All Chapters of 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした: Chapter 91 - Chapter 100

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91.理聖の過去を探る者

 和花の暮らすマンションのリビングには、穏やかな夜の時間が流れていた。 夕食を終えた後、理聖が淹れてくれた温かいダージリンティーの香りが、部屋の中をふわりと漂っている。 和花はマグカップを両手で包み込み、ゆっくりと口をつけて、小さく安堵の息を吐き出した。 重すぎる真実を知ってからというもの、和花の心は常に張り詰めていた。 だからこそ、こうして理聖と二人きりで過ごす何気ない日常が、今は何よりも愛おしく感じられる。 その平穏な空気を破るように、テーブルの上に置かれていた理聖のスマートフォンが短く震えた。 画面に表示された名前へ目を落とし、理聖は静かに通話ボタンを押す。「どうしました? 蘭華さん」『よっ。理聖、和花ちゃんと水入らずの時間を邪魔しちゃって悪いんだけどさ』 スピーカー越しに響いたのは、蘭華のいつも通り軽やかな声だった。『さっき事務所で錦戸に報告を済ませてきたんだけど、あんたの耳にも今の状況を入れておこうと思ってね』「ありがとうございます。……組長は、どのようにお考えですか?」 理聖が問いかけると、蘭華の口調からわずかに軽さが消えた。『まず、〝東川〟って男がいるの。榊原の元側近で、今も残党どもを裏から動かしてる奴』「……東川」 初めて聞く名前を、理聖は確かめるように繰り返す。『自分は表には出ないで、カタギのブローカーなんかを間に挟んで、女とか情報とか、金になるものを流してるみたい。榊原が死んだあとも残党がまとまって動けてたのは、そいつが裏で繋いでたからかもね』「その男を、すぐに捕らえるのですか?」『ううん。錦戸の指示は〝監視継続〟』 意外な答えに、理聖は僅かに眉を上げた。『東川ひとり捕まえたところで、下の連中が散っちゃったら面倒でしょ? だから、誰に金を流してるのか、誰と繋がってるのか、榊原派の残りカスがどこまで潜んでるのか……全部洗ってからまとめて片づけるって』「……なるほど」 東川という男が、榊原亡き後も残党を裏から繋ぎ止めている。 だが、理聖にはその男の顔も声も、過去に自分との接点があったのかさえ分からない。 自分が若頭として組にいた頃、東川と顔を合わせたことがあったのだろうか。 それすらも、失われた記憶の向こう側だった。『まあ、東川についてはアタシが引き続き張るから任せてよ』「ありがとうございます」
last updateLast Updated : 2026-09-13
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92.売られた過去

『佐竹には、まだ手を出さないって』 蘭華の声が、静かなリビングに響く。「目的を探るためですか?」 『そ。あいつが何を知りたがってるのか。それから、手に入れた情報を誰に持ち帰るつもりなのか。そこまで見極めてから判断するってさ』 「……その男が、どこの組の人間なのかも分かっていないのですか?」 『今のところはね。不破なのか、荒崎の残党なのか、それとも全然別口なのか……何とも言えない』 理聖は無言で視線を落とした。 佐竹という男。  その名前すら偽名で、目的も所属も分からない。  ただ一つ確かなのは、自分の失われた過去を執拗に探っているということだけだった。『あとね……実はアタシ、和花ちゃんの元旦那に直接接触して、口を割らせちゃったのよねぇ』 「芽流さんに、ですか?」 理聖の隣で話を聞いていた和花の肩が、ビクリと跳ねた。『そ。東川のことも佐竹のことも、あいつから聞き出した。それで分かったんだけど……芽流、あんたたち二人の情報まで金に換えてたわよ』 「…………僕たちの情報を?」 理聖の表情から、すっと温度が消えた。『あんたの極道時代の情報を欲しがる奴に売ってる。それだけじゃなくて、和花ちゃんがあんたの弱点だってことまで商品にしてるみたい』 「……そうですか」 短い返答だった。  だが、その静かな声には明確な怒りが滲んでいた。『元夫だから和花ちゃんのことなら詳しい、って得意げに喋ってたわ。ホント救えないクズよねぇ』 「…………」 和花は俯き、唇を強く噛んだ。『錦戸には、芽流と和花ちゃんの繋がりまでは伏せてる。あの人、和花ちゃんを〝使える〟って見てるでしょ? だから、そこはアタシの判断でね』 「……ありがとうございます、蘭華さん」 『まあ、あの錦戸のことだから、アタシが何か隠してるくらい気づいてそうだけどねぇ』 どこか嬉しそうな蘭華の声に、理聖は僅かに苦笑した。「それで……芽流さんは今、どうしているのですか?」 『悪いことすると天罰が下るってことだけ、アタシがちょーっと身体に教えておいた。今頃まだ麻酔でぐっすり寝てんじゃない?』 「…………そうですか」 それ以上は聞かない方がよさそうだ。  理聖はそう判断して、追及しなかった。『でも、あいつは金のためならまた絶対に情報を売る。だから二人とも、今まで以上に気をつけな
last updateLast Updated : 2026-09-14
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93.鍋パーティーは突然に

