All Chapters of 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした: Chapter 151 - Chapter 160

180 Chapters

151.過去の扉

 テーブルの上に並んでいた色鮮やかな手料理はすっかり平らげられ、空になった赤ワインのボトルが二本、役目を終えたように並んで転がっている。 昨夜の残りのクリスマスケーキも四人で綺麗に分け合い、賑やかで温かな聖夜の宴は、静かな終幕を迎えようとしていた。「んん〜……もう飲めないわよぉ……」 ソファの端に寄りかかったまま、梓が幸せそうな寝息を立てている。 自ら持ち込んだ極上のワインを誰よりもハイペースで空け、すっかり酔いが回って寝落ちしてしまったのだ。 その隣では、和花もまた、うとうとと心地よさそうに目を閉じていた。 朝からずっと気が気ではなかったのだろう。 理聖がこうして無事に帰ってきたことで、一日中張り詰めていた極度の緊張の糸がふっと解け、温かい部屋の空気と微かなアルコールに誘われて、急激な眠気が襲ってきたらしい。 船を漕ぐように、こくりこくりと小さな頭が揺れている。 理聖は音を立てないように静かに近づくと、和花の隣に腰を下ろし、その柔らかな髪を愛おしそうに撫でた。(……よかった) 無事に彼女の元へ帰ってくることができた。 約束した通り、一緒にケーキを食べることもできた。 和花の安心しきった無防備な寝顔を見ていると、数時間前に組長室で繰り広げられた死闘が、遠い別の世界での出来事のように思えてくる。 理聖は傍らにあった大判のブランケットを手に取ると、風邪を引かないように、和花と梓の肩へそっと優しく掛けてやった。「……おやすみなさい、和花さん」 誰にも聞こえないほどの小さな声で囁き、理聖はゆっくりと立ち上がった。 ふと視線を巡らせると、雄之助の姿がリビングに見当たらなかった。 宴の最中、梓から「雄之助くんも遠慮しないで飲みなさいよ!」と何度もグラスを勧められていたが、彼は「俺はいいッス」と頑なにセーブしていた。 理聖が帰宅した直後に「少し、話したいことがある」と告げていたため、酔って頭を鈍らせるわけにはいかないと警戒し、シラフを保ってくれていたのだ。 リビングから続く掃き出し窓の向こう。 薄く結露したガラス越しに、ベランダで一人、身を縮めるようにしてタバコを吹かしている巨体がぼんやりと見えた。 理聖はハンガーに掛けてあった自分の黒いロングコートを羽織り、窓の鍵を開けた。 ピシャリ、と冷たい空気が頬を刺す。 外は、朝から降り続
last updateLast Updated : 2026-10-13
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152.組の在り方

 雪が音もなく舞い落ちるベランダ。  理聖の真っ直ぐな問いかけを受け、雄之助は冷たい手すりに両腕を乗せ、少しだけ考え込むように夜空を見上げた。  どこから、どう話せばいいのか。重い口を開くための言葉を探しているようだった。「……まず、大前提として知っておいてほしいことがあるッス」 やがて、雄之助が静かに話し始める。「深凪組と、和花さんの親父さんが頭を張ってる不破組。この二つの組織は、昔から単なるシマの奪い合い……縄張り争いをしてたわけじゃねぇんスよ。根本的に、〝組の在り方〟が違った」 理聖は無言のまま、先を促すように小さく頷いた。「不破ってのは、昔からちょっと変わった組なんスよ」 雄之助の口から語られた不破組の姿は、理聖が漠然と想像していた組織のイメージとは少し異なっていた。「あいつらは、一般のカタギを食い物にしたり、弱者を狙ったような汚いシノギで稼ぐ組織を徹底的に嫌う。もちろん、裏社会そのものを否定してるわけじゃねぇッスよ。ただ、自分たちの決めた〝一定の線〟を越えた組織については、たとえ同じ極道だろうが容赦なく潰しにかかる」 「……それはつまり、彼らなりの正義がある、ということでしょうか」 「さあ、そんな綺麗なもんかは知らないッスけどね。古い任侠道を気取ってるだけかもしれない。でも、少なくともあいつらは、そういう連中ッス」 和花の父、佐伯源蔵。  彼は威圧的で、隙がなかった。だが、その根底には決してブレない確固たる矜持があったことを、理聖も肌で感じていた。「一方、昔の深凪組は、不破とはまったく違った」 雄之助の声のトーンが、一段低く沈む。「利益になるなら手段は選ばない。邪魔な相手がいれば脅し、それでも退かなければ容赦なく消す。組に背いた裏切り者への制裁も、苛烈なもんだった。……良くも悪くも、力と恐怖でねじ伏せる典型的な組織だったッス」 その方針を、誰よりも冷徹に徹底していた男。「それが、深凪組の先代組長――藤原一成って人ッス」 「藤原……一成」 理聖はその名前を、静かに反芻した。  大翔が恩人と呼び、今なお仇を討つために執着し続けている男の名前。「先代は、一見するとすげぇ穏やかな男だったッス」 雄之助は、どこか懐かしむような、それでいて畏怖を込めた目で虚空を見つめた。「滅多に怒鳴らない。下っ端
last updateLast Updated : 2026-10-14
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153.恩があるからって

