All Chapters of 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした: Chapter 171 - Chapter 180

180 Chapters

171.それでも戻らない

 本当に、大好きだった。 ごまかしのない、真っ直ぐな和花の告白。 それを聞いた瞬間、蒼士の表情が苦痛に歪み、激しく揺れた。 だからこそ、目の前の幼なじみが理解できないのだ。 弟を心から慕ってくれていたはずの和花が、なぜその命を奪った男の側に立つことができるのか。「だったら……! だったらなんで、あいつを選べるんだよ!」 蒼士の悲痛な叫びが、冷え切った路地裏の空気を震わせる。 和花は蒼士の怒りから目を逸らさず、静かに言葉を返した。「でも、紅雅が亡くなったって聞いたのは、ずっと昔だよ」 ぽつりとこぼれたその一言に、蒼士はハッと息を呑んだ。 和花はずっと、紅雅は不慮の交通事故で命を落としたのだと聞かされていた。 当時中学生だった彼女は、大人たちのついたその優しい嘘を信じるしかなかったのだ。「何年もかけて……泣いて、悩んで、どうして紅雅がいなくなっちゃったんだろうって、ずっと苦しかった。それでも……もう二度と会えないんだって、紅雅がいない人生を、私なりに必死に受け入れてきたの」 和花の両手が、胸の前でぎゅっと握り締められる。「今になって……本当は事故じゃなく、殺されてたんだって聞かされても。時間を巻き戻すことなんて、もうできないよ」 ぽっかりと空いた心の穴を、途方もない時間をかけて少しずつ塞いできた。 その痛みの痕を再び抉り出されたからといって、すべてを当時の感情のままにやり直すことなどできない。「だからって……久世を許すって言うのか」 蒼士が、絞り出すような低い声で問う。「そうじゃない」 和花はゆっくりと、けれどはっきりと首を横に振った。「許すとか、許さないとか……そんな、単純な話じゃないの」 紅雅を心から好きだった過去の自分も、本当。 彼が突然この世からいなくなってしまったことを、今でも悲しいと思う気持ちも、本当。 そして現在――久世理聖という一人の人間を、大切に想い、愛している気持ちも、絶対に嘘ではない。「紅雅を好きだったからって……私は、一生誰かを憎み続けなきゃいけないの?」 和花の切実な問いかけに、蒼士は言葉に詰まった。 弟の死から時間が止まり、憎しみだけを糧に生きてきた蒼士の心に、その真っ直ぐな言葉が鋭く突き刺さる。「理聖さんは、自分がやったことをなかったことにしようとなんてしてない」 和花の脳裏に、罪
last updateLast Updated : 2026-10-23
Read more

172.理聖からの着信

 画面に浮かび上がった四つの文字が、薄暗い路地裏で白く発光している。 ほんの少し前まで一緒に店内にいた彼からの着信だ。レジ締めの作業を終えても二階へ上がってこない和花を心配して、様子を見ようとかけてきたのに違いない。 和花は弾かれたように我に返り、震える指で通話ボタンをスライドさせようとした。「出るな」 だが、指先が画面に触れるより一瞬早く、蒼士の低く鋭い声が冷たい空気を切り裂いた。「えっ――」 和花が顔を上げた次の瞬間、手の中からスマートフォンが勢いよくひったくられていた。「ちょっと、蒼士! 返して!」 和花は慌てて背伸びをし、両手を伸ばして取り返そうとする。だが、背の高い蒼士が腕を高く掲げると、和花の指先は空を切るばかりだ。 蒼士は着信音が鳴り続ける画面を冷ややかな瞳で見下ろすと、躊躇いなく通話の拒否ボタンを押し、そのまま電源を完全に落とした。 そして、真っ暗な塊となったスマートフォンを、路地裏の奥にある雑草が生い茂ったフェンスの向こう側へと、大きく腕を振って放り投げたのだ。 ガサッ、と枯れ草を踏み躙るような鈍い音が響き、和花の唯一の連絡手段が深い闇の中へ消えていく。「何するの!?」 和花は信じられない思いで蒼士を睨みつけた。 一気に頭に血が上り、声が怒りで震える。「理聖さん、私が急にいなくなって、きっとすごく心配してる。無事だってことだけでも、伝えさせてよ……!」「ダメだ。死神の野郎にGPSで現在地を探られたら面倒だからな」 蒼士は悪びれる様子もなく、極道としての冷徹な判断を淡々と口にする。 和花の気持ちなど、最初から考慮するつもりはないらしい。「どうしてそんなこと……!」「お前は俺と一緒に、事務所に来い」 見下ろしてくるその気怠げな瞳には、和花の意志を一切挟ませない、強烈で暴力的なまでの覚悟が宿っていた。「行かない!」 当然、和花は強く拒否した。 踵を返し、一刻も早くフルリールへ戻ろうと駆け出そうとする。 だが、蒼士の大きな手が和花の細い腕をガシリと掴み、強引に手元へと引き寄せた。「きゃっ……!」 体勢を崩した和花の膝裏と背中に、蒼士の太い腕が滑り込む。 フワリと視界が不自然に浮き上がり、次の瞬間、和花は蒼士に力強く横抱きにされていた。「ちょっ……蒼士! 下ろして!」 突然宙に浮いた状態になり、和
last updateLast Updated : 2026-10-24
Read more