 11月も下旬に差し掛かり、街を吹き抜ける風はいよいよ冬の厳しい冷たさを帯び始めていた。 夕刻。フルリールの店内は、暖房が効いてほんのりと花の香りが漂う温かい空間を保っている。 本日の営業を終え、店のブラインドを下ろしてエプロンを外しながら、梓が意気揚々と声を上げた。「みんな、今夜は鍋パしましょう!」「……鍋パ、ですか?」 箒で床を掃いていた和花が手を止め、目を丸くする。 ゴミをまとめていた雄之助と、レジ締めを手伝っていた理聖も一斉に梓の方を振り向いた。「これを、見なさい!」 梓がドヤ顔でレジカウンターの上にドンッと置いたのは、みずみずしく立派な葉を広げた、巨大な白菜が三玉だった。「さっき、常連さんが畑で採れたての白菜をくださったの。こんなに立派な白菜を見たら、これはもう日本酒……いえ、絶対に鍋パをしなきゃいけないっていう、熱い使命を感じてね!」「梓さん、いま思いっきり〝日本酒〟って言ったッスよね……?」 雄之助が呆れたようにツッコミを入れると、梓はパチンと可愛らしくウインクをした。「あら、気のせいよ♡」 相変わらずの梓の酒好きっぷりに、和花と理聖は思わず顔を見合わせて苦笑いした。「せっかく新鮮な白菜がたくさんあるんですし、いいですね。そしたら、近くのスーパーで他のお野菜やお肉も買い足しましょうか」 和花が提案すると、梓は目を輝かせて大きく頷いた。「いいわね! 海鮮もたっぷり入れて、あとはお鍋に合いそうな美味しいお酒も買い足しましょ!」「ちょっ、梓さん! 酒なら家にすでに山ほどストックがあるッスよ!?」「さーあ、さっさと行くわよ! みんな早く帰り支度しなさい!」 雄之助の悲鳴のような制止も虚しく、梓は鼻歌交じりに自分のコートを羽織り始めた。 こうなるともう、誰も店長を止めることはできない。 四人は手早く閉店作業を済ませると、冷たい夜風の吹く街へと繰り出し、近くの大型スーパーマーケットへと向かった。 スーパーの店内は、夕飯の買い物客で賑わっていた。 入り口のカートを手にするなり、梓は「ちょっと飲み物見てくるわね!」と宣言し、一直線にお酒コーナーへと消えていく。 その後を、雄之助が「またボトル何本も買わされるぅ……!」と半泣きになりながら追いかけていった。 取り残された理聖と和花は、ゆっくりとカートを押しながら生鮮食品
last updateLast Updated : 2026-09-14
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94.店長、鍋より先に飲まないでください

