All Chapters of 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした: Chapter 81 - Chapter 90

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81.愚かなピエロ

 夜の繁華街を見下ろす、古びた雑居ビルの屋上。 ネオンサインが毒々しい極彩色を放つ喧騒から遠く離れ、蘭華はコンクリートの縁へ小柄な身体を預けていた。 高性能の双眼鏡越しに、通りの向こう側をじっと眺める。 視線の先にあるのは、大翔の手によって粛清された元幹部・榊原の派閥が経営していた違法ヘルスだ。「……いたいた。榊原んとこの残りカス」 けばけばしい看板の下、店から出てきたガラの悪い男たちを見つけ、蘭華の赤い唇が楽しげに弧を描く。 暗殺者である彼女にとって、あんな下っ端の命を奪うことなど造作もない。殺すだけなら簡単だ。 けれど今夜、大翔から与えられた仕事は〝殺すこと〟ではない。残党を束ねる黒幕を炙り出すことだ。「さてさて。誰と会うつもりなのかなぁ〜?」 蘭華は雄之助から事前に共有されていた、榊原派の残党リストの画像と照らし合わせる。(あいつは山木と、新田ってやつだわ。どっちも頭を使って組織を動かすようなタイプじゃないわね) そのまま双眼鏡でじっと監視を続けていると、路地裏の暗がりから、ひょっこりと見知らぬ男が姿を現した。「……誰、あれ?」 ピントを合わせる。そこに映ったのは、極道とは似ても似つかない男だった。 根元が黒く伸びきった酷いプリン状態の色褪せたブロンド髪に、だるだるのTシャツ。 安っぽいアクセサリーをじゃらじゃらと鳴らし、ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべている。(売れないバンドとかやってそうな男ね……。チンピラにしても、貧弱そうだけど。まさか、あんなやつが残党を仕切ってんの?) 蘭華は首を傾げながらもスマートフォンを取り出し、その男の顔をズームで隠し撮りした。そして、すぐさま雄之助のメッセージアプリへと画像を送信する。 数秒後。マナーモードにしていた端末が、ブルブルと震えて着信を知らせた。「はいはーい、ゆーのすけ? アタシ、仕事が早いでしょ〜」『……蘭華。そいつ、和花さんの元旦那かもしれない』「は? 元旦那ぁ!?」 予想外すぎる単語に、蘭華は思わず素っ頓狂な声を上げた。 和花の元旦那といえば、借金まみれで浮気性のどうしようもない一般人だと聞いていた。『ああ、間違いない。高橋芽流ってクズ野郎だ』 電話越しの雄之助の声は、地を這うように低く怒りに震えていた。『以前、あいつは和花さんを九条たちへ引き渡して、まとまった大
last updateLast Updated : 2026-09-08
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82.和花に隠された何か

 深夜のネオンサインが瞬く繁華街の片隅。 地下へと続く重厚な扉を開けると、ジャズのレコードが静かに流れるバーが現れる。 そこは、蘭華が表向きに経営し、裏では武器の売買や情報交換が行われる隠れ家だった。「……んー、ちょっとスライドが渋いわね」 カウンターの内側で、蘭華は柔らかい布を使い、商品の自動拳銃を丁寧に磨き上げていた。 オイルの香りが仄かに漂う中、カランと入り口のベルが鳴る。「よぉ、蘭華。遅くなったな」「いらっしゃーい。……って、ゆーのすけ、あんたまた少し痩せた? 梓ちゃんに振り回されてげっそりしてんじゃないのぉ?」「うるせぇよ。俺は至って健康だ」 現れたのは、黒いスーツ姿の雄之助と、彼の腕に嬉しそうに絡みつく梓だった。 さらに数分遅れて、「夜分遅くにすみません」と理聖が和花を伴って姿を現した。「全員揃ったわね。まあ、堅苦しい話の前に一杯どうぞ。アタシの奢りよ」 蘭華は手際よく銃をカウンターの下へ仕舞うと、銀色のシェイカーを華麗に振り始めた。シャカシャカと氷が弾ける心地よい音が店内に響き、やがて人数分のグラスに、夜空のように深いブルーと紫のグラデーションが美しいカクテルが注がれた。「わぁ、綺麗! 蘭華ちゃん、カクテルも作れるのね!」「ふふっ、これでも一応バーテンダーだからねぇ」 全員がグラスを手に取ったところで、蘭華は本題を切り出した。 彼女はスマートフォンをカウンターに滑らせ、和花の前に昨夜撮影した隠し撮りの画像を表示させる。「和花ちゃん。……こいつ、見覚えあるよね?」 画面を覗き込んだ瞬間、和花の顔から血の気が引いた。 色褪せたブロンド髪に、だるだるのTシャツを着たヘラヘラと笑う男。「……芽流くん、ですね……」 和花は眉間に深い皺を寄せ、深く項垂れた。「ほんと、どうしようもないトラブルメーカーな男ね。和花ちゃんの元夫だからあんまり悪く言いたくないけど……」 梓は呆れたように肩をすくめると、この短時間で既に一杯目を飲み干し、蘭華からおかわりを受け取りながら言い放った。「……いいんです。あんな卑劣な人と、どうして結婚なんてしたのか……過去の自分の見る目のなさが、未だに信じられないと思っているので」 和花が自嘲気味に呟くと、理聖が静かに横から口を開いた。「それで、蘭華さん。……その芽流さんが、梓さんを攫おうとし
last updateLast Updated : 2026-09-09
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83.父の正体

