All Chapters of 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした: Chapter 31 - Chapter 40

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31.戻ってくるのだろう?

(だけど、もし――大翔さんが嘘をついているとしたら) 深い慈愛を滲ませて過去を語る大翔の眼差しを受け止めながらも、理聖の胸の奥深くでは、冷たい氷のような理性が静かに警鐘を鳴らしていた。 この男が語る恩義や家族としての絆は、あまりにも美しく、自身の空白の心を埋めるには十分すぎるほど温かい。 しかし、自分には何ひとつ記憶がないのだ。自分が白紙の状態であることをいいことに、組織の跡取りを繋ぎ止めるため、都合よく過去を捏造している可能性がないとも言いきれなかった。 それに、恩人という言葉を使うのであれば、和花こそが自分にとって唯一無二の命の恩人だった。 土砂降りの雨の夜、ゴミ捨て場の冷たいアスファルトの上で死にかけていた見ず知らずの自分を拾い上げ、手当てをし、温かい食事と居場所を与えてくれたのは彼女だ。記憶がない自分の不安ごと丸ごと包み込み、迷いなく愛を注いでくれた。 何より、和花と過ごした日々や彼女との絆は、記憶喪失という絶望の後で、理聖自身の明確な意志によって築き上げてきた確かな現実だ。だからこそ、彼女の温もりには一切の嘘がないと断言できた。 目の前に座る大翔の態度からは、敵意など微塵も感じ取れない。言葉の端々からは親代わりの情愛があふれ出ているようにさえ見える。 だが、相手は深凪組の頂点に君臨するトップなのだ。 ただのきれい事や人情だけで裏社会を生き抜いてきた男であるはずがない。 少しでも油断してこちらの情報を渡しすぎれば、自分のみならず、和花や梓の日常までをも危険に晒すことになりかねない。 理聖は身体に染み付いた本能的な警戒心を鋭く研ぎ澄ませた。「……ところで、理聖」 応接ソファに深く背を預けた大翔が、穏やかな声色で問いかけてくる。「お前は川に落ちて姿を消したあの日から、いったいどう過ごしていたんだ? 誰かの世話になってでもいたのかい?」 大翔の左目が、理聖の表情のわずかな変化さえ見逃すまいと、静かに見つめていた。 和花のことだけは、絶対に悟られてはならない。組織に彼女の存在が知られれば、自分を引き戻すため、あるいは敵対組織からの標的として人質に利用されるのは火を見るより明らかだった。 理聖は顔色ひとつ変えず、静かに口を開いた。「……日雇いの仕事などで少しずつ小銭を稼いでは、安い宿を転々として生きていました。自分が誰かもわからな
last updateLast Updated : 2026-08-14
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32.無言の圧力

 答えない理聖の瞳を鋭い隻眼で見据えていた大翔は、やがてふっと肩の力を抜き、豪快な笑い声を部屋中に響かせた。「ははは! ……突然こんな過去の話をされたところで、疑うのも当然だ。むしろそれでいい。この世界、なんでもかんでも信用してしまうようでは生き残れないからな」 先ほどまでの凍てつくような威圧感は消え去り、大翔は成長した我が子のたくましさを褒めるかのような柔和な表情を浮かべた。「記憶が戻るまでは、猶予をやろう。いま無理にすべてを思い出せとは言わん。……だがな、理聖。お前はこの深凪組の〝若頭〟だ。もし私に何かあれば、お前がこの巨大な組のトップに立つ人間なんだぞ」 大翔の声に、再び組織の長としての底知れない重圧が宿る。それは選ばれた後継者としての宿命を、決して忘れさせることのない宣告だった。「それに今も、不破組とは縄張りの取り合いで抗争の最中だ。港湾の利権を巡って、どこで誰が狙っているかわからない。お前が生きていると知れ渡れば、奴らも血まなこになって動くだろう。絶対に気を抜くなよ」 押し潰されそうなプレッシャーの中で、理聖が静かに言葉を飲み込んで見つめ返すと、大翔は革張りのソファからゆっくりと立ち上がり、理聖のすぐ目の前まで歩み寄った。「組にだけは、迷惑をかけないようにな」 大翔の大きく分厚い手が、理聖の肩をポンポンと二度、力強く叩く。それは幼い頃から育て上げてきた愛する息子への励ましであると同時に、組織の秩序や規律を乱せば容赦はしないという無言の縛りでもあった。 重厚な扉を開けて廊下へ出ると、冷たい汗が背中を伝うのが分かった。 親代わりの恩人でありながら、一歩間違えればすべてを飲み込む猛獣のような男の気配から解放され、理聖は静かに息を吐く。「若頭! ……大丈夫ですか?」 少し離れた壁際で待機していた雄之助が、弾かれたように駆け寄ってきた。 心配そうに顔を覗き込んでくる彼の存在に、理聖の張り詰めていた胸の奥がほんの少しだけ和らぐ。「ああ。大丈夫だよ、雄之助くん」 緊張を鎮めるように目元のかすかな疲れを拭い、二人でエレベーターへ向かって長い廊下を進み始めた、その時だった。 薄暗い通路の向こうから、革靴の冷淡な靴音を響かせて、一人の男が歩いてくる。 隙のない仕立ての黒い高級スーツをまとった男――若頭補佐、榊原義宗だっ
last updateLast Updated : 2026-08-15
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33.青紫色のクリームシチュー

