All Chapters of 記憶を失ったら、復讐しに来た彼に執着されました: Chapter 51 - Chapter 60

67 Chapters

第51話

「今回のことは純生が悪かった。兄である俺が、あいつに代わって謝る。……望む補償があるなら、こちらで応じる」 長い沈黙の末、純希が最初に口にしたのは、弟に代わる謝罪だった。 今の星奈の状態と、純生を目にしたときに受けるであろう精神的な負担を考え、純希は先ほど弟を宥め、ひとまず病院から帰らせていた。 星奈が本当に記憶を失っている可能性を知ったのも、彼女を病院へ運び込んだあとのことだった。 偶然にも、今回星奈を診察した医師は、以前の事故で彼女がこの病院へ運び込まれた際にも、診察を担当した医師だった。 人口の少ないこの土地にある病院では、事故をきっかけに過去の記憶を失う患者など、五年に一度出会うかどうかというほど珍しい。医師が星奈のことを強く覚えていたとしても、何ら不思議ではなかった。 純希はすぐには信じることができず、医師へ何度も質問を重ねた。 事故当時の状態から記憶を失った経緯まで、どれほど細かく尋ね、問い方を変えて確かめても、返ってくる説明と結論は変わらない。 星奈が実際に事故に遭ったことも、その影響で過去の記憶を失ったことも、この病院の診療記録にはっきりと残されている事実だった。 それでも、何もかもがあまりに出来すぎた偶然に思えてしまう。 自分たちを裏切って姿を消した星奈をようやく見つけ出したと思えば、当の本人は事故に遭い、自分たちに関する記憶も、過去に起きたこともすべて忘れている。 純生がそんな話を信じられないと声を荒らげたのも、無理はなかった。 医師から詳しい説明を受け、診療記録という確かな証拠まで目にした純希でさえ、こうして目の前の星奈を長い間見つめていても、まだその事実を完全には信じきれずにいる。 あれほどひどいことをしておきながら、過去に結ばれていた情も、自分が犯した罪も、何一つ背負わなくていい。 すべてを忘れ、何事もなかったかのように新しい人生を始める。 そんな都合のいい話があるものか。 胸の奥から込み上げてきた不快感に、純希は深く眉を寄せた。 目の前の星奈は、本当に何も覚えていない人間の顔をしている。 以前のように強気な態度を見せることもなく、ただ純希の視線を受けているだけで、怯えたように身体を強張らせていた。 その姿を見ていると、余計に苛立ちが募る。 純希は胸の内に湧き上がる感情を無理やり呑み込み、できるかぎ
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第52話

 星奈の願いは、決して難しいものではなかった。 むしろ、補償として提示するには、あまりにも簡単すぎる要求だった。 純希はそれを聞いても何も問い返さず、ただ一度頷いた。携帯電話を取り出して病室を出ていき、誰かと短い通話を済ませてから、ほどなくして戻ってくる。 それから十分も経たないうちに、一人の女性がほとんど駆け込むような勢いで病室へ入ってきた。 その姿が見えるより先に、聞き慣れた声が星奈の耳へ飛び込んでくる。「星奈!」「恵子さん!」 恵子の姿を目にした瞬間、先ほどまで星奈の胸を占め続けていた恐怖が、ようやくほんの少しだけ和らいだ。 病床まで駆け寄ってきた恵子に、そのまま強く抱き締められる。 身体から漂う、いつもと変わらない洗濯石鹸の匂いを感じた途端、星奈の鼻の奥が急に熱くなった。 張り詰めていたものが、一気に切れてしまったのかもしれない。 次の瞬間にはもう堪えきれなくなり、星奈は恵子の胸へ縋りつくように身体を縮め、声を上げて泣き始めていた。 どれくらい泣き続けたのか、星奈自身にも分からない。 ほんの数分だったのかもしれない。それでも、星奈にはとても長い時間だったように感じられた。 病室に残っていた純希は何も口にせず、二人の邪魔をすることもなかった。星奈が胸の内へ溜め込んでいた恐怖や不安をすべて吐き出すまで、少し離れた場所から静かに待っていた。 恵子の手が、震える星奈の背中を何度も優しく叩く。 耳元では、星奈を安心させるように低く抑えられた温かな声が、何度も繰り返されていた。「もう大丈夫よ、星奈ちゃん。やっと見つけられた……本当によかった。もう大丈夫だからね。これからは絶対に離れないから。ずっと私と一緒にいよう、ね?」 星奈を慰める言葉を重ねるうち、恵子の声にも次第に涙が混じり始めた。 ここまで、ずっと必死に堪えていたのだろう。 腕の中で泣き続ける星奈は、散々傷つけられた末に、ようやく頼れる相手を見つけた幼い子どものように見えた。 あまりにも痛ましいその姿を前にして、恵子もとうとう涙を抑えきれなくなった。 星奈がいなくなっていたこの三日間、恵子もまた、苦しい時間を過ごしていた。 星奈があの別荘にいることは分かっていた。 それでも中へ入ることはできず、誰かに助けを求めることさえ叶わなかった。 村の中で物事を取り仕切って
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第53話