 スーパーを出た後も、理聖は背中にへばりつくような視線の名残を密かに警戒していた。  だが、隣で楽しそうに笑う和花や、先頭を歩く梓たちに悟らせるわけにはいかない。  理聖は不穏な気配を静かに心の奥底へ沈め、和花の歩幅に合わせて穏やかに微笑み続けた。 フルリールの店舗横にある階段を上り、二階にある梓の住居スペースへとお邪魔する。  広めのリビングと対面式キッチンがある、居心地の良い部屋だ。  買ってきた食材をカウンターに並べると、さっそく鍋パーティーの準備が始まった。「さて、腕が鳴りますね。雄之助くん、手伝ってもらえますか?」 「おうッス! 任せてくだせぇ!」 キッチンに並び立ったのは、なんと理聖と雄之助の男二人だった。  理聖が料理上手なのは和花も知っているが、雄之助の包丁さばきも尋常ではなかった。  極道としての抗争で鍛え上げられたナイフの扱いが、なぜかキッチンで完璧に活かされているのだ。  手首のしなやかなスナップと、狂いのない正確な刃の角度。真鯛の切り身をスッと美しい一口大に切り分け、豚肉を均等な薄さにスライスしていく。「雄之助くん、すごい手際ですね……!」 「へへっ。昔、組の若い衆のために、よくまかないを作って鍛えられたんッスよ。刃物の扱いは裏社会でもキッチンでも一緒ッスからね!」 ヤクザの技術を料理に応用して胸を張る雄之助の隣で、理聖もまた、流れるような手つきで繊細な下準備を進めていく。「あ、あの! 私も手伝います!」 料理があまり得意ではない和花だが、ただ見ているだけでは申し訳ないとキッチンへ身を乗り出した。  しかし、まな板の上の包丁へ手を伸ばそうとした瞬間、理聖がスッと滑り込んできた。「おっと、そちらの長ネギは僕が切りますから、和花さんは休んでいてください」 「えっ? じゃあ、そっちのお豆腐を……」 「あ、それは形が崩れやすいので、僕がお湯にくぐらせておきます」 「な、なら牡蠣を洗いますっ!」 「牡蠣は殻の破片で手を切る危険があります。僕がやりますから」 和花が何をしようとしても、理聖がまるで瞬間移動のような素早さで先回りし、すべての作業を奪っていく。  気がつけば、まな板の上には理聖の手によって芸術的なお花の形に飾り切りされたニンジンが並び、雄之助がドスを引くような鋭い手つきでシイタケの表面に綺麗な
last updateLast Updated : 2026-09-15
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95.盃じゃなくてお酌です

 カセットコンロの青い炎に温められ、土鍋からグツグツと食欲をそそる音が鳴り始めた。 蓋の穴から白い湯気が勢いよく噴き出し、濃厚な味噌の香りが部屋いっぱいに広がる。「よし、そろそろ食い頃ッスね!」 雄之助がパカッと蓋を開けると、熱気とともに完璧に煮込まれた具材が顔を出した。「はい、梓さんは牡蠣多めッスよ。和花さんはお肉と白菜、若頭は真鯛ッスね」 雄之助は甲斐甲斐しくお玉を握り、全員の取り皿へ手際よく具材をよそっていく。武闘派の極道とは思えない、見事な鍋奉行ぶりだ。「わぁっ、いただきます!」 和花はフーフーと息を吹きかけながら、熱々の白菜と豚肉をパクリと頬張った。「ん〜っ! 味が染みててすっごく美味しいです!」 ハフハフと熱がりながらも、次々と具材を口に運ぶ見事な食べっぷり。食いしん坊な彼女の幸せそうな顔を見て、理聖の目尻が優しく下がる。「ゆっくり食べてくださいね。ほら、おかわりもよそいましょう」 理聖は自分の器よりも和花の器へ次々と具材を追加し、ひたすら愛おしそうに見つめていた。 そんな微笑ましい二人の横で、一人完全に出来上がっている人物がいた。「ぷはーっ! やっぱり、お鍋には日本酒が最高ねぇ!」 梓はすでに何杯目かもわからないお猪口をあおり、ご機嫌な声でテーブルを叩く。「ほらほら、理聖くんも和花ちゃんも遠慮しないで飲みなさいな! 雄之助くんもグラス空いてるわよ!」「俺はもう十分ッス! 梓さんも少しペース落としてくだせぇ!」 ハイペースで日本酒を勧めてくる梓を雄之助が必死になだめていると、不意に部屋のインターホンが鳴り響いた。「あら? こんな時間に誰かしら?」 梓が不思議そうに首を傾げた瞬間、理聖の箸がピタリと止まった。(……まさか) スーパーの店内で背中に張り付いていた、あの執拗な視線。理聖の過去を探る謎の男・佐竹か、あるいは不破組からの刺客が尾行してきていたのではないか。 理聖の瞳の奥に冷たい光が宿る。雄之助もただならぬ気配を察し、いつでも動けるように腰を浮かせた。 だが、玄関のモニターを確認した梓が、パッと明るい声を上げた。「あらっ、五十嵐さんじゃない!」 梓が警戒心ゼロでドアを開けると、そこに立っていたのは上品なコートを纏った老婦人だった。「五十嵐さん! どうしたんですか? ちょうど今、いただいた白菜でお鍋
last updateLast Updated : 2026-09-15
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96.寂しい顔をした青年