『……ただの、血も涙もない悪党ってわけじゃなかった』 理聖がその言葉の真意を問うように見つめると、雄之助は雪の積もった手すりを指先でなぞりながら、ぽつりと語り出した。 雄之助自身もまた、藤原一成という男には深い恩があるのだという。「俺がまだ、下っ端も下っ端のガキだった頃の話ッス」 当時、血の気だけは多かった若き日の雄之助は、シノギで大きな失敗をやらかした。 組の顔に泥を塗るような失態だったらしく、古参の幹部たちから半殺しにされるほど激しい制裁を受けていた。 痛みと屈辱で立ち上がることもできず、もうこの世界に自分の居場所はないと絶望していた時、その場へ偶然ふらりと現れたのが、組のトップである一成だった。「幹部たちは、俺を組から追い出すか、指を落とすかしろって息巻いてたッス。でも、先代は俺の血だらけの顔をじっと見て……幹部たちにこう言ったんスよ」 雄之助は、今でもその時の声を鮮明に覚えているかのように、ゆっくりと一成の言葉をなぞった。『失敗したなら、次に使えるように育てればいい。壊してしまって、どうする』 怒鳴るわけでもなく、当たり前のことのようにそう言い放ち、一成はその場を去っていった。「その一言で、俺は命拾いした。だから、俺にとって先代は、間違いなく恩人なんスよ」 雄之助はタバコの箱を取り出しかけて、やっぱりやめたという風にポケットへ押し込んだ。「俺ですらそうなんス。だったら――錦戸さんにとっては、もっと大きかったはずッスよ」「……」「組長……錦戸さんは、先代に人生ごと拾われたような人ッスから」 大翔が深凪組へ迎え入れられた時、彼はまだ若かった。一成は彼に裏社会での戦い方を教え、組織の動かし方を叩き込み、上に立つ者としての冷徹な振る舞いを惜しみなく与えた。現在の大翔という絶対的なカリスマを形作る、そのすべての土台を作り上げたのが一成だった。「本物の親みたいなもんだったと思うッス」 だからこそ、一成を佐伯源蔵に殺された事実を、大翔はいまだに許すことができない。 復讐という狂気に取り憑かれたまま、数年が経った今でも過去に囚われ続けているのだ。 理聖はそこで、大翔と自分の関係性との奇妙な共通点を感じていた。 一成に拾われ、裏社会のすべてを叩き込まれて育てられた大翔。 その大翔に拾われ、冷酷な技術を刷り込まれて最高傑作へと育て上
last updateLast Updated : 2026-10-14
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154.抗争を始めた男

