Home / 恋愛 / 偽りの幻影 / Chapter 101 - Chapter 110

All Chapters of 偽りの幻影: Chapter 101 - Chapter 110

111 Chapters

第101話 キス

 街には夕方の陽が射していた。大勢の人でごった返していた道路も、今は閑散としている。 公園のベンチの上で、麻奈は蒼生にもたれていた。目を閉じて、眠っているのかと思うほど静かに。蒼生は麻奈を包み込むように抱き寄せると、自分の腕にこぼれかかる麻奈の髪をそっと撫でた。「……さあ、帰ってゆっくり休まないと」「……もう少しこうしていたい。蒼生、あったかい」 麻奈の手が、蒼生のシャツを掴んだ。蒼生はその手に自分の手を重ねて、しばらく麻奈を見つめていたが、やがて口を開いた。言葉が少し引っかかる。「……あの……だったら……家に……来る……? えーと、風呂も広いし……」 目を丸くした麻奈に、蒼生は慌てて言った。「今日は一緒に眠らなくてもいいんだ。フルマラソンを走った後だし、疲れてるだろ? 客間のベッドがあるから、そこでゆっくり眠ったらいいよ」 麻奈は少しうつむいた。突然出て行ってしまった。工藤やシェフはその後も気遣ってくれた。でも、やはり気まずい。何事もなかったような顔をして戻ってもいいのか。麻奈は蒼生を見上げる。「……行っても……いいの?」 子供たちが目の前を駆けて行った。「ねえ、ご飯どうする?」誰かと誰かが話す声が聞こえる。短い昼の陽は既に沈みかけ、空はオレンジから群青色のグラデーションを作った。「お前の家だよ」 蒼生は笑った。愛しげに麻奈を見つめる。「……俺だけじゃない、みんな待ってる」 麻奈の目が揺らいだ。蒼生の胸に顔を埋めると、小さくうなずく。口元が微かに上がった。「……私……どこにも居場所がない気がしてた」 見下ろした蒼生の目を見上げる。「蒼生の世界と私の世界があんまり違ってて……。でも、私は蒼生のこと知ってしまって……もう自分の世界も違う気がして……」「俺だってそうだよ」 蒼生は麻奈の肩に手を置く。「お前を知った。だから今までの俺の世界だけじゃ何かが欠けてる気がして仕方がなかった」 そっと耳元に唇を寄せる。蒼生の声が低く響いた。「……ごめん。あんな出会い方しかできなくて。……お前を……傷つけて」「許せないし、許したくないけど……」
last updateLast Updated : 2026-10-26
Read more

第102話 大会の後で

 タクシーの中で、麻奈は蒼生にもたれかかった。「あのね、……お腹すいた」「今、何が食べられる? 消化のいいもの……あまり重くなくて、胃に負担がなくて……」 首を傾げる蒼生を見て、麻奈ははっきりと笑顔を浮かべた。「タンパク質。炭水化物。えーとね、何でもいいの。お腹すいた」 蒼生に額をすり寄せて、麻奈は目を閉じる。「……蒼生、……お腹……すいた」 蒼生は車の天井を見上げた。困ったように頭に手をやると、もう一度麻奈を見下ろす。「……実は……沙雪が……」「え?」「……沙雪がお前にって牛肉と豚トロを……」「……沙雪さんが?」 蒼生はまた天井を見上げる。「えーと……訴訟で和解した次の日……お礼にって……」 麻奈を抱き寄せると、蒼生は笑った。「俺だけが食べるのは違うと思ったし、でもお前に肉だけ送るのも違うし……。一緒に食べたかった」「……いつのお肉? それ、食べられるの?」 麻奈が見上げると蒼生はうなずいた。「……工藤に渡したから。きちんと保存してある」「食べる」 麻奈はにこりと笑った。「食べる。牛肉と豚トロ、それからご飯と野菜と……」「デザートも。連絡するよ。工藤もシェフも喜ぶ」 蒼生はスマートフォンを取り出して少し話すと、ポケットに入れる。「待ってるって。奥様をお待ちしてますと言ってた」 蒼生に抱き寄せられて、麻奈は目を閉じた。「……ワインもある?」「……飲んでもいいの?」 不安げな蒼生に麻奈はうなずいた。「リカバリードリンクも飲んだし。ちゃんとご飯を食べて、少し休んだ後に一杯だけ」「……そうか。……どんなのが飲みたいの?」「シャトー・マルゴー」 麻奈はにっこりした。「……それしか覚えてないの。次の日に飲んだのも美味しかったけど、名前、忘れちゃった」「……ジュヴレ・シャンベルタンか」「あ、それ。どっちでもいい」「走った後だから、もう少し軽いのがいいんじゃないかな。ピノ・ノワールはどう? フェルトン・ロードのバノックバ
last updateLast Updated : 2026-10-27
Read more