 静かなジャズの音色に、グラスの氷が溶ける音が僅かに混じる。 そんな落ち着いた空間の中で、和花は一つ深呼吸をして、静かに口を開いた。「実は……私の実家で営んでいる道場が、どうやら〝不破組〟と裏で関係を持っているようなんです」 その言葉が落ちた瞬間、カウンターの空気がピタリと凍りついた。 カクテルグラスを傾けていた蘭華の動きが止まり、雄之助は目を見開いて息を呑んだ。「……道場、不破組? それって……」 蘭華がグラスを置き、普段の飄々とした態度を消して険しい眼差しを向ける。「……多分、私の両親も、ただの武術家ではなく……不破組の中枢と深い関わりを持っているのだと思います。思い返せば、昔からおかしな点はいくつもありましたから」 和花が両手でグラスを包み込みながら絞り出すように言うと、雄之助はあからさまに額に冷や汗を浮かべた。「も、もしかして……和花さんの実家って?」 雄之助の声は微かに震えていた。その異常なまでの驚愕と緊張を肌で感じ取り、隣に座る理聖の顔つきもスッと強張る。「……佐伯古武術道場、です」 和花が実家の名前を口にした途端、蘭華と雄之助は顔を見合わせ、絶句した。「佐伯って……嘘でしょ」 蘭華の赤い唇が微かに震える。「佐伯源蔵……」 雄之助が、絞り出すように重々しい声で呟いた。「……! どうして、お父さんの名前を?」 和花はハッと顔を上げ、驚きで二人の顔を交互に見つめた。 実家の道場が極道と繋がっていることは確信していたが、ただの構成員である雄之助が、どうして一介の道場主の名を即座に口にできるのか。 その疑問に対し、蘭華と雄之助は視線を逸らし、重苦しい沈黙とともに俯いてしまった。「……和花ちゃんは、本当に何も知らされずに育ったのね」 やがて、蘭華が憐れむような、ひどく切なげな瞳で和花を見つめ返した。「…………えっ?」「……佐伯源蔵は、ただの道場主じゃねぇ」 雄之助がギュッと拳を握り締め、覚悟を決めたように顔を上げた。「佐伯源蔵は……深凪組と敵対する最大の極道組織、〝不破組の組長〟ッス」 その言葉は、爆弾のように小さなバーの中に投下された。「え……?」 和花は両手で口元を覆い、息を呑んだ。頭の中が真っ白になり、心臓だけが耳の奥でやけに大きく脈打っていた。 実家が極道と繋がっているどころの話ではない。自分の
last updateLast Updated : 2026-09-09
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84.勘当の本当の意味

