い出す。 その途端、純生の口元へ再び愉快そうな笑みが浮かんだ。「だったら兄さん。昨日、先生に頼んで、面白そうな薬をいくつか用意してもらったんだ。あれをこの女に使ってみたいんだけど、どう思う?」「……構わない」 ほんのわずかに迷いを見せたものの、純希は思いのほかあっさりと了承した。 あまりにも早い返事に、純生でさえ昨夜この二人の間でいったい何があったのだろうと興味を抱く。 理由が何であれ、純希のこの変化は、純生にとって願ってもないものだった。 純生はすぐさま椅子から立ち上がり、二階へ薬を取りに向かおうとする。 その足を、純希の低い声が静かに止めた。「純生、先に食事を済ませろ」 純生は
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第45話

 純希の見張り方は、決して厳しいものではなかった。 ほとんど星奈へ視線を向けることもなく、まるでその姿を目に入れることさえ嫌がっているように見える。 それでも、星奈がほんのわずかでも外へ向かおうとする素振りを見せれば、純希はすぐに察していた。 星奈は何度か、ダイニングの外から別荘の玄関へ続く廊下へ視線を向けたものの、実際に身体までそちらへ動かす勇気はなかった。 逃げ出す機会を探しているのに、なかなか隙を見つけられず、星奈は次第に焦りを募らせていく。 当然、彼女が何度も玄関の方向を窺っていることには、純希もとっくに気づいていた。 純生が口にしていた「こいつはまた逃げる」という言葉を思い出すと、胸の内ではむしろ可笑しささえ込み上げてくる。 今の星奈の足取りでは、本気で逃げ出したところで、遠くまで行けるはずもない。少し追いかければすぐに追いつき、連れ戻すことができるだろう。 仮に運よくこの別荘から抜け出せたとしても、それが何だというのか。 星奈がまだこの村の中にいるかぎり、純希には彼女を見つけ出す方法など、いくらでもあった。 星奈が逃げることを恐れるあまり、四六時中でも縛りつけて傍へ置いておきたがる純生とは違う。 純希が考えているのは、目先の逃亡を防ぐことだけではなかった。 これから先、星奈をどのように扱い、何をさせるのか。彼女を自分たちの手元へ置いたまま、過去の代償をどのように払わせていくのか。 純希はすでに、もっとずっと先のことまで見据えていた。「……」 純希がすでに箸を完全に置き、これ以上食事を続ける様子がないことに気づくと、星奈は途端に落ち着かない気持ちになった。 もしかすると、自分を見張るために、わざと食事を早々に切り上げたのだろうか。 星奈は何度も階段のほうへ注意を向け、純生が下りてくる気配がないかを確かめる。 いつまで経っても足音一つ聞こえてこない。 しばらく迷った末、星奈はようやく意を決し、目の前に座っている純希へ小さな声で話しかけた。「あの……純希さん。昨日のことなんですけど、私、きちんと説明できていなかったと思って……以前のことについて……」 昨日のことを思い出した星奈は、今度こそ同じ過ちを繰り返さないよう、慎重に言葉を選んでいた。 もう純希を「純希兄ちゃん」とは呼ばなかった。 ただ、新しく選んだ「純希さ
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第46話

 純希の返答を聞いた純生は、喉の奥で小さく笑った。 その言葉を完全に信じたわけではないらしい。それでも、わざわざ追及するほどのことでもないと思ったのか、どうでもよさそうに肩をすくめると、そのまま何事もなかったかのように純希へ話を続けた。「兄さん、俺、こういうのはまだ使ったことないんだよね。こいつが暴れたら面倒だから、押さえるのを手伝ってくれない?」 そう言いながら、純生は手にしていた注射器を軽く振り、わざと純希の目の前へ見せつける。 純希はしばらく黙ったままそれを見つめていたものの、さすがに中身すら確認せず、すべてを純生へ任せることはできなかった。