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All Chapters of 偽りの幻影: Chapter 91 - Chapter 100

111 Chapters

第91話 チョコレート

 ティッシュを引き出してデスクを拭きながら、早野は黒沢をちらりと見る。黒沢はチョコレートの箱を開けて一つ取り出すと口へ入れた。「土砂降りの雨の中で、とか、花火大会で花火の上がった時に、とか、空港で出国直前に、とか……」 早野はコーヒーを吸って焦茶色になったティッシュをゴミ箱へ捨てた。ゴミ箱からブルーマウンテンの香りが立ち昇る。「今は冬だ。この地域、冬季は晴天が多い。大規模な花火大会の開催もない。奥様が国外へ出られる予定も、恐らくはない」 もう一度カップを取ると、早野はごくりとコーヒーを飲み下す。「……よかった」 黒沢のメガネがきらりと光る。手にしたコーヒーカップを置いて、ぐいと顔を上げると早野を見据えた。「……あなたはほんとに情緒がないわよね」 言いながらいきなり立ち上がる。「そういうとこだわ。愛してるなら、大切なら、きちんと追いかけないと女は逃げてしまうのよ」「……な……」 早野が振り返った。「何の話をしてる?」「あなたの話」 黒沢は早野を指差す。「妻に出て行かれても何の情熱も見せなかった男の話」 早野は黒沢の視線を跳ね返した。「お前はそう言うが、俺は追いかけなかったか? わざわざ土砂降りの日に出て行くなんて無茶までして。それでも俺は追いかけたぞ」「……傘をさしてた」 黒沢は不満げにチョコレートをもう一つつまむ。「傘くらいさすだろうが……! 土砂降りなんだぞ!」 早野はコーヒーをかぶりと飲む。「しっかり空港まで追いかけたんだ、俺は」「ロビーまで歩いて来ただけのくせに」 黒沢はつんと鼻を天井へ向ける。「……あのな! 空港内で走ってたら不審者確定だ。それに搭乗券もないのに搭乗ゲートまで突破したら即刻逮捕案件だ。今はテロ対策も厳しいんだ、知ってるだろ?」「……社長ならそうしてくれるかも」 黒沢はチョコレートを齧ってからコーヒーに口をつけた。「……そうなんだよ」 早野は頭を抱えた。「……とにかく絶対にそんなことをさせないように……」「違うわ! 情熱的だって言って
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第92話 適正な法律運営下における行動規範の確認

 夜が降りた。社長室にはブルーマウンテンの香りと、安っぽい油の香りが混ざり合って妙な安心感が立ち込めている。「……というわけで、念のためですが」 早野はポテトをつまむとぱくりと口に入れる。「黒沢の申し上げたことはお気になさらず」「まあ、土砂降りと花火くらいならできないこともないが」 蒼生はハンバーガーにかぶりついた。「……というか、その話、黒沢からお前に行ったんだな」「……いえ……まあ……はい」 ポテトを置くと、ナゲットをバーベキューソースに浸しながら早野は目を逸らす。「……お前と黒沢……どうなったの? 出て行った、までは俺も聞いてたが」 蒼生がハンバーガーから顔を上げる。「だから早く帰れと言ってたのに。……なんとなく俺にも責任があるような気がする」「俺が仕事をし過ぎたというだけのことです。社長にはなんの責任もありませんよ」 早野は肩をすくめた。「……出て行ってから後のことは……俺にもよくわかりません」 早野はナゲットを半分齧る。「離婚届は書いて渡したんですが、そのあとどうなったのか……提出したのかしてないのか……」「扶養関係は? あったのか」 蒼生はへなへなのレタスを肉と一緒にしっかりと噛むと、ごくんと飲み込む。「ありませんよ。給与の口座も別だったし」 答えた早野に蒼生は肩をすくめた。「じゃあ会社の方からそれを知るのは難しいな。扶養の解消なり税制上の申告なりが届けてあればわかるが」「……そこまでしなくていいですよ」 軽く肩を上げると、早野はハンバーガーに噛みついた。「とにかく、土砂降りだとか空港で走って追いかけるとか、そういうことをなさらないようにお願いします」「……ヘリから飛び降りるとか?」 蒼生はナゲットを掴んでそのまま齧る。味が薄くて、マスタードソースに齧りかけのナゲットを一度浸す。「航空法違反です。最低安全高度を大幅に下回ります」 早野はパンと牛肉を一緒に飲み下す。「パラシュート降下もNGです。落下傘降下は許可された航空機、資格を持ったパイロットと降下者であること、
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第93話 本当の自分