 バーの空気が、シンと冷え切る中、蘭華はため息とともに静かに口を開いた。「……昔、この辺のシマ争いをしていたのは、ウチら深凪組と不破組……あと、〝荒崎組〟ってとこもあったのよ」 「あった……ということは、今はもう存在しないのですか?」 理聖が静かに問い返すと、雄之助が苦い顔をして首を縦に振った。「はい。数年前、ウチの組がでかい喧嘩を仕掛けて、荒崎組を完全に壊滅させたんッスよ」 「壊滅……って」 梓がその物騒すぎる単語に息を呑んで身をすくめる。「錦戸の指示でね。……ほぼ、理聖ひとりで沈めたわ」 「……!」 和花と理聖は同時に目を見開いた。  記憶喪失の理聖にとっては全く身に覚えのない話だが、彼がかつて深凪組の狂犬としてどれほど恐れられていたかを物語るには十分すぎる事実だった。「その勢いのまま、ウチは不破組にも喧嘩を吹っ掛けたんッス」 雄之助が重々しい口調で続ける。「だが、不破組の本家へカチ込んだ時……組長が、佐伯と直接やり合って、右目を斬り裂かれる重傷を負ってしまって。その時、若頭が不破組の若い衆を何人か殺ったんですが……結局、トップの負傷で手打ちになり、抗争は五分五分の痛み分けで終わったんッス」(……っ!) その瞬間、和花の脳裏に鮮烈なフラッシュバックが走った。  眼帯で隠された、錦戸大翔の右目。  それは、父・源蔵の刀によってつけられた傷だったのだ。  そして、雄之助が放った「若頭が不破組の若い衆を殺った」という言葉。(もしかして……その時に、紅雅が……?) 和花の初恋の相手であり、蒼士の弟であった紅雅。  彼の命を奪ったのは、荒崎組を壊滅させた直後の、血に飢えた狂犬時代の理聖だったのだ。  すべての過去が一本の残酷な線で繋がり、和花は眩暈すら覚えた。「荒崎組の残党が、行き場をなくして不破組と結託してるって噂は、裏社会じゃ前々からあるんッスよ」 雄之助がグラスを見つめたまま呟く。「組織を潰された荒崎組の連中は、実行犯である若頭に強い恨みを持ってるはずッス。記憶がないとはいえ、理聖さんの命を狙う連中が不破組の内部にも入り込んでいる可能性は高い」 「……アタシの諜報網でも、不破組のトップである佐伯に子供がいるなんて情報は、一切入っていなかったわ」 蘭華は目を細め、和花を憐れむように見
last updateLast Updated : 2026-09-10
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85.四面楚歌の恋

 両手で顔を覆い、泣いていた和花だったが、ふいにその肩がビクリと大きく跳ねた。 何かに気づいたようにハッと顔を上げると、みるみるうちに血の気が引いていき、青ざめた唇が微かに震え始める。「……待ってください。私……不破組のトップの娘だったということは……」 和花は縋るような瞳で、蘭華と雄之助、そして理聖の顔を順番に見つめた。「深凪組の皆さんとは……〝敵〟になってしまう、ということでしょうか……?」 もし組織同士の因縁に縛られるのであれば、和花は彼らにとって忌むべき敵の娘ということになる。 その事実に怯える和花に、隣に座っていた梓がすかさず身を乗り出し、和花の背中を優しく擦った。「ちょっと和花ちゃん、そんな悲しいこと言わないで! ここにいる全員は、和花ちゃんが何も知らずに真っ当に育ってきた事情を知ってるわけだし。誰も和花ちゃんのこと、敵だなんて思わないわよ」「梓さんの言う通りです」 理聖もまた、和花の冷え切った手を自身の大きな両手で優しく包み込んだ。「あなたが誰の娘であろうと、僕にとって一番大切な人であることに変わりはありません。和花さんが敵だなどと、微塵も思ったことはありませんから……安心してください」 理聖の温かい体温と声に、和花はようやく強張っていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。 だが、安堵に包まれる和花とは対照的に、腕を組んだ雄之助の顔にはひどく険しい影が落ちていた。「だけどよ……状況は最悪ッスね。荒崎組の残党と、不破組の人間。それと和花さんの元旦那が裏で結託して、何か厄介な罠を仕掛けてくる可能性は極めて高い」 ただでさえ恨みを持つ残党どもに、裏社会の金の味を占めた芽流という小悪党がブローカーとして絡んでいる。どこからどんな手を使って襲ってくるか、まったく予測がつかない。「その上、錦戸まで佐伯への人質として、和花ちゃんを使おうと考えてるんでしょ?」 蘭華が冷ややかな声で付け加えた。「理聖がいつもそばについてるから、ある程度は安心ではあるけど……相手はあの錦戸大翔よ。一筋縄じゃいかないわ」 そう言いながら、蘭華はカウンターに置いた空のカクテルグラスを横へ押しやり、手入れの途中だった拳銃を再び手に取った。 蘭華はスライドを引きながら、射抜くような鋭い視線を理聖へと向けた。「ねえ、理聖。あんた……こんな四面楚歌の状況で、
last updateLast Updated : 2026-09-10
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86.錦戸の犬になりたい