「……身内、ですか」 理聖が眉を寄せると、雄之助は雪の積もった手すりを強く握り締め、あの忌まわしい過去の記憶を呼び起こすように静かに話し始めた。「当時の深凪組には、天田遼って男がいたんスよ。役職は若頭補佐。組のナンバー3に位置する実力者でした」 雄之助の口調が、一段と重くなる。「能力そのものは、確かに高かった。頭も回るし、腕も立つ。でも……あの人は、とにかく面倒事を嫌う人間だったんス」 組織同士のトラブルを解決するためには、通常、膨大な時間と手間がかかる。  相手と交渉のテーブルにつき、腹を探り合い、時に譲歩し、互いが納得する落とし所を探る。  だが、天田遼はそうした泥臭い過程を心底嫌悪していた。「あいつの口癖は、『揉めるくらいなら消しゃいい』でした」 理聖の目が、僅かに細められる。「敵対組織の人間だけじゃない。今後、組にとって問題を起こしそうな奴がいれば、目立つ前に先回りして勝手に処分してしまう。殺した後の後始末の手際も異常に良かったから、先代はそんな天田をある意味で重宝してたんスよ」 効率だけを重視し、命をただの障害物としてしか見ない男。  だが、そのやり方は明らかに極道のルールを踏み越えていた。「結局、やりすぎたんです」 雄之助は小さく舌打ちをした。「天田の周辺で、あまりにも頻繁に人間が消えすぎる。その異常な動きを、あの不破組が嗅ぎつけた」 不破組は、一定の線を越えた外道な真似を絶対に許さない組織だ。  彼らは深凪組の暗部を暴くため、水面下で徹底的な調査を開始した。 不破組が動いていることに気づいた天田は、本来であれば、すぐにトップである藤原一成へ報告し、組としての対応を仰ぐべきだった。  だが――。「天田さん、そういう面倒なのが一番嫌いだったんスよ。自分が追及されるのも、組同士の会合で長々と話し合うのも」 だから天田は、誰にも相談せず、最悪の選択をした。「面倒になる前に、頭を潰せば終わる」 そう考えたのだ。  標的は、不破組のトップ――佐伯源蔵。「天田は数人の手下だけを連れて、独断で不破組のシマへ乗り込み、佐伯源蔵を暗殺しようとした。……でも、相手が悪すぎた」 雄之助は苦笑にも似た表情を浮かべた。「完全に返り討ちッスよ。佐伯源蔵本人にあっさりと制圧され、そのまま身柄を押さえられち
last updateLast Updated : 2026-10-15
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155.あの日、失ったもの

「天田を迎えに行った先代と錦戸さんは、不破組の連中と直接対峙したッス」 雄之助の低く沈んだ声が、雪の降る静寂のベランダに吸い込まれていく。 当然、話し合いで穏便に終わるような状況ではなかった。 そもそも事の発端は、天田による源蔵の暗殺未遂だ。 不破組側にしてみれば、自分たちのトップの命を狙った男を、そう簡単に引き渡すはずがない。 さらに、それまで街を食い物にしてきた深凪組に対する、積み重なった深い敵意もある。 交渉は早々に決裂した。 そしてそのまま、血で血を洗う激しい衝突へと発展したのだという。「先代は、高齢とは思えないほど強かったそうッス。錦戸さんも、傍らで死に物狂いで応戦した」 だが、不破組のトップである佐伯源蔵は、二人の実力をさらに上回る圧倒的な強者だった。「今でも組長が『あの男は強い』と警戒するのは、その時の記憶が骨の髄まで刻まれてるからッス。先代ですら、真正面からは押し切れなかった」 戦いの最中、一時的に天田を助け出しかけたものの、不破組の猛攻によって深凪側の形勢は一気に崩れ落ちた。 そこで一成は、トップとして残酷な決断を下す。 天田を救うことよりも、生き残った他の組員と、若き日の大翔を逃がすことを優先したのだ。 だが、その決死の退却戦も虚しく、天田も、そして一成自身も、結果としてその場から生きて帰ることはできなかった。 大翔もまた、源蔵との壮絶な戦闘の末に右目に深い傷を負わされた。 血で片目の視界を完全に奪われながらも、大翔は倒れた一成のもとへ這ってでも向かおうとしていたという。 その頃。 少し離れた場所で退路を守るよう命じられていた理聖にも、ただならぬ異変が伝わっていた。 予定の時刻を大幅に過ぎても、一成たちが戻ってこない。さらに、遠くから尋常ではない争いの気配が漂ってくる。 理聖はついに一成の命令を破り、単独で現場へと駆けつけた。 そこで理聖が目にしたのは、すでに事切れた一成と天田。そして、右目から夥しい血を流して膝をつく大翔の姿だった。 さらにその大翔の目の前には、今まさにとどめを刺そうと立ちはだかっていた不破組の若い構成員がいた。 神崎紅雅。 当然、記憶を持たない今の理聖には、その名前の響きに聞き覚えはない。 彼が和花の幼馴染であったことも、蒼士の大切な弟であったことも、知る由もなかった。 た
last updateLast Updated : 2026-10-15
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156.大翔が抱えているもの