 立て続けに投げかけられた問いは、どれも純希と純生に関わるものだった。 星奈はすぐに答えることができなかった。 何かを口にすれば、それをすべて純希に聞かれてしまう。 そう思っただけで恐怖が先に立ち、星奈は唇を固く閉ざしたまま、ほんの一度だけ、様子を窺うように純希へ素早く視線を向けた。 その小さな動きを、恵子は見逃さなかった。 恵子は眉を寄せ、少し離れた椅子へ腰を下ろしたまま何の感情も見せない純希を、警戒の滲んだ鋭い眼差しで睨みつける。「そちらの方。星奈と二人で話したいので、少し病室を出ていただけませんか」 恵子から向けられた敵意のこもった言葉に、純希は反射的に眉を寄せた。 それまで感情らしいものをほとんど見せていなかった顔がすっと険しくなり、咄嗟に拒絶の言葉が口をつきそうになる。 だが、恵子の腕の中へ逃げ込むように身を縮めている星奈の姿が目に入り、純希は口を閉ざした。 星奈は自分と目が合うことさえ恐れているかのように俯き、恵子へ縋りついている。純希が少しでも視線を向ければ、それだけで身体を強張らせてしまいそうなほど怯えていた。 そんな星奈を見ているうちに、彼女がなぜ今、この病院のベッドへ横たわっているのか、その理由まで嫌でも思い出される。 純希の表情は険しいままだった。 それでも結局、恵子へ何も言い返すことはなかった。椅子から静かに立ち上がると、一度だけ星奈へ視線を向け、そのまま病室を出ていく。 病室の外へ出た純希は、扉を完全には閉めなかった。 わずかに隙間を残したまま廊下側の壁へ背中を預け、そこから漏れ聞こえてくる二人の話し声へ、何とはなしに耳を傾ける。 聞こえてくるのは、ほとんど恵子の声ばかりだった。 よほど星奈のことを心配していたのだろう。あるいは、ようやく誰にも邪魔されず二人きりで話せるようになり、この三日間ずっと聞きたかったことが次々と溢れ出しているのかもしれない。 恵子は一つ尋ねては星奈の返事を待ちきれないように、続けざまにまた別のことを問いかけていた。 気が急いているせいか、その声も決して小さくはない。扉に残されたわずかな隙間を通して、廊下にいる純希の耳にも、一つ一つの言葉がはっきりと届いていた。 話が自分たちのことへ及んだのか、ときおり恵子の口から「千堂純希」や「純生」という名前まで聞こえてくる。 もちろん
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第54話

