All Chapters of 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした: Chapter 141 - Chapter 150

180 Chapters

141.そこにいて

 理聖は、大翔から差し出された苺のケーキに一切手をつけようとはしなかった。「……食べないのか?」「……結構です」「毒など入っていないよ。昔から、お前はそういう顔をするとわかりやすい」 大翔は微かに口角を上げると、自分の皿に乗ったケーキへ何の躊躇もなく銀色のフォークを入れ、ゆっくりと口に運んだ。 理聖はその優雅な所作を冷静に見つめながら、本題へと切り込むタイミングを図る。「……大翔さん。今日は、お願いがあって来ました。僕は深凪組を――」「私がお前を拾ったばかりの頃も、今と同じだった」 決定的な言葉を告げようとした理聖の声を、大翔が静かな圧をもって遮った。「……?」「誰も信用しない。誰かが近づけば身構える。食事を出しても、警戒してしばらくは手をつけない」 大翔は昔を懐かしむように、独眼を細める。「両親を失い、身内も見つからなかったのだ。無理もない。まだほんの小さな子供だったというのに、お前は私の前で決して泣きもしなかった」 助けを求めない。欲しいものを口にしない。痛くても我慢する。 眠る時ですら、いつでも逃げ出せるように部屋の隅で身体を丸めていた。「怯えた子犬のようだったよ。……もっとも、いつでも噛みつきそうな目だけは、あの頃から一人前だったがな」「……まったく覚えていません」 理聖が冷たく突き放すと、大翔は「だろうな」と短く返し、静かに言葉を紡ぎ始めた。 それは、大翔が幼い理聖を引き取ってから、まだ間もない頃の夜の話だった。 深夜、大翔が仕事から屋敷へ戻ると、青ざめた使用人から「理聖様の部屋から物音がする」と報告を受けた。 大翔がすぐさま部屋へ向かい、重い扉を開けると。 そこには、床の隅に蹲っている幼い理聖の姿があった。 全身汗びっしょりで、荒い呼吸を繰り返し、その小さな両手には身を守るために手当たり次第に掴んだのであろう、重い金属の置物が握られていた。 夢の中で両親を失った凄惨な夜の記憶を思い出し、錯乱していたのだ。 大翔が一歩近づく。「来ないで!」 怯えきった声。大翔はそこでピタリと足を止めた。 普通であれば、「もう大丈夫だ」と近づいて強く抱きしめ、安心させようとする場面だろう。だが、大翔はそうしなかった。 大翔は部屋の入り口付近の床に、そのまま静かに腰を下ろしたのだ。「……何してるの?」「ここにいるだ
last updateLast Updated : 2026-10-08
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142.誰であろうと排除する

 ほんの僅かに落ちた沈黙の後、理聖は改めて大翔を真正面から見据え、確固たる声で告げた。「……大翔さん。僕は、深凪組を抜けたいと思っています」 今度こそ、はっきりと決別を言葉にする。  若頭という立場も、裏社会での地位も、もういらない。  自分は和花たちと共に、カタギとして生きていきたい。  それが、記憶を失った今の自分が、自分自身の意思で選び取った人生なのだと。 大翔は黙って聞いていた。  理聖の揺るぎない決意を突きつけられても、独眼の奥に驚きの色は浮かばない。「……そうか」 まるで、いつかこの言葉を聞くことになると、最初からわかっていたような静かな反応だった。「やはり、芥にそそのかされたのかい?」 「そういうわけではありません。雄之助くんは僕に、自分の意思を押しつけたりはしていません」 理聖はそこで、瞳を僅かに鋭く細めた。「……それより、大翔さん。蘭華さんに雄之助くんを襲撃させたのは、あなたですね」 ほんの一瞬、部屋に無音の静寂が落ちる。  だが、大翔は否定しなかった。「そうだよ」 あまりにもあっさりと認められ、理聖の表情が僅かに強張る。「なぜ、そこまで……」 「芥は昔から、お前に甘すぎる」 大翔は淡々と続ける。「お前がこちらへ戻らぬよう、カタギの世界へ繋ぎ止めようとしている。あれでは、お前が本来あるべき場所へ帰って来られないだろう」 「だから、彼を殺そうとしたのですか」 「ああ」 一切の迷いがない返答。  理聖の瞳が、氷のように冷たく細められる。「雄之助くんは、あなたの部下でもあるはずです」 「それでもだ」 大翔の声に揺らぎはない。「私にとって、芥よりお前の方が大切だ。私がお前を取り戻すために邪魔になるのなら、それが誰であろうと排除する。……ただ、それだけだよ」 その歪んだ言葉に、理聖は絶句した。  胸の奥底へ、重く冷たい怒りが沈んでいく。 自分を大切だと言いながら、そのためなら自分が信頼する人間を平然と傷つける。  それはもう、愛情などではない。  ただの支配だ。 しかし大翔は、そんな理聖の内心など気にも留めず、ティーカップを手に取った。「芥でないのなら……佐伯源蔵の娘かい?」 「……!」 和花の父親の名前が出た瞬間、理聖の意識が乱暴に引き戻された。 やはり大翔は、和花の正体に気づ
last updateLast Updated : 2026-10-09
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143.自由の条件