第103話

マラソン大会の翌日、朝早くに目覚めた麻奈は、自分がどこにいるのかしばらくわからなかった。 ウォールナットとクリーム色の壁の落ち着いた寝室のセミダブルベッドから体を起こし、目をこすりながら部屋を見回す。淡いオレンジ色のカーテンの外は、まだ暗さが残っている。 ベッドから降りてカーテンを開けると、広い芝生の庭に昇りかけた陽が薄明るい光を投げかけている。庭の向こうにはいくつもの大きな家々の屋根が黒い影を見せていた。 「……ここ、どこだったかしら」 呟いたとき、体が軋んだ。足が重い。 「……あ……」 途端に昨日のことを思い出した。 ……4時間……切れなかった……。 込み上げた記憶にカーテンをきゅっと握りしめる。 ——よく頑張ったな。 うつむきかけると同時に、蒼生の言葉がよぎった。麻奈ははたと顔を上げる。 「……ここ……蒼生の家だ」 振り返ると、ウォールナットの木目やオレンジ色のカーテン、部屋の隅に置かれた観葉植物に順番に視線を巡らせる。 「……そうだわ。ここ、客間だわ。ほとんど入ったことないから、どこだかわからなかったけど」 麻奈はベッドに戻ると、そこに腰かけて明るくなり始めた外の景色を眺めた。 ……昨日は……蒼生とお肉を食べて……ワインを少し飲んで……。 思わず笑顔になる。 ……蒼生がここへ連れてきてくれたんだわ。それで、また旅行へ行こうって。ハワイとグァムと……。 急にこの部屋に蒼生のいないことが寂しくなる。気遣いは嬉しかった。手も足も思い切り伸ばしてゆっくり眠れた。でも今、蒼生の暖かさが無いのが寂しい。抱きしめてくれた。笑いかけて、キスしてくれた。ずっと……忘れようとして忘れられなかった、あの温もり。 「……蒼生……?」 麻奈は立ち上がった。時計を見ると、6時を少し過ぎている。 「……蒼生、もう起きているわよね。いつも6時に起き
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

外伝 もう一つのプロローグ①

 大学の研究室で、間宮は頭を抱えていた。いつもの椅子に座り、データや書類が山積みになったデスクに肘をつき、大きなため息を漏らす。「……足りない。もっとデータが欲しい。……バイアス排除のための盲検試験ももっと行わないと。再現性も安定性もまだ担保できない」 間宮は立ち上がると、コーヒーカップ代わりのポリプロピレン製のビーカーにコーヒーを注ぎがぶりと飲み込む。「……俺の唾液はもう使い尽くしたしな……」 デスクの上の書類を片手に掴むと、それを丹念に読み込む。「……病院の数も……もっと増やせるといいんだが……」 コーヒーをがぶ飲みしながら頭をかきむしっていると、ドアが開いて教授が顔を覗かせた。「遅くまでご苦労様」 靴音を立てて教授が入って来る。間宮は手にしていたデータをデスクに置いた。「どうかね、進捗具合は」 穏やかな声で教授が尋ねると、間宮は首を振った。「止まりました。試薬の安定性が担保できません。機材が古過ぎるんです。偽陽性が多発しました」 教授はサンプルの加温などに使うウォーターバスに手をかざし、温めながら諦め顔で笑った。「まあ……大学の限界でもあるよ。特に基礎研究分野はね。国が研究費を出さない」「基礎研究こそ科学を支えるものじゃないですか。その裾野が広がらないと、発見も開発も先細りになりますよ」 間宮は舌打ちをしながらオートクレーブを開ける。教授はちらりとそれを見た。「……なんだ、何も入ってないのか。焼き芋でも入れてるかと思ったのに」「……しませんよ、そんなこと」 間宮は空のオートクレーブを掃除しながらくすりと笑った。「インキュベーターはちょうど空になったので、弁当を温めてますが」「学生に見つからないようにしたまえよ。君も一応指導者の端くれだ、間宮助教」 くつくつと笑いながら、教授はインキュベーターを覗き込んだ。「……奥さんの手作り弁当かね?」「……まあ。沙雪が夜食にと作ってくれたので」 椅子にどっかりと座ると、間宮はまた頭をかきむしった。「やることと言えば、ここで既存のデータを見ながら量もサンプルも協力病院も何もか
last updateLast Updated : 2026-10-29
Read more