 賑やかだった鍋パーティーも、いつしか終盤を迎えていた。 テーブルの中央に置かれた土鍋は、たっぷりとあった具材もスープも見事に底をついている。 そして、その傍らには、完全に空になった日本酒の一升瓶とワインボトルが二本、誇らしげに並んで転がっていた。「だぁーっからねぇ! 私が言いたいのは、愛よ! 愛がすべてを解決するのよぉ!」 すっかり出来上がった梓は、空のお猪口を振り回しながら、誰も聞いていないような高説をテンション高く熱弁していた。 しかし、次の瞬間。「……すぅ」 まるでテレビの電源プラグが突然抜かれたかのように、梓は机に突っ伏し、幸せそうな寝息を立て始めた。 あまりにも見事な寝落ちっぷりである。「お、おい梓さん! 寝るならせめて風邪ひかねぇように布団で……うぃっ」 そんな梓に声をかけた雄之助もまた、完全にアルコールに飲まれていた。 梓に絶え間なく杯を干すよう強要された結果、酔っ払いと化していたのだ。「ったく……俺の大事なオンナが、こんな無防備な姿晒して……。俺がしっかり、タマ獲られる前にガードしねぇと……」 雄之助はふらつく足取りで立ち上がると、ソファに置かれていたブランケットを手に取り、梓の肩へ優しくかけてやった。 そして、「よし、これで完璧ッス……」と満足げに呟いた直後、梓の隣にドサリと座り込み、そのまま一緒にいびきをかき始めてしまった。 一方、別の席では和花も静かに夢の世界へと旅立っていた。 持ち前の食いしん坊ぶりを発揮し、なんと一人で五十嵐が持ってきた白菜一玉分ほどの具材を平らげた和花。 満腹感に加え、少しだけ飲んだお酒のせいですっかり身体が温まり、クッションを抱きしめたまま心地よさそうに目を閉じている。 お酒に弱い和花にとって、鍋の熱気とアルコールの相乗効果は絶大だったようだ。 賑やかだったリビングは、三人の穏やかな寝息だけが響く、静かな空間へと様変わりした。 結局、最後まで起きていたのは、理聖と五十嵐の二人だけだった。「ふふっ。皆さん、とっても気持ちよさそうに眠ってしまったわね」 五十嵐は目尻に深いシワを寄せ、孫の寝顔でも見るように三人を優しく見守っている。「ええ。よほどお腹が満たされたのでしょうね。……片付けは、後で僕がやっておきますから」 理聖は静かに立ち上がり、テーブルの上の空いた皿を重ね始めた
last updateLast Updated : 2026-09-16
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97.未来は、自分で選ぶ

「……実は、僕は過去の記憶がないんです」 すうすうと規則正しい寝息だけが響くリビングに、理聖の静かな声が落ちた。  五十嵐は湯呑みを持った手をふわりと止め、「まあ……」と目を丸くして小さく息を呑んだ。「事故……と言えばいいのでしょうか。ある日、目を覚ました時には、以前の自分の記憶が一切抜け落ちていました。自分が何者で、どんな人生を歩んできたのか、全く覚えていないんです」 理聖は伏し目がちに、静かな声で言葉を紡ぐ。 裏社会の禍々しい事情は、決して理聖の口から語られることはなかった。  目の前にいる五十嵐はあくまで、フラワーショップの常連客であり、平和な日常を生きる一般人だ。  理聖はそこをしっかりと線引きし、決して彼女を血生臭い世界へ巻き込まないよう、慎重に言葉を選んでいた。「……僕には、自分でも知らない過去があります」 理聖は、自身の大きな両手を見つめた。「そして、その抜け落ちた暗い過去の中で……僕は誰かを深く傷つけ、取り返しのつかない罪を犯してしまった可能性があるんです。それを知らずに、和花さんの隣で幸せなふりをして生きている自分が、時折たまらなく恐ろしくなる」 ぽつりぽつりと吐露されたその重圧に、五十嵐は遮ることなく、ただ優しく耳を傾けていた。  やがて、五十嵐は湯呑みをテーブルに置き、シワの刻まれた温かい手で、理聖の冷え切った手をそっと包み込んだ。「……人はね、理聖さん」 五十嵐の声には、冬の陽だまりのような深い慈愛が満ちていた。「過去に犯した過ちや、歩んできた道を、なかったことにはできないわ。……けれど、〝これからどう生きるか〟は、いつでも自分で選べるものよ」 「……!」 その言葉に、理聖は弾かれたように顔を上げた。「記憶がないということは、足元が崩れ落ちるように恐ろしくて、不安なことでしょうね。でも、だからといって、今のあなたまで否定することはないのよ」 五十嵐は優しく微笑み、クッションを抱きしめて幸せそうに眠る和花へと視線を向けた。「和花ちゃんが、あなたの隣であんなに幸せそうに笑って、あんなに安心しきった寝顔を見せているんですもの。……少なくとも、今のあなたは、決して悪い人には見えないわ」 人を不幸のどん底へ突き落とすような冷酷な人間なら、あんなに無防備で穏やかな寝顔は引き出せない。  五十嵐の言葉は、確かな
last updateLast Updated : 2026-09-16
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98.復讐の手がかり