 麻奈はアパートの床の上で、今日黒沢に渡されたものを広げていた。幾つものいろんな種類のジェル、ランニングベルト、コンプレッションソックスのセット。 大きな袋には品物が入っているだけだった。メッセージや手紙など贈り主がわかるようなものは何も入っていない。だが、黒沢に渡されたのだから、誰が贈ってくれたのかはすぐにわかる。 黒沢は荷物を渡しながら、麻奈に笑いかけた。メガネが優しく光る。「奥様、息抜きも必要じゃありませんか? 今度、アフタヌーンティーにでも行きません? 会社には内緒で」「わ、嬉しい。行ってみたかったの。でも一人だとなかなか行けなくて」「ですよね。私もそうなんです」 にこりと笑った黒沢を思い出して、麻奈は微笑む。「……嬉しいな。黒沢さん、歳も近いみたいだし、いろいろ楽しそう」 微笑みながら、目の前に並べたジェルを一つ手に取る。「蒼生……誰かに相談したのかな……。こんなに何もかも揃えてくれて。全部必要で、嬉しいものばっかり」 麻奈は並べた品物を見渡した。「……ジェル……カフェイン入りのもイソトニックも……プレミアムまである」 鮮やかなパッケージと落ち着いたモノクロトーンのパッケージを、もう一度順番に並べて行く。「……本番だけじゃなくて、30キロ走の分まで……ううん、もっとある……。しばらく買わなくて良さそう」 横に置かれたランニングベルトを手に取る。「……これ……高いやつだ。ちゃんとジッパーで着脱できる……欲しかったのよね」 コンプレッションソックスに手を伸ばしたとき、麻奈の目から涙が一筋落ちた。「……どうして……? 蒼生……私が走るの……嫌じゃないの……?」 膝を抱えてうずくまると、麻奈は目の前に並んだ届け物を眺めた。「……ルームランナーも使っていいって言ったし……トレーニングジムも手配してくれた……」——神崎さん、マラソンランナーなの? 今日、会社で社長に言われた。経験上、こんな言い方をされる時は少し警戒してしまう。相手に悪気はないとわかっていても。「へえ、そうなんだ」「なんか根性の人って感じ」「筋肉バキバキ?」 フルマラソン
last updateLast Updated : 2026-10-19
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第94話 大会へ

 冷たい風が吹き抜ける。真っ暗な住宅街を麻奈が走る。アパートの前には誰もいない。が、麻奈の目は誰もいない空間を突き抜けて、その後ろの夜空に向かった。「……30キロ走……1本目……終了……」 クールダウンにアパートの周りをしばらく歩く。息を弾ませ、虚空を睨みながらゆっくり歩くうちに呼吸が落ち着いてくる。 体を折る。そのままぶるっと全身を震わせ、蒼生が贈ってくれたランニングベルトから水を取り出してごくごくと飲み下す。ランニングベルトはしっかりと麻奈の体にフィットして、違和感もほとんどない。「……補給も……完璧……練習通り……」 手の甲で口をぐいと拭い、自分の部屋へ向かって歩き出す。「……ヘロヘロ……足ぱんぱん……でも、頑張った。よくやった、私……!」 ぐっと拳を握り、玄関を開けて部屋へ入る。「あー……寝転んでゴロゴロしたいー」 山吹色のシューズを脱ぎ、ちょん、とつついてにこりと笑ってから丁寧に揃えて並べる。「ストレッチ……! きちんとアフターケア。これ大事。やらなきゃダメ。あと少し、頑張れ」 重くなった足で体を運び、部屋の明かりをつけてから、敷いておいたヨガマットの上に体を投げ出す。負荷をかけない軽いストレッチが済むと、麻奈はテーブルに用意しておいたバナナとヨーグルトに目を走らせた。「……30分以内に補給。炭水化物とタンパク質。グリコーゲン補充と筋肉修復……!」 皮を剥いてぱくりとバナナに噛み付く。テーブルの上には、他にも用意しておいた食事が並んでいる。白身魚と野菜炒め、さつまいもと味噌汁、チーズを少し。「まずはバナナとヨーグルト」 もぐもぐとバナナを食べながら、傍のマグカップを引き寄せてマドラーで混ぜる。ミルクの下に沈んでいたチョコレートが浮き上がって優しいココアの色になった。ごくんと一口飲む。「あまーい。おいしー。さいこー!」 片手を天井に向かって突き出し、大きくうなずく。「うん、修復されてる。行け、吸収するんだ、私の体」 少し休むと、鉄の錘のように重かった両足が軽くなって来た。「お風呂、お風呂。ぬるめでゆっくり温めて。明日は回復日。仕事もロードワークもお休み。ゆ
last updateLast Updated : 2026-10-20
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第95話 スタート

