All Chapters of 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした: Chapter 21 - Chapter 30

95 Chapters

21.後悔しますよ

(どこよ……ここ……!?) 潮の香りと、錆びた鉄とカビの臭いが混じり合った冷たい空気。白石梓は、荒い呼吸を繰り返しながら重い目蓋を開けた。 周囲を照らすのは、天井から垂れ下がった裸電球の薄暗い光だけだ。どこかの古びた港の倉庫のようだった。 コンクリートの床に投げ出された梓は、両手と両足を粗末なロープで強く縛られ、口には幅広のガムテープを幾重にも貼られていた。 少し離れたドラム缶のそばで、男が二人、煙草の煙をくゆらせながらニヤニヤと梓を見下ろしている。花屋の店先で梓を乱暴に連れ去った、あの柄の悪いチンピラたちだった。「なぁ、この女、どう見ても極道に関係ある奴には見えねぇぞ。一般のカタギだろ? いくらなんでもヤベぇんじゃねぇの?」 少し背の低い男が、煙草の灰を床に落としながら呟いた。「九条さんの命令だ。四代目候補を匿ってる女を連れてこいって言われたんだから、仕方ねぇだろ」 もう一人の男が面倒そうに鼻を鳴らす。そして、舐め回すような下卑た視線を梓の全身へと這わせた。「にしても……かなりいい女だな。肌も綺麗だし、風俗にでも沈めて働かせりゃ、結構なシノギになりそうだぜ」「ちがいないな」 男の一人がニタニタと笑いながら近づき、梓の顎先に無骨な指を伸ばしてきた。梓は全身の毛が逆立つような強い嫌悪感を覚え、必死に身を捩ってその汚い手を避けた。(店で和花ちゃんが、〝その人は違います〟って叫んでた……。あれは一体どういうこと?) 混乱する頭の中で、梓は店先での光景を必死に繋ぎ合わせようとした。和花のあの切実な叫びは、自分ではなく〝別の誰か〟を探している男たちへの抗議だったはずだ。(もしかして和花ちゃん、何かとんでもない事件に巻き込まれているのかしら……? あの執念深い元旦那がよりを戻そうとして、暴力団でも雇って嫌がらせをしてる……?) 優しい梓の胸に去来したのは、自分の身の危険よりも、可愛い部下である和花への心配だった。しかし、今は他人の心配をしている場合ではない。(とにかく、ここから逃げなきゃ……!) 梓は縛られた体のまま、キョロキョロと周囲を見渡した。しかし、重厚な鉄の扉はしっかりと鎖で閉ざされており、高い位置にある小さな明かり取りの窓に手が届くはずもない。 スマホも連れ去られた車の中で奪われ、手元には何一つ残されていなかった。「おいおい、そ
last updateLast Updated : 2026-08-09
Read more

22.救出

 舞い上がった土埃の向こうから現れた理聖と和花の姿に、梓を押し倒していた男の顔が驚愕に引きつった。「く、久世理聖……だと!? おい、表の見張りはどうした!」 男が叫び声を上げるが、外からは何の返事もない。  ひしゃげた鉄扉の隙間から見える通路の床には、見張りを任されていたはずの二人の男たちが、すでに白目を剥いて転がっていた。和花と理聖によって、声を発する間もなく無力化されていたのだ。「チッ、あの役立たずどもが……! だが、どうしてここがわかった!?」 警戒をあらわに後退る男に対し、理聖は静かに一歩を踏み出し、にこりと優美な微笑みを浮かべた。「感覚で覚えていたんですよね。こういう事態が起きたときは、大体〝港の廃倉庫〟が使われるものだって。どうやら、ビンゴだったようです」 「お、お前……記憶喪失って話は嘘なんじゃねぇのか……っ!?」 狼狽する男たちの隙を、理聖は見逃さなかった。  次の瞬間、理聖の身体が残像を残すほどの速度で床を蹴った。驚く男の懐へと一瞬で潜り込み、その首元を大きな手で捉えて冷たいコンクリートの床へと力任せに押さえ付ける。  同時に、理聖の左手がコートの内側へと滑り込み、もう一人の男へ向けて銃口を突き付けた。  その流麗な制圧劇の間に、和花は駆け出し、持参していたカッターナイフで梓の手足に絡みついていた粗末なロープを素早く切断した。「梓さん、怪我はありませんか!?」 「わ、和花ちゃん……っ」 拘束を解かれた梓を和花が庇いながら起こした、まさにその時だった。  理聖に銃口を向けられていた男が、咄嗟に腰のホルスターから銃を抜こうとした。 ――パーンッ!  暗い倉庫に、耳を突き破るような発砲音が轟いた。  理聖が銃爪を引いたのだ。この数ヶ月間で初めて見せる、確信に満ちた一発だった。 放たれた銃弾は、男が抜こうとした拳銃の銃身を的確に削り飛ばし、強い衝撃とともに床の奥深くへと弾き飛ばした。金属が砕ける鋭い音と硝煙の匂いが、倉庫内を一瞬にして支配する。「ひっ……!」 男は弾かれた右手を抑え、顔面を蒼白にさせて震え上がった。ほんの数ミリでも狙いがずれていれば、自分の指や命が消し飛んでいたと本能で悟ったのだ。  理聖は少しも表情を変えず、静かで穏やかな声で問いかけた。「どうします? まだ続けますか?」
last updateLast Updated : 2026-08-10
Read more

