All Chapters of 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした: Chapter 131 - Chapter 140

180 Chapters

131.壊れた扉の向こうで

 男たちの逃げ去る足音が完全に聞こえなくなり、リビングにはようやく嵐が去った後のような静けさが戻ってきた。  だが、その平穏を嘲笑うかのように、外の冷たい夜風が室内に容赦なく吹き込んでくる。「しっかし……派手にやってくれたわね、あいつら」 梓はひしゃげた玄関ドアの前に立ち、深い溜息をつきながら腕を組んだ。  枠から大きく歪み、蝶番の周辺ごと破壊された無惨な金属扉。和花が彼らを制圧する過程でさらにダメージが加わったのか、もはや本来の役割を果たせる状態ではない。「さすがに、この状態では応急処置すらできませんね」 理聖が破損箇所を冷静に確認しながら、静かに首を振った。「防犯上の問題もあります。明日一番で修理業者へ連絡して、丸ごと交換してもらうしかないでしょう」 「そうねぇ……。でも、鍵すらかけられない状態で夜を越すなんて、すっごく物騒じゃない?」 梓が肩をすくめて不安げに呟く。  すると、和花がパッと顔を上げ、理聖と梓を交互に見つめた。「梓さん。もしよかったら、私たち今夜、ここに泊まっていってもいいですか?」 「えっ、和花ちゃんたち……いいの?」 「はい。またあんな人たちが来ないとも限りませんし、何かあったとき、みんなで一緒にいた方が絶対に対処しやすいと思いますから」 頼もしい和花の提案に、梓の顔にパッと安堵の花が咲いた。「本当!? すっごく心強いわ! 雄之助くんもまだあんな感じだし、二人がいてくれたら本当に助かるわよ」 ソファの上で毛布に包まっている雄之助が、申し訳なさそうに太い眉を下げる。「……すんません、梓さん。……ほんと、情けねぇッス」 「馬鹿ね。命があって、ちゃんと帰ってきてくれただけで十分よ。今はしっかり休むこと!」 梓は雄之助の頭をポンと優しく叩き、ニッコリと笑いかけた。 そこからは、冷え切った身体を温めるために、順番にバスルームを借りることになった。  女性陣が先に入浴を済ませ、理聖がシャワーを浴びてさっぱりとしてリビングに戻ってくる頃には、雄之助の身体を蝕んでいた麻痺毒もようやく抜け始めていた。  完全ではないものの、自力で上体を起こし、手足の感覚を取り戻しつつある雄之助に、全員がホッと胸を撫で下ろす。「さて、お腹も空きましたし、食事にしましょうか」 理聖はキッチンに立つと、冷蔵庫に残っていた食材を魔法の
last updateLast Updated : 2026-10-03
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132.過去と向き合う時

 温かなアラカルトを囲む和やかな空気の中、梓は手元のグラスに注がれた赤ワインを、いつもより少しだけ速いペースで飲み進めていた。  恐怖と安堵。その両方が入り混じった高揚感を酒で流し込むように、立て続けにグラスを空ける。 やがて、食卓の楽しい会話がふっと途切れたタイミングを見計らい、理聖が静かに口を開いた。「……皆さんに、話しておかなければならないことがあります」 そのひどく真剣な声色に、三人の視線が理聖へと集まる。「今日、港の廃倉庫で雄之助くんを襲撃した相手についてです」 「……相手?」 和花が小首を傾げた。「蘭華さんです」 一瞬、部屋の中からすべての音が消え去った。「……えっ!?」 和花が素頓狂な声を上げる。「じゃ、じゃあ……蘭華さんが肩を撃たれて怪我をしたっていう電話は……」 「嘘ッス。俺をあの人気のない倉庫まで誘い出すための、見え透いた罠だったんスよ」 ソファで横になっている雄之助が、苦い顔で引き継いだ。「そんな……。雄之助くんを襲ったのが、蘭華ちゃんだなんて……」 梓は赤ワインの入ったグラスを両手で強く握りしめ、俯いた。  裏切られたという怒りよりも、なぜ彼女がそんな残酷な真似をしなければならなかったのか、事実を受け止めきれない戸惑いの方が大きかった。「ただ、あいつが個人的な恨みで俺を殺したかったわけじゃねぇと思うッス。あれは完全に〝仕事〟として動いてた」 「仕事……?」 「十中八九、依頼主は組長でしょうね」 「……!? ど、どうして深凪組の組長さんが、構成員である雄之助くんを……?」 理解が追いつかない和花に対し、雄之助は少しだけ沈黙した後、理聖へと視線を向けた。「若頭を、昔の〝狂犬〟に戻したいんスよ。俺が若頭の傍にいて、カタギの世界に繋ぎ止めようとしてるのが……組長にとっては、目障りで邪魔だったんでしょうね」 「そんな……」 理由があまりにも身勝手すぎる。梓は悔しそうに唇を強く噛み締めた。「じゃあ……また蘭華ちゃんが、雄之助くんの命を狙ってくる可能性もあるってこと?」 「ありますね。組長からの直々の仕事なら、一回失敗したくらいで諦めるとは到底思えねぇッス」 「……そう」 梓はグラスの縁を指でなぞり、ぽつりと零した。「……また、みんなで一緒にお酒を飲めるって、思ってたのにな」 その悲痛な呟きが
last updateLast Updated : 2026-10-04
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133.この光景を守るために