外伝 もう一つのプロローグ②

 研究棟の裏手の桜並木が蕾を蓄え、体を刺す冷たい風が少し温むようになった頃、間宮は自宅のアパートの階段を駆け上った。 「ズボン2本付き、大特価」と書かれたコーナーで新調したダークグレーの安物のスーツと、セール品のワゴンから沙雪が慎重に選び抜いた淡いブルーのストライプのネクタイを締めている。黒い革靴が階段の上で軽やかな音を立てた。「沙雪、沙雪!」 玄関のドアを開けると、間宮はそこへ飛び込む。靴を脱ぐのももどかしく、左右へ跳ね飛ばすとアパートの中へ駆け込んだ。「沙雪、決まったぞ! 転職できる。研究も続けられる!」 2DKの古いアパートの一室、和室に置かれた座椅子の上で編み物をしていた沙雪が顔を上げた。「決まったの? よかった」 笑顔を見せる沙雪を間宮は抱きしめる。「そうなんだ。K&Bダイアグノスティクスって会社だ。まだ中堅だけど、俺の研究に興味を持ってくれたんだ。社会的な意義もあることだから、会社としても力を入れたいって言ってくれたよ」「ほんと?」 手にした編み物を畳の上に置くと、沙雪は間宮に抱きついた。「ほんとなの? あなたの研究を認めてくれたってこと?」「もちろん民間企業だから成果も期待される。だけど、そのための環境を整えるだけの地盤もあるんだ。協力してくれる病院をいくつも持ってるし、地元大学との提携もある。患者さんたちに協力を求めてもらえる」 顔中で笑顔を作りながら、間宮は沙雪の頬にキスをした。「多施設試験ができる。再現性や安定性も求められるし、干渉物質の影響も幅広く評価できるようになる」「干渉物質?」 沙雪が首を傾げると、間宮は笑った。「検査薬はいろんな条件下で安定した結果を出さなきゃならないだろ? 患者さんの口内環境は人によって様々だから。飲食したあと、その欠片が口内に残ったり、あまり歯磨きしてない人だと細菌が繁殖してたり……。喫煙する人だっている。そういうものが検査薬に大きく影響しちゃダメなんだ。正しい結果が得られない」「……やだ。歯磨きくらいしなさいって言えないの?」 沙雪が顔を顰めると、間宮は吹き出した。「言えるわけないだろ。どんな環境でも正しく結果の
last updateLast Updated : 2026-10-30
Read more

番外編 今後の課題

 爽やかな風が吹き抜ける春の終わり。樹々は新緑に萌え、鮮やかな緑色を香る風に揺らす。金色の光が揺れる午後の街は行き交う人で混雑し、車道には車が長い列を作っていた。 通りに面した白い石造りの堂々としたホテルの一角。大理石の床の上に置かれた華奢なロココ調のテーブルに並んだアフタヌーンティーの皿とケーキスタンドの前で、麻奈と黒沢がきゃっきゃと笑っている。 「あ、このスコーン美味しい」 「このキュウリのサンドイッチも最高」 ストレートのダージリンティーを一口飲むと、麻奈はメロンとジャージミルクの小さなパフェをぱくっと食べる。 「……早野さん、赤いバラを100本持ってたの、すごくカッコいい」 黒沢を見てくすっと笑うと、黒沢もにっこり笑う。 「カッコつけるとカッコいいの。いつもそうだといいのに」 スモークサーモンとバジルクリームのサンドイッチを指に挟むと一口齧る。 「……社長は? 土砂降り案件、してくれたの?」 「梅雨を待つんだって」 麻奈は笑った。黒沢は思案顔でラズベリータルトを見つめる。 「……土砂降りの中で、お前、濡れるぞ、って傘をさしてくれるのもいいのよね」 「……傘? 持ってた方がいいの?」 麻奈は首を傾げる。 「……持ってるのに傘ささないの、変じゃない?」 「そこよ。悩ましいとこよね」 黒沢はダージリンを口にする。 「別のシチュエーションでもいいのよ」 「……例えば? 結婚式に乱入して花嫁を奪うとか?」 「麻奈さんも私も結婚式は済んでるでしょ」 黒沢は難しい顔をして首を振った。
last updateLast Updated : 2026-11-01
Read more