 朝8時。蒼生が玄関に立つと、工藤が後ろから追って来た。「旦那様、これを」 アクアブルーのサーモボトルを差し出す。受け取りながら蒼生は首を傾げた。「これは……?」「マラソンを走った後のスペシャルドリンクでございます」 工藤は満面の笑みで答える。「シェフと私で何度か試飲を重ねまして、納得の行く出来となりました。どうか奥様に」 蒼生は工藤の顔を見つめた。「……今日のために?」「はい」 工藤はうなずく。「タルトチェリーの濃縮汁とビートルートエキスにアガベシロップを足しましてオレンジの香りを……」「まあいい、要するにお前たちの心を込めたドリンクというわけだ」 蒼生は工藤の手から受け取ったサーモボトルに目を落として微笑んだ。「ありがとう。ちゃんと渡すよ」「タオルはお持ちになりましたか? 汗拭きシートは?」「心配するな、持ってる」「お戻りは? 奥様もご一緒に?」 工藤の言葉に、蒼生は少し笑って首を振った。「麻奈はどうかな。俺は戻るよ。夕飯を頼む」 工藤は少し間を置くと、うなだれてから、顔を上げた。「……あの、旦那様からお預かりした肉がありますが」「……ああ、沙雪の?」 蒼生は笑った。「うん、まだ少し先かな。保存はしっかりしてあるんだろう?」「それはもう」 工藤はうなずく。「真空パックにして長期保存しております。が、奥様がおいでになれば、すぐにでもお出しできます」「わかった。ありがとう」 蒼生が玄関の引き戸に手をかけると、工藤は深々と頭を下げた。「いってらっしゃいませ」 一礼する工藤を背に、蒼生は玄関を出た。外ではタクシーが待っている。乗り込む前に、蒼生は空を見上げた。快晴。少し温んだ浅い春の空気に、太陽が眩しく照り輝いている。「……土砂降りというシチュエーションはないな」 蒼生はくすっと笑った。「だがまあ、その方が麻奈のコンディションにもずっといい」 タクシーに乗り込むと、蒼生は行き先を告げた。 立ち並ぶラン
last updateLast Updated : 2026-10-21
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第96話 泣きそうに綺麗だ

……麻奈。俺は、お前と一緒に走ることはできない。 10キロ地点で蒼生は沿道に立った。選手が走って来るのを待つ。……派手なことも何も思いつかなかった。お前に心を見せられるのかもわからない。「……だけど」 蒼生は目の前に伸びる道路の先を見つめる。……俺は見てるよ。お前が走るのなら俺はそこにいる。お前が輝くのを見ている。だから、お前は自分を誇れ。俺はお前を追いかける。最後まで、見届ける。「……このくらいしか……できないけどな、俺には」 トップアスリートたちが何人も通り過ぎて行く。歓声が湧き起こり旗が振られる。蒼生はそれには目を向けることなく、一心に道路の先を見つめ続けた。 浅い春の陽に照らされて、選手たちが走り抜ける。何人、何十人と通り過ぎ、沿道の観客の中でも気の早い人たちは既に帰り支度を始めた。蒼生はその中に立ち尽くし、まばらな塊となった選手たちを待ち続ける。 しばらく待つと、選手たちがひとかたまりになって走って来た。たくさんの伸びやかな足が道路を蹴って行く。その中に光る山吹色があった。……麻奈だ。 蒼生は見つめる。肩にかけたスポーツバッグを思わず握りしめる。……頑張れ、麻奈。 麻奈は走り抜けて行った。その目は蒼生に向けられはしなかった。まっすぐに前を見て、軽やかに道路を蹴る。麻奈の全身が躍動する。春の初めの陽の光を受けて、ポニーテールが揺れる。麻奈の姿はあっという間に小さくなった。……ああ……綺麗だ。 蒼生の目は、走り抜けて行った麻奈の背中に吸い寄せられる。……泣きそうに……綺麗だ。 片手で目を抑えると、蒼生は空を仰いで伸び上がった。……俺は……麻奈が走るのが好きなんだ。……何をしているより、あの姿が一番麻奈なんだ。 見えなくなるまで背中を見送ると、蒼生は左腕のヴァシュロンをちらりと見てすぐに歩き出した。「……さあ、地下鉄に乗らないと」 人ごみを抜け、地下鉄の入り口に立つと、蒼生はもう一度時計を見てから階段を駆け降りて行った。 10キロ地点を過ぎた。体が軽い。面白いほどに足が出る。陽射しに温んだ空気が心地いい。麻奈はそれを胸いっぱいに吸
last updateLast Updated : 2026-10-22
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第97話 離婚届