「……お気持ちはとてもありがたいのですが。雄之助くんはこちらに残ってください」「えっ」 思いがけない拒絶に、雄之助が間の抜けた声を漏らす。「今日、和花さんたちまで何者かに襲撃されました。僕たち二人が揃ってこの場所から離れるタイミングを、あのフードの男がどこかで息を潜めて見計らっている可能性も十分にあります」「くっ……それは、そうッスけど……」 雄之助は奥歯を噛み締め、悔しそうに顔を歪めた。ヤクザとしての勘が、理聖の危惧が完全に正しいことを理解しているからだ。「僕なら大丈夫です。それよりも、僕がいない間は和花さんと梓さんの傍にいて、彼女たちを守ってあげてください」「若頭……」「お願いします。僕にとっては……あなたがここにいてくれる方が、安心して前を向けるんです」 それは理聖からの、最大の信頼の証だった。 大切な人たちを守るための盾になってほしいという切実な願い。雄之助はしばらくの間、己の無力さに苛立つように沈黙していたが、やがて太い息を吐き出して渋々頷いた。「……わかったッス。そういうことなら、ここは俺が死んでも守り抜きます。……ただし、絶対に無茶だけはしないでくださいよ」「ええ。約束します」 理聖は穏やかに頷き、それから少しだけ考え込むように視線を落とした。「次の休み……12月25日に、深凪組の事務所へ行こうと思います」 その言葉が落ちた瞬間、三人の表情が一斉に強張った。「……本当に、たった一人で行くんですね」 和花が不安げに声を震わせる。「ええ。その方が話もしやすいでしょうし、何より大翔さんも、僕と二人きりで話したいはずですから」 理聖は淡々と答えるが、それがかえって不気味なほどの凄みを生んでいた。「……なんだか、嫌な予感しかしないわね」 梓が眉をひそめ、手元のワイングラスをテーブルへコトリと置く。「組長が、話し合いだけであっさり済ませてくれりゃいいんスけどね……」 雄之助の重苦しい呟きに、理聖は静かに首を振った。「僕も、それは最初から期待していません」 さらりと言ってのけた理聖の言葉に、場がシンと静まり返った。 期待していないということは、すなわち最悪の事態――武力による衝突や、命のやり取りに発展することすら想定し、覚悟を決めているということだ。「理聖さん……」 和花が両手で膝の上のスカートをぎゅっと握り
last updateLast Updated : 2026-10-04
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134.今日はただ、二人きりで