「……それは何だ」「安心してよ。身体に害があるようなものじゃないから。ただまあ、副作用は少しあるみたいだけどね。体質によって程度は違うらしいけど、腹が痛くなるくらいだってさ」 純生は大したことではないかのような軽い口調で説明しながら、その場へしゃがみ込む。 怯えきった星奈は何度も「やめて」と繰り返しながら身を引こうとしたものの、純生は逃がすつもりなど微塵もなく、その身体を床へ強く押さえつけた。「兄さん、こいつを押さえてて」「ここでやるのか?」「ほかにどこでやるんだよ?」 純希が気にしているのは薬を使うことそのものではなく、ダイニングでそんな真似を始めようとする純生の無遠慮さなのだと察し、純生はわずかに首を傾けて考え込んだ。 兄が嫌がるのなら、場所くらいは変えてやってもいいと思ったのだろう。 純生はすぐに星奈の手首を掴み、その細い腕を強く引いて、床から乱暴に立ち上がらせた。「兄さんがここじゃ駄目だって言うなら、俺の部屋に行こうよ」 * 純生が星奈へ薬を使うこと自体に、純希は本当に異論を唱えなかった。 純生に腕を強く引かれた星奈がベッドの上へ激しく投げ出されると、純希はその手から薬瓶を受け取り、瓶に記された薬品名や成分を一つひとつ時間をかけて細かく確かめていく。 純生の説明どおり、それはある特定の疾患を治療するために用いられる正規の医薬品だった。 薬そのものに強い毒性はなく、健康な人間へ誤って使用された場合でも、通常であれば深刻な後遺症が残る可能性は低い。 ただ、薬剤自体には強い局所刺激性があり、使用後には患部へはっきりとした痛みや、灼けるような刺激を感じることがある。 注射器を目
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第47話

 完全に不意を突かれた純生の身体が大きく傾く。星奈はすかさずその下から身体を抜き、ベッドの端から転がり落ちるようにして逃れた。 床へ足をついた途端、立ち止まることなく扉へ向かって駆け出す。喉からは押し殺しきれない嗚咽が漏れ、足元も何度ともつれそうになった。それでも必死に身体を前へ運び、開け放たれた扉へ飛び込むようにして部屋を抜け出した。 その姿は瞬く間に廊下の向こうへ消えていく。 あまりにも突然のことに、純生は何が起きたのかすぐには理解できず、わずかな間、その場で呆然としていた。 自分の下にいたはずの星奈がいなくなったことを認識すると、ようやく我に返る。「くそっ!」 苛立ちに満ちた悪態を吐き捨てると、純生は勢いよくベッドから下り、逃げた星奈を追って大股で廊下へ駆け出していった。 星奈は脇目も振らず、ただ必死に長い廊下を駆けていた。 胸の奥では心臓が激しく脈打ち、今にも喉から飛び出してしまいそうなほどだった。 幸いにも部屋の扉には鍵が掛かっておらず、どうにか廊下まで逃れた星奈は、一度も足を止めることなく、そのまま階段を目指して懸命に走り続ける。 純生が追いついてくるまでに、それほど時間はかからなかった。 苛立ちに満ちた罵声と荒々しい足音が、すぐ後ろから凄まじい勢いで迫ってくる。その音が耳に届くたびに恐怖はますます膨れ上がり、星奈の両脚からは少しずつ力が抜けていった。 何度も足をもつれさせ、そのたびに大きく体勢を崩して転びそうになりながらも、どうにか踏みとどまり、必死に身体を前へ運び続ける。 ここで転んだら、捕まってしまう。 捕まってしまったら――。 昨日、純生から受けた仕打ちの一つ一つが、鮮明な光景となって次々と脳裏へ蘇った。 冷たい水を浴びせられたことも、何度も殴られたことも、無残に髪を切られたことも、一日中プールの中へ入れられたことも。 そのとき味わった痛みと恐怖までもが、身体の奥深くへ刻み込まれているかのように、生々しい感覚を伴って鮮明に蘇ってくる。 こんなときに限って、涙まで星奈の邪魔をした。 次から次へと溢れ出す涙に視界を覆われ、目の前へ伸びる廊下が瞬く間にぼやけて滲んでいく。 走りながら片手を上げ、邪魔な涙を拭おうとした瞬間、背後から伸びてきた手に服の襟首を勢いよく掴まれた。「あっ……げほっ、げほ……!」 前へ