 深夜0時を過ぎた頃。  木枯らしが吹き荒れる住宅街を抜けた先に、広大な敷地を持つ立派な日本家屋が佇んでいた。  玄関の引き戸が静かに開き、五十嵐君代が帰宅する。  フルリールではいつも柔らかな笑顔を浮かべている君代だったが、今はその面影すらない。 玄関でコートを脱ぎ、ハンガーへ掛ける。  そのまま静かな廊下を進み、リビングへ入った。  電気をつける。白い明かりに照らされた部屋の奥には、立派な仏壇があった。  そこに飾られているのは、初老の男の遺影。  君代は真っ直ぐに仏壇の前まで歩いていき、静かに膝をついた。「あなた……」 遺影を見上げる。  その瞳には、冷たい憎悪が宿っていた。「もう少しだけ、待っていてくださいね」 その声は静かだった。  けれど、長い年月を経ても決して消えることのない怨念が滲んでいる。  夫を殺した男――錦戸大翔。  君代は、その男への復讐だけを胸に抱えて生きてきた。  そのとき。「帰り、遅かったじゃん」 背後から声がした。  君代が振り返ると、そこに立っていたのは全身を黒い服で包み、フードを深く被った長身の男だった。「……どうだった?」 君代はゆっくりと立ち上がり、男へ向き直った。「彼は間違いなく、記憶をなくしていたわ」 「やっぱりか」 「ええ。今日、改めて確信したわ」 君代の脳裏に、数時間前の光景が蘇る。  フルリールで、理聖が自分に向けていた表情。  穏やかで、どこか頼りない――かつて裏社会で恐れられていた男とは、とても思えない姿だった。「今の彼からは、かつての狂犬と呼ばれた面影なんて、ほとんど感じられないわ。……だけど、身体に染みついたものまでは失われていない」 「殺しの技術か」 「それだけじゃないわ。警戒の仕方も、人の動きを見る目も……危険を察知したときの反応も」 君代は目を細める。「あれは、普通の人間が身につけられるものではないもの」 「だったら、本人である可能性は高いな」 「私もそう思っているわ」 それでも、君代の表情には確信しきれないものが残っていた。「でも、まだ確証はない」 「……例の銃か」 「ええ」 君代が頷く。「彼が使っていた銃は、ベレッタ92FS・イノックス」 「銀色のベレッタ、か。あれを今も持っているなら、話は早いな」 「そうね。あ
last updateLast Updated : 2026-09-17
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99.仮面の下の素顔