23.花屋の人気者

 あの港の倉庫での事件から数週間が過ぎた。 理聖が花屋〝フルリール〟の店員として働くようになってからというもの、店内の雰囲気はまるで様変わりしていた。「いらっしゃいませ。本日はどのようなお花をお探しでしょうか?」 エプロンを身につけた理聖が、柔らかな笑みを浮かべて客を迎える。 端正な顔立ちと、長身で引き締まった体躯、そしてどこか憂いを帯びた大人の色気。そんな彼が店頭に立つ効果は絶大だった。 客足――特に女性客の数は目に見えて急増し、毎日のように店を訪れるリピーターまで現れていた。「この黄色のバラ、すごく可愛いですね!」「ええ、花言葉は〝友情〟や〝平和〟です。ご友人へのプレゼントにもピッタリですよ」 女性客たちと穏やかに、かつ楽しそうに言葉を交わす理聖。 相手の好みを丁寧に聞き出し、鮮やかな手つきでブーケを組み上げていく姿は、すっかり立派なフローリストだった。 お客様の視線からは見えないバックヤードの作業台で、和花と梓は水揚げの作業を進めながら、その賑やかな店頭の様子を見守っていた。「一時はどうなることかと思ったけれど、あれから変な奴らもお店には来ないし、売上は右肩上がりだし。本当に、理聖くんが来てくれて助かっているわ」「あ、あはは……そうですね」 和花が相槌を打つと、梓は不思議そうに目を細めて首を傾げた。「それにしても、記憶喪失に極道だなんて。そんなドラマみたいな設定が現実にあるのね。まさか自分の身の回りであんな事件が起きるなんて、夢にも思わなかったわ」「全く同じ思いです。私自身、まだどこか夢を見ているような気持ちになることがありますから」 和花は薔薇の棘を手早く処理しながら深く頷いた。港での恐怖が嘘だったかのように、今の平和な日々は温かく落ち着いている。 だが、その平和さとは別の理由で、和花の心には小さな波紋が広がっていた。「ふふ。和花ちゃん、頬がフグみたいに膨らんでいるわよ」「……えっ?」 梓の唐突な指摘に、和花は思わず自分の頬に手を当てた。「そんな、フグだなんて……」「いいえ、すっかりふてくされた顔になっているわ。あなた、あの女性客たちにヤキモチを焼いているんでしょう?」「…………っ」 図星を指され、和花は言葉に詰まった。 和花と梓を守るために理聖が働いてくれていることは、誰よりも理解している。頭では分かって
last updateLast Updated : 2026-08-10
Read more

