All Chapters of 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話:どうしてここに、白を入れたの?

ジャンの前へラテを置くと、彼はカップの表面を一度見たあと、エマへ視線を上げた。「どうしてノンファットミルクなの?」会話は、変わらずフランス語だった。エマはトレーを持ったまま、わずかに眉を寄せる。「健康を気にしていらっしゃるような気がしたので。なんとなくです」「僕が?」「違いましたか」「いや。最近は少し気をつけているよ」ジャンはカップを持ち上げ、香りを確かめるように顔へ近づけた。「昔より、移動が身体に残るようになったからね」「そうですか」エマは短く答えた。興味がないと思われても構わない。三十分。それだけやり過ごせば、ジャンはこの町を離れる。昨日よりも自然に。朝倉エマとして接客をする。余計なことは話さない。自分から質問もしない。そう決めていた。けれど、ジャンはラテへ口をつける前に、エマの顔をじっと見た。「面倒だと思っている?」「何をですか」「僕の相手をすること」「お客様へ、そのようなことは思いません」答えると、ジャンの口元が楽しそうに緩んだ。「君のつまらなそうな顔は、分かりやすくて可愛いね」エマの指が、トレーの縁で止まった。懐かしい。そう思ってしまった。エレナが興味のない会食へ連れていかれた時。長い挨拶や、作品を理解しているふりをする人間の話に飽きて、黙ってグラスの氷を見ていた。そんな時、ジャンはよく笑った。『エレナ、顔に出ているよ』『出してるの』『そういう顔も可愛いけどね』エレナは嫌そうに睨み。ジャンは、さらに面白そうに笑った。八年前の記憶が、昨日のことのように戻る。エマはすぐに感情を閉じた。「そう見えたのであれば、申し訳ありません」「謝る必要はないよ。むしろ安心した」「何にですか」「昨日より、君が少し分かりやすくなったことに」ジャンは当たり前のように答え、ようやくラテへ口をつけた。エマはそれ以上付き合わず、小さく頭を下げる。「ごゆっくりどうぞ」テーブルを離れようとした時だった。ジャンの視線が、店先の黒板へ向いた。月替わりのメニュー。子ども向けアート教室の日程。その周囲に、白と青のチョークで描いた小さな海と、灯台。昨夜、閉店後に少しだけ描き直したものだった。「待って」背中へ声がかかる。エマは足を止めた。振り返ると、ジャンは黒板を見たまま椅子から立ち上がって
last updateLast Updated : 2026-08-14
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第52話:またね、エマ

趣味で店の案内を描いているだけの人間が、あまりにも自然に画面の構造を説明してしまった。ジャンは何も言わなかった。褒めない。問いを重ねない。ただ。エマのばつの悪い表情と、白い線を交互に見ている。その沈黙の方が落ち着かなかった。「……感覚です」遅れて付け足す。「深い意味はありません」ジャンの口元が僅かに動いた。けれど、何も言わなかった。その時。彼のスマートフォンが震えた。画面を確認すると、ジャンは小さく息を吐く。「もう時間みたいだ」空港からの連絡だろう。エマは、胸の奥で安堵した。ようやく帰る。これ以上、黒板を見られずに済む。これ以上、自分の言葉を拾われずに済む。「お気をつけて」そう伝え、今度こそ店内へ戻ろうとした。だが。袖口へ、軽い感触があった。ジャンの指が、エマのシャツの袖を摘まんでいた。強く掴んでいるわけではない。振り払おうと思えば、すぐに外せる程度の力。それでも。足を止めさせるには十分だった。ジャンは片手で電話へ出る。流暢な英語で、出発時刻と空港までの移動について確認している。その間も。エマの袖から、指を離さない。昔から、こういう人だった。待ってと言ってもエレナが聞かなければ、服の裾や袖を軽く掴んだ。身体へ触れすぎず。それでも相手が立ち去れない場所だけを、正確に選ぶ。エマは、袖口へ視線を落とした。懐かしいと感じてはいけない。今の自分とジャンの間には、そんな距離はない。「離していただけますか」小さく告げる。ジャンは電話の相手へ返事をしながら、エマを見た。悪びれた様子もなく。もう少しだけ、と目で伝える。胸がざらついた。会話はすぐに終わった。ジャンは電話を切ると、ようやく袖から指を離した。「ごめん。行かれると困ると思って」「私へ、まだ何か?」「これを」内ポケットから、白いカードを一枚取り出す。上質な紙。ジャン・モローの名。モロー財団の役職と、個人の連絡先。エマは受け取らずに見つめた。「必要ありません」「今はね」ジャンは、トレーを持つエマの指の間へカードを差し込んだ。「でも、必要になるかもしれない」「ならないと思います」「それも、今決めなくていいよ」また。こちらの判断を簡単には受け入れない。玲と似た言葉。けれど、玲とは違う温度。玲はエマの
last updateLast Updated : 2026-08-14
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第53話:連絡体制について

