記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

67 チャプター

第11話

星奈は暗闇が苦手だった。 ただ苦手という程度ではない。 暗く閉ざされた場所へ長くいると、ひどいパニックを起こすことがある。 そのことを、純希は昔から知っている。「……っ」 忘れたはずの感覚が、一瞬で胸の奥から込み上げた。 星奈を心配する気持ち。 何かあったのではないかという恐怖。 手遅れになっているかもしれないという、ぞっとするほどの焦り。 歩調は自然と速くなる。 やがて歩くだけでは足りず、ほとんど駆けるように階段下の物置へ向かった。 物置の扉には、外から鍵が掛けられていた。「星奈!」 鍵へ手を伸ばす。 急いで外そうとして、初めて自分の手が震えていることに気づいた。 焦りのせいか、扉を開ける手つきはどうしても乱暴になった。勢いよく開いた扉は大きな音を立て、しんと静まり返った深夜の屋敷に、その音だけがひどく耳障りなほど響き渡る。純希自身、さすがに力を入れすぎたかと思った。 それなのに、床へ小さく蹲っている星奈は、その音にもまったく反応しない。身体をぎゅっと丸めたまま、眠っているようにぴくりとも動かなかった。 その姿を目にした瞬間、純希の心臓が一拍止まったような気がした。 足元がわずかによろめく。 それでもすぐに星奈のもとへ駆け寄り、その場へ膝をついた。壊れ物でも扱うように慎重な手つきで星奈の身体を抱き上げ、そっと自分の腕の中へ収める。 星奈は固く目を閉じていた。顔色はぞっとするほど青白く、髪は汗ですっかり濡れて額や頬へ張りつき、服までじっとりと湿っている。 その姿はあまりにも痛々しかった。「星奈、起きろ。……星奈」 純希は声を抑えながら何度もその名を呼ぶ。普段の彼からは想像もつかないほど焦りを滲ませた表情に、後ろで見ていた純生は思わず眉を寄せた。「兄さん……」 不安そうに呼びかけても、純希の耳には届いていないようだった。「星奈。聞こえるか? 星奈……」 何度呼んでも、腕の中の星奈は目を開けない。 純希はとうとう彼女を抱いたまま立ち上がり、物置を出る際、そばにいた管理人へ短く指示を飛ばした。「こんな時間でも往診してくれる医者がいないか探してくれ。それから……玄関にいる女性は、適当に理由をつけて帰しておいてくれ」「かしこまりました」 管理人はすぐにスマートフォンを取り出し、足早に玄関へ向かっていく。 純希
last update最終更新日 : 2026-08-07
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第12話

「純生……」「兄さんを信用してないわけじゃない。でも、昔、兄さんがこいつを本気で愛してたことくらい、俺だって知ってる」 純生は純希の腕の中で意識を失っている星奈へ視線を落とし、そのまま言葉を続けた。「もしこの女が可哀想なふりをして、兄さんの同情を引こうとしたら……兄さん、本当に無視できるのか?」「……」「今だってそうだろ。ほんの少し閉じ込められただけで、こんなに取り乱してる兄さんに、本当にできるのかよ?」「違う、純生。星奈は――」「閉所恐怖症なんだろ? 知ってるよ。俺だって知ってる。でも、それが何だよ。ただの恐怖症だろ。俺は本当に殺されかけたんだぞ。しかも、こいつはわざと俺を見捨てた」「……」 純希が言葉を継ごうとした瞬間、純生が遮る。 星奈のことを知っているのは、純希だけではない。 純生もまた、何もかも知っていた。 かつて三人がどれほど親しく、どれほど強い信頼で結ばれていたのか。だからこそ、裏切られたあの日から胸に積もり続けた憎しみは、今も消えない。 純生はなおも吐き捨てるように続けた。「兄さん、あの日のことを思い出せよ。監視カメラの映像だって見ただろ? 俺が発作を起こしたあと、この女は助けも呼ばず、俺を置き去りにした。わざとだ。兄さんも全部見ただろ?」 純生の声が、わずかに震える。「……」 純希の表情がわずかに揺らいだ。 その変化を見逃さず、純生は畳みかけるようにさらに一歩、兄へ詰め寄った。「兄さん……頼むから、俺のことも可哀想だと思ってくれよ」 先ほどまでの激しい口調とは一転して、その声には縋るような響きが混じった。「俺を弟だと思ってるなら――その女は、俺に任せてくれ」 そこまで純生に言われると、純希もそれ以上は何も言えなかった。 先ほどまで焦りのあまり激しく脈打っていた心臓は、今もなお胸を強く打ち続けている。 何か言おうと唇を開く。だが、言葉は最後まで出てこなかった。 純希は黙ったまま、腕の中に抱いていた星奈を純生へ引き渡す。純生が口にした「あの日」のことなら、純希も忘れたことなど一度もない。 発作を起こした純生の心臓が、あと少しで止まりかけていたこと。 そして監視カメラの映像に映っていたのは、そんな純生を見捨てるように立ち去っていく星奈の姿だった。 あの映像を目にした瞬間、胸の奥を引き裂かれるような
last update最終更新日 : 2026-08-07
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第13話