173.父の会社、その裏側

 息の詰まるような重い沈黙の中、夜の街を走り続けていたSUVが、やがて緩やかにスピードを落とした。 和花は後部座席で腕を固く組んだまま、怒りと不安の入り混じった顔で窓の外へと視線を向ける。 車が滑り込んだのは、都内の中心部にある綺麗に整備された中規模のオフィスビルだった。 見覚えのある外観と、見慣れた地下駐車場の風景。和花は怪訝そうに眉を寄せた。 父である源蔵が、道場の経営以外にも手広く事業を展開していることは、和花も昔から知っていた。 その中のひとつで、源蔵自身が社長を務めている不動産関連の会社。それが、このビルに入っているはずだ。「……え?」 和花は戸惑いながら、運転席でエンジンを切る蒼士の背中を見た。「ここって……お父さんの会社、だよね?」「そうだ」 蒼士は振り向きもせず、短くそれだけを答えた。 ガチャリとドアロックが解除される。蒼士に促されるまま車を降り、エレベーターで上の階へと上がっていく。 たどり着いたのは、受付に観葉植物が飾られた、ごく普通の清潔なオフィスだった。 ガラス張りのエントランスの奥には、遅い時間にも関わらず、パリッとしたスーツ姿の社員たちがパソコンに向かって熱心に働いている。 見た目だけなら、どこにでもある完全にクリーンな一般企業そのものだ。 しかし、蒼士がエントランスに足を踏み入れた瞬間、その場の空気がピリッと張り詰めたものに変わった。 すれ違った恰幅の良いスーツ姿の男性社員が、蒼士の姿を認めるなり、弾かれたように足を止め、深く頭を下げたのだ。「若頭。お疲れさまです」 和花の足が、ピタリと固まった。「……若頭?」 信じられない言葉に、和花は声に出して反芻する。 だが、蒼士はその反応をまったく気にする様子もなく、顎を僅かにしゃくって挨拶を返すと、そのまま受付の女性へと近づいていった。「おやっさんは、中にいるか?」「お疲れさまです。社長でしたら、一時間ほど前にここを出て、道場の方へ戻られました」「そうか。わかった」 淡々と交わされる会話を聞きながら、和花の頭の中はますます深い混乱の渦に飲み込まれていた。 社長と呼ばれているのは、当然、源蔵のことだ。それはいい。 だが、社員から〝若頭〟と呼ばれ、当然のようにそれを受け入れている蒼士。 ここで初めて、和花は理解したのだ。 このクリーンな一
last updateLast Updated : 2026-10-24
Read more