 男は壁に背を預けたまま、低い声で言った。「でも、本人だったとして……問題はそこからだろ」 君代の表情が変わる。「ええ」「記憶をなくした今のあいつが、錦戸に対してどういう感情を持ってるのか。そこがまだわからない」「そうね」 理聖がかつて、錦戸大翔のもとでどれほどの仕事をしていたのか。そして、その圧倒的な実力がどれほどのものだったのか。 二人は知っている。 だからこそ――錦戸と唯一渡り合える可能性がある男として、理聖を利用しようとしていた。「だけど、彼は今、恋人と平和な日々を過ごそうとしているわ」 君代の声に、わずかな苛立ちが混じる。「花屋で働いて、恋人と笑って……過去など必要ないと言わんばかりにね」「……平和ボケしてんのかよ」 男が吐き捨てる。「それじゃあ困るんだよな。錦戸大翔……あの隻眼の化け物は、深凪組のトップとして今も絶対的な権力を握っている。真っ当なやり方じゃ、到底首には届かない」「ええ。だからこそ、かつて錦戸の狂犬として血の雨を降らせたもう一匹の化け物……理聖をぶつけるしかないのよ」 錦戸大翔を殺す。 そのために、理聖の力が必要なのだ。 けれど、記憶を失った理聖がこのまま普通の生活を選ぶのなら――錦戸との抗争そのものを避けてしまう可能性がある。「もう、あの男を殺れるのは彼しかいない」 君代は、仏壇の遺影へ視線を向けた。「だから、どうにかして錦戸と仲違いさせなければいけないわ」「過去を思い出させるだけじゃ、足りないか」「ええ。記憶が戻ったところで、今の彼が錦戸をどう見るかはわからないもの」 男はしばらく考え込む。「だったら……錦戸が、今のあいつにとって大切なものを壊すように仕向ければいい」 君代は答えなかった。ただ、静かに男へ歩み寄る。「……そうね」 優しい声だった。 けれど、その瞳には復讐の炎が宿っている。「そのためには、周りの人間も上手く使うべきね」「ああ。和花の元夫……芽流だったか。あの小悪党は良い駒になるぜ。自分の元妻が裏社会でどれほどの爆弾か気づきもせず、小銭稼ぎで浮かれてやがる。自分を操っている東川ってブローカーの、さらに背後に俺たちがいるとも知らずにな」 男の口角が残酷に吊り上がる。「極道の火種を大きくするには、あんな底の浅い馬鹿が一番使いやすい」 君代が満足そうに頷
last updateLast Updated : 2026-09-17
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100.鍋パーティーの代償

 カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日が、静かなリビングを白く照らしていた。  和花は、重鉛を乗せられたかのようなまぶたを、必死の思いでゆっくりと押し上げた。「こ、ここは……?」 頭の芯がひどくぼんやりとしていて、思考がうまく働かない。  自分が今どこにいて、何が起きたのかを理解するまでに、少し時間がかかった。 視界が徐々にクリアになってくると、自分がフルリールの二階、梓の家のソファに寝かされていることに気づく。  昨夜は五十嵐から貰った巨大な白菜を使って、賑やかに鍋パーティーをしていたのだ。  和花は身体を起こそうと手をついたが、まるで自分の身体ではないかのように、指先まで全く力が入らない。「あっ……」 バランスを崩し、ふらりと床へ倒れ込みそうになった瞬間。  強い腕がスッと伸びてきて、和花の華奢な身体をしっかりと抱き留めた。「和花さん、大丈夫ですか?」 見上げると、すでにきちんと身支度を整え、いつものように穏やかな微笑みを浮かべた理聖の顔があった。「す、すみません。……私、そんなに飲んだつもりはなかったんですが……」 和花は理聖の広い胸に寄りかかりながら、申し訳なさそうに視線を落とした。  いくらお酒に弱いとはいえ、ワインを少し口にしただけで、ここまで身体が動かなくなるものだろうか。  二日酔い特有の頭痛とは違う、深い水底に沈められているような異常な気だるさだった。「無理しないでください。急に起き上がると、立ち眩みがしてしまいますよ」 理聖は和花をソファへ座り直させ、その背中を愛おしそうにゆっくりと撫でた。「……やだぁ。何よこれぇ……」 不意に、床に敷かれたラグの上から、ひどく掠れた声が響いた。  梓が、頭を両手で抱え込むようにして、もそもそと上体を起こしている。「もう、頭がぐわんぐわんするわ。……二日酔いになるほどは、飲んでなかったのにぃ」 「いやいやいや、あんだけの量飲んどいて、そりゃあないッスって……」 梓の隣で丸まっていた雄之助も、ふらふらと身を起こした。  昨夜、梓に無理やり付き合わされて日本酒を浴びるように飲んでいた雄之助だが、彼もまた、いつもとは違う異様なだるさに顔をしかめていた。「んぅ……? なんか、俺もすげぇ身体がだるいッス。ただの二日酔いみたいな感じではないんスが……きっと、久しぶりに気が
last updateLast Updated : 2026-09-18
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