 数日後。  深凪組本家事務所、最奥に位置する組長室。  静寂に包まれたその空間で、蘭華は革張りのソファに深く腰掛ける大翔に対し、軽い口調で報告を行っていた。「榊原派の残党、何人か動いてたよ。山木と新田って下っ端。でも、どうも単独で好き勝手やってるって感じじゃないわね」 「……そうか。やはり、誰かが後ろにいるのかな?」 大翔は紫煙を細く吐き出しながら、眼帯から覗く左目を静かに細めた。「たぶんね。ただ、表に出てきた奴がそのまま本命の黒幕とは限らないし。もうちょっと泳がせて、尻尾を掴みたいかなぁ」 「そうだな。焦る必要はない」 余裕を含んだ相槌に、蘭華はさらに言葉を続ける。「あと、外部のカタギっぽい男が残党と接触してた。そいつについては、今徹底的に調べてるところ」 「……その男の名前は?」 「まだ確証ないから、裏が取れてからきっちり報告するよ。錦戸、不確かな情報での早とちり、嫌いでしょ?」 外部の男が和花の元夫・芽流であることは、すでに確認が取れている。  それでも、蘭華はあえて大翔にその名前を伏せた。  ここで芽流と和花の繋がりまで明かせば、大翔がその情報をどう利用するか分からない。(……錦戸には悪いけど、和花ちゃん絡みは、ちょーっと慎重にいかせてもらおっかな) 今はまだ大翔にすべてを明かすべきではない――蘭華はそう判断していた。  大翔は蘭華の顔をじっと見つめたあと、ふっと目元を緩めた。「そうだな。曖昧な話を聞かされても仕方がない。蘭華がそう判断したのなら、任せる。ただ……無茶はしないようにな」 「りょーかい。……って、あれ? 錦戸、もしかしてアタシの心配してくれてんの?」 蘭華はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべ、テーブル越しに身を乗り出した。「仕事を頼んだ有能な駒に、怪我をされては困るだろう」 「なぁんだ、やっぱりただの仕事の心配かぁ」 露骨に肩を落とし、あからさまに唇を尖らせた蘭華を見て、大翔はわずかに左目を細め、艶のある低い声で告げた。「……それだけだと、思うのか?」 「…………えっ」 一瞬、蘭華の思考が完全にフリーズした。「ちょ、ちょっと待って錦戸。今の、どういう意味!?」 「さあな」 「さあな、じゃないんだけど!?」 混乱して声を張り上げる蘭華に対し、大翔は答えず、どこか楽しそうな様子で湯呑みへ口
last updateLast Updated : 2026-09-11
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87.選ばなくていい

 カレンダーが11月へとめくり上げられ、街を吹き抜ける風に本格的な冬の寒さが混じり始めた頃。 衝撃的な真実を知ってからというもの、和花の元気はあからさまに失われていた。  以前のように休日にショッピングモールへ出かけても、どこか上の空で心ここにあらず。  フルリールでの仕事中も、客が途切れるとふとした瞬間に深い溜め息をこぼし、暗く沈んだ瞳で宙を見つめていることが多くなった。 そんな和花を励まそうと、理聖は献身的に寄り添い続けた。  休みの前夜には、和花のお気に入りだったコメディ映画のDVDを借りてきて一緒にソファで鑑賞した。  だが、スクリーンの中でコミカルなキャラクターがドタバタと騒いでも、和花の口角が上がることはなく、ただ虚ろな目で画面を追っているだけだった。 またある日は、和花の大好物であるチョコレートパフェを、理聖自らの手で一から手作りしてみせた。  グラスの底に自家製のベリーソースを敷き詰め、滑らかなチョコアイスとサクサクのコーンフレーク、美しく絞った生クリームで飾った力作だ。「和花さん、甘いものでも食べて少し休憩しませんか?」 「……ありがとうございます、理聖さん」 和花はスプーンを受け取り、口へ運んではくれるものの、その表情は硬く強張ったままで、いつものような「美味しい!」という弾けるような笑顔は見られなかった。 和花がここまで思い詰めるのも、無理はない。  自身の親が、裏社会を牛耳る極道のトップであったこと。  あまつさえ、愛する恋人が所属する組織と抗争を繰り広げていた敵対組織であったこと。  いくら記憶喪失とはいえ、理聖は深凪組の若頭。そして自分は、不破組の組長の一人娘。  絶対に交わってはいけない二人が、奇跡のように出会い、愛し合ってしまった。(もし……お父さんたちのいる不破組と、理聖さんがいる深凪組が、また本気で戦うことになったら……?) 夜な夜な、その最悪の想像が頭をよぎるたびに、和花は心臓を鷲掴みにされたように胸が苦しくなった。  父と恋人が殺し合う。どちらかが命を落とすかもしれないという絶望。  自分が二人の間に挟まれ、どちらかを選ばなければならない日が来るのではないかという恐怖。  その重圧が、和花から笑顔を奪い、心を深く削り取っていた。 その日の夜。和花はひどい頭痛と倦怠感を覚え、夕食もそ
last updateLast Updated : 2026-09-11
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88.聞こえなかった取り引き

