All Chapters of 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした: Chapter 61 - Chapter 70

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61.忘れたはずの水族館

「理聖、見てみろ。大きなオバケがいるぞー!」 巨大な水槽のガラス越しに、頭上を悠然と横切っていくマンタを指差し、その男は子供のようにはしゃいだ声を上げた。 水族館の青い光に照らされたその背中は、見上げるほどに広く、そして恐ろしいほどの威圧感を隠そうともしない。 ――深凪組三代目組長・錦戸大翔。 彼が理聖を拾い、まだ数ヶ月しか経っていない頃。 初めて水族館に連れて行ってもらった日。「…………」 幼い理聖は、大翔の隣でただ無言のまま水槽を見つめていた。 初めて見る海の生き物たち。 しかし、感情の表現の仕方を知らない彼は、「すごい」や「楽しい」といった言葉をうまく口に出すことができない。無表情のまま立ち尽くす理聖を、大翔は少しも気に留めることなく、まるで普通の父親が息子を可愛がるように次々と水槽を巡って歩いた。「ほら、こっちにはウミガメだぞ」「…………」 やがて、野外のスタジアムでイルカショーが始まった。 水しぶきを上げて高くジャンプするイルカたちの見事な芸に、観客から大きな歓声が沸き起こる。そのダイナミックな動きに、理聖の小さな唇が、ほんのわずかだけ綻んだ。「……おっ。今、笑ったな」 その微かな変化を、大翔は見逃さなかった。「なんだ、お前もちゃんと子供らしい顔ができるじゃないか」 大翔は嬉しそうに目を細めると、大きな手のひらで理聖の頭をガシガシと少し乱暴に撫で回した。 温かな体温に包まれ、理聖は恥ずかしさから俯いて小さな身をすくませた。 ショーが終わった後、混雑する通路で大翔は突然しゃがみ込み、「ほら、乗れ」と背中を向けた。 恐る恐る肩にまたがると、大翔は軽々と立ち上がり、理聖を肩車した。今まで見たことのない高い視界から見下ろす世界は、幼い理聖にとって魔法のようだった。 帰り際、大翔は売店で一番大きなイルカのぬいぐるみを買い与えてくれた。「……ありがとうございます」 消え入りそうな小さな声でお礼を言い、理聖は自分よりも大きなイルカのぬいぐるみを、両腕でギュッと力強く抱きしめた。 帰りの車の中。 運転席に座る組員が気を使う静寂の中、後部座席で大翔が低く穏やかな声で問いかけた。「理聖。今日は楽しかったか?」「……はい」「そうか。なら、また行こうな」 大翔の大きく分厚い手が、再び幼い理聖の頭を優しく撫でる。その無償の
last updateLast Updated : 2026-08-29
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62.隠した勘当

 楽しかった一泊二日の旅行を終え、二人がマンションへと帰り着いたのは、すっかり夜も更けた頃だった。  買ってきたお土産や荷物を片付け、順番にシャワーを浴びてさっぱりとすると、やはり自分たちの家が一番落ち着くという安心感がどっと押し寄せてきた。 間接照明だけが薄暗く灯る寝室。  広々としたダブルベッドの中で、和花は隣に寝転がる恋人の姿を見て、思わずクスリと吹き出してしまった。「……理聖さん、もしかしてその子、すごく気に入りました?」 「え?」 理聖は不思議そうに瞬きをした。  彼の長い腕の中にすっぽりと収まり、ギュッと大切そうに抱きしめられていたのは、水族館の売店で買ってきたコミカルな顔つきのサメのぬいぐるみだった。  長身の青年が、パジャマ姿でサメのぬいぐるみを抱きしめている。  そのあまりにも微笑ましいギャップに、和花は笑いが止まらなくなってしまったのだ。「ええ。肌触りもいいですし、腕の中にすっぽり収まるサイズ感で、抱き心地が最高なんです」 理聖は大真面目な顔でサメの頭を撫でていたが、ふと何かを思いついたように、そのぬいぐるみを自身の横に優しく置いた。「ですが……」 理聖はそのまま身を翻し、和花の華奢な身体をシーツごとすっぽりと自身の腕の中へ閉じ込めた。「やはり、和花さんの温もりと柔らかさには敵いませんね」 至近距離で囁かれた艶のある声に、和花の心臓がドクンと大きく跳ねる。「も、もう。理聖さんったら……っ」 抗議するように見上げた和花の唇を、理聖の熱い吐息が塞いだ。  旅行の疲れなど微塵も感じさせない、甘く貪欲な口づけ。  サメのぬいぐるみではなく、大好きな人の確かな体温と鼓動を感じながら、二人の身体は深くシーツの中へと沈み込んでいった――。 月明かりが、カーテンの隙間から静かにベッドを照らしている。  熱を帯びた甘い時間の余韻が残る部屋の中、理聖は自身の腕を枕にしてまどろむ和花の髪を、愛おしそうに何度も撫でていた。  肌と肌が触れ合う温もりに安心して、和花が静かに目を閉じようとした時のこと。「そういえば、世間はお盆休み真っ只中ですが……ご実家には帰らなくて大丈夫なのですか?」 「……っ!」 理聖の何気ない問いかけに、和花はビクッと肩を震わせ、眠気が一瞬にして吹き飛んでしまった。  理聖がいないところで、父から
last updateLast Updated : 2026-08-30
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63.秋色のブーケと密談