 そして迎えた、12月24日。クリスマスイブ。  フルリールは、朝からクリスマス用の生花やアレンジメントを買い求める客でひっきりなしだった。  赤や白の薔薇、鮮やかなポインセチア、可憐なクリスマスローズ、雪をまとったような針葉樹の枝もの。  店内は一年で最も華やかな色と甘い香りに包まれ、レジ前には外まで続く長い列ができている。  先日までバックヤードで大量のリース作りに追われていた雄之助も、今日ばかりは完全に表の接客要員として駆り出されていた。「へい、そちらの花束、こっちでお預かりしやす! お会計はこちらッス。順番にお願いしやす!」 雄之助は巨体を揺らしながら、響き渡る野太い声で客を誘導する。「あっ、お客さん。その赤いやつならこっちの方が景気……じゃねぇ、見栄えがいいッスよ! 奥さん絶対に喜ぶッス!」 相変わらず極道じみた言い回しが抜けきらないが、その裏表のない真っ直ぐな態度は、客たちから妙に面白がられて好意的に受け入れられていた。「雄之助くん。〝へい〟は禁止って何回言えばわかるの」 梓が伝票を片手に、すかさずピシャリと注意を飛ばす。「いや、でも店長。忙しいとつい勝手に口から出るんスよ」 頭を掻く雄之助を見て、和花がクスクスと笑い声を漏らす。「ふふっ。でも、お客さんたち皆さん楽しそうですよ」 「接客として成立しているのなら、ある意味、天性の才能なのかもしれませんね」 理聖が真顔でフォローを入れると、雄之助は「若頭、それ本当に褒めてます?」と首を傾げた。 慌ただしいながらも、四人の連携は完璧だった。  理聖は相変わらずの落ち着いた物腰で、客の用途や贈る相手の好みを丁寧に聞き出しながら、流れるような手つきで花を選んでいく。  和花は理聖から受け取った花束を美しくラッピングし、手際よく会計をこなす。  梓は店全体を見渡しながら的確な指示を飛ばし、雄之助は重い鉢物の運搬や大量注文の梱包を担当して店内を走り回った。  目の回るような忙しさのまま、時間はあっという間に過ぎていく。 そして、夕刻。  最後の客を笑顔で見送り、梓が店のドアに〝CLOSE〟の札を裏返して掛けた。「……終わったぁー!」 梓が両腕を天井に向けて突き出し、思い切り大きく伸びをする。「俺、今日いったい何人相手したんスかね……。足がパンパンッス……」 雄之助
last updateLast Updated : 2026-10-05
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135.今へ戻る鐘

 イルミネーションが煌めく通りを抜け、二人は帰り道にあるスーパーマーケットへと立ち寄った。 店内は定番のクリスマスソングが響き、ご馳走を買い求める家族連れやカップルでごった返している。 和花と理聖は賑やかな人波を縫うようにして歩き、小さな苺のクリスマスケーキと、ローストチキン用の丸鶏、そして色鮮やかな野菜を手早くカートへ放り込んだ。 暖房の効いたマンションの部屋へ帰ると、すぐに二人だけのクリスマスイブの準備が始まった。 和花はリビングの隅に、少し前にフルリールで購入していたコニファーの鉢植えを運び込む。 深緑の枝先にゴールドやシルバーのオーナメントを飾り付け、小さなLEDライトをぐるぐると巻きつければ、手作り感あふれる立派なクリスマスツリーの完成だ。 一方の理聖はキッチンに立ち、エプロン姿で手際よく丸鶏の下処理を始めていた。 すりおろしたニンニクと新鮮なローズマリー、岩塩とオリーブオイルを丁寧に擦り込み、オーブンへと放り込む。「あっ、理聖さん! 見てください!」 ツリーのライトを点灯させた和花が、窓辺にはりつくようにして声を上げた。 理聖が手を拭きながら近づくと、ガラス越しに見える暗い夜空から、白い粉雪がチラチラと舞い降りていた。「初雪ですね」「はい! ホワイトクリスマスです!」 和花は窓ガラスに額をくっつけんばかりにして、子供のように目を輝かせる。 理聖もまた、淡い光に照らされた彼女の横顔を、心底愛おしそうに見つめていた。 やがて、キッチンから香ばしい肉の脂とローズマリーの香りが漂い始める。 ソファで身を寄せ合いながらオーブンを眺めていた和花は、その温かな香りに誘われるように、ぽつりと昔話をこぼした。「……クリスマスになると、お父さんとお母さんのことを思い出すんです」 和花の父・源蔵は、一人娘の和花にはとにかく甘かったという。「お父さん、すっごく怖い顔をしてるのに、毎年必ず人気のケーキ屋さんの列に並んで、クリスマスケーキを買ってきてくれたんですよ。『和花のケーキは俺が買う』って言って聞かなくて」 理聖は静かに相槌を打ち、優しい眼差しで耳を傾ける。「お母さんは、お料理が全然ダメで……。クリスマスカラーを意識したって言って、ほうれん草とトマトを混ぜたポタージュを作ってくれたことがあったんですけど……色が完全に〝泥〟だったんで
last updateLast Updated : 2026-10-05
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136.甘いクリームのその先