 平手が頬に叩きつけられた勢いで、星奈の顔が大きく横へ弾かれた。 頭の奥まで揺さぶられたように、耳の奥では鈍い耳鳴りがじんじんと鳴り続けている。 目を覚ましたばかりの星奈は、何が起きたのかすぐには分からなかった。「……」 呆然としたまま身じろぎひとつできない。 自分の身に何が起きているのかをようやく理解したのは、それから少し経ってからだった。「いや……」 遅れて、頬の熱と鋭い痛みが一気に押し寄せる。 殴られたのだと気づいた瞬間、火傷でも負ったかのように頬がひりひりと焼けついた。星奈はほとんど無意識に手を伸ばし、髪を掴んでいる純生の手首を掴んだ。どうにか放してもらおうとしただけだった。  しかし、その手はすぐに純生によって力いっぱい払い落とされた。「っ……!」 ぱしん、と乾いた音が響いた。 間もなく、星奈の手の甲にはくっきりと赤い手形が浮かび上がる。「痛い……」「いちいちそんな顔すんな。可哀想なふりしたって、俺がお前に同情すると思うなよ」 純生は吐き捨てるように言った。 赤く腫れ上がった両頬をしばらく睨みつけたあと、三度目の平手を振り上げることはしなかった。 それでも、髪を掴む手だけは最後まで緩めようとしなかった。 昔の星奈の髪は、いつも丁寧に手入れされていた。 星奈は、きらきらと輝く髪飾りが大好きだった。 千堂家へ純希に会いに来るたび、その髪には可愛らしい髪飾りが飾られていた。 しかも、同じものを身につけていることはほとんどない。 純希が星奈へ贈った髪飾りは、数え切れないほどあった。 高価なものも、美しいものも、ダイヤモンドをあしらったものも。 以前には、オークションで落札した宝石を職人に預け、星奈だけの髪飾りへ仕立てさせたことさえある。 あの頃は、誰もが星奈を可愛がっていた。 欲しがるものは、何でも与えられた。 眩しいほど華やかなその姿を見て、純生も本気で信じていた。 自分たちは、この先もずっと家族になるのだと。 ――それなのに。「……」 手の中にある星奈の髪は、もう昔のような滑らかさを失っていた。実際に掴んでみると、その違いは嫌でも分かる。 こんな田舎では、以前のように行きつけのサロンへ通い、手入れを続けることもできないのだろう。 純生は確かめるように、髪を掴む指へさらに力を込めた。「っ……
last update最終更新日 : 2026-08-08
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第14話