 時計の針が午後21時を回った頃、静まり返ったアパートの玄関扉がそっと開かれた。「ただいま戻りました、和花さん」 靴を脱いでリビングへ足を踏み入れると、心配そうに帰りを待っていた和花が、ふんわりと安堵の表情を浮かべて駆け寄ってきた。「理聖さん、お帰りなさい。大変だったみたいですね」「帰りがすっかり遅くなってしまって、本当に申し訳ありません。連絡もつい遅くなってしまって……」 頭を下げる彼に向かって、和花は柔らかく首を横に振る。「いえ、帰り道の歩道橋で、階段から落ちたお婆さんを救助されていたのでしょう? そんなふうに誰かを助けられるなんて、とっても素晴らしいことです」 少しも疑うことなく無邪気に微笑む彼女を前にして、理聖の胸の奥がチリッと焼けるように痛んだ。(僕は……和花さんに、嘘をついている) 理聖は罪悪感をごまかすように自分の胸元へそっと手を当てながら、持っていた小さな紙袋を差し出した。「これ……助けたお婆さんのご家族から、お礼にといただいたんです」 それは駅前にある人気店で、理聖が自ら買い求めてきたフルーツタルトだった。「わぁ、とっても美味しそうですね! あとで二人でゆっくりいただきましょう」 嬉しそうに目を輝かせる和花の笑顔を見て、理聖の張り詰めていた肩からようやく力が抜けていく。 理聖は愛おしさに耐えかねるように彼女の華奢な肩を引き寄せ、さらりとした綺麗な髪をそっと撫でると、その白い額に優しく口づけを落とした。「あ、あのね、理聖さん……」 はにかみながら上目遣いで見つめてくる和花が、少しだけ照れくさそうに言葉を続ける。「今日は私がお夕飯を作ったんです。遅くなっちゃいましたけど、一緒に食べませんか?」「えっ……和花さんが、ですか?」 食卓へと案内された理聖は、テーブルの上に置かれた大きなお皿を見て、わずかに息を呑んで固まった。 そこにあったのは、これまで見たこともない不思議な色彩を放つ、不気味な青紫色へと変色した料理……のようなものだったからだ。「わ、わぁ……。とっても綺麗な……シチュー? ですねぇ」 なんとか笑顔を作って問いかけると、和花が自信満々に胸を張った。「はいっ。今ちょうど季節なので、紫キャベツを使って〝あじさい色〟のクリームシチューにしてみたんです。旬の新じゃがと新玉ねぎもたくさん入れました!」 ど
last updateLast Updated : 2026-08-15
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34.帰省