 大翔の声から、先ほどまでの穏やかさが消える。「先代は、殺されたんだよ」 理聖が訝しげに眉を寄せた。「……先代?」「深凪組の先代組長。私が今の席に座る前、この組を率いていた男だ」 大翔にとって、先代は単なる上司ではなかった。 若かった自分を拾い、裏社会で生きる術を教え、深凪組という居場所を与えてくれた最大の恩人。 だが、長く続いた不破組との抗争の果てにその命は奪われた。「殺したのは、不破組の人間だ」 そこで大翔が一度言葉を切る。「正確には――今、あの組の頂点に立っている男。佐伯源蔵だ」「……!」 理聖の脳裏に、和花の父親の姿が浮かぶ。 頑固で、武術家としての矜持を持ち、自分を決して認めようとしなかった男。 だが、和花にとっては幼い頃から愛情を注ぎ、大切に育ててくれた父親だ。 大翔は決して声を荒らげない。 ただ静かに、長年胸の底へ沈め続けてきた黒い執念を語る。「私は先代の墓前で誓った。いつか必ず、この借りを返すとね」 理聖はそこで初めて、大翔がなぜ不破組との因縁に異常なまでに固執しているのかを知る。 組同士の縄張り争いや面子だけではない。 大翔自身にも、失った人間への執着があった。「……大翔さん。まさか」 嫌な予感が輪郭を帯びていく。 だが大翔は、そんな理聖を見てひどく穏やかに微笑んだ。「組を抜けたいと言ったね」「……ええ」「構わないよ」 理聖が目を見開く。 あまりにもあっさりした返答だった。「お前がそこまで望むのなら、私はもう止めない。若頭の座も捨てればいい。カタギになって、あの花屋で働くのも好きにすればいい」 だが、理聖は喜ばなかった。 そんな簡単に、自分を手放すはずがない。 案の定、大翔の独眼がすっと細められる。「ただし――一つだけ条件がある」 部屋の空気が凍りつく。「最後に一度だけ、私のために仕事をしなさい」「……仕事?」「ああ。それを済ませたら、お前は自由だ。二度と深凪組へ戻れとは言わない。若頭の座も、錦戸の〝狂犬〟という名前も、お前が望むならすべて捨てて構わない」 理聖の胸騒ぎが頂点に達する。「……誰を?」 大翔は、一切の迷いなく告げた。「佐伯源蔵を殺せ」「…………」 一瞬、言葉の意味すら理解できなかった。 和花の父親を、殺す。 それが、自由になるための条件。 自
last updateLast Updated : 2026-10-09
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144.牙はもういらない