174.守るために連れてきた

 分厚い扉によって外界の音が完全に遮断された応接室には、重苦しい沈黙が降りていた。 ふかふかの黒い革張りソファに腰を下ろした和花は、扉の前に立ちはだかる蒼士を、未だに納得のいかない鋭い視線で睨みつけていた。「……こんなふうに、誘拐みたいに無理やり連れてくる必要があったの?」 震える声で絞り出した不満に、蒼士はすぐには答えなかった。 瞳を僅かに伏せ、ポケットの中で拳を握り直す。 少しの間を置いてから、重い口を開いた。「……あった」 低く、地の底から響くような声だった。 蒼士はゆっくりと応接室の中央へ歩み寄り、ローテーブルを挟んで和花の向かい側のソファに深く腰を下ろした。「さっき、外でも言ったが……近いうちに深凪組が動く可能性が高い」「……」「ただの脅しや憶測じゃねぇ。こっちも、もうそう判断して具体的に動いてる」 不破組側は、以前から門下生や構成員を使い、深凪組周辺の動きを昼夜問わず監視させていた。 そして最近になって、その動きが明らかに変わってきたのだという。 深凪組の拠点に出入りする人間や車の数が異常に増え、普段はバラバラに動いている組員たちが、何かの準備に追われるように慌ただしく集結し始めている。 それは、極道が何か大きな〝出入り〟――つまり、凄惨な抗争を始める時の明確な前触れだった。「それに、錦戸大翔の異常な執着もな。あいつが直々に、うちのおやっさんの首を狙ってるって情報は、もう不破の幹部連中にも伝わってるんだよ」 その言葉を聞いて、和花の表情がサッと強張った。 理聖から聞かされた、大翔の底知れぬ狂気。 源蔵への復讐のためなら手段を選ばない男。 その恐怖が足元から這い上がってくるのを感じ、和花は膝の上で両手を強く握り締めた。「だから、あのままお前を久世のところに置いておくわけにはいかなかった。いつ深凪の連中が踏み込んでくるか、わかったもんじゃねぇからな」「でも、理聖さんは私を守ってくれてるわ!」 和花は咄嗟に反論した。「大翔さんが何かしてきても、理聖さんは絶対に私を傷つけさせないようにしてくれてる。今までだって、ずっとそうだった……!」 必死に理聖を庇う和花を見て、蒼士は忌々しげに顔を顰めた。 だが、今回は声を荒らげて頭ごなしに否定することはなかった。「……そこを疑ってるわけじゃねぇ」 蒼士は大きくため息
last updateLast Updated : 2026-10-25
Read more

175.絶対に現場へ来るな

「逃げないって……」 和花は、その言葉が意味する残酷な現実を瞬時に理解し、ハッと息を呑んだ。「それって……また、殺し合うってこと?」 震える声で問い返す和花に対し、蒼士は目を逸らさず、一切の誤魔化しを挟まなかった。「向こうが殺す気で来るなら、こっちだって守るために戦う。極道の世界じゃ、それが当たり前なんだよ」 父である源蔵は、自分から意味のない殺しを望むような人間ではない。和花にもそれはわかっている。  だが、自分の組や、大切な家族の命が脅かされるとなれば話は別だ。  相手が狂気に満ちた錦戸大翔であれば、なおさら背を向けて逃げることなどあり得ない。「俺も、おやっさんのそばにいる」 蒼士が、静かに、だが確固たる意志を込めて告げた。「蒼士まで……?」 「当たり前だろ。俺は不破の若頭だ。親の盾になるのは、極道として当然の務めだ」 その言葉を聞いて、和花の中で一気に現実味が増し、足元から冷たい波が押し寄せてきた。  不破組のトップとして、迎え撃つ父・源蔵。  若頭として、父の盾となる幼なじみの蒼士。  そして、大翔の暴走を止めようと、たった一人で乗り込もうとしている理聖。 和花にとっての〝大切な人たち〟が、全員揃って、同じ過酷な戦場へと向かおうとしている。  誰かが傷つき、誰かが命を落とすかもしれない最悪の場所へ。「そんなの……」 和花は堪えきれず、膝の上で強く拳を握り締めた。「私だけ、何もせずに安全な場所で待ってろっていうの?」 思わずこぼれ落ちたその言葉を、蒼士は間髪入れずに叩き切った。「そうだ」 「でも……!」 「お前は来るな」 蒼士が身を乗り出し、和花の目を真っ直ぐに射抜く。「絶対にだ」 有無を言わさない、強烈で圧倒的な圧力。  和花が反発の言葉を口にしかけたところで、蒼士はふっと肩の力を抜き、少しだけ声を落とした。「俺は、久世を許してねぇ」 そのひと言に、和花は奥歯を噛み締め、押し黙った。「それはたぶん……これからも絶対に変わらない」 自分の弟である紅雅の命を奪った男。  その事実がある限り、蒼士が理聖を心から許す日など永遠に来ないだろう。  それだけは、和花にも痛いほど理解できた。簡単に飲み込めるような過去ではない。「でも……」 蒼士は自嘲するように短く鼻を鳴らした。「お前が、それでもあ
last updateLast Updated : 2026-10-26
Read more