『和花ちゃん久しぶり。元気にしとる?』 耳元から聞こえてきたのは、相変わらずのんびりとした母、一花の声だった。「お母さん、久しぶり。元気だよ、どうしたの?」 『……今、理聖さんは?』 「今はお風呂に入っているところだよ」 『それなら良かったわぁ。時間的に二人でしっぽりしてる最中かなって思ったから、ちょっと心配してたんよ』 「ちょ! ちょっと、お母さんってば……!」 からかうような口調に和花が頬を赤くすると、電話の向こうからくすくすと上品な笑い声が聞こえる。やがて一花は、声のトーンを少しだけ改めて本題を切り出した。『それでな、和花ちゃん明日お休みよね?』 「うん、お店は休みだけど……」 『お父さんがな、道場に顔を出せってきかないんよ』 「お父さんが……?」 和花は少し驚いて電話を握り直した。確かに、こちらに引っ越してきてから、実家に帰ったのは片手で数えられるほどだ。  それにいまは、裏社会の人間からいつ身を狙われてもおかしくない緊張した状況だ。いざという時に理聖や自分の命を守るためにも、古武術の腕を鈍らせている場合ではないことは痛感していた。「わかった。明日はちょうど理聖さんもお休みだから、二人で――」 『一人でいらっしゃい』 和花の言葉を遮るように、一花の強い声が食い気味に響いた。普段はのんびりとした母の珍しい圧に、和花は思わず言葉に詰まる。「え……なんで?」 『……理聖さん、あまりにも男前やさかい。またお父さんや私がびっくりして、様子がおかしくなってしまうかもしれないからねぇ』 「よ、様子がおかしくって……」 先月、アパートの玄関で両親が放っていた、まるで敵対する武人を前にしたかのような尋常ではない殺気と威圧感を思い出し、和花は苦笑するしかなかった。『お互いに、まだどうしても気を遣いすぎてしまうと思うんよ。せやから、明日は和花ちゃん一人で帰っていらっしゃいね』 「もう……わかったわよ」 過保護でどこか一癖ある両親の言い分に溜息をつきつつ、和花は通話を終えた。 しばらくして、湯気が漂う浴室からお風呂上がりの理聖が出てきた。  二人はリビングのテーブルに向かい合い、理聖が買ってきてくれた人気店のフルーツタルトを冷たい麦茶とともに味わう。和花はフォークを動かしながら、先ほどの電話の内容を伝えた。  サクサクとした香ば
last updateLast Updated : 2026-08-16
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35.幼なじみとの再会

「……ここ、城ですか?」「違いますよ。実家です。詳しくは教えてくれないのですが、父が道場の経営以外にも手広く事業をやっているみたいで……」 申し訳なさそうに苦笑する和花に、理聖は「そうなんですね……」と圧倒されたように深い息を吐き出した。「では、僕は近くの喫茶店でのんびり待っているので、終わったら連絡をください」「はい。すみませんが、よろしくお願いします」 優しく手を振ってくれる理聖に見守られながら、和花はひとり重厚な正門をくぐり抜けた。 手入れの行き届いた松並木の石畳を進み、広大な敷地の奥へと向かう。すると、向かいの離れの角から歩いてきたひとりの男が、和花の姿を認めて驚きの声を上げた。「うおっ! 和花じゃん! なんだよ、帰ってきてたのかよ!?」「蒼士! 久しぶり!」 そこに立っていたのは、和花が幼い頃からこの実家の道場で一緒に汗を流してきた兄貴分の男――神崎蒼士だった。 前髪を上げた黒髪ウルフヘアに、どこか眠たげで独特な瞳。 和花にとっての蒼士は、父の門下で腕を磨いてきた頼れる剣の兄弟子だ。 蒼士は和花の父である源蔵から直々に剣術の神髄を叩き込まれており、並外れた戦闘力を誇る修羅でもあった。「元気だったか? 引っ越してから全然顔を見せないから、寂しかったぜ」「もう、オーバーだなあ。蒼士こそ元気そうね」 幼馴染ならではの気安い口調で笑い合っていると、母屋の縁側の奥からずしりとした重い足音が響き、厳格な気配が近づいてきた。「和花。帰ったか」「あ、お父さん! ただいま」 現れたのは、古武術道場の大範士である父、佐伯源蔵だ。威厳に満ちた佇まいに怯むことなく、蒼士は人懐っこく笑いながら前に出た。「師匠! ちょうどよかった、さっそく和花と稽古つけさせてくれよ!」 蒼士の直談判に、源蔵は鋭い眼光を少しだけ和らげ、短く応じた。「……いいだろう。道場へ行け」 凛とした静寂と、床板や蜜蝋の香りが漂う巨大な第一道場。 和花は着替えを終え、広い道場の真ん中に一人で立っていた。 白い道着に濃紺の袴を身につけ、腰にはしっかりと帯を締めている。手には長年の稽古で手になじんだ年季の入った木刀。 静かに呼吸を整えるその凛とした立ち姿には、花屋で女性らしく微笑む普段の雰囲気からは想像もつかないほど、厳しい鍛錬を積んできた者
last updateLast Updated : 2026-08-16
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36.父の教え、母の歓迎