 和花の父親を殺せという、あまりにも残酷な条件。 突きつけられた言葉を前に、理聖は長い間、何も言わなかった。 断ること自体は、彼の心の中でとっくに決まっている。迷う余地など微塵もない。 だが、大翔が最後に言い放った言葉――「昔のお前なら、迷うことすらなかった」。それだけが、理聖の胸の奥に鋭い棘のように深く突き刺さっていた。 理聖は自分の両手を、静かに見下ろした。 銃を握れば、身体はその冷たい鉄の扱い方を完璧に知っている。 不意に襲いかかられれば、思考を介さずに相手を無力化する最適な動きを勝手に選び取る。 すべての記憶を失ってなお、身体の奥底に生々しく刻み込まれたそれらの技術が、いったい何のために培われたものなのか。 これまでは、過去の自分を知ることをどこか恐れ、目を背け続けてきた。 だが今、理聖は初めて、自分自身の意思で過去の扉を叩いた。「……昔の僕は、人をたくさん殺していたのですか?」 その問いに、大翔は僅かに独眼を見開いた。 記憶を失ってからというもの、理聖が自分から過去について探ろうとしたことなど一度もなかったからだ。 だが大翔は、何かを隠すような真似は一切しなかった。「ああ」 口元に薄い笑みを浮かべ、まるで幼い子供の成長を誇るように答えた。「随分と殺したよ」 理聖の表情が、目に見えて強張る。 大翔は昔を懐かしむように、静かに言葉を紡ぎ続けた。「私が教え込んだ技術を、お前は恐ろしいほどの速さで吸収していった。武術も、銃の扱いも、人を見る目もだ。お前はただ教えられた型をなぞるだけではない。状況に合わせて自分で考え、より無駄のない、研ぎ澄まされた形へと変えていった」 そこにあるのは、自らの〝最高傑作〟を語る歓喜だ。「だが、何より恐ろしかったのは、お前の中に『躊躇』というものが一切なかったことだ。私が必要だと判断し命令を下せば、相手が誰であろうと、決して手を止めなかった」 派手に暴れ回るわけでも、狂気に駆られて必要以上に相手を苦しめるわけでもない。 ただ淡々と、機械のように与えられた仕事を終わらせて、静かに帰ってくる。その異様なまでの冷静さと冷酷さこそが、理聖が〝錦戸の狂犬〟として裏社会で恐れられるようになった理由だった。「お前を最年少で若頭に据えたのも、決して私の贔屓目などではない。お前には、周囲を黙らせるだけの確
last updateLast Updated : 2026-10-10
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145.交渉決裂

 完全に埋まることのない断絶。 大翔はしばらくの間冷ややかな独眼で理聖を見つめた後、ふっとその表情を緩めた。「……そうか。なら、理聖。もう一つ選択肢を増やそうか」 理聖は全身の警戒を一切解くことなく、微かに眉を寄せた。「選択肢、ですか?」「ああ。お前自身が佐伯源蔵を殺せないというのなら、殺さなくていい」 予想外の言葉。だが、あの大翔が何の見返りもなく引き下がるはずがない。 理聖は沈黙したまま、その真意を待つ。「佐伯源蔵は強い」 大翔の声から、ふっと感情の起伏が消え去った。「先代も決して弱い男ではなかった。むしろ、私がこれまで裏社会で見てきた中でも、指折りの使い手だった。若い頃の私ですら、容易には敵わなかったほどにな」 組の誰もが絶対的な強者として認めていた先代。 それほどの男を――佐伯源蔵は殺したのだ。「呆気ないものだったそうだよ」 大翔の独眼が、蛇のように冷たく細められる。「あのような男と真正面からぶつかれば、こちらにも相応の犠牲が出る。だから私は、もっと確実な方法を取る」 理聖の胸を、ひたひたと嫌な予感が満たしていく。「……何を、するつもりですか」「佐伯源蔵にも、唯一と言っていい弱点があるだろう?」 大翔が薄く微笑んだ。 その瞬間、理聖にはすべての答えがわかってしまった。「……和花さんに、何をするつもりですか?」「何もしないよ」 大翔はあっさりと答えた。「お前が協力してくれればね」 理聖の瞳の奥で、静かな怒りの炎が燃え上がる。「佐伯和花を、こちらへ呼び出しなさい」「…………」「お前から連絡すれば、あの娘は何も疑わずにここへ来るだろう?」 理聖の表情から、完全に温度が消え失せた。 大翔は淡々と、極めて合理的な説明を続ける。 和花そのものを傷つける必要はない。ただ、源蔵に「娘がこちらの手にある」と思わせるだけでいいのだ。 あの頑固な男が、娘を守るためなら必ず自ら動く。 どんなに隙のない強者であろうと、冷静さを失わせることさえできれば、必ず致命的な隙が生まれる。「お前に直接殺せとは言わない。……佐伯和花を少し、こちらの駒として動かしてくれるだけでいい」 その瞬間だった。 理聖の中で、辛うじて保っていた何かが完全に千切れた。「……お断りします」 即答だった。 大翔が、意外そうに僅かに眉を上げ
last updateLast Updated : 2026-10-10
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146.身体が覚えている