 星奈は何もできなかった。 ただ呆然としたまま、次々と髪が切り落とされていく感覚に耐えるしかない。 純生の手に迷いはなく、その動きは驚くほど速い。 一分も経たないうちに、星奈の髪はすっかり見る影もなくなっていた。 もともとは腰に届きそうなほど長く、美しく伸びた髪だった。 それが今では、あるところだけ不自然に長く残り、別のところは乱暴に短く切られ、ひどく不揃いになっている。 あまりにも無残で、どこか滑稽ですらある髪型だった。 それなのに、当の星奈は自分に何が起きたのか受け止めきれないまま、ただ呆然と目を見開いている。 その姿に、純生はとうとう堪えきれず、ふっと笑い声を漏らした。「お姫様、自慢の綺麗な髪がどうなったか、見てみたくない?」「……え……」 星奈の返事など待つつもりは、最初からない。 純生は言い終わるなり星奈の腕を掴み、強引に立ち上がらせた。 抵抗する暇も与えず、そのまま引きずるように浴室へ連れていく。「ほら、見ろよ」 浴室へ入ると、純生は星奈を鏡の前へ立たせた。 逃げることも、目を逸らすことも許さない。腕を掴んだまま、無理やり鏡へ映る自分の姿を見せつける。 そこに映っていたのは、さっきまでの星奈とはまるで別人のような姿だった。 腰近くまであった長い髪は見る影もなく、長さも何もかもばらばらに切り刻まれ、無惨に乱れている。 純生は、ここまで大切にしていた髪を無残に切られれば、さすがの星奈も本性を隠しきれなくなると思っていた。 泣き喚くか、怒り狂うか。それとも以前のように癇癪を起こし、自分を罵るのか。 どんな反応を見せるのかと、純生はむしろ楽しみにしていた。 ところが――。 鏡に映る自分を見つめても、星奈はただ呆然と立ち尽くしているだけだった。 あれほど長く、大切に伸ばしてきた髪が見る影もなく切り刻まれているというのに、涙は一滴も零れない。「……」 悲しくないわけではなかった。 あまりにも突然いろいろなことが起き、心が追いついていなかっただけだ。 目を覚ましてから、状況を理解する暇さえないまま頬を打たれ、髪を掴まれ、大切に伸ばしてきた髪まで切られた。 何もかもが、あまりにも突然だった。 身体はその場へ縫いつけられたように強張り、どう反応すればいいのかも分からない。 記憶を失って以来、星奈はこんなふうに
last update最終更新日 : 2026-08-08
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第15話

 純生はシャワーの水圧を最大まで上げていた。 激しく降り注ぐ冷水が容赦なく全身を打ち、まるで無数の小石をぶつけられているかのような鈍い痛みが走る。 それ以上につらかったのは、突然全身を襲った凍えるような冷たさだった。「……っ!」 星奈は息を呑み、一瞬、呼吸の仕方さえ分からなくなる。身体は反射的に縮こまり、少しでも水から逃れようともがいた。 しかし、服も髪もたちまちずぶ濡れになり、浴槽の底は水でひどく滑りやすくなっている。 立ち上がろうとしては足を滑らせ、何度繰り返しても浴槽から抜け出すことはできなかった。「……っ、や……」 容赦なく顔へ打ちつける水に視界を奪われ、目を開けることさえできない。 やがて逃げることを諦めた星奈は、浴槽の隅へ身を寄せ、頭を庇うように両腕で抱え込み、小さく身体を丸めた。 華奢な身体は寒さに耐えきれず、小刻みに震え続ける。 長い時間、冷水を浴び続けるうちに、身体は少しずつ感覚を失い、やがて冷たささえ曖昧になっていった。「何だよ。もう逃げないのか? その情けない姿を見せれば俺が同情するとでも思ったのか? 夢見てんじゃねえよ!」 純生は冷たく吐き捨てた。 もし、以前の星奈だったなら――。 以前の星奈は、甘やかされて育ったお嬢様だった。 柚木家の一人娘である彼女は、両親から本物の姫のように可愛がられ、純希と純生の両親も実の息子たち以上に星奈を大切にし、その願いを何でも聞き入れていた。 星奈は周囲の誰からも愛され、守られながら育ち、純希と純生も幼い頃から妹のように大切にするよう教えられてきた。 二人とも、それを嫌だと思ったことは一度もない。 ずっと星奈の傍で一緒に育ち、純生もまた、かつては心から彼女を大切にしていた。 少しくらい我が儘でも、甘えん坊でも、それすら愛おしいと思っていた。 だが、そんなふうに心から大切にした相手に裏切られた結果、千堂家は崩壊寸前まで追い込まれた。  今、自分の手で冷水を浴びせられ、浴槽の隅で震えている星奈を見ても、純生の胸に湧き上がるのは、吐き出しきれないほど激しい怒りだけだった。 何をされても抵抗せず、弱々しく震える姿さえ、純生には計算し尽くされた演技にしか見えない。怯えた表情も、小さく身を縮める仕草も、そのすべてが自分たちを欺くための芝居に思えてならなかった。「くそっ!
last update最終更新日 : 2026-08-10
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第16話