「そこまで」 源蔵の一声に、和花と蒼士は即座に動きを止めた。 両者は木刀を右手に携えて一歩退き、深く立礼を交わす。「ありがとうございました」 互いの健闘を讃える礼が終わると同時に、腕を組んで戦況を見つめていた源蔵が、床板を踏み締めながら道場の真ん中へと進み出た。「和花。俺が直々に稽古をつけてやろう」 その言葉に、道場の周囲で稽古に励んでいた多くの門下生たちの間に、張り詰めた緊張が走る。 和花は居住まいを正し、道場正面の上座へと一礼したのち、源蔵と向かい合って正座し、木刀を右側に置いて深く手をつく座礼を行った。 互いに立ち上がり、木刀を両手で握り締めて間合いをとる。「――はじめっ!」 掛け声とともに打ち合わさった瞬間、和花は全身の骨が軋むほどの衝撃に目を見張った。 ただ重いのではない。源蔵の振り下ろす木刀は、ひとつひとつがまるで巨大な岩山を力任せにぶつけられたかのような、途方もない質量を伴っていた。 剣速は鋭く、間合いを潰す足捌きには微塵の隙もない。(うっ……重い……っ!) 受け流そうとしても、打ち合うたびに手のひらが痺れ、手首から肩へと激痛が突き抜ける。 和花は必死に歯を食いしばり、絶対に木刀を手放すまいとくらいついたが、あまりの威圧感に足が後退し、心の中でわずかに怯えが生まれた。「……その程度か? 鈍ったな、和花」 冷徹な声が降ってきた次の瞬間だった。 源蔵の放った一閃が、和花の防御を容易く打ち破り、桁違いの重撃となって手元へ炸裂した。 強烈な衝撃に指の力が弾け、和花の木刀が宙を舞う。空虚な回転音を響かせた樫の木が、数メートル先の板張りの床へとカランと転がった。 呼吸を乱し、自身の両手を見つめて立ち尽くす和花に向け、源蔵は木刀を下ろして厳しい眼光を注ぐ。「相手の打突を、腕の力だけで受けようとするな。重心が浮いて足裏の踏み込みが甘くなっているから、衝撃に耐えきれないのだ。もっと丹田に気合いを沈め、大地を捉える足捌きで刃筋を殺せ」「はい……っ、ありがとうございます」 武道家としての的確で容赦のない指導に、和花はしゅんと肩を落として小さく返事をした。 街での生活が続き、無意識のうちに姿勢や重心の置き方が甘くなっていたことを痛感させられたのだ。 落ち込む和花から視線を外さず、源蔵は満足そうに少しだけ口元を緩めた。 その
last updateLast Updated : 2026-08-17
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37.剣より鋭い忠告

 庭園の池を望む広い縁側を開け放ち、佐伯家の家族と神崎蒼士、そして数十人に及ぶ門下生たちが一堂に会して昼食の席を囲む。 シェフが丹念に腕を振るった懐石仕立ての料理はどれも絶品で、かつて一花の手料理で地獄を見た経験のある門下生たちは、涙を流さんばかりの安堵と喜びを噛み締めながら箸を進めていた。 和やかな会食が終わると、お茶を片手に一息つく和花の周りには、屈強な体躯を誇る門下生たちが次々と列をなして挨拶にやってきた。「和花先輩、久しぶりにお会いできて光栄です! 先ほどの模擬戦、流石の剣捌きでした!」「和花さん! また道場で稽古をつけてください。先輩の投げ技、今でも俺たちの目標なんです!」 道場着を崩した大柄な男たちが、誰もが瞳に尊敬の光を宿し、深々と頭を下げていく。 佐伯家の一人娘という立場だけではない。和花は幼い頃から厳しい鍛錬を重ね、並みいる成人男性を投げ飛ばして有段者の地位を勝ち取った本物の実力者だ。 その卓越した武術の腕前と、誰に対しても分け隔てなく接する思いやりのある人柄が、門下生たちの絶大な信頼と人望を集めている何よりの証拠だった。 後輩たちの熱烈な挨拶攻勢をなんとか終えた和花は、人いきれから逃れるように広間を抜け出し、庭園を望む静かな廊下の欄間に背を預けた。「大人気じゃん、和花」 ふと隣から声をかけられ振り返ると、冷たいお茶を入れたグラスを片手にした蒼士が、柱に寄りかかって眠たげな視線を向けていた。「みんな大げさなのよ。少し道場を留守にしていただけなのにね」「何言ってんだよ。お前が強いのは誰よりもこいつらが一番よく知ってるからな」 蒼士はグラスの氷をからりと鳴らし、少しだけ声のトーンを下げて和花の横顔を見つめた。「……なぁ、和花。離婚したんだって?」「うん……」 核心を突かれた和花は、少し困ったように視線を落とした。「お父さんたちの反対を押し切ってまで結婚したのに、結局最後は不倫されておしまいよ。本当に、恥ずかしいったらありゃしない」 自嘲気味に笑うと、隣に立つ蒼士から瞬時にして鋭い空気が放たれた。「はぁ? なんだそりゃ。……相手の男、殺そうか?」 穏やかな声音でありながら、その言葉には背筋が凍りつくような本物の殺意が滲んでいた。 和花は蒼士の門下生筆頭としての凄まじい実力を知っているだけに、慌てて両手を振った。
last updateLast Updated : 2026-08-17
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38.別れなさい