 華やかなクリスマスの飾りが揺れる組長室で始まった戦いは、瞬く間に激しさを増していった。  放たれる大翔の攻撃は、恐ろしく鋭く重い。  だが、理聖を確実に仕留めようとする必殺の殺意とはどこか違っていた。執拗に急所を狙い、理聖の逃げ道を塞ぎながらも、その反応を値踏みするようにじっくりと観察しているのだ。 対する理聖は、自分を育てた男を殺すつもりなど毛頭ない。だが、少しでも手加減を見せれば、自分が確実に殺される。  理聖は重厚なキャビネットやソファを遮蔽物として利用し、嵐のような打撃と銃撃を紙一重でかわしていく。 その攻防の中で、理聖は自分の中に奇妙な変化が起きていることに気づいた。  身体の奥底に分厚い氷の下で眠っていた感覚が、次々と呼び覚まされていく。  大翔が踏み込む直前に見せる、ほんの僅かな重心の移動。  攻撃の軌道を決定づける、独眼の視線の癖。  猛攻の合間に必ず生まれる、コンマ数秒の絶対的な間。  理聖の脳には記憶がない。それなのに、筋肉と神経がそのすべてを完璧に理解し、先読みしている。(……僕は、この人と何度もこうして戦っていた) それは血で血を洗う殺し合いの記憶ではない。  おそらく、まだ身体の小さかった幼い頃から、何度も何度も、大翔自身に手取り足取り鍛え上げられてきたのだ。その膨大な訓練の蓄積が、記憶のない今の理聖の身体を自動的に動かしている。  大翔もまた、理聖の動きが変わったことに気づき、独眼を歓喜に細めた。「身体は、ずいぶん素直なものだな」 理聖は無言で攻撃を捌く。  言葉を交わすよりも速く大翔の動きを読み切り、常に半歩先へと回り込む。徐々に、二人の形勢が逆転し始めていた。  最初は防戦一方で押し込まれていた理聖が、大翔の鋭い打撃を完全にいなし始める。  そして、大翔の放った拳を外側から弾いた瞬間、ついにはその懐深くへと滑り込み、重心を大きく崩させた。「……ッ!」 大翔が体勢を立て直すため、大きく後方へ飛び退く。  理聖は逃がすことなく地を蹴り、一気に距離を詰めて追撃する。  劣勢に立たされたというのに、大翔の顔には焦りなど微塵もなかった。むしろ、我が子の成長を喜ぶような、心底嬉しそうな笑みを浮かべている。「……やっと起きてきたか」 その言葉に、理聖の胸の奥で苛立ちが跳ねた。「何の話ですか?」
last updateLast Updated : 2026-10-11
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147.どこへ噛みつかせるか、だ

 黒いチャイナドレスの裾が翻ったかと思うと、戦いの流れが一変した。 先ほどまで大翔と死闘を繰り広げていた理聖へ、蘭華が容赦のない連撃を仕掛けてくる。 理聖もすぐさま銃から打撃へと切り替えて応戦するが、蘭華の動きは先日の廃倉庫での戦いとは明らかに違っていた。 あの夜、彼女はただ負けて逃げ帰ったわけではない。 理聖がどちらの足へ重心を乗せて回避するのか。 どんな防御のあとに反撃のステップを踏むのか。 相手の武器をどう絡め取り、封じるのか。 蘭華はそのすべてを冷徹に観察し、自らの頭へ完全に叩き込んでいたのだ。「――そっち行くと思った」 理聖が鋭い蹴りをスウェーで回避したその先へ、蘭華が先回りして拳を叩き込む。「……!」 理聖は咄嗟に腕を交差させてガードするが、重い衝撃に身体が後方へ流された。「前と同じじゃん。ほんと、真面目だねぇ、理聖って」 普段の軽薄な口調とは裏腹に、その一撃には一切の手加減がない。 前回は理聖が蘭華の攻撃パターンを冷静に観察し、最後には逆転してみせた。 だが今回は、その蘭華自身がさらに理聖の動きを研究し尽くしてきている。 殺し合いの読み合いが、一段深く、より致命的な領域へと踏み込んでいた。 一方、大翔は戦闘へ加わろうとはしなかった。 調度品が散乱した組長室の壁際に静かに立ち、腕を組んで二人の死闘を悠然と観察している。 理聖が蘭華の猛攻に追い込まれていくほど、大翔の独眼には濃密な期待の色が滲んでいった。 まだ足りない。理聖は相手の命までは奪わないよう、無意識のうちにリミッターをかけて戦っている。 その甘さを捨て去らなければ、今の蘭華には勝てない。 蘭華もまた、理聖のその致命的な躊躇を見抜いていた。「まだ、そんなことやってんの?」「……何の話ですか?」「相手を殺さないように手加減して戦うやつ」 蘭華が紅い唇を三日月のように歪め、嗤う。「アタシは違うよ?」 言葉の通り、彼女の攻撃の苛烈さがさらに跳ね上がった。 理聖が反撃の拳を放つが、蘭華はそれを紙一重でかわす。「惜しい」 逆に、蘭華が理聖の懐深くまで潜り込んだ。 至近距離で激しい攻防が繰り返され、やがて理聖が僅かに体勢を崩される。蘭華はその一瞬の隙を見逃さなかった。 彼女の手に、いつの間にか鋭い短刀が握られている。その刃には、雄之助を苦しめ
last updateLast Updated : 2026-10-11
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148.殺意と躊躇