 実は星奈は、病室の扉がほんのわずかに開いていることに気づいていた。 なぜかは分からない。それでも、純希が扉の向こうにいるような気がしてならなかった。 そのため、恵子から何をされたのかと尋ねられても、星奈は無意識に声を潜め、千堂家の二人について詳しく口にすることができなかった。 恵子をこれ以上心配させたくない気持ちもあった。 星奈は少し迷った末、自分はうっかり足を踏み外し、階段から転げ落ちてしまったのだと説明した。 純生と純希についても、記憶を失う前は二人ととても仲が良かったらしく、その縁があってしばらく別荘に置いてもらっていたのだと、できるだけ曖昧に話した。 自分では、それほど大きな矛盾のある話ではないと思っていた。 そもそも恵子は本当の事情を知らないのだから、これだけ説明しておけば、そこまで疑われることもないはずだった。 けれど、なぜか恵子は純希と純生のことになると、途端にひどく腹を立てた。 まるで、あの二人が星奈に何かをしたと、最初から確信しているかのようだった。 そこまで怒るからには、きっと何か理由があるはずだ。 不思議に思った星奈が尋ねてみても、恵子は一瞬気まずそうに視線を逸らすだけで、この数日の間に自分の身に何があったのか、詳しく話そうとはしなかった。 この数日、星奈は確かにかなりひどい目に遭っていた。 純生には何度も殴られ、一日中プールの中に入れられた末、とうとう意識まで失った。 それでも幸いなことに、身体には一目で虐待されたと分かるほど目立つ痕はほとんど残っていない。見える場所に残っているのも、数か所の薄い痕くらいだった。 これなら、どこかへぶつけたのだと言えば、どうにか誤魔化すこともできる。 ただ、髪だけはどうしようもなかった。 以前は長かったはずの髪が、今では耳の下まで短くなっている。どう見ても、事故で階段から落ちただけでこうなったとは説明できない。 恵子は不自然なほど短くなった星奈の髪へそっと触れ、心配そうに毛先を指で撫でながら、さらに詳しく問いただそうとした。 そのとき、わずかに開いていた病室の扉が外側から大きく開かれた。 再び病室へ戻ってきた純希の手には、星奈のスマートフォンが握られていた。「話は終わったか」「まだ話してるのが見えないの? こんな短い時間で終わるわけないでしょう」「そうか。でも
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第55話

 自分の家に関わる話だと聞けば、星奈も黙っていることはできなかった。 純希への恐怖は、今も消えていない。それでも星奈は、おそるおそる手を伸ばし、恵子の服の袖を小さく引いた。「恵子さん、私……彼の話を聞きたいです……」 恵子は眉を寄せたまま、依然として純希を警戒するように星奈の前へ立ちはだかっていた。どうやら病室から出ていくつもりはないらしい。「それなら、ここで話してください」「柚木家と俺たち千堂家、二つの家に関わる話だ。家同士の内情でもある。部外者のお前には、ひとまず席を外してもらいたい」「あんた……!」 純希の声音はどこまでも淡々としていた。 それなのに、その態度にはどこか相手を見下ろすような傲慢さと、恵子が最後には自分の要求を受け入れると確信しているような余裕が滲んでいる。 その様子が、恵子にはひどく不愉快だった。 今すぐ言い返してやりたい。けれど、純希の要求を真っ向から否定できるだけの理由があるかといえば、そうではなかった。 他人の家に関する話なら、少なからず私的な事情や秘密が含まれていて当然だ。ましてや今回は、柚木家と千堂家という二つの家に関わる話だという。純希がその内情を部外者に聞かせたくないと考えるのも、理屈としては理解できた。 頭では分かっている。 それでも、感情まで素直に従ってくれるわけではない。 純希の思惑どおりに自分だけが病室を出て、彼の要求に屈したような形になることが、恵子にはどうしても気に入らなかった。 星奈もまた、恵子に離れてほしくなかった。 今の自分にとって、恵子はこの場で唯一心から頼れる人だ。一人きりで純希と向き合うことを想像しただけで、胸の奥に再び恐怖が込み上げてくる。「恵子さんは、私にとって本当のお姉さんみたいな人です。だから、柚木家のことを聞かれても……私は構いません」 星奈の言葉を聞いた純希は、ごく小さく笑った。 何も知らない星奈の無邪気さを、どこか嘲笑うような笑みだった。「星奈、その『お姉さん』には席を外してもらったほうがいい。もちろん、俺の話を聞いたあとでも、柚木家の事情を部外者に知られても構わないと思うなら、そのときはいつでも呼び戻せばいい」 どうやら恵子が病室に残っているかぎり、純希は何も話すつもりがないらしい。 三人の間に重苦しい沈黙が流れた。 誰も譲ろうとしないまま、し
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第56話