 やがて純生に引きずられるまま階段を下りていく。 何度も足を踏み外しかけながら、ようやく一階まで連れていかれた、そのとき――。 星奈はリビングに立つ純希の姿を見つけた。 いつからそこにいたのかは分からない。 その端正な顔には、何の感情も浮かんでいなかった。 だが、純生に引きずられながら顔を上げた瞬間、星奈と純希の視線は真っ直ぐに交わった。 星奈のあまりにも痛々しい姿と、見る影もなく切り刻まれた髪を目にした瞬間、純希は反射的に眉を寄せた。 その瞳には一瞬だけ、見ていられないとでもいうような痛ましげな色が浮かぶ。 だが、純生と視線が合った途端、その感情は跡形もなく消え去った。「純生、これは……」「兄さん、見てくれよ。こいつの今の格好、すげえ笑えるだろ?」 まるで自分のしたことを誇るように、純生は首を掴んだまま星奈を純希の前まで引きずっていく。 濡れた服や髪からは絶え間なく水が滴り落ち、ぽたぽたと床へ落ちた雫は、あっという間に足元へ浅い水溜まりを広げていった。 純希は改めて星奈の全身へ視線を向けた。「……ああ」 感情の読み取れない声が短く返る。 そのまま一歩後ろへ下がった。床に広がる濡れた水へ触れたくないとでもいうように。「俺も笑っちまったよ。昔から、こいつは自分の髪を何より大事にしてただろ? 兄さんに買ってもらった髪留めを毎日のようにつけてたよな。なのに、さっき俺が髪を切ってやったときは、ずいぶん我慢強くてさ。一言も声を上げなかったんだぜ」 純生は星奈の首を掴んだまま口元を歪め、嘲るように笑った。「……」「ここまで平気なふりができるんだから、大したもんだよ。だから兄さん、あとでこいつが泣きついてきても、絶対に騙されるなよ」 純生の話を聞きながら、純希は堪えきれずに視線を落とした。 目に入ったのは、無残に切り刻まれた星奈の髪だった。 水に濡れた長さの揃わない毛先が頬や首筋に張りつき、見るも無残な姿になっている。 星奈がどれほど自分の髪を大切にしていたのか、それを誰より知っているのは純希だった。 学生の頃、悪戯好きな男子生徒に毛先をほんの一房切られただけで、星奈は何日も腹を立て、泣きながら何度も純希に不満をぶつけてきた。 そんな星奈が、ここまで髪を切られても怒ることすらなく、一言も声を上げなかった。 その事実が、胸の奥
last update最終更新日 : 2026-08-10
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第17話

 純生の蹴りには、明らかに力がこもっていた。 まともに蹴り飛ばされた星奈は床へ倒れ込み、しばらく起き上がることさえできなかった。 純希はつい先ほど、星奈へ冷酷な言葉を突きつけたばかりだった。 それでも、弟のあまりにも乱暴な振る舞いを目の当たりにすると、思わずその名を呼んでしまっていた。「純生……」「兄さん、こいつはこうされて当然なんだよ。今さら『純希兄ちゃん』なんて呼んで、俺たちにも千堂家にも、少しも悪いと思ってねえんだ」 やはり純生も癇に障ったのは、星奈の口からこぼれた「純希兄ちゃん」という呼び方だった。 自分たちにあれほどひどいことをしておきながら、何もなかったかのような顔で、昔と変わらない呼び方をする。 その厚かましさが、純生にはどうしても許せなかった。怒りを抑えきれず、その目はうっすらと赤く染まっている。 純希はそんな弟の様子を見ると、その腕を掴み、星奈から引き離すように少し離れた場所へ連れていった。「分かってる、純生。兄さんも分かってるから、そんなに興奮するな。また発作が出るぞ」 こんな場所で純生に発作が起きても、すぐ病院へ連れていくことはできない。 純希の声にも焦りが滲んでいた。弟を宥めながら、どうすれば純生が満足するのか、どうすれば落ち着いてくれるのか、そればかりを考えていた。「純生、兄さんが代わりにあの女を罰してやる。な?」「……さんに何ができるんだよ」「……」 純希は、人を殴れるような男ではなかった。 これまで生きてきた中で、誰かへ暴力を振るったことなど一度もない。まして相手が女なら、なおさらだった。 どれほど憎い星奈が相手でも、それは変わらない。 ようやく彼女を見つけ出してからも、純希にできたのは冷たい言葉を浴びせることくらいだった。純生のように、ためらいなく手を上げることはできない。 しばらく考えた末、純希は低い声で尋ねた。「もう一度、あの物置に閉じ込める。それならいいか?」 星奈が閉所をひどく怖がることは分かっている。 今の純希に思いつく中では、それが最も彼女を苦しめられる罰だった。「兄さんはやっぱり甘いよ。……だったら、明日俺が起きるまで、絶対に出すなよ」「ああ、分かった」 純生はまだ不満そうだったが、純希がそう言うのならと、それ以上反対はしなかった。 希は床に倒れたままの星奈の腕を掴
last update最終更新日 : 2026-08-11
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第18話