24.甘えん坊な夜

 夜の静寂が小さなアパートを優しく包み込んでいた。  お風呂を済ませた二人は、ひとつの布団に潜り込み、眠りにつく前の穏やかな時間を過ごしている。  暖色系のライトに照らされた寝室で、理聖は自分で購入した分厚い植物図鑑を広げていた。彼の傍らには手帳が置かれている。「記憶が抜けてしまっている分、新しいことを覚えやすくなったりするといいのですが……」 ページをゆっくりとめくりながら、理聖はふんわりと柔らかく微笑んだ。  花屋の店頭に立つようになってから、彼は仕事に少しでも役立てようと、様々な花の名称や育て方を熱心に手帳へ書き留めるようになっている。  隣から覗き込んでみると、達筆で綺麗な文字が並ぶページの隅に、判明したばかりの彼自身の姓である〝久世〟という二文字が丁寧にメモされているのが見えた。「久世理聖。……すごく綺麗で、素敵なお名前ですよね」 和花が布団の中から顔を出し、彼の美しい横顔を見上げてそう呟く。  危険な肩書きにはまだ慣れないけれど、彼自身の名前の響きはとても上品で、どこか神秘的な彼によく似合っていた。 理聖は文字を綴っていた万年筆を止め、和花の方へと優しい視線を向ける。「和花さんの名前も、とても素敵ですよ。優しくて温かい雰囲気にぴったり合っています」 「えへへ、ありがとうございます」 自然と顔を見合わせて笑い合い、どちらからともなく少しだけ顔を寄せる。唇がふわりと触れ合うだけの、挨拶のような軽い口づけを交わすと、それだけで胸の奥がじんわりと温かい幸福感で満たされていった。「そういえば、明日は二人ともお店がお休みですよね」 理聖が図鑑をパタンと閉じ、手帳と一緒にナイトテーブルの上へと片付ける。  和花は少しだけ躊躇いを滲ませながらも、布団の中でぎゅっとシーツを握りしめて提案した。「あ、あのね、理聖さん。明日……久しぶりに、デートをしませんか?」 「デート、ですか?」 「はい。外はまだ少し心配かもしれないですけど、二人一緒ならきっと安心ですし……その、たまには恋人らしく過ごしたいなって」 上目遣いで問いかけると、理聖の瞳が驚きに丸く見開かれた。そして、すぐにその端正な頬が微かに赤く色づいていく。「……! そ、そうですね。ずっと家にこもってばかりでしたし、たまには恋人らしく外で過ごすのもいいかもしれま
last updateLast Updated : 2026-08-11
Read more

25.君へ贈るガーベラ

 翌朝。澄み渡る初夏の陽光に誘われ、和花と理聖が訪れたのは、郊外にある広大なフラワーガーデンだった。 さわやかな風が通り抜ける園内には、見頃を迎えた薄紅色や白のシャクヤクと、遊歩道のアーチを彩る鮮やかな青いクレマチスがまるで絵画のように優美な空間を作り出していた。「シャクヤクの花言葉は〝つつましさ〟や〝謙遜〟ですね。和花さんの温雅な雰囲気に、とてもよく似合っています」 歩みを止め、理聖が愛おしそうに目を細めて語りかけてくる。その温かな眼差しに少しだけ頬を染めながら、和花は優しく微笑み返した。「あのアーチのクレマチスも、とても綺麗ですね。……理聖さんは、花言葉をご存じですか?」「ええ。確か……〝精神の美〟でしたか。僕よりも和花さんにこそふさわしい言葉だと思いますが」 どこまでも誠実で甘い彼の言葉に、和花の胸の奥がじんわりと幸福感で満たされていく。 広大な園内をゆっくりと散策した後は、木漏れ日が落ちる芝生のベンチへ腰を掛けた。今日のランチは、理聖が早起きして作ってくれたミックスサンドのお弁当だ。 バスケットを開けると、たまごペーストと新鮮なレタス、肉厚なハムが挟まれた美しい断面のサンドイッチが綺麗に並んでいる。ひとくち頬張ると、優しい旨味と丁寧な仕事ぶりが口いっぱいに広がった。「すごく美味しくて、ほっぺたが落ちそうです……っ。理聖さんは、本当にお料理が上手ですよね」「喜んでもらえてよかった。外の風を感じながら食べるお弁当も格別ですね。たくさん作りましたから、遠慮せずに召し上がってください」 食後には、園内の広場に留まっていたキッチンカーで二種類のソフトクリームを購入した。和花が選んだ濃厚なミルク味と、理聖が選んだ甘酸っぱいイチゴ味。「あの……理聖さん。よかったら、こちらの味も一口いかがですか?」 少し気恥ずかしさを滲ませながら和花がスプーンを差し出すと、理聖は端正な頬を少しだけ緩ませて嬉しそうに口を開けた。「ありがとうございます、とても美味しいですね。では、僕のイチゴ味も和花さんにお返しします」 彼の大きな手が差し出したスプーンから一口分けてもらうと、甘酸っぱい冷たさとともに、恋人同士ならではの甘い高鳴りが胸を駆け巡る。目が合うだけで自然と笑いがこぼれ、ささやかなやり取りのすべてが宝物のように心へ積もっていった。 美しい花々と穏やかなひ
last updateLast Updated : 2026-08-11
Read more