 お盆休みが明け、街は再び日常の喧騒を取り戻していた。 和花が勤める花屋〝フルリール〟の店内も、お盆の供花から、晩夏から初秋を彩る鮮やかな花々へと少しずつ様変わりしている。 理聖もまたこの店で働き始めて数ヶ月。 端麗な容姿と穏やかな物腰、そして長身にエプロンを纏った理聖の姿は、すっかり女性客たちの間で評判となり、彼を目当てに訪れる常連客も着々と増えていた。「いやぁ、今日もエプロン姿、バッチリ決まってるっすね!」 カランコロンとドアベルを鳴らして入ってきたのは、雄之助だった。 最近はすっかりこの店の常連となっており、タレ目を人懐っこく細めて理聖へと手を上げる。「いらっしゃい、雄之助くん。今日はどのようなお花をお探しですか?」「殺風景な男の一人暮らしなんで、ちょっと部屋に飾る綺麗なやつを見繕ってほしいんすよ」 快活に笑う雄之助を店の奥のディスプレイへと案内しながら、理聖は周囲に客がいないことを確認した。 表向きは熱心に花を選んでいるように見せかけ、雄之助は口元を綻ばせたまま、声のトーンだけを鋭く落として近況報告を始めた。「……廃倉庫の一件で、榊原と九条が組長に直に消されてから、組内の派閥争いは以前よりは落ち着いてます。ですが、記憶喪失の若頭が依然として組織のナンバーツーに居座り、組長から異常な寵愛を受けていることに、古参の幹部や若手の中には不満を燻らせている連中が少なからずいます」「……ええ。無理もありませんね」 理聖が紫色のリンドウを手に取りながら頷くと、雄之助は悪戯っぽく目を細めた。「でも、俺はその燻っている不満を上手く利用してやろうと考えてるんですよ。幹部たちの反発を組織内で大きく煽って、今度こそ大翔さんが若頭を〝破門〟せざるを得ない口実を作り出せないかってね」 理聖を安全に極道から抜けさせるための、狡猾で命懸けの計画。理聖は「頼もしい限りです」と静かに感謝を伝えた。 だが、雄之助の報告はそれだけではなかった。「ただ……不破組との縄張り争いは相変わらず激化してます。特に駅の向こうの歓楽街が酷い。深凪組と付き合いのあるキャバクラに不破組側の人間がズカズカ出入りし始めたり、太客を連れてくるスカウトのルートをどちらが押さえるかで連日揉めてるんです」「……この前も、商店街での喧嘩のようなことが起きていましたね」「ええ。オー
last updateLast Updated : 2026-08-30
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64.忠犬、酔っぱらいに捕まる