 冷たい感触は、ほんの一瞬で離れていく。 星奈はその温もりを追いかけるように手を伸ばそうとする。だが、身体は鉛のように重く、瞼を開くことも、指先ひとつ動かすこともできない。 意識を完全に手放す、その直前。 耳元で、誰かが小さく息を吐く音が聞こえた。 ひどくかすかな、ため息だった。 なぜかその響きには、胸まで締めつけられるような悲しさが滲んでいる。 星奈はその音を最後に聞きながら、泣きたいと思うほどの苦しさを胸へ抱えたまま、深い闇の中へ沈んでいった。 一晩中、星奈は苦しみ続けた。 眠りに落ちても、身体が燃えているかのような熱に苛まれ、意識は深いところで何度も浮かんでは沈んだ。 目を覚ましているようでもあり、気を失っているようでもある。 夜の間に、何度か意識が戻ったような気はした。それでも、重い瞼を開けることはできない。 星奈は暗闇と静寂の中、再び意識が途切れ、この苦しみから逃れられる瞬間をひたすら待ち続けた。 浅い眠りから浮かび上がっては、また深い闇の底へ沈んでいく。 それを幾度となく繰り返すうちに、星奈は身も心もすっかり疲れ果てていた。 ようやくはっきりと目を覚ましたときも、そのきっかけとなったのは痛みだった。「……っ!」 どうやら、すでに新しい一日が始まっているらしい。 頬には、殴られたあと特有の、今ではすっかり覚えてしまった鈍い痛みが残っていた。 床に横たわっていた身体が、突然誰かの手によって乱暴に引き起こされる。 星奈がかろうじて目を開けると、視界が激しく回った。 ひどい眩暈に襲われ、すぐ目の前にあるものさえ、まともに見分けることができない。 息を整える暇すら与えられないまま、今度は身体を強く床へ突き飛ばされた。「……っ!」背中が、物置の中に置かれていた硬い何かへ激しくぶつかる。 積み上げられていた物が轟音を立てて崩れ、その音と背中を襲った痛みが、ほとんど同時に星奈へ押し寄せた。「うぅ……痛い……」 朦朧とする意識の中、苦痛に耐えきれず声が漏れる。 けれど、それに返ってきたのは、目の前に立つ男の嘲るような鼻笑いだけだった。「起きろ。ここは、お前がのんびり寝てていい場所じゃねえんだよ」 純生だった。 開け放たれた扉の向こうから、明るい日差しが差し込んでいる。その光を目にして、星奈はようやく、すでに夜が
last update最終更新日 : 2026-08-11
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第19話