 雄之助の吐息は濃い白煙となって、凍てつくような冬の空気の中へゆっくりと溶けていく。  彼はポケットの中で拳を固く握り締め、あの血塗られた夜の結末を、絞り出すように語り始めた。「錦戸さんにとって決定的な絶望だったのは……先代が、自分を庇って死んだという事実ッス」 「庇って……ですか」 理聖の黒縁メガネの奥で、瞳が僅かに見開かれた。「ええ。天田を連れて退却しようとした時、不破組のトップ……佐伯源蔵の決定的な一撃が、錦戸さんを襲ったらしいんス。当時の錦戸さんも相当腕が立ったはずですが、あの男の前じゃほんの一瞬の隙が命取りになる」 雄之助は重々しく首を振った。「回避することも、防御することもできない確実な死。それを悟った瞬間……先代が身を呈して、錦戸さんの盾になった。源蔵さんの強烈な攻撃をまともに受けて、先代は致命傷を負ったんス」 理聖はハッと息を呑んだ。  冷徹に合理性を極め、必要とあらば身内すら迷わず切り捨ててきたらしいあの藤原一成が。組織の存続よりも、自分に付き従ってきた若き部下の命を優先し、自らの身を投げ出したというのか。「錦戸さんは、狂ったように先代を助けようとしたそうです。片目を潰され、顔の半分を真っ赤に染めながらも、先代を担いでここから逃げようと足掻いた。でも、先代はもう自分が助からないことを完全に悟っていた」 雄之助の声が、ベランダの冷たい静寂に重く響く。「先代は最後の力を振り絞って、錦戸さんに一つの命令を下した。……『生きろ』と」 生きろ。  たった三文字の、最もシンプルで、最も残酷な呪縛。「錦戸さんは、絶対に逆らうことのできない親からの最後の命令に従った。だから、あの地獄の中から生き残ってしまったんです」 雪が音もなく、二人の間に降り積もっていく。  理聖の胸の奥で、ドクン、と嫌な鼓動が強く跳ねた。「……錦戸さん、自分が生き残ったことを、ずっと許せてないんだと思うッス」 雄之助は、裏社会の絶対的な王に対するものとは思えない、どこか憐れむような響きを込めて言った。「自分がいなければ、先代はあんな無茶をしてまで庇わずに済んだかもしれない。自分がもっと強ければ、先代を死なせずに済んだかもしれない。なぜ、偉大な先代が死んで、自分だけがのうのうと生き残ってしまったのかって……」 生き残ってしまった者の、底なしの罪悪感。
last updateLast Updated : 2026-10-16
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157.見逃された屈辱

「全部、源蔵さんのせいに……?」 理聖は、雄之助の言葉を確かめるように静かに問い返した。 雄之助は、降る雪から視線を外さずに深く頷いた。  大翔にとって、佐伯源蔵という男は単なる敵対組織のトップではない。  あの血塗られた夜の絶望と敗北、そのすべてを象徴する絶対的な存在なのだ。「特に錦戸さんにとってデカかったのは……あの夜、佐伯源蔵が錦戸さんにとどめを刺さなかったことッス」 「とどめを、刺さなかった……」 「そうッス。先代を失って、右目を斬り裂かれて、当時の錦戸さんはもう満足に戦える状態じゃなかった。不破のトップからすれば、そこで息の根を止めるのは造作もないことだったはずです。それでもあの男は、錦戸さんを殺さなかった」 雄之助の太い指が、手すりの上の雪をギュッと握り潰した。「錦戸さんにとっちゃ……あれがたぶん、一番の屈辱だったんスよ」 絶対的な恩人を殺しておきながら、自分は殺されない。  それは大翔にとって、情けをかけられたという生易しいものではなかった。『お前など、わざわざ殺す価値すらもない』と、存在そのものを踏み躙られ、完全に否定されたように感じられたのだ。 実際に源蔵がどういう意図で大翔を生かしたのか、それは雄之助にもわからない。  ただ無益な殺生を避けただけかもしれないし、あるいは別の理由があったのかもしれない。  だが、誇り高き深凪の幹部であった大翔は、それを最悪の屈辱として受け取ってしまった。「だから、錦戸さんにとって源蔵さんを殺すことは、ただの極道の仇討ちなんかじゃない」 雄之助が静かに語る。「先代を救えなかった無力な自分を否定するため。生き残ってしまった自分を正当化するため。そして、あの日の屈辱を完全に終わらせるため……。いろんなものが、ドロドロに混ざり合っちまってるんス」 ふと、雄之助の顔に深い哀憬の色が浮かんだ。「仇を討ちたいっていうより……あの日から一歩も進めてねぇんスよ、あの人」 その言葉は、雪の夜の静寂に重く響いた。  大翔は裏社会の頂点に君臨しながら、その心はずっとあの夜の地獄に取り残されたままなのだ。  そこで理聖は、数時間前に組長室で大翔から突きつけられた残酷な条件を思い返していた。『佐伯源蔵を殺せ』 大翔は、自分の手で源蔵を殺すとは言わなかった。  最も憎んでいる相手なら、自らの手
last updateLast Updated : 2026-10-16
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158.大翔という男