176.綺麗事では止められない

 固く握り締めた自分の拳を見つめたまま、和花はゆっくりと首を横に振った。「……約束なんて、できないよ」 静かだが、頑なな声だった。  蒼士の眉が不機嫌そうにピクリと動く。「理聖さんは、誰かと戦おうとしてるわけじゃない」 和花は顔を上げ、蒼士の目を真っ直ぐに見返した。「大翔さんを殺そうとしているんじゃなくて、暴走を止めようとしているだけなの。お父さんのことも、大翔さんのことも、もう誰も死なせずに済む道を探すって……そう約束してくれたわ」 だからこそ、理聖はたった一人で乗り込もうとしている。  大翔に自分の意志を伝え、これ以上の復讐を思いとどまらせるために。  和花は自分なりに必死に考え、ひとつの可能性にすがりつくように言葉を紡いだ。「だったら……私もその場にいた方が、話し合いがうまくいくかもしれないじゃない。私がいれば、お父さんだって無茶はしないはずだし……」 「ダメだ」  和花の必死の提案は、蒼士の冷たい一言によって即座に切り捨てられた。 「でも――」 「あんな狂った死神の親玉が、そんな生ぬるい綺麗事で上手くまとまる相手じゃねぇんだよ」  蒼士の気怠げな瞳に、底知れぬ恐怖と怒りが入り混じったような険しい色が浮かぶ。 「錦戸大翔って男は、まともな話し合いなんか通じるような奴じゃねぇ。自分の目的のためなら、身内の命すら平気で切り捨てるような異常者だ。お前が行ったところで、どうにかなるような次元の話じゃないんだよ」 それでも引き下がろうとしない和花を見て、蒼士は大きなため息をつき、ソファの背もたれに深く体重を預けた。「……もしどうしても行くってんなら、俺はお前をここから一歩も出さねぇぞ」 「……!」 和花は目を見開いた。「道端でいきなり誘拐しただけじゃ足りなくて、今度は私をここに監禁するつもりなの?」 キッと強い視線で睨みつける。  しかし、蒼士はその鋭い視線を正面から受け止め、まったく怯む様子を見せなかった。「そう思いたきゃ、好きに思え。何と言われようが、お前をあんな地獄に放り込むよりはマシだ」 相手が大翔である以上、一度殺し合いが始まればその場がどうなるか、誰にも予測はつかない。  たしかに、和花は佐伯家に代々伝わる古武術を幼い頃から厳しく叩き込まれている。普通の人間よりも遥かに自分の身を守る術を知っているし、並の
last updateLast Updated : 2026-10-27
Read more

177.保護という名の監禁

「理聖さんに、連絡させて。私が無事だってことだけでも……それだけでいいから!」 和花の切実な頼みに、蒼士は一瞬だけ口をつぐんだ。 瞳の奥に幼なじみに対する申し訳なさのような色が僅かに浮かび、小さく迷いが過る。 しかし――すぐに、首を横に振った。「……ダメだ」「どうして!?」「そんなことしたら、あいつがすぐにお前を助けに来るだろうが」 理聖が和花の居場所を正確に知れば、どれほど危険な状況であっても絶対に迎えに来る。「今は、深凪と不破がいつ衝突してもおかしくない時期だ。こんなピリピリしてる時に、深凪の若頭である久世が不破の拠点にのこのこ乗り込んできたらどうなる? 余計な火種を生むだけだろ」 蒼士の言うことは、極道という組織の論理としては極めて正しかった。 ここで理聖と不破組が衝突すれば、それこそ大翔の思惑通りになってしまう。「抗争が完全に片付くまでの辛抱だ。それまでは、ここから動くな」「蒼士!」「来い。部屋に案内する」 蒼士は和花の抗議をこれ以上聞く気がないらしく、ソファから立ち上がると、和花の腕を引いた。 当然、和花は強く抵抗し、腕を振りほどこうとする。 だが、蒼士の力に敵うはずがない。 応接室を出て、表のクリーンなオフィスエリアからは完全に隔離された、建物のさらに奥へ。 重厚な扉をいくつか抜け、静まり返った無機質な廊下を進んでいく。 やがて、一番奥にある重そうな鉄扉の前で蒼士が足を止めた。 そこは、不破組が組織の裏切り者や、逆に危険が迫っている重要関係者を一時的に匿うために使っている、特殊な保護室だった。 ガチャリと扉が開かれ、中へ押し込まれる。 部屋の中は、驚くほど簡素だった。 壁際に置かれた硬そうなシングルベッド。二人用ほどの小さなローテーブル。服を数着かけられる程度の最低限の収納。そして、奥にはトイレとシャワーだけが付いた簡易的なユニットバス。 ホテルほど快適ではないが、人が数日過ごすことは十分にできる空間だった。 ただし――和花が真っ先に確認したのは、その部屋の出口だ。「……まさか、本当に私をここに?」 信じられない思いで振り返ると、蒼士はすでに扉の外に立っていた。「食事は、下の者に定期的に運ばせる。必要なものがあればそいつに言え」「そういうことじゃないでしょ! 蒼士!」「大人しくしてろよ。……お
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

