All Chapters of 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした: Chapter 51 - Chapter 60

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51.もう一度、育て直せばいい

「榊原。お前が以前から、理聖を疎ましく思っていることは知っていた。……だが、俺の知らないところでここまで手を出すとはな」 廃倉庫に響き渡ったのは、一切の感情を含まない平坦な声だった。 逆光を背に歩み出てきた大翔の手には、鈍色の光を放つ拳銃が握られていた。 大翔は床に横たわっている榊原と、昏倒している九条を冷酷に見下ろすと、躊躇う素振りすら見せずに引き金を引いた。 乾いた銃声が二発、連続して轟く。 榊原と九条の額の中心が正確に撃ち抜かれ、赤黒い血だまりが冷たいコンクリートの床へと広がっていく。 そのあまりにも無慈悲な処刑劇を目の当たりにし、残っていた構成員たちは悲鳴すら上げられず、足を引きずり這うようにして倉庫の外へと逃げ出していった。 血と硝煙のむせ返るような匂いが立ち込める中、理聖、和花、雄之助、そして梁の上の蘭華の四人は、大翔の放つ底知れない狂気に呑まれ、一歩も動くことができなかった。「芥、理聖を守ってくれてありがとう」 大翔は銃を下ろし、まるで部下の労をねぎらうような穏やかな声で雄之助に微笑みかけた。そして、倉庫の暗い高所を見上げて目を細める。「……そっちにいるのは、蘭華か? また随分と美しくなったな」「……どうも。錦戸、久しぶりだね」 蘭華でさえ、声に微かな震えを混じらせていた。深凪組の絶対的な頂点に立つ男の威圧感は、それほどまでに圧倒的だったのだ。 大翔はゆっくりとした足取りで、理聖の正面へと歩み寄った。「理聖、記憶は戻ったかい?」「…………」 理聖は息を呑み、ゆっくりと首を横に振った。 その様子を見た大翔は、少しだけ残念そうに眉を下げ、やがて理聖の背後に隠れるように立っている和花の姿を捉えた。「……おや。そちらのお嬢さんは?」「大翔、さん……」 理聖は和花をかばうように一歩前へ出ると、内ポケットから折り畳まれた一枚の紙を取り出した。高井が発行した、正式な診断書だ。「僕は、記憶を失いました。脳の損傷が激しく、これ以上の回復は見込めないと……正式な診断が下されています」 差し出された診断書を、大翔は無言で受け取った。 張り詰めた沈黙の中、上方にいる蘭華が理聖の言葉を裏付けるように声を張り上げる。「アタシも確認したわよ。こいつの頭の中、マジで空っぽだった。アタシが昔教えた殺しの手口も、一緒に消した標的の顔も、裏
last updateLast Updated : 2026-08-24
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52.狂犬を手放さない男

 大翔の悪魔のような問いかけに、理聖の身体は思考よりも先に動いていた。(和花さんが、殺される――!) 弾かれたように腕を跳ね上げ、銃口を迷うことなく大翔の眉間へと突きつけた。 引き金にかけた指に、確かな力が込められる。 その冷たい気迫を受けた大翔は、恐れおののくどころか、歓喜に満ちた笑声を廃倉庫の中に響かせた。「はははっ! ほら。ちゃんと残っているじゃないか!」 大翔は心底嬉しそうに目を細めると、和花の額に押し当てていた拳銃をすっと下ろした。 殺気がふっと霧散し、和花はガクンと膝の力を抜いてその場にへたり込みそうになる。 だが、大翔の纏う不気味な空気は微塵も変わっていなかった。 彼は理聖の銃口を気にする素振りも見せず、余裕の笑みを浮かべたまま語りかける。「大丈夫だよ、理聖。お前はまた殺せる。……そちらのお嬢さんが、何よりの証拠だ」 大翔はゆっくりと視線を移し、青ざめた顔で荒い息を吐く和花を見てにっこりと微笑んだ。 その笑顔には、初対面の相手へ向けるようなものではない、どこか底知れない含みが隠されている。 和花は本能的な危険を察知し、身を固くして理聖の背中へとしがみつく。「……それって、どういう意味ですか」 理聖が低く唸るように問うと、大翔は芝居がかった動作で肩をすくめた。「じきに分かるさ。……お前は記憶を失くそうが何だろうが、私の最高傑作であることに変わりはない。ただ、榊原のようにお前の才能に嫉妬する奴が、これからも出てくるかもしれないな」 大翔は床に転がる榊原と九条の死体を一瞥し、無慈悲に言い放つ。「過去のお前に恨みを持つ者も、裏社会には掃いて捨てるほどいるだろう。……しばらくは、芥や蘭華と組んで動くのもいいかもしれないな」 まるで、理聖が組に戻ることを前提とした口ぶりだった。 記憶障害の診断書など、大翔にとってはただの紙切れでしかなかったのだ。 大翔は背を向け、倉庫の出口へと歩き出す。そして、最後に一度だけ振り返った。「自分の本当の過去を知りたくなったら、いつでも来なさい。私がお前に、何でも教えてあげよう」 重い革靴の音が遠ざかり、大翔の姿が完全に闇の中へと消えていく。 残された廃倉庫には、むせ返るような血の匂いと、静寂だけが降り積もっている。(あの言い方……大翔さんは、和花さんのことを元から知っているような様
last updateLast Updated : 2026-08-25
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53.お風呂も一緒ですか!?