 理聖の揺るぎない決意を聞いて、雄之助は大きく頷くことも、驚くこともなかった。  ただ、コンクリートの床に音もなく降り積もっていく雪をじっと見つめながら、長く白い息を吐き出した。「……あの夜、佐伯源蔵には負けました。でも、それは錦戸さんが弱かったって意味じゃないんスよ」 雄之助は、記憶のない理聖に、かつての錦戸大翔という男の輪郭を正確に伝えるように言葉を紡ぐ。「錦戸さんも、昔から相当強かったッスよ。深凪組の中でも、圧倒的な部類だった」 先代である一成のもとで手塩にかけて育てられた大翔は、裏社会で生き抜くための狡猾な処世術だけでなく、純粋な殺しの技術そのものを骨の髄まで叩き込まれていた。  そして不思議なことに、成長するにつれて、普段の人当たりまで一成によく似ていったのだという。  滅多に声を荒らげることはなく、常に穏やかな微笑みを湛えている。部下の面倒見もよく、身内に対しては驚くほど情が深かった。  だからこそ、大翔のその器の大きさに心酔し、命を懸けて慕う組員も多かった。 しかし――。「先代がそうだったように……あの人も、命を奪うことへの抵抗が異常に薄かったんス」 自分たちに害をなす敵だと判断した相手には、欠片ほどの容赦もしない。  雄之助は、その恐ろしい二面性を象徴するような、ある過去の出来事を語り始めた。「昔、錦戸さんの直属の部下が、シノギで揉めていた敵対組織に捕まって、人質にされたことがあったんス」 相手の組織は、深凪組の若頭格であった大翔が、そう簡単には手を出してこないだろうと高を括っていた。  人質を取っている以上、大翔は身内を見捨てることはできず、必ずこちらに有利な条件で交渉のテーブルにつかざるを得ないはずだと。  だが、大翔の行動は彼らの浅はかな予想を遥かに超えていた。「錦戸さんは、たった一人で敵の本拠地へ向かったんスよ」 「一人で……?」 「向こうも完全に油断してたんでしょうね。まさか、深凪組の次期組長ともあろう男が、護衛の一人もつけずに単身で乗り込んでくるとは思わなかったはずッス。……で、どうなったか」 雄之助は淡々と、まるで背筋の凍るような怪談でも話すように言った。「錦戸さんは、無事に部下を取り戻して帰ってきた。その代わり……その場にいた敵の組織の人間は、文字通り、誰一人として生きては残らなかった」 
last updateLast Updated : 2026-10-17
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159.やっぱ、こっちの方がいいッスね