 午後。 第二道場では、柔術と護身術を中心とした稽古が繰り広げられていた。 畳敷きの広い道場内に、重い胴着が擦れ合う音と、受け身を取った際の低い衝撃音が絶え間なく響き渡る。 和花にとって、柔術は剣術以上に得意とする分野だった。 幼い頃から佐伯家の娘として何より優先して叩き込まれてきたのは、いかなる危機に直面しても生きて帰るための護身術だったからだ。 その洗練された技のキレに、見取り稽古をしていた門下生たちから思わず感嘆の吐息が漏れていた。 だが、相手を務める源蔵の表情だけはかつてないほど険しかった。(確かに和花の技術は卓越している。だが……あの男と同棲している事実を考えれば、この程度の護身術では決して足りない) いつ刃を向けられても不思議ではない環境で生き抜くには、和花の技はまだ優しすぎた。「甘いっ!」 源蔵の鋭い気合いと同時に、目にも留まらぬ速さで崩し技が放たれた。 和花の体が容易く宙に浮き、数メートル後方へと凄まじい勢いで吹き飛ばされる。 畳を強く叩く鮮やかな受け身をとり、衝撃を殺して即座に膝を立てた和花だったが、息は乱れ、額からは汗が滴り落ちていた。 そんな娘を見下ろしながら、源蔵は小さくため息をつき、厳しい眼光を向けた。「……和花。そんなんじゃ、自分の身を守れないぞ」「え……?」 いつもなら「よく受け身を取った」と褒めてくれるはずの父の厳しい言葉に、和花は驚きで声を失った。 そのとき、道場の入り口から静かな足音が近づいてきた。 着物の裾を優雅に揺らして現れたのは、一花だった。「お母さん……?」 いつものふんわりとした笑顔は消え、一花の瞳には冷たく深い凄みが宿っていた。彼女は畳の上で立ち尽くす和花の前まで歩み寄ると、一切の迷いがない声で告げた。「和花ちゃん……理聖さんとは、別れなさい」「っ……!?」 思いもよらない絶縁の要求に、和花はショックに目を見張り、完全に凍りついてしまった。 同じ頃、佐伯家のお屋敷から少し離れた郊外の町外れ。 和花を待つ間、近くを散策していた理聖は、偶然目にした射撃場へと足を踏み入れていた。観光客や競技愛好家たちが集うその施設には、エアライフルやクレー射撃用の標的スペースが並んでいる。「……少し、試してみるか」 何気ない気持ちで銃を取り、標的に向けて静かに構える。 タァンッ! タ
last updateLast Updated : 2026-08-18
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39.最後通告