 星奈の視線は、純希の携帯電話の画面へ釘づけになっていた。 純希の揶揄を含んだ問いかけが耳に入っても、ほとんど無意識のうちに、ごく小さく首を横へ振っただけだった。 画面に表示されていたのは、柚木家に対する債権の譲渡契約書だった。 債権の譲受人として記されているのは、純希が代表を務める千堂グループ。 星奈は布団の上に落ちていた携帯電話を手に取り、契約書の内容を詳しく読み始めた。 文書には法律関係の専門用語が数多く並び、星奈には理解できない箇所も多かった。何度読み返しても、曖昧にしか意味を掴めない。 それでも、柚木家が莫大な負債を抱えていることだけは理解できた。 そして、その債権を譲り受けた千堂側が、今では法的にも柚木家の債権者となっていることも。「どうして……」「以前のお前も、まだ知らなかったようだな。柚木グループはかなり前から複数の事業で多額の損失を出し、資金繰りが深刻に悪化していた」 純希は感情を交えない声で説明を始めた。「今回、お前が千堂家から盗み出した機密資料の中には、千堂グループと柚木グループが共同で進めていた事業の重要書類も含まれていた。その情報が外部へ漏れたことで、柚木グループは最後に残されていた資金調達の道まで断たれ、ついに資金繰りが破綻した」「え……」 純希は星奈から目を逸らすことなく、ゆっくりと言葉を続けた。「今では、お前の両親名義だった資産もすべて処分されている。家や土地をはじめとする不動産も、有価証券も、もう何一つ残っていない。それでも、昔からの両家の付き合いに免じて、柚木家に対する債権は俺がすべて買い取った」 純希の声音は、不自然に思えるほどゆっくりとしていた。 一言一言の意味を星奈の頭へ刻みつけるように、わざと間を置きながら告げていく。「分かるか、星奈。柚木家に残された借金は、今ではすべて俺のところにある」 星奈の顔から、さらに血の気が引いていった。 もともと体調が戻りきっておらず青白かった顔は、今にも倒れてしまいそうなほど色を失っている。「私の両親は……? それに、どうして私が……」「お前の両親なら、会社が破綻したその日の夜に逃げたよ。親も親なら、娘も娘だ。どこまでも卑怯な人間だったとはな。どうしてこんなことになったのか知りたいなら、星奈、お前自身が記憶を取り戻すしかない」 純希は容赦なく言い
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第57話

 星奈が純希から聞かされた話を懸命に理解しようとしている中、純希はその事実を受け止める時間さえろくに与えず、すぐに次の話を切り出した。「星奈、お前の両親は会社が潰れた途端、そのまま逃げた。今となっては、どこへ行ったのかも分からない。となれば、柚木家の借金を誰に請求することになるかなんて、考えるまでもないだろう?」 純希は一度言葉を切り、みるみる青ざめていく星奈の顔を静かに見つめた。「星奈。両親が残していったものは、結局お前が背負うしかない。数日のうちに弁護士からも連絡が来るだろう。……まあ、その金額を見れば、お前が今の生活を何十年続けたところで、返せるような額じゃないことくらい、すぐに分かると思うけどな」 純希がわざと深刻な言い方をして、自分を怖がらせようとしているのか。それとも、本当にそれほど逃れようのない状況なのか。星奈には判断がつかなかった。 ただ、その言葉を聞くほどに、星奈の顔には隠しきれない焦りが浮かんでいく。 手にしたスマートフォンへ慌てて目を落とし、画面に表示されている債権譲渡契約書を何度も確認する。 それでも不安は消えず、今度は確かめるように、ほとんど表情を変えない純希の顔へ目を向けた。 けれど、純希の様子はとても嘘をついているようには見えなかった。 契約書にも、白い画面の上にはっきりと柚木の名が記されている。そこに並ぶ数字も、星奈には到底現実のものとは思えないほど大きい。 こうして証拠まで目の前に突きつけられてしまえば、彼の話を疑うことなどできなかった。「私……こんなに高い金額……私……」 震える声でそこまで口にしたものの、その先がどうしても続かなかった。 記載されている借金の額をもう一度確認する。 本当なら、「返します」と言うべきなのかもしれない。 けれど、そんな無責任な約束さえ、今の星奈には口にすることができなかった。 あまりにも莫大な金額だった。 星奈が目を覚ましたとき、財布の中には数千円しか残されておらず、キャッシュカードさえ持っていなかった。今こうしてどうにか生活できているのも、恵子の手作り教室で働かせてもらっているからだ。 そもそも、あの教室は人手に困っていたわけではない。 今も給料を受け取れているのは、恵子が星奈の事情を思いやり、好意で仕事を与えてくれているからにすぎなかった。 そのことは、星
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第58話