 オーブンから取り出された黄金色のローストチキンを中心に、テーブルの上には彩り豊かなご馳走が並べられた。  真っ赤なトマトと雪のように白いモッツァレラチーズが交互に並ぶカプレーゼ。  そして、一花が作った〝泥色〟とは似ても似つかない、鮮やかな緑色が美しいほうれん草のポタージュ。  手作りの温かな料理たちが、キャンドルの灯りに照らされてキラキラと輝いている。「すごい……! 本当にお店みたいです」 和花が目を輝かせてテーブルを見つめる。  理聖は細いフルートグラスに冷えたシャンパンを注ぎ、和花へと手渡した。  繊細な黄金色の泡が、グラスの底から絶え間なく立ち上っている。「メリークリスマス、和花さん」 「はいっ。メリークリスマス、理聖さん!」 チンッ、と澄んだグラスの音が重なり、二人だけの聖夜の宴が幕を開けた。  理聖が腕によりをかけた料理はどれも絶品で、和花は一口食べるごとに「んん〜っ!」と感嘆の声を漏らした。  そのたびに理聖は、まるで一番の褒め言葉をもらったかのように、嬉しそうに目を細める。 美味しい料理と、隣にいる愛しい人。  張り詰めていた日常から切り離されたような穏やかな時間の中で、和花のペースは普段よりも少しだけ早くなっていた。「和花さん、少しペースが早いですよ。酔っていませんか?」 「えへへ……大丈夫です。今日はお料理もシャンパンも、すっごく美味しいですから」 もともとお酒に強い方ではない和花は、グラスを半分ほど空けたあたりで、すでに白く滑らかな頬を桜色に染め上げていた。  普段の凛とした強さはどこへやら、潤んだ瞳はとろんと蕩け、理聖の肩へ甘えるように擦り寄ってくる。  その無防備で無邪気な愛らしさに、理聖は胸の奥を甘く抓られるような思いだった。 やがて食事が一段落すると、お楽しみのクリスマスケーキの出番だ。  真っ白な生クリームと真っ赤な苺で彩られた小さなホールケーキを、理聖が手際よく切り分ける。「甘いものは別腹ですよね」 和花は嬉しそうにフォークを手に取り、生クリームをたっぷりとすくって口へ運んだ。「んっ……クリームが軽くて、すごく美味しいです」 「良かったです。スーパーのケーキも侮れませんね」 理聖も自分の分のケーキを一口食べる。甘さは控えめだが、苺の酸味とよく合っていた。  ――その時。「あ
last updateLast Updated : 2026-10-06
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137.心臓に一番近い場所

 翌朝。 和花がふんわりとした毛布の中で目を覚ますと、すでに隣に理聖の姿はなかった。 少しだけひんやりとしたシーツに手を伸ばすと、そこに理聖の代わりに置かれていたのは、ぽつんと口を開けた大きなサメのぬいぐるみだった。 和花は思わずくすっと笑い、そのサメをぎゅっと抱きしめて上体を起こした。 ベッドサイドの小さなテーブルには、写真立てが飾られている。 それは夏の日に、二人で水族館を訪れた際、スタッフに撮ってもらった記念写真だ。 大きなサメのぬいぐるみを半ば強引に渡され、照れながらも顔を寄せて笑い合う二人。 現像された写真の中の笑顔は少しぎこちなくも、最高に幸せそうな空気を纏っていた。 理聖はきっと、自分が早く起きていない間も和花が寂しくないようにと、昨夜の甘い熱の余韻ごと、このぬいぐるみを置いていってくれたのだろう。 ベッドから抜け出し、分厚いカーテンをそっと開ける。 窓の外に広がっていたのは、眩しいほどの一面の銀世界だった。 昨夜から降り続いた初雪が、街の輪郭も、遠くの屋根も、すべてを純白に染め上げている。 降り積もった雪がすべての音を吸い込んでいるのか、耳が痛くなるほどにしんとした、ガラス細工のように静かで冷たい冬の朝だった。 寝室を出てリビングへ向かうと、そこにはいつもと何一つ変わらない、愛おしい日常の光景があった。「おはようございます、和花さん。よく眠れましたか?」 キッチンに立つ理聖は、すでにスーツ姿で完璧に身支度を整え、その上からエプロンをつけて朝食の準備をしてくれていた。「おはようございます。……はい、すごくぐっすり眠れました」 理聖が淹れてくれた温かいコーヒーの香りが、部屋中に満ちている。 今日の朝食は、昨夜のローストチキンの残りを丁寧にほぐし、シャキシャキのレタスと一緒に軽くトーストしたパンで挟んだリメイクサンドイッチだった。「すごく美味しいです。お肉に味がしっかり染みてて」「喜んでもらえて良かったです。マスタードを少し効かせたのが正解でしたね」 理聖はいつも通りに穏やかに微笑み、和花の淹れたコーヒーを美味しそうに飲んでいる。 あえて深刻な話題には触れず、流れるような平穏な時間が、和花の胸をひどく締め付けた。 そして、朝食の片付けを終え、そろそろ出発の時間が近づいてきた頃。 理聖が黒いロングコートを羽織
last updateLast Updated : 2026-10-06
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138.行ってきます