番外編 今後の対策

「お前、うちの株ってどのくらい持ってるんだっけ?」 大通りに面した小洒落た串焼き専門店の個室で、蒼生は焼き鳥の串をくわえてぐいとこじった。ほどよく焦げたタレと肉汁が口の中で踊る。「0.2%というところでしょうか」 早野はねぎまの串を取ってネギを口に入れた。焼けたネギの甘さについ口元がほころぶ。「執行役員になったら報酬としてあと0.2%足してもいいな。親父が売りに出したのを買い取っておいたから」 ガラスの小さな猪口に冷えた日本酒を注ぎながら蒼生は言った。早野はその手元を見つめる。「……俺、執行役員になるんですか?」「さあな。今後次第だが」 猪口に入れた冷酒をあおると、蒼生はメニューに目をやった。「……旨いな、これ」「日本酒も詳しいんですか、社長」 早野はくすりと笑う。「そういうわけじゃないが、旨いよ、この酒は」「日本酒がお好きなら、今度魚の美味い店を紹介しますよ。刺身には日本酒が一番合う」 微笑む早野に蒼生は少し肩をすくめて笑った。「お前の方が詳しそうだな。任せたよ」「ところでお前、階段を駆け上がるのって得意?」 早野は黙って蒼生を見つめた。食べかけのねぎまの串を皿に置き、蒼生が注いだ冷酒の猪口をじっと見る。それから顔を上げて蒼生を見た。「……綾香と奥様……よく会ってるんですか?」「アフタヌーンティーとか、ケーキ食べ放題とか」 蒼生はテーブルに肘をついた。「……いや、いいんだが」 早野はテーブルの上で手を組む。「……法令遵守の観点に立てば、要求はかなり却下できます」「社内の階段を駆け上がるのは、法にも条例にも違反しない」 蒼生は肘をついたまま早野を見る。「……社則に入れるか? 廊下を走らない、階段を駆け上がらない」「常識の範囲内です。わざわざ規則にする必要はありません」 早野はねぎまの串を置くと、ししとうをつまんだ。「……お前さ」 蒼生は焼き鳥の串をもう一本手にする。「もう少しドラマチックなことしてやれよ。黒沢が満足しないと麻奈まで影響される」「…
last updateLast Updated : 2026-11-02
Read more

エピソードゼロ 徹生の恋

 茹だるような熱気が地面から立ち上っていた。高く登った月にはぼんやりと靄がかかり、空全体が煙ったように澱んでいる。植えられた待宵草の白い花が灯をつけたように庭の底から浮かび上がった。 庭に面した長い廊下を徹生は歩く。スリッパなどは履かない。無垢のヒノキの感触が好きなのだ。素足のまま、ほとんど音も立てないで寝室へ向かう。ちらりと庭に目をやると、待宵草の花へと視線を滑らせる。可憐な白い花。朝になれば萎れてしまう儚い夢。……淑子(としこ)が来たのもこんな夜だった。 寝室の襖を開けると、広い和室の真ん中にポツンと寝床が敷いてあった。真っ白なシーツ。柔らかな夏用のブランケット。——ふつつか者ですがどうぞよろしくお願いいたします。 床の前で三つ指をつき、深々と頭を下げた淑子。横結びに垂らした柔らかな黒髪が真っ白な寝巻きに映えていた。伸びやかな、それでいて華奢な体。思わず見惚れるほどに美しい顔。優しげな大きな瞳で徹生を見上げ、目が合うとそっと俯いて、待つように目を閉じた。 だが徹生は知っていた。さっきまで白無垢に身を包み、徹生の隣で三々九度の杯を干したその女には別に愛した男がいることを。徹生との結婚を嫌がり、その男と駆け落ちを企んで失敗し、逃走から二日後には連れ戻されて結局ここへ来たことを。……家庭教師だったどこかの院生と聞いた。淑子を諦める代わりにどこか地方の大学の教職を差し出され、それを受けて姿を消した。残された淑子は俺のところへ来るしかなかった。決められた縁談相手の俺へ嫁ぐしか。 柔らかな布団に徹生は身を沈める。夏用の薄いブランケットで体を包むと、高い天井を睨んだ。徹生の喉が微かにひくひくと動き、小さなため息が漏れる。……俺は容赦しなかった。どうせその男と何度も愛し合った後なんだろうと。気に染まない結婚相手に義務で体を任せるだけの時間だ。早く終わらせてやった方がいい。 かまわなかった。他に愛した男がいようといまいと、俺の妻になったからには子を成してもらわねばならない。跡継ぎが必要だ。そのための女。裕福な実家と権力のある父、その後ろ盾を持った俺の妻に相応しいだけの条件を持った女。 苦痛と痛みに顔を歪め、徹生の体の下で声を漏らすまいと歯を食いしばった淑子を思い出す
last updateLast Updated : 2026-11-03
Read more