 タクシーに乗り、すっかり日が暮れた街を抜けて見慣れたアパートへとたどり着いた。 玄関の鍵を閉めてリビングへ足を踏み入れると、エアコンの効いた涼しい空気が二人を包み込む。 しかし、ソファに腰を下ろした和花の華奢な肩は、まだ微かに震えを帯びていた。 理聖は彼女の隣に座ってそっと背中を撫でると、一度立ち上がってキッチンへと向かった。 数分後、カチャリと静かな音を立ててローテーブルに置かれたのは、立ち上る湯気からカモミールの香りが漂う温かいハーブティーだった。 その横には、帰りがけにコンビニへ立ち寄って買ってきた、和花の好物であるガトーショコラが添えられている。「……少し、甘いものを口にしましょう。心が落ち着きますよ」 理聖が優しく微笑みかけると、和花は震える手でマグカップを受け取った。一口すすると、ハーブの香りとじんわりとした温かさが、こわばっていた胸の奥をゆっくりと解きほぐしていく。 フォークで切り分けたガトーショコラを口へ運ぶと、しっとりとしたチョコレートの濃厚な甘さが舌の上でとろけた。「美味しい……」 張り詰めていた表情がわずかに和らぐのを見て、理聖も安堵の息を吐き出した。「理聖さん。助けに来てくれて、本当にありがとうございました」「いいえ。僕がもっと気を配っていれば、こんなことには……」 自責の念に駆られて視線を落とす理聖に対し、和花は首を横に振ってマグカップをテーブルに置いた。「違います。今日、うちに押し入ってきたのは……離婚した元夫の、芽流くんだったんです」「元夫の……?」 予想外の名前に、理聖の顔つきが鋭く引き締まる。 和花は自身の両腕を抱くようにして、ぽつりぽつりと襲撃の瞬間を語り始めた。「彼、このアパートの合鍵を、まだ隠し持っていたみたいで……。屈強な男の人を二人も連れて、突然押し込んできたんです。扇子で抵抗しようとしたんですけど、スタンガンで気絶させられてしまって」 思い出して身震いする和花の肩を、理聖は痛ましげに引き寄せた。「元夫が、なぜ突然そんなことを……」「芽流くんは、お金のためなら手段を選ばないような人なんです。きっと榊原のような裏社会の人間から、私を連れ去るように大金で雇われていたんだと思います」 元夫という和花にとって最も身近だった人間が、あろうことか深凪組の内部抗争の手駒として使われた。その
last updateLast Updated : 2026-08-25
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54.ベッドは一つで