  純希はそこでわずかに間を置き、星奈の反応を確かめるように言葉を続けた。「もちろん、きちんと働いて、俺を……純生を喜ばせることができれば、さらに上乗せしてやるかもしれない」「使用人……」 星奈の口から、戸惑いを含んだ声が零れる。 すぐに返事をしようとしない彼女を眺め、純希はわずかに口元を歪めた。そこに笑みらしい温度はほとんどない。「何だ、足りないのか? それとも、この程度の給料では働けないとでも? もっとも、昔のお前が何気なく買っていたものは、これより高い物ばかりだったがな」 星奈は慌てて首を横へ振った。 純希が提示した金額に不満があるわけではない。 むしろ今の星奈からすれば、使用人として雇うためだけにそこまでの給料を出してくれること自体、本当に過去の関係を考慮してくれているのではないかと思えるほどだった。 恵子と暮らすようになってから、星奈の金銭感覚はすっかり彼女と同じものになっている。 以前の自分がどのような暮らしを送り、どれほどの金を何の躊躇いもなく使っていたのか。記憶を失った今の星奈には、まるで他人の話のようで、想像することさえできなかった。「私は、ただ……」 星奈が迷っているのは、金額のためではない。 純生のそばにいたくなかった。 もちろん、純希のそばにいることだって望んでいない。 あの別荘で過ごした三日間を思い出すだけで、身体が強張る。 殴られ、冷たい水の中へ入れられ、いつ何をされるのかも分からないまま怯え続けた、あの地獄のような時間。 それと同じ日々がこれから先も続くのだと考えるだけで、到底耐えられそうになかった。 どれほど高い給料をもらえるとしても、もう一度あの二人のそばへ戻ることだけは怖かった。 星奈が何を恐れ、返事を躊躇っているのか。 それを見抜いたのか、純希は拒絶する理由を一つずつ塞いでいくように、さらに条件を付け加えた。「契約を結ぶとき、お前の身体に苦痛を与えないという条項を入れてもいい」 つまり純希は、少なくとも自分と純生が、これ以上星奈へ暴力を振るわないことを保証すると言っているのだ。 星奈は呆然と純希を見つめたまま、それでもすぐに頷くことができなかった。 胸の奥に何か重いものが詰まっているようで、息をするたびにひどく苦しい。 どうしてこれほど苦しいのか、自分でもよく分からなかった。
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第59話