26.若頭を知る男

 食事を終え、二人はテラス席のあるイタリアンレストランを後にした。 胸元で可憐な輝きを放つガーベラのネックレスにそっと指先で触れ、和花は隣を歩く理聖を仰ぎ見る。特別な誕生日の余韻が、温かな空気としてふたりの間を包み込んでいた。 だが、店を出て大通りの角を曲がり、少し静かな通りへと足を踏み入れた、その瞬間だった。 理聖の足がぴたりと止まり、彼のまとっていた穏やかな雰囲気が一変する。「理聖さん……?」「和花さん、僕の後ろへ」 理聖の大きな手が和花の腕を引き、自らの背中へと隠す。彼は背後の暗がりから迫るただならぬ気配を正確に捉えていた。 街灯の影からゆっくりと歩み出てきたのは、一人の男だった。 シルバーアッシュのマッシュヘアに、少し下がった目元。 若い印象を与えるその男は、自身の前に立ち塞がって殺気を放つ理聖を認めた途端、驚きと歓喜の色を顔中に爆発させた。「この反応速度……間違いないっ!」 男は感極まった叫び声を上げ、歩道の真ん中で両手を広げながら飛び跳ねるように距離を詰めてくる。「やっぱり、若頭だ……! 生きていらしたんですね!」「…………!」 その言葉と呼び名に、和花と理聖の間に走る警戒心がいっそう跳ね上がった。 〝若頭〟――それは、理聖がかつて所属していたらしい深凪組での高位の立場を示す肩書きだ。 目の前の男が、理聖の過去を明確に知る裏社会の人間であることは明らかだった。 和花は身体の重心を低く落とし、いつでも動けるよう古武術の構えを意識する。 一方の理聖もまた、鋭い観察眼で男の指先や重心の移動から武器の有無を探っていた。 しかし、そんな二人の警戒心や緊張などまったく見えていないかのように、男は屈託のない笑顔を浮かべて一方的に語り出し始めた。「いやー、不破組の襲撃にあって死んだって聞いてましたけど、最近生きてるって噂も出ていて! 俺は若頭があんなやつらに殺られるなんて思ってませんでしたけどね! 本当にずっと探したんですよ!」 喜々としてまくし立てる男は、そこでようやく自身の言葉に相手が何も言い返してこないことに気づいたらしい。 どれだけ熱烈に語りかけても、理聖の表情が一切和らぐ気配がないのだ。それどころか、まるで危険な不審者を見極めるかのような鋭い視線に貫かれ、男の目が困惑に細められる。「ん……? 若頭……なんか、様子
last updateLast Updated : 2026-08-12
Read more

27.深凪組の忠臣

 掘りごたつ式の座席に三人が腰を下ろすと、間もなく店員が冷えたビールと簡単なおつまみである枝豆や冷奴を運んできた。 分厚い戸を閉めれば、完全な密室空間ができあがる。裏社会の込み入った話をしても外部に漏れる心配はなく、同時に店の外には多くの一般客や店員がいるため、万が一にも暴力沙汰には発展しにくい。理聖は冷静な判断力で、あえてこのような店を選んでいた。  グラスを傾けることもなく、理聖は静かに男を見据える。その冷徹な視線を受け、男は居住まいを正した。「……改めて自己紹介させてもらいます。深凪組若頭付きの、芥雄之助です。久世派……つまり、若頭の直属の部下としてお仕えしてきました」 おちゃらけた口調を封印し、まっすぐな瞳で名乗った雄之助は、どこか痛々しいほど心配そうな面持ちで理聖を見つめた。「若頭……本当に、何もかも記憶をなくしてしまわれたんですか?」 「ええ。名前くらいしか覚えていなくて……ただ、体に刻まれた刺青や所持していた拳銃、そして襲撃してきた男たちの言葉から、僕が深凪組の若頭だという事実だけは知りました」 淡々と告げられた現状に、雄之助は絶句して驚愕の表情を浮かべた。「それ以外は、何一つ思い出せない感じなんですか……?」 「銃の扱い方や格闘術といった戦闘の技術は、体に染み付いていたのか覚えていたのですが……」 そこで一度言葉を切ると、理聖は目元にかかる黒縁メガネの位置を指先でそっと押し上げた。「自分の立場から想像はつきますが、僕の命を狙っている組織があるようですね。数週間前、彼女を巻き込む誘拐事件まで起こされました」 理聖が隣の和花へ視線を向けると、雄之助も改めて彼女へ目を向けた。「ところで若頭、その方は……?」 「紹介が遅くなりました。佐伯和花さんです。倒れていた僕を助けてくれた恩人であり……今は、僕の恋人です」 「こ、恋人……!?」 雄之助は目を丸くしたまま二人を見比べ、やがて力が抜けたように苦笑した。「なるほど……彼女に助けられたから、若頭は生きて帰ってこられたんですね」 そう言うと、雄之助は和花へ深く頭を下げた。「若頭を助けてくださって、本当にありがとうございました。深凪組の人間としてではなく、一人の部下としてお礼を言わせてください」 「そんな、頭を上げてください。私はただ、放っておけ
last updateLast Updated : 2026-08-12
Read more