 射撃場で驚愕の視線が交錯していた頃、静まり返った佐伯家の第二道場では、耳を疑うような言葉の余韻が重く横たわっていた。 畳の上に佇む一花の着物の裾が、微かな風に揺れる。 普段はのんびりとした京都弁で場を和ませる母の顔から、温もりは完全に消え去っていた。 瞳の奥に宿っているのは、相手の底の底まで見透かすような冷徹さだけだ。「今はまだ、詳しくは話せへん。せやけど、和花ちゃん……。このままだと、あの人の記憶が戻った瞬間に殺されてしまうわよ」 あまりにも唐突で不吉な予言に、和花はショックで固まっていた身体をなんとか動かし、口を開いた。「ちょ、ちょっと落ち着いてよ……! 突然そんなこと言われても困るし、意味がわからないよ」「匂うのよ。あの人からは、濃い死臭がするんよ」 一花は一歩だけ和花へと近づき、その双肩を射抜くように真っ直ぐに見つめた。「和花ちゃん。あなたも本当は、あの人の正体がわかっとるんやろ?」「……っ!」 図星を指された心臓が、痛いほど大きく跳ねる。 ――彼がただの一般人ではなく、裏社会で生きていた人間であることは、とっくに知っている。 それでも、和花は震える声を絞り出して母を見返した。「お母さんは……理聖さんが何者なのか、知ってるの?」「ええ。雰囲気でわかるわ」「ふ、雰囲気でって……! そんなの、はっきりとはわからないってことじゃない」 和花の知っている理聖は、誰よりも誠実で、優しくて、和花のことを大切に愛してくれている。「たった一度しか会ったことがないのに、理聖さんのことをそんな風に悪く言わないでよ! 彼は花屋の仕事だって一生懸命頑張ってるし、私のことも絶対に傷つけたりしないよ!」 愛する恋人を守りたい一心で叫んだ和花に対し、一花は少しも表情を崩さなかった。そして、宣告するように事実を突きつける。「和花ちゃん。あの男は――〝裏社会〟に精通しとる人間やわ」「…………!」 明確な言葉で断言され、和花の呼吸が止まった。(どうして……? どうして、お母さんがそんなことまで知ってるの……?) ただ雰囲気を見ただけで、人の本質や隠された過去の背景まで正確に言い当てられるものなのだろうか。 和花の脳裏に、両親が突然アパートを訪ねてきた時の異様な光景が蘇る。 玄関のドアを開け、理聖の姿を認めた瞬間――源蔵と一花から放たれたの
last updateLast Updated : 2026-08-18
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40.私の居場所

 射撃場を後にした理聖は、通り沿いにある小さなカフェのテラス席で、冷めたブラックコーヒーのカップを傾けていた。  傾きかけた太陽が街路樹の葉をオレンジ色に染め上げ、夕暮れが少しずつ街を包み込み始めている。 手元の時計に視線を落としたその時、テーブルの上に置いていたスマートフォンが短く震えた。画面に表示されたのは、待ちわびていた和花の名前だった。「もしもし、和花さん? お疲れさまです」 通話ボタンを押して耳に当てた瞬間、電話の向こうからかすれるような声が聞こえてきた。『……終わりました。いま、どこにいますか?』 「近くのカフェにいますよ。すぐそちらへ向かいますので、少々待って――」 『いえ、大丈夫です。こっちから向かいますね』 一方的に告げられ、返事を待つことなくブツリと通話が切断される。  耳元に残る無機質な電子音を聞きながら、理聖の瞳から瞬時にして穏やかな温度が消えた。いつも明るく朗らかな彼女の声に、隠しきれない動揺が滲んでいたからだ。  理聖はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、席を蹴るように立ち上がった。 店を出て、彼女の実家がある方向へ向かって早足で歩き出す。  白壁の屋敷へと続く静かな一本道の中腹で、俯きながら歩いてくる和花の姿を見つけた。「和花さん!」 声をかけると、和花は弾かれたように顔を上げ、次の瞬間、まるで迷子だった子供が親を見つけたかのような勢いで駆け寄ってきた。「理聖さん……っ!」 トンッ、と胸元に華奢な身体がぶつかり、和花の細い両腕が理聖の腰へ強く巻き付く。その身体は小刻みに震えていた。  理聖は驚きながらも、すぐさま背中に両腕を回して優しく抱き締め返す。胸に押し当てられた彼女の額から、熱い息遣いと深い悲しみが伝わってきた。「……何かありましたか?」 髪を撫でながら低い声で問いかけると、和花は理聖の胸元に顔を埋めたまま、必死に首を横に振った。「……いえ、何も。ちょっと昔のこととか、色々思い出しちゃっただけです。さあ、早く帰りましょう」 強がるような声とともに身体を離した和花は、無理に作った小さな笑顔を浮かべると、理聖の大きな手をきゅっと握りしめて駅の方へと歩き出した。  言葉の裏にある嘘や隠し事など、理聖の鋭い観察眼には痛いほど見透かせていた。  実家の道場で、彼女が
last updateLast Updated : 2026-08-19
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