 夕焼けが街を茜色に染め上げる頃。 フルリールの営業時間が終わり、理聖と和花はエプロンを外して着替えを済ませた。「店長、お先に失礼します」「ええ、二人とも今日もお疲れ様! 気をつけて帰ってね」 梓に優しい笑顔で見送られ、二人は手を繋いで帰路についた。 残された梓も、今日は早々に店じまいの作業を切り上げた。店のシャッターを下ろすと、少し離れた路地の陰で壁に寄りかかって待機していた大柄な男へと声をかける。「お待たせ、雄之助さん!」「あ、いや……お疲れッス」 雄之助は、黒のTシャツにカーキ色のカーゴパンツという、ひどくラフな私服姿だった。(……まさか、こんなことになるとは。もっとマシな服を着てくるんだったぜ) 頭を掻きながら、雄之助は内心で激しく後悔していた。 理聖へ近況報告をした後、裏社会への好奇心が爆発した梓に「仕事のあと、私の奢りで飲みに行きましょうよ!」と強引に誘われてしまったのだ。 理聖と和花も誘ったが、二人はなぜか顔を引きつらせて「私たちは遠慮しておきます……」と逃げるように帰ってしまった。 その理由は、雄之助がこれから身をもって知ることになる。 二人がやってきたのは、駅前にある個室の居酒屋だった。 向かい合って座るなり、梓はメニューも見ずに「一番大きなジョッキで生ビール!」と元気よく注文する。運ばれてきた顔ほどの大きさがあるメガジョッキを両手で持ち上げ、梓は美味しそうに喉を鳴らした。 対する雄之助は、通常のハイボールのグラスを傾けながら、その豪快な飲みっぷりに若干引いていた。「ぷはーっ! 仕事終わりの一杯は最高ね! それで、雄之助さん。裏のお仕事って、普段はどんなことをしてるの?」 お通しの枝豆を摘みながら、梓は目を輝かせて尋ねてくる。「いや、まあ……大したことはしてないっすよ。適当にシマを見回ったり、揉め事を片付けたり……」 カタギの、しかも女性に話せるような内容ではないため、雄之助はぼんやりと濁して答える。 だが、梓の追及は止まらない。「ふうん。でも、雄之助さんってばガタイもいいし、喧嘩も強そうよね」「……俺のことが、怖くないんすか?」 雄之助がタレ目を少しだけ鋭くして、凄みをきかせてみせるが、梓は全く動じる様子がなかった。「だって、理聖くんの〝忠犬〟なんでしょ?」「忠犬、って……。まあ、間違っちゃい
last updateLast Updated : 2026-08-31
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65.今日は帰さないわよ

「ほらー、言わんこっちゃない……」 駅前の個室居酒屋を出た直後。 夏の夜風に吹かれた瞬間、梓は足元をふらつかせ、派手に転びそうになった。 雄之助はすかさず腕を伸ばし、その細い腰をガッチリと抱き留める。「だって〜。誰かと飲むのなんて、久しぶりだったんだも〜ん」 支えられながら、梓は全く反省の色を見せずに雄之助の胸元へもたれかかった。「和花ちゃんも理聖くんも、お酒だけはあんまり付き合ってくれないしぃ。雄之助くんがいてくれて、今日はすっごく楽しかったわ〜」「そりゃそうだろ……。二人とも、あんたのこの酒癖の悪さを知ってて逃げたんだからな」 大きなため息をつきながら、雄之助は完全に体重を預けてくる梓を支え直した。 香水と、ふんわりと香るアルコールの甘い匂いが鼻先をくすぐり、妙に心臓の音がうるさくなるのを必死に無視する。「で? 梓さん、家はどこなの? タクシー拾うか?」「タクシーはいらないわよぉ。フルリールの二階が、私の自宅だもの……」「へえ、店の上に住んでるのか。りょーかい」 雄之助は酔い潰れた梓を背負おうとしたが、彼女が「背負われるのは可愛くないから嫌っ」と謎の抵抗を見せたため、結局肩を抱いて支えるようにしながら、夜の街を歩き出した。 10分ほど歩き、シャッターが下りたフルリールの横にある、居住用の外階段を上る。 梓のバッグから鍵を取り出してドアを開けると、店内と同じように生花の優しい香りが漂う、こぢんまりとした部屋が現れた。 靴を脱がせ、奥にあるベッドへと梓を丁寧に寝かせる。「ほら、着いたぞ。ちゃんと水飲んでから寝ろよ。俺はもう帰るからな」 やれやれと首を鳴らし、部屋を出ようと踵を返したその瞬間だった。「!?」 突然、背後から梓に腕を強く引っ張られた。 想定外の力にバランスを崩した雄之助は、そのままベッドへと倒れ込み、あわや梓を下敷きにしそうになって咄嗟に両腕で身体を支えた。「……っ、おい! 危ねぇって!」 覆い被さるような体勢になり、雄之助が顔を上げると、すぐ目の前で梓が潤んだ瞳で見上げていた。「ちょっと、なぁに勝手に帰ろうとしてんのよ?」 甘ったるい声で問い詰められ、雄之助は一気に額へ冷や汗をかいた。「……まさか、居酒屋で言ってたこと……本気で同棲とか考えてんのか?」「当たり前じゃない。私のこと、綺麗だって言って
last updateLast Updated : 2026-08-31
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66.酔いがさめても、好き