28.捨てたい過去

 夜、居酒屋を後にした二人は小さなアパートへと戻ってきた。  つい数時間前まで誕生日を祝って笑い合っていた幸せな余韻はすでに遠のき、部屋の中にはどこか張り詰めた静寂が漂っていた。 暖色系のライトだけを点灯させた寝室のテーブルで、理聖は手帳を開いて万年筆を走らせていた。  ページの上で綺麗に揃った達筆な文字は、いつものような季節の花々の育て方や花言葉ではない。  〝深凪組〟、〝若頭補佐・榊原義宗〟、〝不破組〟。  どれも平穏な暮らしとはほど遠い、仄暗い裏社会の輪郭である。 お風呂を済ませた和花が温かいハーブティーのマグカップをテーブルに置き、心配そうな眼差しで隣へ腰を下ろした。「……ついに、理聖さんの過去を知る味方らしき人が現れましたね」 「ええ……そうですね」 答えた理聖の声は深く沈んでおり、その表情には重い影が落ちていた。  雄之助という若い男が示してくれた忠誠心や温かい態度に、嘘や罠の気配はなかった。だが、味方が現れたということは、同時に自分が背負わされている現実の危うさを正確に証明することでもあった。 自分が属していたという深凪組は、誰もが恐れる暴力団組織だ。そこで若頭という組織の根幹を担う幹部であったなら、敵対する組織から狙われるのは当然の帰結と言える。  そのうえ、組織内部の古参幹部である榊原までもが自身の命をつけ狙い、着実に手を伸ばしてきているのだ。 理聖の持つペン先が、手帳の上でピタリと止まった。  外の敵と内の敵。四面楚歌に近い危険な包囲網の中で、彼が何よりも恐れているのは、自分自身の命ではない。  一般人である和花や、花屋〝フルリール〟の店長である梓の顔と居場所が、すでに敵側に知られ渡ってしまっているという事実だった。 裏社会に生きる者たちが目的のためならどれほど冷酷になれるのかを、理聖は自らの身体に染み付いた戦闘技術を通して嫌というほど理解していた。  自分が生きていると確信した榊原や実行部隊の連中は、理聖を引きずり出すために、容赦なく和花たちを人質として利用してくるに違いない。(僕は……なぜ、極道組織になんていたんだ?) 手帳の余白を睨みつけながら、理聖は胸の奥を鋭い刃物で突き刺されたような痛みに耐えていた。  名前以外の過去が消え去っている彼にとって、血と抗争に塗れた世界は異質で理不尽なも
last updateLast Updated : 2026-08-13
Read more