第104話 義父の家で

 明るい陽射しが長い廊下いっぱいに降り注いでいた。『神崎徹生』と分厚いヒノキの表札が掛けられたいかめしい屋敷の奥、金銀の蒔絵が施された襖の後ろ、固い廊下の板の間の上に麻奈は正座していた。真っ直ぐに背筋を伸ばし、目の前の大きな座椅子に座る老人を見つめている。「旦那様が奥様にどうしてもお話ししたいことがおありだそうで……」  工藤から申し訳なさそうにそう言われて、麻奈はすぐにやって来た。徹生と直接言葉を交わしたこともなかったし、結婚式では不愉快そうにこちらを睨みつけただけだったから、あまり好かれていないことはわかっていた。でも、仮にも親子になったのだから、いつまでもそんな関係でいてはいけないだろうと考えた。それに、蒼生との間にも何か確執がありそうだ。自分が仲介できるとは思っていなかったが、それでもどんな人物かを知っておくのは今後のためにもいいだろうと思ったのだ。「……お前」 唸るような声を漏らした徹生に麻奈はしっかりと目線を合わせる。「勝手に出て行って勝手に戻って来たそうだな」「申し訳ありませんでした」 座っている廊下に手をついて麻奈は頭を下げた。徹生のいる部屋の外側の廊下。座布団はおろか、畳の部屋の中にも入れてもらえない。その外にある廊下に正座している。……普通だったら怒って帰っちゃうけど。 頭を下げながら麻奈は目の前の磨き込まれたヒノキをじっと見る。……仕方ないわね。結婚してすぐに別居しちゃったし、それでまた戻って来ちゃったし。お義父さんは事情を何にも知らないわけだし。気に入らないのもわかる。「蒼生は……」 徹生はケヤキの大机に置かれた灰皿を引き寄せるとタバコをくわえ、火をつけた。「蒼生は許したのか」……仲直りしたの。お互いの気持ちを確かめて、もう一度やり直そうって決めたの。 麻奈は顔を上げた。「はい」「だったら……」 タバコを深々と吸い込み、煙を吐き出しながら徹生は麻奈を見やった。「心を入れ替えてこの家に尽くせ。妻とはそうあるべきものだ」 麻奈の拳がぐっと握られた。唇が少し震えたが、少し視線を落として細く息を吐く。「……蒼生さんを大切に、お仕事の支えに
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more

第105話 いずれは……

第105話 いずれは…… 初夏の香りが辺りを包んでいた。空には明るい月が昇り、星々が小さく瞬いている。麻奈と蒼生が暮らす神崎家のある高級住宅街では既にいくつかの明かりが消え、夜を一層際立たせていた。 「今日の水羊羹、どうしたの? お前、いつもは和菓子を買ったりしないのに」 ベッドの中で蒼生がそっと麻奈を抱き寄せた。愛しげに麻奈の頬に唇を乗せる。 「うん、今日は暑かったからそんな気分だったの」 愛し合ったばかりの蒼生の体には少し熱が残っている。麻奈は蒼生の余韻でまだ震えている体を蒼生に寄せ、その胸に顔を埋めた。今日、徹生の家であったことを思い出す。 ……仕方ないわよね。お義父さんは最初から私と蒼生の結婚を反対してたんだもの。 「……麻奈?」 蒼生の声ではっと我に返る。心配そうに自分を覗き込むその目に麻奈は笑いかけた。蒼生の目はこんなに優しいのに。昼間見たあの目に優しさなんてかけらもなかった。 「あのね、蒼生」 麻奈は蒼生の首に両腕を巻きつける。 「……子供……欲しい……?」 「子供?」 蒼生は目を丸くして麻奈を見つめた。しばらくその顔をじっと見ていたが、やがて少し照れくさそうに目を逸らした。 「……いや……俺としては……」 天井を見つめたままぼそっと言う。 「……お前にそっくりな女の子とか……まあ男の子でもいいんだけど……とにかく、俺とお前の子がいたら、なんて考えたりはするよ」 「蒼生は欲しいの?」 麻奈は顔を上げて蒼生を見つめる。今度は蒼生の両腕がしっかりと麻奈を抱きしめた。 「……うん。いたら嬉しい。だけど、お前がそうじゃないなら、無理にとは言わない」 「……そうね。まだしっかり考えてなかったけど……」 子供は欲しいと思う。だが、自分には目標もある。マラソンで4時間を切ること。子供ができたら、それは少なくとも数年先に伸ばさなく
last updateLast Updated : 2026-11-05
Read more
PREV
1
...
789101112
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status