 ガチャリと鍵を回し、重厚な玄関のドアを手前に引く。  冷たい雪の匂いと共に室内に滑り込んできたのは、肩にうっすらと粉雪を積もらせた梓と雄之助だった。「おはよう、二人とも。……メリークリスマス!」 梓が明るい声を響かせ、凍えた手を擦り合わせながらリビングへと足を踏み入れる。  彼女の両手には、立派な赤ワインのフルボトルが二本、大事そうに抱えられていた。「昨夜も飲んだばっかりだけど、今日も飲むわよ! 理聖くんが無事に帰ってきたら、改めて四人で盛大にクリスマスパーティをしましょ」 梓は茶目っ気たっぷりにウインクをして見せる。  その底抜けの明るさは、朝から張り詰めていた部屋の空気を、ふわりと温かいものに変えてくれた。  理聖は穏やかに微笑み、深く頭を下げた。「ええ、楽しみにしています。……僕がいない間、和花さんのことをよろしくお願いします」 「任せて。私と雄之助くんで、和花ちゃんには指一本触れさせないから」 力強く請け負った梓の後ろから、雄之助が静かに進み出た。  彼は無言のまま、手に提げていた黒いビジネスバッグを理聖へと差し出す。ずしりと重みのあるそれは、かつて和花が土砂降りの路地裏で拾った、あの鞄に似ていた。「若頭。……俺からの、餞別です」 「これは……?」 理聖が受け取り、鞄のジッパーを少しだけ開けて中を覗き込む。  入っていたのは、特殊繊維で覆われた分厚い防弾用の鋼鉄プレート。  そして、鈍い光を放つ九ミリパラベラム弾がフル装填された、ベレッタ用の予備弾倉がいくつか無造作に転がっていた。「もし、向こうでなんか不測の事態があったときは、その鞄ごと盾にしてくだせぇ。それと、それはリロード用の〝豆〟ッス」 「話し合いに行くというのに、ずいぶんと物騒な豆ですね」 「相手がうちの組長じゃ、これでも足りねぇくらいッスよ。何があっても、絶対に生きて帰ってきてください」 雄之助の不器用だが真っ直ぐな忠誠心に、理聖は鞄をしっかりと握り直し、深く頷いた。「助かります。ありがとう、雄之助くん。これで心置きなく、話ができそうです」 頼もしい留守番役へすべてを託し、理聖は最後に和花へと向き直った。  不安と恐怖を押し殺し、気丈に微笑もうとしている彼女の瞳を、理聖は真っ直ぐに見つめ返す。「和花さん」 「はい……」 「先ほども言いました
last updateLast Updated : 2026-10-07
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139.味のしないクリスマス