「……雄之助くんも?」 予想外の言葉に、理聖が思わず目を丸くして問い返すと、雄之助はいつもの軽い調子を完全に消し去り、真面目な顔で深く頷いた。「はい」 そして雄之助は、降りしきる雪を見つめながら、初めて自分が深凪組へ入った経緯を静かに語り始めた。 幼い頃、親に捨てられた。 行く当てもなく街をうろつき、荒れ果てて非行に走り、すっかり行き場をなくしていた裏路地。 そんな薄汚れた自分を拾い上げてくれたのが、他ならぬ錦戸大翔だった。「俺にとっても、錦戸さんは……まあ、ある意味で親代わりみたいな人だったんスよ」 温かい食事を与えられた。安心して眠る場所も与えられた。 何より、裏社会という生きる場所と、組員としての確かな役目をくれた。 だから、大翔には海よりも深い恩がある。決して嫌いになったわけでも、その恩を忘れたわけでもない。 それでも。「……やっぱ、今の組の考え方には、俺はもうついていけねぇッス」 雄之助の横顔に、隠しきれない苦悩が滲む。 彼は、今日までの出来事を一つ一つ思い返すように言葉を絞り出した。 蘭華が大翔に恋焦がれ、一途に慕っていることを知りながら、大翔はその純粋な感情を平然と利用した。 理聖の殺意を引き出すためのただの当て馬、都合の良い捨て駒として使い捨てたのだ。 さらに、裏社会の因縁とは無関係なカタギである和花まで、源蔵を動かすための材料として使おうとしている。「蘭華の気持ちを知ってて、ああやって使い潰して。それだけじゃなく、今度は和花さんまで利用するって……」 雄之助は雪を払うように強く首を振った。「そんなの、ダメッスよ。いくら身内を守るためだとしても、超えちゃいけねぇ線がある」 雄之助は理聖へと向き直り、真っ直ぐにその瞳を見据えた。「若頭がもう誰も殺せないって言うなら、俺はそれでいいと思うんス」 理聖は黙ってその言葉を受け止める。「若頭がやりたくない汚いこと……裏の連中との面倒な交渉とか、厄介な後始末とか。そういうのは、俺の方がずっと慣れてることもある。俺が引き受けたっていい」 それは決して「殺しを代わりにやる」という意味ではない。極道としての泥臭い立ち回りで、理聖の盾になるという不器用な誓いだった。「一緒に組を抜けて、今度こそ……血の匂いなんてしない、殺しとは無縁の世界で生きていきやしょうよ」 理聖
last updateLast Updated : 2026-10-17
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160.大晦日の風邪っぴき

「……っぶえっくしょい! ううっ、寒いッス……」 あの日、雪がしんしんと降り積もる極寒のベランダで、理聖と長く話し込みすぎたのが致命的だったらしい。 クリスマスが終わり、街の空気が一気に慌ただしい年末へとシフトしていく中。世間は今日、大晦日を迎えていた。 フルリールもすでに無事に年内の営業を終え、年末年始の連休に入っている。 本来であれば、大晦日の浮かれた気分を味わいながら、梓の部屋で温かい鍋でも囲んでゆっくりと過ごしているはずだった。 ……はずだったのだ。「うぅ……頭が痛ぇッス……」 雄之助は今、梓の部屋のベッドの上に横たわり、分厚い布団を被ってぐったりと力なく天井を仰いでいた。 裏社会でどれだけ修羅場を潜り抜けようとも、大怪我こそすれ、こんな風に寝込むことなど滅多になかったというのに。 カタギの世界の温かさに触れて緊張の糸が解けたのか、見事にウイルスに侵略されていた。 顔は熱で赤く火照り、全身の関節が鉛のように重く軋んでいる。 ピピッ、ピピッ。 脇に挟んでいた体温計が、無情な電子音を響かせた。 重い腕を動かして体温計を引き抜き、ぼやける視界で小さな液晶画面を見つめる。「……げっ、39度!?」 予想以上の数字に、雄之助の口から情けない呻き声が漏れた。 大の大人が、大晦日にこれほどの高熱を出すなど不甲斐なさすぎる。 ちょうどその時、開け放たれた寝室のドアの向こうからパタパタとスリッパの足音が聞こえてきた。「雄之助くーん。熱、何度だったー?」 エプロン姿の梓が、キッチンからひょこっと顔を出した。 雄之助は恨めしそうに体温計を見つめたまま、掠れた声で答える。「……39度あるッス」「あらー。上がっちゃったわね」 雄之助の悲痛な報告に対し、梓は妙に冷静だった。「インフルエンザの検査は陰性だったんだし、あとは気合いで治すしかないわよ」 さっぱりとした口調で言い切る梓に、雄之助は布団の中で小さく丸くなる。 そんな雄之助の様子を見て、梓は少しだけ得意げな笑みを浮かべた。「ほら、栄養つけないとダメでしょ。お粥作ってあげたから、起き上がって食べなさい」 その瞬間、雄之助の背筋に、熱とは違う嫌な汗がスッと流れた。(……お粥?) 梓は酒を飲むのが大好きで、酒に合う簡単なつまみを作るのは得意だ。だが、それ以外の料理をしている姿を
last updateLast Updated : 2026-10-18
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