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第48話

 千堂家は数代前まで、裏社会の商売によって最初の財を築いた一族だった。 その歴史を詳しく辿れば、決して綺麗な手段だけで得た金とは言えない。 そこから少しずつ事業を拡大し、現在のような業界屈指の新興財閥へ成長していく過程でも、かつて裏社会で築いた繋がりや人脈を利用したことは一度や二度ではなかった。 もっとも、それもすでに何代も前の話だ。 かつて築かれた裏社会との人脈も、少なくとも表向きにはすっかり清算されている。 純希と純生の父親の代になる頃には、千堂家も完全に表社会へ移り、今では過去を知らない人間なら、かつて裏社会と深い関わりを持っていた一族だとは想像すらできないほどになっていた。 幼い頃の純生は、そんな千堂家の過去に憧れを抱き、自分の曽祖父をひどく格好いいと思っていた。 その頃、一度だけ星奈にも、千堂家がどのようにして今の地位まで上り詰めたのか、その過去を得意げに話して聞かせたことがある。 記憶を失った今の星奈が、それを覚えているはずもなかった。 そもそも、今の星奈には純生の話をまともに聞いている余裕さえない。 ただここから逃げたい一心で、捕らえられた身体を何度も激しく捩り、どうにかその手から逃れようともがき続けていた。「いや! 放して……あっちへ行って……!」 純生は星奈の襟首を掴んでいた手をわずかに緩め、反対の手を伸ばして、その腕を掴もうとする。 捕らえる場所を変えようとした、ほんの一瞬の隙だった。 すっかり追い詰められた星奈は、逃れようと夢中になって両腕を振り回す。そのうちの片手が、偶然にも純生の両目を覆うようにまともにぶつかった。「っ……!」 星奈は残っていた力をすべて振り絞って抵抗していた。 まともに目を打たれた激痛に、純生は大きな声で悪態を吐き、反射的に星奈の身体を前へ強く突き飛ばす。「くそっ!」 一瞬にして視界が真っ暗になり、純生はその場で両手を目元へ当て、痛みに耐えるように顔を伏せた。 何も見えないまま目元を押さえていると、すぐ近くから純希の切羽詰まった声が飛んでくる。「純生!」 あまりにも強く叫んだせいか、その声は最後にわずかに裏返っていた。 ほとんど間を置かず、少し離れた場所から、何かが激しく落ちたような大きな鈍い音が廊下中へ響き渡った。「な、なんてことを……」 管理人の震えた声も、それほど遠
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第49話

 何度電話をかけても、純希は一度も出なかった。 純生がようやく病院へ駆けつけた頃には、純希が星奈を連れて別荘を飛び出してから、すでにかなりの時間が経っていた。 受付で尋ねても、すぐには星奈のいる病室が分からない。 純生は苛立ちと焦りを募らせながら院内を歩き回り、目についた医師や看護師を何人も捕まえては、星奈がどこへ運ばれたのか問いただした。 そうしてようやく、星奈が運び込まれた病室を見つける。 扉を開けて中へ入ると、一人用の広い特別病室の中央に置かれたベッドへ、星奈が静かに横たわっていた。 目を閉じたまま、身じろぎ一つしないその姿は、ただ静かに眠っているだけのようにも見える。 病室には、ほかに誰の姿もなかった。 純生は無意識に足音を忍ばせるようにしてベッドへ近づき、星奈のすぐ傍で立ち止まった。 俯いたまま、その顔を長い間じっと見つめ続ける。 自分が何を考えているのかは、純生自身にもよく分からなかった。 星奈が別荘へ来てから、まだほんの数日しか経っていない。それなのに、目の前の星奈はひどくやつれて見えた。 