 純白の雪を踏みしめる音が、等間隔に静かな朝の空気を揺らしていく。 スーツの襟を立てて歩く理聖の頭の中では、冷たい冬の風に交じって、昨晩見た奇妙な夢の断片が何度もリフレインしていた。 ――それは、クリスマスの夜の夢だった。 どこかの広くて薄暗い、静まり返った豪奢な邸宅。 その中にある広いダイニングルームの一角だけが、その夜は不自然なほど華やかに飾り付けられていた。 長いテーブルの中央には、小さなクリスマスツリーと、妖しく揺れる赤いキャンドルの灯り。 銀の皿には切り分けられたローストチキンや、湯気を立てる温かなスープが並べられている。 その豪勢な食卓の端で、理聖はたった一人、ぽつんと座って食事を摂っていた。 傍らには誰もいない。会話も、笑い声もない。 口に運ぶ肉もスープも、まるで砂を噛んでいるようで、まったく味を感じなかった。 ただ生きるために必要な栄養を機械的に摂取しているだけの、ひどく冷たくて孤独な晩餐。 やがて、背後の暗闇から足音もなく一人の男が現れる。『理聖。……食事中に悪いが、仕事だぞ』 隻眼の奥に狂気を潜ませた、錦戸大翔だった。 夢の中の理聖は、フォークを置き、何の感情も交えずに立ち上がる。 そして次の場面では、どこかの見知らぬ家へ押し入り、温かなクリスマスパーティを楽しんでいた家族四人を――幼い子供を含めて――一切の躊躇なく始末していた。 ツリーの下に置かれたプレゼントが赤黒く染まり、楽しげだった笑い声が悲鳴に変わり、やがて完全な沈黙が落ちる。 理聖は歩きながら、ふと足を止めて空を見上げた。 灰色の雲から、音もなく雪が舞い落ちてくる。 あの光景が、記憶を失う前の自分が実際に手を下した現実の出来事だったのか。 それとも、潜在意識が作り出したただの悪夢に過ぎないのか。 記憶のない今の理聖には、確かめる術はなかった。 だが、あの豪邸での味のしない食事の記憶と、冷徹に命を刈り取る手の感触だけは、ひどく生々しかった。 かつて〝狂犬〟として裏社会を生き抜いていた自分であれば、あの大翔の命令通りに、何の感情も抱かずに実行していただろう。 そう思わせるだけの得体の知れない冷たさが、自分の奥底に確かに眠っている。 だからこそ、昨夜の和花との時間がどれほど温かく、幸福なものだったか。 手作りの不恰好なツリー。色鮮やかな料
last updateLast Updated : 2026-10-07
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140.メリークリスマス、理聖

 自動ドアをくぐると、受付に座っていた女性が弾かれたように立ち上がった。「お待ちしておりました、久世若頭」 あまりにも自然に呼ばれたその肩書きに、理聖はほんの僅かに目を細める。  記憶を失って以来、何度聞いてもまだ自分のものとは思えない呼び名。  だが、この場所にいる人間たちにとっては違うらしい。  エントランスを行き交う黒服の男たちも、理聖と目が合えば即座に足を止めて深く頭を下げる。「お疲れさまです、若頭」 「お戻り、お待ちしておりました」 驚きもざわめきもない。  まるで、久世理聖がこの場所へ帰ってくることなど当然だったかのような態度だった。  理聖はその統率された空気に、かえって薄ら寒いものを感じる。(……僕が組を抜けるつもりだということは、当然ここには伝わっていないのでしょうね) 彼らにとって自分は今も、深凪組の若頭。  そして大翔にとっても、おそらくそれは一度も変わっていないのだ。 理聖は受付へ視線を戻す。「錦戸さんとの面会をお願いしています。久世です」 「はい。組長からも伺っております。五階の組長室でお待ちです」 「ありがとうございます」 女性が案内を申し出るが、理聖は静かに手を上げて断った。「場所は、わかりますので」 口にしてから、理聖自身が僅かに違和感を覚える。  記憶にはない。それなのに、身体は五階の組長室へ向かう道順を正確に知っている。  そのまま五階へ上がり、重厚な組長室の扉の前で足を止める。  静かにノックをすると、すぐに内側から落ち着いた低い声が返ってきた。「……入りなさい」 理聖はゆっくりと扉を開けた。「…………?」 そこには、想像していたものとはまるで違う光景が広がっていた。  裏社会の王が待ち構えている、冷たく無機質な組長室――そのはずだった。 だが、窓際には小さなクリスマスツリーが置かれ、重厚なキャビネットには赤と金のオーナメント。  壁には控えめなガーランドまで飾られている。  ローテーブルには上品なティーセット。さらにその中央には、白いクリームと大粒の苺で飾られた小さなクリスマスケーキが置かれていた。 理聖は思わず入り口で立ち尽くす。  その光景が――今朝思い返していた、昨夜の夢に出てきた豪邸の食卓と、どこか重なって見えたからだ。  何かが、記憶の奥深くをチリ
last updateLast Updated : 2026-10-08
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