 夜の帳が下り、毒々しいネオンが瞬く繁華街の裏通り。  榊原派の残党が経営する違法ヘルスからほど近い、取り壊し予定の廃ビルの一室。  蘭華はそこを不法占拠し、自らの監視用プライベート空間へと変貌させていた。 コンクリートむき出しの床に、どこかから拾ってきた真っ赤なフェイクレザーの安っぽいソファと、小さなガラステーブル。  その上に置かれたスピーカーからは、芽流たちの拠点に仕掛けた盗聴器からの音声が、深夜のラジオ番組のようにジリジリと流れている。 蘭華はソファに深く腰掛け、ボルドー産の重い赤ワインを傾けながら、手元にある商品である最新型の拳銃を滑らかな布で丁寧に磨き上げていた。  それが、ここ数日の彼女の日課だった。「……あーあ。今日もつまんないわねぇ」 蘭華は艶やかな唇を尖らせ、深い溜め息をこぼした。  盗聴器から聞こえてくるのは、芽流の底の浅い小物じみた発言ばかりだった。『おい、もっとマシな女はいねぇのか? これじゃ高く売れねぇぞ! 借金で首が回らない女なら、いくらでもいるだろ。とっとと連れてこい!』 残党どもをアゴで使い、ヘラヘラと下品な笑い声を上げながら、女を金に換える算段ばかりしている。  最初は極道気取りのカタギの滑稽さを楽しんでいた蘭華だったが、それも数週間後には完全に飽きていた。(錦戸は泳がせろって言ったけどさぁ……そろそろ、不破組の連中とか、もっとヒリヒリするような大物が遊びに来てくれないと、退屈で死んじゃうわ〜) 蘭華がこの退屈な監視を続けている本当の目的は、芽流の悪事の証拠を掴むことだけではない。  芽流の背後で糸を引いている真の黒幕、あるいは不破組側から和花を人質として狙っている危険人物が、芽流と接触してくる瞬間を虎視眈々と睨んでいるのだ。  だが、今のところ芽流はただの女の売買ブローカーとして、小銭を稼いで悦に浸っているだけにすぎなかった。「……っと。そろそろ時間ね」 蘭華はグラスを置き、首から下げていた高性能の双眼鏡を目に当てた。  窓枠の隙間から、通りを挟んで斜め向かいにある芽流の拠点――薄暗い雑居ビルの裏口を監視する。  今日も残党のチンピラが出入りするだけかと思われたその時、ふいに路地裏の暗がりから、ひっそりと歩み出てくる人影があった。「……ん?」 蘭華は双眼鏡のピントを微調整した。  
last updateLast Updated : 2026-09-12
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89.獲物はどっち?