「……っ、頭、いった〜……」 翌朝。  容赦なく差し込む朝日と、ガンガンと響く激しい頭痛で、梓は目を覚ました。  重い瞼をこすりながら起き上がろうとして、ふと自分の身体に何も身につけていないことに気づき、思考がピタリと停止した。 視線を床に落とせば、脱ぎ散らかされた自身のワンピースと下着、そして見覚えのない黒いTシャツとカーゴパンツが散乱している。  さらに枕元には、丸められたティッシュのゴミがいくつも転がっていた。 恐る恐る隣を振り返ると、そこには昨夜一緒に飲んでいたはずの雄之助が、同じく素っ裸のままでスヤスヤと寝息を立てているではないか。(嘘……) 梓の顔から、さーっと血の気が引いていく。  昨夜の居酒屋での出来事、そしてこの部屋へ送ってもらった後の、自分が仕掛けた強引すぎるアプローチの記憶が、濁流のように脳裏へ押し寄せてきた。  梓は雄之助を起こさないよう、ベッドからそっと抜け出すと、足音を殺してバスルームへと駆け込んだ。  ガチャリと扉を閉めた瞬間、その場にへたり込む。「……やっちゃった……」 いくら好みの男性だったとはいえ、酔った勢いで関係を持ってしまうなど、35歳の大人としてあるまじき失態だ。  梓は自己嫌悪に苛まれながら、火照った身体と頭を冷やすために、冷たいシャワーの蛇口を捻った。 一方、ベッドに残された雄之助も、数十分後にゆっくりと目を覚ました。「……んぁ?」 寝ぼけ眼で身体を起こした瞬間、視界に飛び込んできたのは、床に落ちている黒いレースの女性用下着だった。  その瞬間、昨夜の甘く熱い記憶――梓の強引な誘惑と、それに抗いきれずに欲望のまま彼女を抱きしめてしまった自分の姿が、鮮明に蘇ってきた。「マジで……っ!?」 雄之助は跳ね起きるなり、激しい動揺とともに床に落ちていたボクサーパンツとカーゴパンツを引っ張り上げた。慌ててファスナーを上げようとしたが、焦りすぎて股間を挟んでしまい、「痛ってぇぇっ!」と情けない悲鳴を上げる。  そこへ、バスルームの扉が開く音がした。「……き、昨日は、家まで送ってくれてありがとう……」 振り返ると、シャワーを浴び終えた梓が、白いバスタオル一枚を体に巻いた姿で立っていた。「その……飲みすぎてしまって、色々とごめんなさい」 「い、いや、俺も、その……男として、理性が効かなく
last updateLast Updated : 2026-09-01
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67.恋の訪れ

 それから、数日後のこと。 フルリールの店内で、理聖と和花は自分の目を疑うような光景を目の当たりにしていた。「……いらっしゃいませぇー。どうぞ、ゆっくり見てってくだせぇ……」 深いグリーンのエプロンを着た理聖の隣で、どう見ても極道の武闘派にしか見えない大柄な男が、ピンク色の可愛らしいフリル付きエプロンを身に纏い、花束を抱えて立っていたのだ。「……雄之助、くん? どうして、あなたがお店に?」 理聖が目をパチクリとさせて尋ねると、雄之助は顔を真っ赤にして視線を逸らした。「ち、違うんすよ、若頭。これはその、やむを得ない事情がありまして……」 そこへ、奥のバックヤードから上機嫌な様子で店長の梓が姿を現した。「おはよう、二人とも! 紹介するわね。今日からうちの新メンバーとして働くことになった、芥雄之助くんです!」「ええっ!?」 和花が驚きの声を上げる。「雄之助くんは新人だから、お花の扱い方とか、接客の基本とか、二人から色々と教えてあげてね」「あっ、はい……」 梓はニコニコと笑いながら雄之助の肩をポンと叩く。 雄之助は「うっす……」と返事をしながらも、どこか梓の顔を見られない様子で照れくさそうに俯いていた。 その初々しい態度と、梓から漂う隠しきれない浮かれたオーラ。(……なるほど。そういうことですか)(……何かあったのね。これは) 理聖と和花は顔を見合わせ、二人の中に起きた劇的な〝変化〟を一瞬にして察知した。 やがて、開店時間を迎えると、さっそく年配の女性客が鉢植えを探しにやってきた。 雄之助は気合いを入れて接客に向かった。「へい! いらっしゃいませ、奥さん! 今日はどんなタマ……いや、どんなお花をお探しで!?」「え、ええと……お友達の退院祝いに、明るいお花がいいかしらって……」 いかつい大男に凄まれたと勘違いし、女性客がビクッと肩を震わせる。「退院祝いッスね! それなら、縁起のいいコイツなんかどうッスか! 丈夫で長持ちするし、シャバの空気……いや、外の空気にも強いんで、絶対に喜ばれると思いやす!」「シャバ……?」「あ、それと、ちょっと鉢の底に土がついてやすね。今すぐ指詰め……じゃなくて! 布巾で綺麗に落としやすんで、少々お待ちを!」 真面目にやっているのは伝わるのだが、染み付いた極道の雰囲気が随所に漏れ出し、客がドン引き
last updateLast Updated : 2026-09-01
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68.死神を知る男