「なるほど、世界のトップアスリートは凄まじいな……」 静かな住宅街の揺れる木立の中に建つ洒落た2LDKのマンション。早野はリビングのソファにもたれてテレビを見ながら呟いた。画面には外国の選手たちがしのぎを削って走っている。「……2時間と少しで42.195キロか……。恐ろしい」 テーブルに置いたブルーマウンテンから豊かな香りがたち上る。早野はそれを一口飲んだ。「奥様、走ってるの?」 黒沢がキッチンの冷蔵庫からチョコレートを取り出すと、早野の隣に腰を下ろす。「……多分ね。テレビには映らない」 早野は黒沢を抱き寄せる。「……社長は? 沿道で応援?」 黒沢は寄せられた早野の唇から逃れてチョコレートをぱくりと食べる。「……多分、沿道にいると思う」「やっぱり素敵よね、社長」 黒沢はテレビに目をやった。「奥様の邪魔になるかもしれないからってずっと会いにも行かないで。……でも今日はしっかり応援に行くんだから。愛してるのね、奥様のこと」 早野はテレビをに目をやって口を尖らせた。「……俺だって一応追いかけた。お前の好きなシチュエーションじゃなかったかもしれないが、俺なりに考えて追いかけただろうが」「花束を持って駅で待ってたのよね、昨日」 黒沢は早野の頬にキスする。「ありがと。でも、電車の中で愛してるって叫んでもよかったのよ」「……迷惑防止条例に抵触する」 抱き寄せた黒沢の唇に自分の唇を重ねると、早野は黒沢を見つめた。「……甘い」「チョコレートを食べてるから」 黒沢はにっこりして早野のコーヒーカップに手を伸ばした。「昨日の花束が真っ赤なバラじゃなかったら、私ここにいなかったかも」 早野のコーヒーをこくんと飲むと、テーブルに戻す。「だから赤いバラを買ったんだ。お前の好きな真っ赤なバラを……100本」「今度くれるときは100万本にして」 黒沢は早野の背中に両腕を回した。早野は首を振る。「経済的に無理。バラだけでも概算で8億以上だな」 早野はぷっとふくれた黒沢を抱きしめた。耳元でそっと囁く。
last updateLast Updated : 2026-10-23
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第98話 壁

 20キロ地点を過ぎた。麻奈はフォームのチェックをする。……まだ大丈夫。足に力を残して。ここで使い過ぎちゃだめ。 走りながら前方を見る。……あと、半分。……まだ半分。 麻奈は意識して腕を振った。集中。切らしちゃだめ。 隣を走る選手が遅れ始めた。麻奈は少し迷う。合わせようか。それともペースを守るか。……行こう。今日は調子がいい。 ペースを落とさず、走り続ける。遅れ始めた選手はあっという間に後ろへ流れて行く。……補給。カフェイン入りジェル。 ランニングベルトから2本目の補給ジェルを取り出す。吸い込みながら腕を振る。……蒼生……結局、会いに来てくれなかった。送ってくれたジェルにもメッセージも何にもなくて。どうして何にも言ってくれないの? スポーツドリンクを口に含むとごくんと飲み込む。……私が大切って言ったのに。それっきり。 遅れていた選手が隣に並んだ。……え? 追いつかれた? 私、ペース落ちた……? 慌てて確認する。落ちてはいない。麻奈は腕を振った。……集中。余計なことを考えないで。 太陽が頭上へ昇って来た。少し暑い。呼吸を吐き出す。前を見る。沿道の人だかり、幾つも振られる旗。湧き上がる声援。その後ろに見えるビル群。青い空。沿道には桜の蕾を含んだ枝が揺れる。……さあ、あと半分。大丈夫、今日は調子がいいから。 腕を振って、麻奈は大きく息を吸い込んだ。 35キロ地点。蒼生は地下鉄を降りるとそこへ立った。まだ選手たちは来ていない。周りは人だかりで、選手たちを待つ間のお喋りの声が満ちている。子供が自転車を歩道に持ち込んで叱られている。蒼生はそれを見て少し微笑んでから、10キロ地点でしたのと同じように道路の向こうに目を凝らした。……麻奈、待ってるぞ。元気いっぱい、走って来い。  30キロを過ぎた。麻奈は走る。もう余計なことを考えてはいない。ただ、黙々と走っている。……あと10キロ。……ともう少し。 そう考えて足を踏み出したとき、突然体が重くなった。どん、と重い塊のような疲労が麻奈に襲いかかる。30キロ走の後に感じた、あの
last updateLast Updated : 2026-10-24
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第99話 待ってるぞ