*** ジャンから送られてきた写真を閉じたあとも、玲はしばらくスマートフォンを手にしたまま動かなかった。白いカップ。ラテの表面に浮かぶ葉。その向こうに見える、あの海。エマの姿は写っていない。それでも、写真を撮ったジャンの向かいに彼女がいたのだろうと考えると、胸の奥が静かにざらついた。『彼女が参加する子どもたちの企画について、もう少し詳しく教えてくれない?』その一文も、画面を閉じたあとまで残っている。ジャンが興味を持っているのは、エレナに似た女という一点だけではなくなっている。朝倉エマが何を考え、何を描き、どういう企画を作ろうとしているのか。そこへまで視線を向け始めている。それが、どうにも面白くなかった。「神崎さん」加瀬の声に、玲は顔を上げた。会場となっている建物の前には、すでに車が待っている。「このまま駅へ向かえば、東京での次の会議には予定どおり間に合います」「そうですね」玲はスマートフォンをポケットへ戻した。そのまま車へ向かう。数歩。歩いたところで、足が止まった。加瀬も止まる。「……十分ほど、時間をください」「はい?」珍しく、加瀬が聞き返した。玲は腕時計を見る。「十分です」「何か現地で確認事項が残っていましたか」「一つだけ」「主催者側の担当者でしたら、先ほど——」「カフェへ行きます」加瀬の表情が、ほんの少しだけ止まった。仕事中に感情を顔へ出す人間ではない。それでも、長く玲のそばにいるからこそ、完全には隠せなかったらしい。「……朝倉さんのところへ、ですか」「はい」「何か、急ぎのご用件が?」玲は一瞬、黙った。ある。そう言おうと思えば、理由はいくらでも作れる。実際、地域企画の制作は始まっている。スポンサーとして確認事項が発生する可能性もある。だから。「連絡体制についてです」と答えた。加瀬は玲を見た。一秒。二秒。何も言わない。その沈黙が、玲には少しだけ居心地が悪かった。「何ですか」「いえ」「何か言いたそうですが」「申し上げてよろしいのであれば」加瀬は慎重に言葉を選んだ。「神崎さんが、現場協力者の連絡体制をご自身で確認されることは、これまでほとんどなかったと思いまして」玲は視線を逸らさなかった。正しい。通常であれば、財団担当者がやる。玲本人が地方のカフェ
last updateLast Updated : 2026-08-14
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第54話:電話番号でなくても構いません

少し考える。「電話番号でなくても構いません」玲は先に付け加えた。「仕事用のメールでも。エマさんが負担に感じない方法で結構です」その時。カウンターの向こうで、千早さんの手がほんの僅かに止まった。玲には分かった。聞いている。そして。玲がどこまで仕事のために話しているのかを、測られている。以前なら。他人からどう見られているかなど気にもならなかった。今は。千早さんにどう見られているかすら、少し気になっている自分がいる。「本当に、緊急時だけですか」エマが尋ねる。声音は穏やかだった。けれど。それ以外には使わないでほしい。その線引きは明確だった。「はい」玲は答えた。少なくとも、今は。理由もなく連絡すれば。エマはすぐに距離を取る。それくらいは分かっている。「……分かりました」エマはカウンターへ戻り、小さなメモ用紙を取った。その様子を待ちながら。玲は、妙に落ち着かない自分へ気づいた。たかが、メールアドレスだった。財団担当者へ聞けば、共有されている可能性すらある。それなのに。エマ自身から渡されることを。玲は待っている。ペン先が止まる。エマが戻ってきた。「こちらです」差し出された紙。短い仕事用のアドレス。指が触れることはなかった。「ありがとうございます」玲は紙を受け取った。それだけで、胸の奥が静かになる。そこへ。「神崎さん」入口付近から加瀬の声がした。「そろそろお時間です」エマが、そちらを見る。加瀬の顔には、いつもと変わらない職業的な表情がある。けれど。玲には分かった。珍しいものを見るような目をしている。地方のカフェへ予定をずらして立ち寄り。現場の一スタッフから。自分で連絡先を受け取っている玲。加瀬が驚かない方がおかしかった。「今行きます」玲は答えた。それから、一度迷って。名刺入れを取り出す。「こちらも」差し出したのは、通常の財団用名刺ではなかった。玲本人へ直接届くメールアドレスが入ったもの。限られた相手にしか渡さない。エマが名刺を見て。少しだけ眉を上げた。「神崎さんご本人へ、ですか」「僕が確認した方が早い内容もあると思いますので」また。仕事を理由にした。今度は、自分でもはっきり分かった。エマは数秒だけ迷い。「承知しました」と受け取った。
last updateLast Updated : 2026-08-14
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第55話:難しいですか