 蝉の声が遠のき、秋の気配が少しずつ混じり始めた9月の初旬。  日用品の買い出しを終えた理聖と和花は、買い物袋を提げて大型ホームセンターの裏手にある河川敷沿いの道を歩いていた。  風に揺れるススキを眺めながら、二人が他愛のない会話で笑い合っていた――その時だった。「……和花? こんなところで何してんだ」 突如として背後から掛けられた声に、和花は弾かれたように振り返った。「……っ! 蒼士!?」 そこに立っていたのは、和花の幼馴染であり、佐伯古武術道場の門下生筆頭を務める神崎蒼士だった。  だぼっとしたシャツにデニムパンツというラフな出で立ちに、特徴的な眠たげな目。  数ヶ月前に道場へ帰省した際、元夫の浮気話を聞いて激怒してくれた兄貴分だ。  だが、その眠たげな目は和花の隣に立つ男――理聖の顔を捉えた瞬間、獲物を見定めた肉食獣のように鋭く細められ、口角がニヤリと吊り上がった。「なんだぁ? 離婚してすっかり落ち込んでると思いきや、もう新しい彼氏が出来たのか? 和花」 「そ、蒼士には関係ないでしょ……!」 和花は顔を赤くして言い返すと、隣の理聖を見上げて慌てて紹介した。「理聖さん、いきなりすみません。彼は道場の門下生筆頭でもあり、私の幼馴染の……」 「神崎蒼士だ」 和花の言葉を遮り、蒼士が低く名乗る。その視線は理聖から一瞬たりとも外れていない。  理聖は買い物袋を持ち直し、穏やかな、だが決して隙のない表情で一礼した。「初めまして。久世理聖と申します」 「ふーん、理聖さんね。さーて」 蒼士は首をコキリと鳴らし、ゆっくりとした足取りで二人の前へと歩み出た。「和花がまた変な男に騙されてないか、俺がちゃんと確認してやらねぇとな」 「ちょっと、蒼士! 理聖さんに失礼でしょ!」 和花が間に割って入ろうとしたが、蒼士の纏う空気が、ただの幼馴染から異様な殺気へと変貌していくのを肌で感じ取った。「和花は俺の妹みたいなもんだからな……。虫の付かないように、俺がきちんと駆除しておかねぇと――!」 語尾を叩きつけるのと同時に、蒼士は懐からドスを抜き放ち、逆手に構えるや否や目にも留まらぬ速さで理聖の喉元へ斬りかかった。刃が風を裂く鋭い音が響く。  しかし、理聖の反応は蒼士の予想を遥かに超えていた。  瞬時に和花を背後へと庇
last updateLast Updated : 2026-09-02
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69.忘れられた罪