「だいたい、片付きましたね」 新しく借りた1LDKのマンションに引っ越してから、早くも1週間が経過していた。  仕事の合間を縫って少しずつ進めていた荷解き作業が、ようやくすべて完了したのだ。  段ボールの山が消え、すっきりと整ったリビングを見回して和花は満足げに微笑んだ。  ローテーブルに向かい合って座った二人は、氷の入った冷たい麦茶のグラスを傾けて大きく息を吐き出す。「ええ。和花さんの手際が良くて助かりました。新しい部屋は、前の場所よりも風通しが良くて快適ですね」 「ふふっ、良かったです。引っ越しのついでに、前の部屋に残っていた元夫の私物も思い切って全部捨てちゃいましたし、すっかり身軽になりました!」 未練など微塵もない和花の明るい報告に、理聖も安心したように目尻を下げる。「それで、理聖さん。このあと少し休憩したら、駅前のショッピングモールへ行きませんか? 理聖さんの生活用品とか、新しい洋服も買い揃えたいですし」 「そうですね。これから本格的に同居を再開するとなれば、足りないものも多いですから」 麦茶で喉を潤した和花は、ふと思いついたように手をポンと叩いた。「そうだ! 前の部屋みたいに小さなお布団で二人で寝るのも、体の大きな理聖さんが狭いでしょうし……お部屋も広くなったから、この機会にベッドも二つ買いましょうか」 今後の快適な睡眠環境を思って提案した和花だったが、向かいに座る理聖の反応は予想外のものだった。  理聖はピタリと動きを止め、露骨に口元をへの字に曲げて、頬を膨らませるようにむくれてしまったのだ。「え……? どうしましたか、理聖さん?」 急に不機嫌になった理由が分からず、和花が首を傾げると、理聖はメガネの奥から少し拗ねたような視線を向けてぽつりと呟いた。「……一つで、いいです」 「で、でも、ベッド一つに二人で寝たら、やっぱり理聖さんが窮屈なんじゃ……」 「一緒が、いいです」 理聖は立ち上がると、和花の隣へと腰を下ろし、彼女の細い肩を長い腕でぎゅっと抱きしめた。そのまま大きな身体を丸めるようにして、甘えるような仕草で和花の首元へ擦り寄ってくる。  それは、極道組織の若頭とは到底思えない、まるで飼い主に甘える大型犬のような行動だった。「もしかして、別々に寝るのが寂しいんですか……?」 「……和花さんの温もりが隣にな
last updateLast Updated : 2026-08-26
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55.実家と不破組

「……和花さん。お知り合い……ですか?」 柄シャツの青年に向けて、和花が名前を呼んだことに理聖は驚き、目を見開いた。「はい。彼は、うちの……佐伯古武術道場の門下生なんです」 和花は信じられないものを見るような目で、地面に倒れ込んでいる青年を見つめた。「普段、道着姿しか見てなかったから気づくのが遅れたけど……私服は随分と、ヤンチャな感じなんだね。須賀くん」 須賀と呼ばれた青年は、和花の視線に気づくと、酷く気まずそうに顔を背けて視線を逸らした。「……っ、すんません」 その時、須賀を突き飛ばした黒服の男が、肩で風を切るように威圧的な足取りでこちらへ近づいてきた。「なんだぁ? そこの女、この半グレ野郎の知り合いか? 関係ねぇ奴はすっこんで――」 しかし、凄もうとした男の言葉は、途中で不自然に途切れた。 和花の隣に立ち、彼女をかばうように静かに見据えている長身の男――理聖の存在に気づいた瞬間、男の顔からサッと血の気が引き、全身が凍りついたように硬直したのだ。「わ……若頭……!?」 その〝若頭〟という呼び方で、理聖は即座に目の前の黒服たちが深凪組の構成員であることを理解した。「え、ええと……」 理聖は内心の戸惑いを隠し、できる限り威厳を保った落ち着いた声音で口を開いた。「ここは一般の方も多くいらっしゃる商店街です。あまり派手な行動は控えて、早々に引き上げてくださいね」 誰の顔も名前もわからなかったが、とりあえずは組織の若頭としての指示を静かに飛ばした。 その穏やかでありながらも逆らえない静かな圧力に、黒服の男たちは慌てて直立不動の姿勢をとった。「は、はいぃっ! 申し訳ありませんでしたっ!」 男は深く頭を下げると、背後の仲間たちに向けて鋭く声を張り上げた。「お前ら、引くぞ! ……おい不破の連中、今日は若頭の顔に免じて命拾いしたなぁ!」「ああ!? 命拾いしたのはそっちだろ、クソヤクザが!」 捨て台詞を吐き捨てて足早に立ち去っていく深凪組の構成員たち。そして、彼らと対立していた〝不破〟と呼ばれた柄シャツの集団も、舌打ちをしながら逆方向へと散っていく。 和花はその柄シャツの集団が商店街の角を曲がって見えなくなるまで、食い入るようにじっとその後ろ姿を眺めていた。(……嘘、でしょう……?) 夕暮れの光の中で、和花の鼓動が嫌な音を立てて早鐘
last updateLast Updated : 2026-08-26
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56.忘れた夏、これからの夏