 プールには、すでに半分ほど水が張られている。 傍らでは給水用の機械が低い音を立てながら動き続け、今も勢いよく水を注ぎ込んでいた。 どうやら、つい先ほど水を入れ始めたばかりらしい。 鼻を刺すような、強烈な消毒薬の臭いが漂ってくる。「……っ」 その臭いを嗅いだ瞬間、星奈の胸に言いようのない不安が込み上げた。 純生が自分をどこへ連れていこうとしているのか。 これから何をするつもりなのか。 考えたくなくても、その答えは目の前にあった。「ま、待ってください……!」 気づけば、すでにプールの縁まで引きずられていた。 純生が何をしようとしているのかを察し、星奈は顔を青ざめさせながら必死に身を捩った。「待って……お願い、やめて……!」 残っている力を振り絞り、どうにかその手から逃れようとする。 だが、その抵抗もほんの一瞬しか続かなかった。 純生は何のためらいもなく、星奈の身体を乱暴に突き飛ばした。「いや――!」 どぼん、と大きな水音が響く。 次の瞬間、星奈の視界は激しく回転した。 上下すら分からないまま全身が水に呑み込まれ、口や鼻から容赦なく水が入り込んでくる。「……っ、げほっ……!」星奈は苦しさにもがきながら、必死に手足を動かした。 やがて足先がプールの底に触れ、どうにか立ち上がる。 激しく咳き込みながら顔を上げたときには、純生はすでに手の届かないプールサイドから、冷たい目で星奈を見下ろしていた。 プール自体は、特別深いわけではない。 だが、水面はすでに星奈の口元近くまで迫っていた。傍らに置かれた機械からは、今も絶え間なく大量の水が注ぎ込まれている。 落とされた直後には胸元までしかなかった水も、みるみる嵩を増し、気づけば顎の高さにまで達していた。「……っ」 このまま水が溜まり続ければ、爪先立ちをしなければ鼻や口まで水に沈んでしまう。 そして、プールへ投げ込まれてからさほど時間も経たないうちに、星奈はとうとう爪先で身体を支え続けるしかなくなった。 初めのうちは、どうにか耐えることができた。 時間が経つにつれて爪先や脚へ負担が積み重なり、姿勢を保つために全身へ力を入れ続けることさえ、次第につらくなっていく。 それでも、岸へ近づくことはできなかった。純生はプールサイドに立ち塞がり、星奈が少しでも岸へ寄ろうとすれば、容
last update最終更新日 : 2026-08-14
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第20話

 時間だけが、恐ろしいほどゆっくりと流れていく。一分一秒がどこまでも引き延ばされているかのように長く感じられた。 星奈が物置から引きずり出された頃、朝の陽射しはまだそれほど強くなかった。懸命に爪先で身体を支え続けるうちに、意識は少しずつ朦朧としていく。 ぼんやりとした視線が、水面へ落ちた。 陽光を反射し、きらきらと無数の光を散らす水面。その眩しさを見つめているうちに何度も意識が遠のき、脚から力が抜けた。「……っ!」 身体が沈み、鼻や口へ水が流れ込む。「げほっ……ごほっ……!」 息苦しさに我へ返るたび、星奈は慌てて手足を動かし、どうにか再び立ち上がった。 その様子を見るたびに、純生はようやくスマートフォンから目を上げる。水を飲んで激しく咳き込む星奈を眺め、口元には悪意に満ちた笑みを浮かべた。 だが、苦しげに顔を上げた星奈と視線が合うと、その笑みは一瞬で消え去る。純生は再び冷え切った表情に戻り、鼻で笑いながら言い放った。「お姫様、まだ一時間も経ってねえぞ。何を大袈裟に苦しんでるふりしてんだよ」「……」「昔は毎年、夏になるたび島へ遊びに行ってただろ。この程度の水で、お前がどうにかなるわけねえだろうが」 純生の口ぶりからすると、以前の星奈は泳げたらしい。 だが、今の星奈には、水の中でどう身体を動かせばいいのかさえ分からなかった。試しに何度か腕を動かしてみても、馴染みのある感覚は何一つ蘇ってこない。「でも、今の私は……泳げないんです……」 そのことを必死に伝えようとした。 けれど、星奈がどれほど正直に話しても、純生はその言葉を信じようとはしない。どんな言葉も、彼の中では都合よく別の意味へとすり替えられてしまう。「昔は泳げたくせに、俺たちを裏切ったら泳げなくなったっていうのか?」 純生の声が低く沈む。「星奈、お前なんか今すぐここで溺れ死ねばいいんだ」 純生の呪いにも似た言葉は、腹立ち紛れに口を滑らせただけとは思えなかった。 本気で星奈の死を望み、このまま自分の目の前で溺れ死ねばいいと願っている。 その剥き出しの悪意が、胸に突き刺さった。 星奈は何も言えなくなった。 恐怖に身体が強張り、無意識のうちに数歩後ずさる。その拍子に足元が滑り、再び水の中へ沈みかけた。「……っ!」 慌てて腕を動かし、どうにか体勢を立て直す。あと少し反
last update最終更新日 : 2026-08-14
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