麻奈は走っていた。もう景色も見えない。沿道の人も灰色の塊になる。声援はどこか知らないところで湧き上がるだけの見知らぬものになった。足が痛い。ここまで感じなかった着地の衝撃が足を貫く。 ……歩きたい。……蒼生……蒼生……。 痛む足を意識すまいと無理に左手を前に出したとき、指輪が光った。 ……あ……。 結婚式で、蒼生が指にはめてくれた。あの日から一度も外していない。何度も外そうとした。外したかった。でも、外せないままここまで連れて来た。 ……だって、あの結婚だって、蒼生の嘘から。 ——ほんとに? ……蒼生が愛していたのは沙雪さんで、私のことは……。 ——本当に? ……だって、蒼生は……。 自分を抱きしめた腕の熱さ。抱き寄せられて感じた体の暖かさ。 ……蒼生は……。 浮かんでいた涙が一筋溢れた。 ……私の頭に手をぽんって乗せて……。ネクタイを緩めて……。 麻奈の顔が歪んだ。 ……私を見て笑って……抱き寄せて……キスして……夜は……私を抱かないときもずっと抱きしめてくれてた……。 走りながら拳でぐいと目をこする。 ……私も……蒼生を見てなかったんじゃ……。 左手を握りしめる。指輪はそこにあった。ずっと。幸せに頬を染めた時も、裏切られた悲しみに涙を流した時も。麻奈の左の薬指に光っていた。麻奈が望んだから。 ……悔しいときに守ってくれた……つらいときに看病してくれた……。ずっと……私のそばにいた。……私が……いて欲しいと言ったら……蒼生はきっと……。 唇を強く噛んでから、息を短く吐く。重い足を前へ投げ出す。 ……蒼生のお粥……食べたい……。今、食べたい……。 くしゃくしゃになった顔に涙が伝った。規則正しく吐いていた呼吸が不規則になり始める。 ……だめ。泣いちゃだめ。呼吸が乱れる。
last updateLast Updated : 2026-10-24
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第100話 愛してる

 あと1キロ。……あと800メートル。……もうまっすぐ走ってるかどうかもわからない。 涙が止まって、視界だけは少し明るくなった。が、足も腕も重いままだ。今は足先が地面に落ちるたびに鋭い痛みが走る。……でもあと少し。本当に、あと少し……! 麻奈は前を睨んだ。ゴールが見える。あそこ。あそこに向かって走ればいいの。「麻奈!」 突然耳に飛び込んできた声に、視線を向ける。……蒼生だ。 蒼生がいた。ゴール脇の応援エリアで麻奈を見ている。蒼生の手がまっすぐにゴールを指差した。……うん。 麻奈はうなずいた。最後にペースを上げる。残った力を振り絞って両手を上げてそのまま走り込む。痛む足がゴールラインを踏み越えた。……ゴール。……した……。 スマートウォッチを止める。息を弾ませながら麻奈はそこに出た数字を覗き込んだ。——4:02:08。「……あ……」「こちらへ!」 立ち止まる暇もなく、誘導に従って麻奈は進み、完走メダルやタオルを受け取る。何も考えられないまま、息を整え、ストレッチをしながら、計測チップを返却し、荷物を受け取って着替えをする。 ゴールしてから麻奈が自由になるまでに数十分かかった。その間に、ようやく現実が脳裏に染み込んだ。……4時間……切れなかった……。 うなだれて唇を噛む。……頑張ったのに……。 どこへ行くのか決めないまま、人混みの中を歩く。乾いた頬にまた涙が伝った。……あんなに頑張ったのに……。今度こそ、って思ってたのに……。「よく頑張ったな」 麻奈の頭にぽんと乗せられた手。目を上げると、蒼生が立っていた。笑顔を浮かべて麻奈の目を覗き込む。「……泣くなよ」「……蒼生」 みるみるうちに麻奈の顔が歪み、涙が滴り落ちた。「蒼生……!」 抱きついた麻奈の体を、蒼生はそっと抱きしめた。「お疲れさま、麻奈」「……でも、4時間を切れなかった……。私、頑張ったのに。すごく頑張ったのに。今回はやれると思ったのに」 麻奈が蒼生にしがみつくと、蒼生は持っていたタ
last updateLast Updated : 2026-10-25
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