 商店街での不穏な出来事から数日が過ぎ、世間は本格的なお盆休みへと突入していた。 休日の朝。  和花は、買い揃えたばかりの広々としたダブルベッドの中で、ゆっくりと心地よいまどろみから目を覚ました。  薄手のタオルケットを引き寄せようと身動きをとると、シーツの下にある自身の素肌が空気に触れて、微かな冷たさを感じる。  身にまとっている服は、何もない。その事実を認識した瞬間、和花の脳裏に昨夜の激しくも甘い記憶が一気に蘇り、カッと顔中が熱を帯びた。(……っ、理聖さん……昨日はすごく余裕がなかったっていうか……) 彼が夜の闇に紛れて見せた独占欲に満ちた瞳と、熱を孕んだ低い吐息。  思い出して恥ずかしさのあまり両手で顔を覆っていると、隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。 そっと顔を向けると、そこにはまだ深い眠りの中にある理聖の寝顔があった。  トレードマークの黒縁メガネを外した素顔は、ため息が出るほど端正だ。閉ざされたまぶたには、女性のように長いまつ毛が影を落としている。 穏やかな寝顔から視線を下ろすと、シーツの隙間から覗く彼の身体に自然と目が釘付けになった。服を着ている時はスラリとした細身の青年にしか見えないが、剥き出しになった胸板や腹筋は、無駄な脂肪が一切なく硬く引き締まっている。(記憶を失う前……組織の若頭として、すごく厳しいトレーニングを積んでいたんだろうな……) 背中に刻まれた鮮やかな和彫りの刺青もそうだが、この肉体そのものが、彼が潜り抜けてきた修羅場の凄惨さを物語っている。  和花は愛おしさを抑えきれず、シーツの中からそっと手を伸ばした。そして、理聖の滑らかな胸筋から腹筋の起伏にかけて、すりすりと指先で撫でるようにさすり始めた。  その感触を確かめていると、ふいに理聖の長いまつ毛がピクリと揺れた。「……んん、くすぐったい……」 低く掠れた声とともに、理聖がゆっくりとまぶたを押し上げる。寝起きの潤んだ瞳と視線がぶつかり、和花はビクッと肩を跳ねさせて手を引っ込めた。「和花さん……朝からどうしました? そんなに熱心に触って」 「え、あっ……! ご、ごめんなさい。その、すごくいい体をしてるなぁって、つい……」 素直すぎる感想を口にしてしまい、和花はさらに顔を真っ赤にしてシーツを口元まで引き上げた。  そんな彼女の反応を見て、理聖は
last updateLast Updated : 2026-08-27
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57.あなただけを見つめる

「わぁ……! すごい……!」 思わず零れ落ちた和花の歓声が、夏の青空へと吸い込まれていった。 二人が降り立ったのは、房総半島の南部に位置する広大な農園だった。視界の端から端まで、丘陵地帯を埋め尽くすように咲き誇る何万本ものひまわりが、太陽の光を浴びて黄金色の絨毯のように広がっている。 一面の黄色と、突き抜けるような夏の青空のコントラスト。吹き抜ける潮風が大きな花を揺らし、心地よい葉擦れの音を響かせていた。 麦わら帽子を被り、白いサマードレスの裾を風に揺らしている和花の姿は、理聖の目にはまるでこのひまわり畑に舞い降りた天使のように見えた。「なんだか、夢みたいですね」 和花は背丈ほどもあるひまわりの間を縫う小道で立ち止まり、振り返って理聖へと微笑みかけた。「ここ数ヶ月、離婚騒動から始まって……本当に信じられないような、夢みたいな出来事の連続でしたから」 雨の中ごみ捨て場に倒れていた青年を助けた夜から、和花の日常は一変した。 記憶喪失、極道の抗争、裏社会の殺し屋たち。 普通に生きていれば一生交わることのない深い闇に触れ、何度も命の危険に晒されてきた。 しかし、和花は一切の恐れを見せることなく、理聖の大きな右手を自分の両手でそっと包み込んだ。「でも……そんな色々なことがあったからこそ、いまこうして理聖さんと二人で旅行に来られていることが、本当に夢みたいで、すごく幸せです」 理聖は胸の奥が熱く締め付けられるのを感じ、周囲を見回した。自分たちの背丈よりも高く伸びたひまわりの群生が、周囲の観光客の目を見事に遮ってくれている。 理聖はゆっくりと顔を近づけ、和花の言葉を塞ぐように、その柔らかな唇へそっと自身の唇を重ね合わせた。 夏の強い日差しの中、ひまわりの香りと潮風に包まれながら交わす、甘く静かな口づけ。 数秒後に唇を離すと、和花は驚きと照れくささで頬を夕焼けのように赤く染め、潤んだ瞳で理聖を見上げていた。 理聖は彼女の手を握り返し、その大きな瞳の中に映る黄金色の花々と、自分の顔をじっと見つめながら、低い声で囁いた。「……『あなただけを見つめる』……でしたよね」「……! ひまわりの、花言葉」 理聖の口から紡がれた言葉に、和花が小さく息を呑む。「僕は今、和花さんだけを……僕のすべてを懸けて見つめています」 理聖は和花の頬に優しく手を添え、
last updateLast Updated : 2026-08-27
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58.これからの初めてを君と