 深夜の繁華街。  ネオンが冷たいアスファルトを毒々しく照らしている。 蘭華は、胸元が大きく開いたタイトなミニドレスに身を包み、ピンヒールを鳴らしながら、あえて隙だらけの足取りで路地裏をうろついていた。  標的はただ一人。和花の元夫であり、榊原派の残党を焚きつけているブローカー――芽流だ。  女の売買で小銭を稼いでいる彼なら、極上の〝商品〟を見逃すはずがない。  客待ちのフリをして街灯の下に立っていると、数分もしないうちに、色褪せたブロンド髪の男がヘラヘラとした薄ら笑いを浮かべて近づいてきた。「ねえねえ、そこの綺麗なお姉さん。今、暇してる?」 (……かかるの早っ) 内心で呆れながらも、蘭華はトロンとした瞳を作り、少しだけ首を傾げてみせた。「えー? うん、まあ……ちょっと待ち合わせドタキャンされちゃってぇ」 「マジで!? もったいねぇな! こんなイイ女放っておくなんて信じられねぇよ」 芽流はこれ見よがしにブランド物の腕時計をチラつかせ、距離を詰めてくる。「姉ちゃん、ウチの店で働かねぇ? すっげぇ条件良くて、結構稼げるぜ?」 「えー? お店ってなぁに? アタシ、そういうのよく分かんなぁい」 蘭華がわざとらしく胸元を寄せて甘えると、芽流の目がギラリと欲望に濁った。「大丈夫、大丈夫! ちゃんと丁寧な研修もあるからさ。ちょっとウチの店で、話を聞くだけ聞いてみない?」 「うーん……じゃあ、聞くだけだよ〜?」 「もちろん! すぐそこだからさ、案内するよ!」(潜入成功。……ちょろすぎ〜) 蘭華は、しっぽを振る犬のように前を歩く芽流の背中を見ながら、赤い唇の端を吊り上げた。  案内されたのは、先ほどまで監視していた廃ビルの裏口から繋がる、違法ヘルスの店舗部分だった。  けばけばしい紫色の壁紙と、安っぽい芳香剤の匂いが充満する悪趣味な店内。  蘭華が芽流の後ろをついて歩いていると、すれ違った黒服の男二人が、ヒソヒソと交わしている会話が鋭い聴覚に飛び込んできた。「なぁ、さっきのフードの客、芽流の野郎に相当な額を払ったらしいぜ」 「マジか。……あいつ、理聖の昔の仕事ばっか聞いてたよな」 「ああ。深凪組が荒崎組を潰した時のことも、根掘り葉掘り聞いてた」 「もしかして、不破組の人間じゃねぇのか?」 「いや、あんな奴見たことねぇよ。……理聖
last updateLast Updated : 2026-09-12
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90.口は堅くないとね

 薄暗い部屋の中。  馬乗りになった男の顔を見上げ、蘭華はクスクスと喉の奥で笑い声を漏らした。「……高橋芽流くん」 唐突にフルネームを呼ばれ、芽流の手がピタリと止まる。「!? なんで、俺の名前を――」 その言葉の続きが紡がれることはなかった。  蘭華は流れるような美しい所作で、タイトドレスの深いスリットから覗く太腿のホルスターへと手を伸ばした。  冷たい金属の感触を引き抜き、親指でカチリとセーフティを解除する。  そして、芽流の額の中心へ容赦なく銃口を押し付けた。「ひぃっ……!」 額に伝わる銃身の感触に、芽流の喉から情けない短い悲鳴が漏れる。「ねえ。さっきあんたがお話してた、フードの男……あれ、何者?」 蘭華はベッドに横たわったまま、まるで世間話でもするような軽やかなトーンで尋ねた。「……お、おい。お前、ただの夜の女じゃねぇな……?」 芽流の顔から血の気が引き、額から脂汗が吹き出す。「質問に答えなよ」 声の温度が、一気に絶対零度まで下がった。「……っ、きゃ、客のことは話せねぇ! 俺だって、裏社会の掟くらい――」 強がろうとした芽流の言葉を遮るように、蘭華の細い指が引き金にジワリとかけられる。「アタシさぁ、気がそんなに長くないのよ」 カチッ。  引き金に、さらに一段階の力が加わる音が、静まり返った部屋に響き渡った。「っ! ちょ、ちょっと待て……待ってくれ!」 「……待てないわぁ」 蘭華は額に銃口を突きつけたまま、上体を起こして芽流の顔へと顔を近づけた。  甘い香水の匂いとは裏腹に、彼女の瞳には、一瞬で命を刈り取る本物の殺気が渦巻いている。「早く吐きなよ。……次、黙ったら脳みそぶちまけるから」 本気で引き金を引かれる。そう本能で悟った芽流は、ガチガチと歯の根を鳴らしながら慌てて口を割った。「さ、佐竹だ! 偽名だろうが、佐竹って名乗る男だ!」 「ふーん。で? その佐竹は何を探りに来たの?」 「わ、和花の男……久世理聖の過去について、やたらと聞いてきたんだよ!」 芽流は震える声で、先ほど仕入れたばかりの情報を垂れ流した。「……へぇ。あんた、理聖のことそんなに詳しいの?」 「そりゃ……元妻の男だからな。ムカつくから徹底的に調べたさ。……まさか、あんなのが〝殺人鬼〟だとは思っていなかったけどな」 
last updateLast Updated : 2026-09-13
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