別荘にいたときには、そこまで大きな変化を感じていなかった。 毎日のように目にしていたせいなのかもしれない。今こうして真っ白な病床へ横たわる姿を改めて目にして初めて、以前よりも随分痩せてしまったことに気づく。 白い頬からはすっかり血の気が失われ、もともと小さかった顔まで、さらに一回り小さくなったように見えた。 そんな星奈を見下ろしているうちに、純生の脳裏へ、かつて彼女と一緒に過ごした数々の時間が不意に蘇ってくる。 あの頃の二人は、本当に仲がよかった。 星奈が兄の婚約者だったから、自然と親しくなったというだけではない。純生は心から彼女を実の姉のように慕い、何か困ったことがあれば真っ先に星奈を頼っていた。 純生が星奈へ抱いていた親愛も、寄せていた信頼も、決して嘘だったわけではない。 むしろ、あの頃の気持ちは今でも記憶の奥へ鮮明に残っている。 どれほど憎んでも、最初から存在しなかったことにはできないほど、確かに純生の中に残り続けていた。 ただ、再会した瞬間に湧き上がった憎しみがあまりにも強すぎた。 裏切られたという怒りと、千堂家をあそこまで追い詰めた星奈を許せないという思いが、かつて彼女へ抱いていた親愛も信頼も、そのすべてを覆い
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第50話

 考えてみれば、星奈が満足に食事を取れなかった原因も自分にある。 星奈が別荘へ来てから、純生はまともな食事をほとんど与えていなかった。今朝になってようやく口にできた白いご飯でさえ、自分がわざと床へ落とし、そこから拾って食べさせたものだった。 自分がこれまで星奈へしてきたことが、彼女が意識を失った原因の一つになっている。 改めてその事実へ思い至り、純生は何も言えなくなった。「それとは別に……」 純希はそこで言葉を切り、病床に横たわる星奈へ視線を向けた。何かを迷うようにしばらく黙り込んだあと、再び純生へ視線を戻す。「純生、外へ来い。話しておかなければならないことがある」 *「何言ってるんだよ。記憶喪失? そんな馬鹿げた話、兄さんまで信じるの?」 星奈が目を覚ましたとき、最初に耳へ届いたのは、病室の外から響いてくる純生の声だった。 心底信じられないと言わんばかりの大きな声は、閉ざされた扉越しにもはっきりと聞こえてくる。 自分が病院にいることを思い出して声を抑えたのか、それとも話しながら二人が病室から離れていったのか、星奈に聞き取れたのはその一言だけだった。 それきり純生の声は聞こえなくなり、辺りには再び静寂が戻ってくる。 星奈は布団の外へ出ていた右手を、ごくわずかに動かした。 手の甲には点滴の針が刺され、そこから伸びる細い管がベッド脇の点滴台へ繋がっている。 目を覚ましたばかりの頭は、まだ深い霧に包まれているかのように朦朧としていた。身体中には鈍く重い痛みが広がり、ほんの少し指先を動かしただけでも、身体のあちこちから遅れて痛みが伝わってくる。 しばらくぼんやりと天井を眺め、少しずつ意識がはっきりしてくるにつれて、途切れていた記憶も徐々に繋がっていった。 星奈はようやく、自分が純生に突き飛ばされ、そのまま階段から転げ落ちたことを思い出す。 あまりにも突然の出来事だった。 身体を強く前へ突き飛ばされた瞬間、頭の中は真っ白になり、自分の身に何が起きているのか理解する余裕すらなかった。 階段を転げ落ち、下へ倒れ込んだあとの記憶も、ほとんど残っていない。 覚えているのは、最後に頭を強く打ちつけ、耐え難いほどの痛みが走ったことだけだった。その直後には意識を失い、こうして病院へ運ばれるまで、一度も目を覚まさなかったらしい。「……っ」 星奈
last updateLast Updated : 2026-08-29
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