 バスで揺られること数十分。  二人が到着したのは、太平洋を一望できる小高い岬に建つ温泉旅館だった。  今回和花が手配したのは、広い和室に専用の露天風呂がついた、少し豪華な特別客室だ。客室係の案内で部屋に入り、窓際の障子を開け放つと、視界いっぱいに夏の青い海と空が広がった。「わぁっ……すごい! 理聖さん、窓の向こうが全部海です!」 和花は窓辺へ駆け寄って目を輝かせながらはしゃぎ声を上げた。「ええ、本当に綺麗な景色ですね」 潮風に髪を揺らす和花の後ろ姿を、理聖は目を細めて優しく見守る。 夕刻になり、待ちに待った部屋での夕食の時間がやってきた。  仲居が次々とテーブルに並べていくのは、房州海老の鬼殻焼きやサザエの壺焼きなど、地元で獲れた新鮮な海鮮料理の数々だ。  そして極めつけに、巨大な木舟に盛り付けられた豪華絢爛な刺身の盛り合わせが運ばれてきた。  それを見た瞬間、和花の瞳がキラキラと輝く。「わぁ……! 理聖さん、お魚が船に乗ってますよ!」 まるで子供のような純粋な反応に、理聖は思わず吹き出した。「ええ、立派な舟盛りですね。さあ、新鮮なうちにいただきましょうか」 「はいっ! んんっ……このお刺身、とろけます! これもすっごく美味しいです!」 和花は箸を止めることなく次々と口に運び、「理聖さん、この海老もう食べました!?」と満面の笑みで勧めてくる。  理聖自身も料理を楽しんではいたが、それ以上に、大好きな人が幸せそうに頬張る姿を見ているだけで胸がいっぱいになっていた。  結局、和花は最後の季節のデザートまで綺麗に完食し、小さく息をついて畳にごろんと転がった。「はぁ〜……もう、お腹いっぱいです……」 「でしょうね。見事な食べっぷりでしたから」 理聖がおかしそうにくすくすと笑うと、和花は「だって美味しかったんですもん」と照れくさそうに笑い返した。 食後、お腹が落ち着いた頃合いを見計らって、二人は客室のテラスに備え付けられた露天風呂へと足を踏み入れた。  夜の帳が下りた海は真っ暗だが、心地よい潮騒の音が響いている。  温かい湯船に二人で肩まで浸かり、ふと横を見ると、和花が長い髪をうなじの上で小さくお団子にまとめていた。湯気でほんのりと桜色に上気した頬や、白く細い首筋の艶やかさに、理聖は思わず言葉を失って見惚
last updateLast Updated : 2026-08-28
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59.僕はあなたの番犬です