178.すき焼きの卵

 フルリールから帰宅した五十嵐君代は、薄暗い仏間に足を踏み入れた。  コートを脱ぎ、静かに正座をして、買ってきたばかりの花束を丁寧に解く。  白や淡い紫を基調とした、上品で落ち着いた色合いの花々を、磨き上げられた花瓶へと美しく生け直した。  線香に火を灯し、チーンと澄んだ音を鳴らす。「今日も、綺麗なのを選んでもらったのよ」 君代は手を合わせながら、黒い縁取りのされた遺影に向かって、いつもの穏やかな調子で語りかけた。「あの子たち、本当に良いお花を揃えてくれるの。……ええ、そうね。もうすぐよ」 遺影に向かって微笑むその顔は、善良で愛情深い未亡人のそれにしか見えない。  だが、その瞳の奥には、何年もの間決して消えることのない、黒く重い復讐の炎が静かに燃え続けていた。 同じ頃。  仏間から少し離れた佐竹の自室では、ひんやりとした金属音が響いていた。 チャカッ、とスライドを引く乾いた音。  佐竹は机の前に座り、オイルの染み込んだ布で拳銃の銃身を入念に磨き上げている。  弾倉を確認し、引き金の感触を確かめる。  近いうちに必ず起きるであろう、不破と深凪の全面抗争。  その混乱に乗じて、錦戸大翔の命を確実に仕留めるため、佐竹は自室で着々と殺しの準備を進めていた。 仏壇へ綺麗な花を供える母親と、そのすぐ隣の部屋で銃の手入れをする息子。  家の中に立ち込めるそんな物騒な空気とは裏腹に、仏間を出た君代は、ふわりとエプロンを身につけ、ごく普通の主婦として夕飯の支度に取り掛かっていた。  キッチンには、今日フルリールの若者たちに差し入れたものとは別に、自家製の立派な野菜が並んでいる。  みずみずしい白菜、太い長ねぎ、香りの良い春菊。「今夜は、少し冷えるから……すき焼きにでもしましょうか」 独り言を呟きながら、手際よく野菜を切り分けていく。  お正月用に買っておいた、上質な霜降りの牛肉もまだ残っている。焼き豆腐としらたきもある。  これなら十分だわと頷き、君代は冷蔵庫の扉を開けた。「……あら」 ドアポケットを見て、君代は小さく首を傾げた。  すき焼きには欠かせないはずの、卵のパックが見事に空っぽになっていたのだ。「仕方ないわね」 君代はエプロンを外し再びコートを羽織ると、佐竹の部屋のドアを軽くノックした。「景、ちょっと足りないものが
last updateLast Updated : 2026-10-29
Read more