 弾き飛ばされた短刀が、床の上で鈍い音を立てて静止した。  壁際で笑みを深める大翔の姿を見て、蘭華は忌々しげに舌打ちをした。自分が大翔から、理聖の殺意を引き出すための単なる当て馬としてしか見られていないという事実。その屈辱と、理聖に対する底知れぬ嫉妬が、彼女の瞳に黒く泥濘んだ炎を灯していく。 蘭華はチャイナドレスの深いスリットから、新たな黒い拳銃を引き抜いた。「……こんなことに、意味なんてない」 再び銃口を向けてきた蘭華に対し、理聖は氷のように冷たい声で言い放った。  記憶を失う前の自分がどうであったかは、もう関係ない。今ここで互いに傷つけ合い、大翔の用意した盤上で踊らされることなど、何一つ未来を生み出さないのだ。  だが、その達観したような冷静な態度が、蘭華の苛立ちをさらに激しく煽った。「意味? 笑わせないでよ」 蘭華の紅い唇が、憎悪で三日月のように歪む。「散々今まで人の命を奪ってきたくせに、記憶がないからって今更いい子ちゃんぶってるのが、最高にムカつくのよ! アンタはアタシたちと同じ、こっち側の人間でしょうが!」 「……過去に犯した罪が消えないことは、わかっています。過去は決して変えられない」 理聖は真っ直ぐに蘭華を見据え、手にしたベレッタ92FS・イノックスを静かに構え直した。「だけど――これからどう生きるかは、僕自身が決めます」 「あーそう! 立派なご挨拶だこと!」 蘭華の目が、狂気を帯びて大きく見開かれる。「なら、ここでさっさと死んでよ。錦戸の隣に、アンタがいると邪魔なのよ!」 蘭華の絶叫と同時に、黒い銃口から火が噴いた。  理聖は僅かな身のこなしで初弾を回避し、重厚なマホガニーのデスクの陰へと滑り込む。  だが、蘭華は理聖に息をつく暇すら与えない。正確な弾幕を張りながら一気に距離を詰め、近接戦闘へと持ち込んでくる。「死ねッ!」 銃弾をかわした理聖の顔面へ、蘭華の右手が鋭く振り抜かれた。  理聖はそれを腕で弾こうとして、咄嗟に不自然な軌道に気づき、上体を大きく反らせる。  蘭華の右手の人差し指には大ぶりのファッションリングが嵌められていた。その毒々しい色の宝石の裏側から、細く鋭利な毒針が飛び出している。  かすりでもすれば、全身の自由を奪われる猛毒。理聖は瞬時にそれを悟り、ミリ単位のステップで見切って後退した
last updateLast Updated : 2026-10-12
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149.ついに人を撃てたじゃないか