 風を切る鋭い音が、河川敷に連続して響き渡る。  蒼士の振るう白刃は、ただのチンピラが振り回すそれとは次元が違った。  佐伯古武術道場で門下生筆頭にまで登り詰めた確かな体術と、淀みない殺意が完璧に融合している。  対する理聖は、手に拳銃を握りながらも、どうしても引き金を引くことができずにいた。(和花さんの幼馴染に、発砲するわけにはいかない……!) 彼に重傷を負わせるわけにもいかず、銃身でドスを受け流すだけの防戦一方に追い込まれる。「どうした! 随分と動きが鈍いじゃねぇか!」 蒼士の鋭い瞳が、獲物をいたぶる肉食獣のように細められる。  和花もまた、短刀を構えて必死に理聖を庇おうと応戦していた。  だが、理聖を本気で殺そうとする蒼士の猛攻は凄まじく、二人の防御の隙間を縫うようにして、冷たい刃が理聖の左腕を浅く切り裂いた。「くっ……」 鮮血が舞い、理聖のシャツの袖が赤く染まる。「理聖さんっ! やめて蒼士! なんでこんなことするの!」 和花が怒りと悲痛な声を張り上げるが、蒼士の冷酷な笑みは崩れない。「……師匠から話は聞いてるぜ。お前、記憶喪失なんだってな」 「……!」 「過去の罪から逃げて、のうのうと平和な恋人ごっこか。虫酸が走るぜ!」 蒼士の踏み込みが、さらに一段階加速した。  流れるようなフェイントから和花の死角を突き、強烈な蹴りで彼女の手首を跳ね上げる。「あっ……!」 和花の指から短刀が弾き飛ばされ、草むらへと転がっていった。  武器を失い体勢を崩した和花を横目に、蒼士は一気に理聖の懐へと潜り込む。  防御に回っていた理聖の腕を力任せに弾き飛ばし、そのままの勢いで、氷のように冷たいドスの刃を理聖の首筋へとピタリと押し当てた。「終わりだ、死神」 身動きが取れなくなった理聖を見下ろし、蒼士は底知れない憎悪を込めて低く囁いた。「お前は忘れてるんだろうな。……俺の弟の顔も、声も、殺した時のことも全部」 「……弟?」 理聖が眉をひそめる傍らで、その言葉に最も強く反応し、顔から血の気を失ったのは和花だった。(弟って……まさか、紅雅くんのこと!?) 和花の脳裏に、数年前に〝不慮の事故〟で亡くなったと聞かされていた青年の笑顔がフラッシュバックする。「和花……勘のいいお前なら、今どういうことが起きていて、過去にど
last updateLast Updated : 2026-09-02
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70.和花の初恋

 ガタン、ゴトン。  規則的な電車の揺れと、少し汗ばんだ学生服の匂い。 和花は満員電車のドア際に押し付けられながら、背後から忍び寄る見知らぬ男の卑劣な手に、ただ唇を噛み締めて耐えていた。  幼い頃から古武術を叩き込まれた彼女の腕力なら、こんな男の腕など一瞬で捻り上げ、床に沈めることができる。だが、和花はそれをしなかった。「……おい、てめぇ、何してんだ!」 突然、和花の背後で男の腕が乱暴に掴み上げられた。  振り返ると、そこに立っていたのは同じ道場に通う一つ年上の幼馴染――神崎紅雅だった。  彼はそのまま男の腕を捻り上げ、次の駅で呆気なく駅員へと突き出してみせた。「和花なら、あんな奴くらい簡単に捻りあげられるだろ?」 ホームのベンチで、紅雅が呆れたように缶ジュースを差し出してくる。「……隠してんのよ」 「は?」 「私だって普通の女子中学生みたいに過ごしたいの! 家が無駄に大きいせいで変な噂が立ちやすいし、古武術なんてやってるって知られたら怖がられるじゃない。だから、大人しく生きてんのよ!」 和花が顔を真っ赤にして捲し立てると、紅雅は目を丸くした後、「ぷっ」と吹き出して大笑いした。  ひとしきり笑った後、紅雅は和花の頭に大きな手をポンと乗せ、優しく撫でた。「んじゃ、学校の行き帰りは俺が守ってやらねぇとな」 その屈託のない笑顔と優しい声に、和花の胸がトクンと大きく跳ねる。「ど、道場での組手は私の方が強いけどね!」 照れ隠しにそっぽを向いて言い返すと、紅雅は「そうかぁ? 俺と変わんないだろ」と悪戯っぽく笑い返した。  それは、淡くも確かな、和花の初恋の記憶だった。 ――しかし、景色は唐突に、冷たい黒一色へと塗り替えられる。 重苦しいお線香の匂いが立ち込める葬儀場。  喪服に身を包んだ蒼士と、その両親であるおじさんとおばさんが、憔悴しきった顔で立ち尽くしていた。「……不慮の事故だった。即死、だったらしい」 蒼士の悲痛な声が鼓膜を打つ。  信じられない現実に、和花はその場で泣き崩れ、声を枯らして泣き叫んだ。紅雅が死んだなんて嘘だ、と。 だが、絶望はそれだけでは終わらない。  ふいに背後から冷たい足音が響き、喪服の群れの中に一人の男が現れた。  黒縁メガネをかけた、氷のように冷たい瞳の男――理聖だ。  彼は無表情のまま拳
last updateLast Updated : 2026-09-03
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