179.心当たり

「……いなくなった?」 君代の顔から、いつもの柔和な笑みがスッと消え去った。  理聖は焦燥に駆られた声で、手短に状況を説明し始めた。  閉店後の片付け中、ほんの少し目を離した隙に、和花が店から姿を消してしまったこと。  スマートフォンにかけても電源が入っておらず、まったく繋がらないこと。  フルリールの周辺をくまなく探したが見つからなかったこと。「和花さんは、自分から誰にも黙ってどこかへ行くような人ではありません。何か……事件に巻き込まれたんじゃ……」 理聖の口調には、誘拐の可能性を危惧する切実な響きが混じっていた。「警察には連絡したの?」 君代が当然の疑問として尋ねるが、理聖は苦しげに言葉を濁した。「……今の事情では、すぐに警察へは頼れない部分も多くて」 極道同士の因縁が絡んでいる以上、迂闊に表沙汰にするわけにはいかないのだ。「それに、雄之助くんや梓ちゃんには? あの子たちなら……」 「二人とも、まだ病み上がりで本調子じゃありませんから。まずは、僕ひとりで探そうと思って」 君代は両手で口元を覆い、痛ましそうに眉を寄せた。「まあ……そんな……」 表向きは、親しい花屋の女の子を純粋に心配する、気のいい常連客の顔。  しかし、その完璧な仮面の下で、君代の内心は一気に氷のように冷静さを取り戻していた。(佐伯和花が、消えた?) 君代は頭の中で、目まぐるしく情報を整理し始める。  和花は現在、深凪組と不破組の双方に絶大な影響を与える存在だ。  そして何より、自分たちの計画を完璧に遂行するための、最も重要な鍵でもある。  そんな彼女が、この緊迫した時期に偶然いなくなるはずがない。  誰かが、意図的に先に動いたのだ。 君代は即座に候補を絞り込む。  深凪側であれば、錦戸大翔が復讐の駒として和花を攫った可能性が考えられる。  だが、理聖の目の届くフルリールから、一切の物音も立てずに力ずくで彼女を連れ出すのは至難の業だ。  とすれば、和花自身がある程度警戒を解き、大人しくついていくような相手の方が遥かに自然。  そこで、君代の脳裏に一つの確信が閃く。(不破側の人間ね) 源蔵本人が直接動くとは考えにくい。  となれば、和花を守るという名目を掲げ、強引にでも彼女を安全な場所へ連れ去りそうな男は一人しかいない。 不破の若頭で
last updateLast Updated : 2026-10-30
Read more

180.ここから先は僕ひとりで

 深夜のオフィス街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 等間隔に並ぶ街灯の冷たい光だけが、人気のない無機質なアスファルトを照らし出している。 君代の運転するセダンは、綺麗に整備された中規模のオフィスビルの少し手前で、音もなく滑らかに停車した。「……ここよ」 ハンドルから手を離し、君代が窓の外へ視線を向けながら静かに告げた。 理聖は助手席に座ったまま、窓ガラス越しにその建物をじっと観察した。 ガラス張りのエントランス。整然と並んだ窓。どこからどう見ても、ごく普通のクリーンな一般企業にしか見えない。 本当に、こんな場所に暴力団が潜んでいて、若い女性を攫い込んでいるのだろうか。 外観だけなら、到底そんな恐ろしい噂の出所になるとは思えなかった。 ここに和花がいるという確証はどこにもない。 君代が近所で耳にしたという、単なる根も葉もない噂話に過ぎない可能性も十分にある。 それでも今の理聖にとっては、暗闇の中に垂らされた唯一の蜘蛛の糸だった。 どんなに僅かな可能性でも、今はそれに縋るしかない。「ありがとうございます。ここで結構です」 理聖がシートベルトを外し、ドアノブに手をかけた時だった。「待って」 君代が、ひどく不安そうな顔で理聖の腕に軽く触れた。「私も、一緒に行った方がいいんじゃないかしら。もし本当に怖い人たちがいたら、あなた一人じゃ……」 純粋に理聖を案じる、心優しい常連客としての申し出。 しかし理聖は、即座にそれを制止した。「いいえ。五十嵐さんは、このまま真っ直ぐご自宅へ帰ってください」「でも……」「ここまで連れてきていただいただけで、十分すぎるほどです。ただでさえ物騒な噂がある場所に、これ以上五十嵐さんを危険に巻き込むわけにはいきません」 理聖は、助手席から君代へ向けて深く頭を下げた。「本当に、ありがとうございました」 その真摯な言葉と眼差しを受け、君代はしばらく躊躇うような素振りを見せた。 やがて、小さくため息をつき、祈るように両手を握り合わせる。「……わかったわ。でも、絶対に無茶だけはしないでね。危ないと思ったら、すぐに警察を呼ぶのよ」「はい」 理聖は短く答え、車を降りた。 バタン、とドアが閉まる。 君代は運転席の窓から、冷たい夜風の中を歩き出す理聖の背中を静かに見送った。 真っ直ぐにビルへ
last updateLast Updated : 2026-10-31
Read more
PREV
1
...
131415161718
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status