29.組長との再会

 翌日の夕暮れ時。 閉店業務を終えた理聖と和花は、並んでいつもの帰り道を歩いていた。 アパートの階段を上がり、玄関の前に着いたところで、理聖はふと足を止めてポケットをまさぐるようなしぐさをしてみせた。「あ……手帳を店に忘れてしまいました。和花さん、すみません。ちょっと取りに戻りますね! 戸締りはちゃんとしていてください」「は、はい。わかりました。理聖さんも気をつけてくださいね」 何も疑わずに微笑む彼女の頭をそっと撫でると、理聖はひとり来た道を引き返した。 嘘をつくことへの罪悪感が胸を削る。だが、彼女と平穏に暮らすためには、この足で過去の因縁に直接向き合わなければならない。 すっかり日が落ちた駅前のロータリーで、理聖は待機していた雄之助と落ち合った。「若頭、お疲れさまです! 本当に来てくれて感謝しますよ!」「ありがとう、雄之助くん。僕のせいで騒ぎにならないよう頼みますね」 並んで歩き始めた先は、繁華街から少し離れたオフィス街の一角だった。やがて見えてきたのは、築40年は優に超えているであろう古い5階建ての雑居ビルだ。外壁は歴史を感じさせるほど色褪せているが、ゴミひとつ落ちておらず隅々まで綺麗に清掃されている。 入り口の控えめな看板には、〝深凪興産株式会社〟とだけ書かれていた。「一見すると普通の会社ですよね。ここはうちのフロント企業なんですよ」 雄之助が慣れた足取りで自動ドアをくぐりながら簡潔に説明を続ける。 一階は不動産管理や港湾の建設業務などを担う窓口で、一般のお客様も普通に出入りする。 二階は経理や事務員たちが電話対応を行う、どこにでもありそうなオフィスフロア。 三階が自分たち若い組員の詰所や相談室になっており、四階には幹部会議室や理聖がかつて使っていた若頭室が並び、そして最上階である五階に組長の部屋があるのだという。 理聖が雄之助の後に続いて一階のロビーへ足を踏み入れた、その時だった。 フロントの受付デスクに座っていた女性事務員が、ふと顔を上げて理聖の姿を捉えた。次の瞬間、彼女は持っていたペンをコトリと落とし、目を見開いて完全に凍りついた。「……え? うそ……若頭?」 その震えたつぶやきは、静かなロビーに異様な緊張感を走らせた。 受付の奥にあるオフィスルームの扉が勢いよく開き、数人のスーツ姿の男たちが何事かと顔を覗かせ
last updateLast Updated : 2026-08-13
Read more

30.愛と義理の狭間で

「息子……? すみません。僕――」 戸惑いを隠せない理聖が、胸元に回された大きな腕の中で小さく息を呑んだ。 自分の記憶が白紙である事実をどう説明すべきか言葉を探した瞬間、大翔は力強い手で理聖の肩を包み込み、ゆっくりと上体を離した。「記憶が、ないんだろう? 芥からある程度の事情は聞いているよ」 残された左目の瞳に、深い慈愛と労りの色が浮かんでいる。 目の前に立つ大柄な男からは、極道の親分としての凄味よりも、生き別れた実子をようやく見つけ出した父親の温もりが色濃く漂っていた。「忘れてしまっているなら、もう一度私から話そう。お前がどんな人間で、私にとってどれほど大切な存在であるかを」 大翔は執務デスクの横にある応接ソファへと理聖を促すと、自らも対面へ腰を下ろした。革の軋む静かな音が部屋に響く中、低く丁寧な声がこれまでの軌跡を紡ぎ始める。「あれは……もう、20年以上も前のことだ」 大翔が遠い目を向けた先には、血と煙に塗れた過去の景色が広がっていた。 当時、敵対組織との抗争によって焼け落ちた港の廃倉庫。瓦礫と灰燼の中に倒れていたのが、瀕死の状態だった幼い理聖だったという。「どれだけ調べても身元はわからず、親族も誰ひとり見つからなかった。そんな過酷な場所で、お前はたったひとりで生き残っていたんだ」 身寄りのない少年を見捨てることができなかった大翔は、その場から幼い理聖を抱え上げて組へと連れ帰った。そして組織の者たちに向かって、はっきりと宣言したという。「この子は今日から私の息子みたいなもんだ、とね」 実子がいなかった大翔は、理聖にありとあらゆる教育を授けた。 人間としての基礎となる読み書きや上品な言葉遣い、正しい礼儀作法。 さらに、決して弱肉強食の世界で命を落とさぬよう、過酷な格闘術と拳銃の扱い、さらには組織運営の帝王学まで、すべてを手取り足取り叩き込んだのだ。「お前は本当に筋が良かった。教えた知識をスポンジのように吸収して、誰よりも努力を重ねた。……12歳を迎える頃には、大人の構成員とまともに組手でやり合えるほど成長を遂げていたよ」 どこか誇らしげに目を細める大翔の口元に、優しい笑みが浮かぶ。「冷静な判断力と強靭な戦闘技術、そして組員たちをまとめる圧倒的な人望。お前はただ強いだけじゃない。私の最高傑作だ。だからこそ、20歳という若さで実
last updateLast Updated : 2026-08-14
Read more
PREV
123456
...
10
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status