「……」 星奈は何も答えなかった。 純希は腕時計へ目を落とし、時刻を確認する。もうここに用はないとばかりに立ち去ろうとしたところで、ふと思い出したように足を止めた。「そうだ、星奈。もし逃げようなんて考えているなら、お前の大事な恵子さんのことをよく考えろ」 純希は振り返り、感情の読み取れない眼差しを星奈へ向けた。「お前から取り立てられないのなら、あの女に請求してもいい。あれほど仲がいいんだ。お前の代わりに借金を背負ってくれるかもしれないな」 それだけ告げると、純希は星奈の返事を待つこともなく、そのまま病室を出ていった。 扉が閉じたあとも、星奈は病床に横たわったまま、真っ白な天井を長い間ぼんやりと見つめ続けていた。 頭の中では、先ほど純希から告げられた言葉が何度も繰り返されている。 両親は逃げた。 莫大な借金だけが残された。 千堂家の使用人になれば、普通では考えられないほど高い給料を払う。 けれど、逃げれば恵子まで巻き込む。 一つ一つの言葉が重くのしかかり、何を考えればいいのかさえ分からなくなっていた星奈は、恵子が再び病室へ戻ってきたことにも気づかなかった。「星奈ちゃん、大丈夫?」 心配に満ちた恵子の声が耳へ届き、星奈はようやく我に返った。 いつの間にか病床のそばまで戻ってきていた恵子を見上げた瞬間、それまでどうにか堪えていたものが一気に崩れ、目の奥から涙が溢れ出した。 本来の星奈は、これほど簡単に泣いてしまう性格ではなかったはずだ。 けれど今は、あまりにも無力だった。 自分一人では何一つどうすることもできず、泣くこと以外に何をすればいいのかさえ思いつかない。 純希の言うとおり東京へ戻り、千堂家の使用人になることを受け入れれば、この先には暗く惨めな日々しか待っていないように思えた。 純生のそばへ戻ることを考えただけで、あの別荘で過ごした三日間の恐怖が蘇り、身体が震えそうになる。 だからといって拒んだところで、柚木家が残した莫大な借金を、今の星奈に返せるはずもない。 逃げることさえできなかった。 純希は、星奈が逃げれば恵子まで巻き込むとはっきり告げたのだ。 自分のせいで、ようやく手を差し伸べてくれた恵子まで苦しめることだけはしたくない。 どちらを選んでも、星奈の目には希望のある未来など一つも見えなかった。 ただ逃げ道
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第60話

 その夜、恵子は病院に残り、ずっと星奈に付き添っていた。 この病院は都会の大病院ほど規則が厳しくないらしい。 恵子が一晩そばにいたいと申し出ると、看護師も二人の様子から事情を察したのか、休むときに使えるよう毛布を一枚持ってきてくれた。 星奈はその夜、ほとんど何も話さなかった。 恵子も、今の星奈にどんな言葉を掛ければいいのか迷っているようだった。それでも一人で抱え込ませたくないのか、眠りにつく直前まで、安心させるような優しい声で「心配しなくていいからね」と繰り返していた。 けれど、その言葉を聞いても、星奈の胸にこびりついた恐怖が消えることはなかった。 そのせいなのか、その夜もまた悪夢を見た。 夢の中を埋め尽くしていたのは、純希と純生の顔だった。 純生は逃げようとする星奈を捕まえ、容赦なく何度も殴りつける。 そのすぐそばでは、純希があの債権譲渡契約書を手にしたまま、冷たい目で星奈を見下ろしていた。 助けてほしいと訴えても、純希は手を差し伸べようとはしない。 ただ、何の感情も感じさせない冷たい声で告げてくる。 ――お前がしたことなのだから、これくらいの苦しみはすべて耐えて当然だ、と。「……っ!」 身体ごと恐怖の底から引き上げられたように、星奈は悪夢から目を覚ました。 荒い呼吸を繰り返し、しばらく自分がどこにいるのかさえ理解できないまま、怯えたように辺りを見回す。 薄暗い病室には、自分一人しかいなかった。 先ほどまで付き添ってくれていたはずの恵子の姿が、どこにも見当たらない。「恵子さん……?」 途端に心細さが押し寄せた。 星奈は恵子を捜そうと、痛む身体をゆっくりと起こし、ベッドから下りかける。 その瞬間、病室の扉が勢いよく開いた。 びくりと肩を震わせ、星奈は反射的にそちらを見る。 開かれた扉の向こうに立つ人物を認識した瞬間、星奈の身体がそのまま固まった。 せっかく悪夢から覚めたばかりだというのに、瞳には再びはっきりとした恐怖が広がっていく。 病室へ入ってきたのは、純生だった。 純生も、顔色はあまりよくなかった。 目元には薄い疲労の色が滲み、昨夜はほとんど眠れなかったのか、いつものような余裕もどこか薄れて見える。 病室へ入るなり、純生はベッドの上にいる星奈へ目を向けた。 頭から足先まで、どこかおかしなところはないか確
last updateLast Updated : 2026-09-05
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