 極限まで張り詰めた空気を切り裂いたのは、蘭華の指先だった。 互いの命を天秤にかけた至近距離の膠着状態の中、彼女は一切の躊躇なく、理聖の眉間へ向けて引き金を引いた。 ダァンッ! 理聖は思考より先に身体を沈め、すんでのところで放たれた凶弾を回避する。 鼓膜を劈く爆音と、耳元を熱い空気が切り裂く感覚と同時に、再び壮絶な死闘の幕が切って落とされた。 理聖はキャビネットを蹴って反動をつけ、蘭華の視界から一瞬にして消える。 だが、蘭華もまた理聖の動きを先読みし、背後から無数の弾丸を浴びせかけてきた。 舞い散るガラス片。引き裂かれるソファの綿。 追い詰められ、逃げ場を失っていく中、理聖はついに蘭華の猛攻の僅かな隙を突き、手にしたベレッタの引き金を絞った。 ダァンッ!「……ッ!」 放たれた銀色の弾丸が、蘭華の右太腿を正確に貫いた。 鮮血が舞い、蘭華が苦痛に顔を歪めて片膝をつく。 致命傷は意図的に避けたものの、これで彼女の機動力は完全に奪われたはずだった。 だが、蘭華は倒れ込みながらも執念の笑みを浮かべ、理聖が僅かに安堵したその一瞬の隙を突いて発砲した。 銃弾は理聖の左肩を浅くかすめ、黒いスーツの生地を引き裂いて血を滲ませる。 その直後だった。「……っ!」 理聖の視界がぐらりと大きく揺れ、強烈な目眩が脳を激しく揺さぶった。 床に膝をついた蘭華が、足の傷口から流れる血を強く押さえながら、不敵に嗤う。「……具合、悪いんじゃない? この前の廃倉庫で使った遅効性のやつと違って、今回の弾に仕込んでおいたのは即効性なのよ」 蘭華は激痛に顔を顰めながらも、なんとか立ち上がろうとし、再び漆黒の銃口を理聖の心臓へと定めた。「――そこまでだ。二人とも」 荒れ果てた組長室に、低く、絶対的な響きを持った声が落ちた。 大翔が満足げな笑みを深めながら、ゆっくりと二人の間へ歩み寄ってくる。 彼は理聖の銃口から立ち昇る微かな硝煙を見つめ、心底嬉しそうに独眼を細めた。「素晴らしい。ついに人を撃てたじゃないか、理聖」「…………」 大翔は次いで、片膝をついて息を荒げている蘭華へ視線を移す。「よくやった、蘭華。理聖に自ら引き金を引かせたことは、お前の大きな手柄だ。十分に評価してやろう」 その言葉に、蘭華は忌々しげに顔を歪めた。 だが、組長の絶対的な命令に逆ら
last updateLast Updated : 2026-10-12
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150.ちゃんと、帰ってきましたよ

 深凪興産の重厚な自動ドアを抜け、理聖は冷たい冬の空気の中へゆっくりと足を踏み出した。 外の世界は、あまりにも普段通りだった。  歩道を行き交う人々を照らす、華やかなシャンパンゴールドのイルミネーション。  大きな紙袋を提げて身を寄せ合う恋人たち。  サンタクロースの帽子を被った店員がケーキの呼び込みをし、遠くからは楽しげなクリスマスソングまで聞こえてくる。 つい数分前まで、鼓膜を劈く発砲音と色濃い血の匂いに満ちた組長室で死闘を繰り広げていたことが嘘のように、平和で穏やかな景色が広がっていた。  理聖は雪の残る歩道でしばらく立ち尽くし、深く息を吐き出した。(……戻ってきた) 極限まで張り詰めていた胸の奥の糸が、ほんの少しだけ緩むのを感じる。  だが、その安堵は決して長くは続かなかった。『佐伯源蔵を殺せ』 大翔が放った絶対的な命令が、すぐに脳裏へ蘇る。  和花の父親を殺さなければ、深凪組を抜けさせない。  和花自身を利用するという大翔の提案も完全に拒絶した以上、あの男が簡単に自分を諦めるとは到底思えなかった。  だからといって、本当に源蔵を殺すという選択肢など初めからあり得ない。(……別の方法を、探さなくては) 大翔はなぜ、そこまで先代組長の死に異常な固執を見せているのか。そもそも当時の抗争で、本当に何があったのか。  大翔からの一方的な話だけを鵜呑みにするわけにはいかない。 そこで理聖の頭に浮かんだのは、雄之助の顔だった。  長く深凪組に身を置き、裏社会の事情にも通じている雄之助なら、先代が殺された時の経緯や、不破組との深い因縁について何か知っている可能性がある。(帰ったら、雄之助くんに聞いてみましょう) ただし――今すぐではない。  コートのポケットで小さく震えたスマートフォンを取り出すと、和花から何通かのメッセージが届いていた。『大丈夫ですか?』 『無理してませんか?』 『帰ってくるまで、ずっと待ってます』 そして最後には、尻尾を振って主人の帰りを待つ、小さな犬の愛らしいスタンプ。  それを見た瞬間、理聖の凍てついていた表情が、ほんの少しだけふわりと緩んだ。 ふと自分の姿を見下ろす。  仕立ての良い黒いスーツは激しい戦闘のせいでところどころ乱れ、左肩には蘭華の銃弾が掠めた生
last updateLast Updated : 2026-10-13
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