 夜の浜辺を後にし、旅館の館内へと戻ってきた二人の耳にカコンッという小気味よい音が飛び込んできた。 音の出どころは、大浴場へ向かう通路の脇に設けられた遊戯コーナーだった。 卓球台を見た和花が目を輝かせたことで、二人はそのまま浴衣姿でラケットを握ることになった。「いきますよ、理聖さんっ!」 和花が気合いを入れてサーブを打ち込む。 だが、理聖の身体能力と反射神経は、卓球台の上でも完璧だった。 和花の打つ球をすべて完璧なフォームで打ち返し、強烈なスマッシュを容赦なく叩き込んでくる。「ああっ、またですか!? 理聖さん、ちょっとは手加減してください! 大人げないですよ!」「ふふっ、勝負の世界は厳しいんですよ」 頬を膨らませて怒る和花に苦笑しつつ、理聖が次に放った球は、ふわっと力のない山なりの軌道を描いた。「……あっ! 今、あからさまに手加減しましたね!?」「えっ、いえ、そんなことは……」「バレバレです! もう、ちゃんとやってください!」 ムキになってラケットを振り回す和花と、タジタジになる理聖。二人の弾むような笑い声が、夜の館内にいつまでも響き渡っていた。 卓球でひとしきり汗を流した後は、部屋へ戻って夜の海を眺めながら冷酒でひといきついた。 広い和室には、仲居が二つ並べて敷いてくれたふかふかの布団が用意されている。和花が先に自分の布団へ潜り込んで横になると、当たり前のように、理聖も同じ布団の中へと大きな身体を滑り込ませてきた。「……またワンちゃんモードの理聖さんですか?」 和花がクスクスと笑いながら問いかけると、理聖はメガネを外した端正な顔を近づけ、甘い声で囁いた。「はい。僕は、大切な和花さんを守る番犬ですから」 理聖はそう言って、和花の首筋へ軽く噛み付くように、少しだけ荒っぽい口づけを落とした。「あっ……」 和花の喉から甘い吐息が漏れる。理聖の大きな手が浴衣の帯をそっと解き、はだけた襟元から覗く白い肌へと熱い唇を這わせていく。 薄暗い部屋の中、重なり合う浴衣の衣擦れの音が夜の静寂へと溶けていった。 翌朝。 目覚めた和花は、大きく乱れた浴衣の襟元を合わせようとして、ふと自分の胸元に赤い痕が残っているのを見つけた。 昨夜の濃密な記憶がフラッシュバックし、和花は「うぅ……っ」と呻きながら、枕にぼすっと顔を埋めた。 だが、その直
last updateLast Updated : 2026-08-28
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60.水族館と夏の花火

 海沿いの道路を走るローカルバスに揺られること数十分。 二人が到着したのは、巨大なドーム型の屋根が特徴的な海浜水族館だった。 エントランスを抜けて巨大な水槽の前に立つと、和花は目を輝かせてガラスへとしがみついた。「わぁっ! 理聖さん、見てください! 大きなエイが笑ってるみたいにこっちへ飛んできます!」「本当ですね。腹部の模様が顔のように見えて、なんだか愛嬌があります」 優雅に羽ばたくマンタや、悠然と泳ぐウミガメの姿に、理聖も少年のような好奇心を覗かせていた。 さらに奥へ進むと、小さな水槽の中でふわりふわりと舞う妖精のようなクリオネを発見する。「あ、クリオネだ。小さくて可愛いですね……」「そうですね。……ですが和花さん、あちらの水槽を見てください」 理聖が指差した先には、岩陰から長い触角を覗かせている立派な伊勢海老や、銀色の鱗を光らせて泳ぐ鯵の群れがいた。「あっ……!」 和花は昨夜の夕食と今朝の朝食の豪華な舟盛りを思い出し、思わず両手で口元を覆った。「なんだか……ついさっきまで美味しくいただいていたお魚たちが泳いでるのを見ると、ちょっとだけ複雑な気持ちになっちゃいますね……」「ふふっ、命の恵みに感謝しなければいけませんね」 理聖がおかしそうに笑うと、和花も照れくさそうに笑い返した。 途中、写真撮影のコーナーで、スタッフから大きなサメのぬいぐるみを渡された二人は、照れながらも顔を寄せて記念写真を撮ってもらった。現像された写真には、少しぎこちなくも最高に幸せそうな笑顔の二人が収まっていた。 やがて、館内の一番奥にあるクラゲの展示エリアへと足を踏み入れた。 そこは周囲の照明が極端に落とされ、円柱型の水槽だけが青や紫の幻想的な光を放っている。無数のクラゲたちが、宇宙空間を漂うようにゆっくりと拍動していた。 静かで神秘的な空間の中、二人は自然と手を繋ぎ、肩を寄せ合ってその光景に見入った。 だが、青い光に照らされた和花の横顔には、ふと暗い影が落ちていた。(……今が幸せであればあるほど、現実に戻るのが怖くなる……) 理聖と過ごすこの数日間は、まるで夢のように穏やかだった。 しかし、商店街で見た深凪組と不破組の抗争。そこに混ざっていた実家の道場の門下生たち。そして、『二度と実家の敷居を跨がないか、あの男を選ぶかだ』と言い放った父の冷酷な言
last updateLast Updated : 2026-08-29
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