***それから。東京へ戻る新幹線の中でも、玲はほとんど仕事をしていた。未読の資料を確認し、海外チームから届いたメールへ返信する。午前中の会議で保留になった案件には指示を出し、来週のスケジュールを組み直す。普段と変わらない。少なくとも、隣に座る加瀬から見れば、そう見えるはずだった。ただ。一つだけ違うことがあった。玲は、何度もスマートフォンの連絡先を開いていた。朝倉エマ。夕方、本人から受け取ったメールアドレス。仕事用。緊急時の連絡のため。それ以上の意味はない。分かっている。それなのに。画面に名前が存在することを、何度も確かめてしまう。今までは、会いたいと思っても港町へ行かなければならなかった。カフェへ行き。彼女が働いている時間でなければ、会えない。けれど今は。文章を打てば、届く。たったそれだけのことが。玲には、思っていた以上に大きかった。「神崎さん」隣から声がして、玲は画面を伏せた。「何ですか」「来週の港町ですが」加瀬がタブレットをこちらへ向ける。「現状、火曜日から木曜日まで海外との会議が続いています。金曜日であれば、午後に移動できる可能性があります」玲は表示された予定を見る。「午前には行けませんか」加瀬が黙った。その沈黙に、玲は顔を上げる。「難しいですか」「難しいというより」加瀬は珍しく、言葉を選んでいた。「神崎さんがそこまで港町での滞在時間を確保される必要があるのかと」玲は答えなかった。加瀬は続ける。「財団としての協賛は決まっています。現地担当者もおりますし、神崎さんご自身が毎週確認されなくても、進行上の問題はありません」正論だった。「それでも、行きます」「……承知しました」加瀬が予定表へ視線を戻す。けれど。数秒後。「朝倉さんの企画をご覧になるためですか」玲の指が止まった。「そうですが」答えると、加瀬が僅かに息を吐いた。「いえ」「何ですか」「以前の神崎さんであれば、『現地確認のためです』とお答えになったと思いまして」玲は何も返せなかった。確かに。少し前までなら、そう答えていた。***自宅へ着いたのは、夜遅くだった。シャワーを浴び。書斎へ入る。いつもなら、そのまま仕事を続ける。けれど今日は、椅子へ座って最初に開いたのが仕事のメールではなかった
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第56話:完璧に仕事だった

『神崎様本日はお忙しいところ、わざわざお立ち寄りいただきありがとうございました。先ほど事務局より、今後の制作スケジュールについて共有をいただきました。現場で確認が必要な事項が発生した場合には、こちらからご連絡いたします。引き続き、よろしくお願いいたします。朝倉エマ』短い。完璧に仕事だった。余計な一文もない。自分から会話を続ける余地さえ残していない。それなのに。玲は、しばらく画面から目を離せなかった。自分の名前を。彼女が入力した。自分へ送るために。たったそれだけのことへ、胸の奥が熱を持つ。おかしい。分かっている。これまで何千通、何万通とメールを受け取ってきた。世界中の経営者。政治家。投資家。アーティスト。会いたいと連絡してくる人間など、いくらでもいる。それなのに。朝倉エマから届いた数行を。玲は、もう三度読み返していた。画面の下に返信欄がある。今度は。理由がある。返信できる。『こちらこそ、ありがとうございました。』打つ。『何かあれば、いつでもご連絡ください。』そこまで入力して。玲の指が止まった。いつでも。仕事の意味では自然だ。けれど。自分が書くと。それ以上の意味に見える。少し考え。そのまま送った。送信済みの表示が出る。それだけで。妙に落ち着かない。既読という機能はない。返事が来る必要もない。仕事の挨拶なのだから。それなのに玲は。数分後、また画面を見た。何も来ていない。当然だった。自分から会話を終わらせる文章を送っている。それでも。何か一言。返ってこないだろうかと思っている。そんな自分に気づいて。玲は静かに目を閉じた。重症だ。***翌朝。加瀬が玲の執務室へ入った時。玲はすでに仕事を始めていた。「おはようございます」「おはようございます」いつもの声。いつもの表情。デスクには資料が並び、昨日までと何も変わらない。加瀬は予定を読み上げ始めた。「十時から投資委員会、十一時半からシンガポール——」玲のスマートフォンが震えた。その瞬間。加瀬は言葉を止めた。玲が、話の途中で画面を確認したからだった。普段なら。加瀬が予定を読み上げている最中に、通知へ視線を落とすことなどほとんどない。玲自身も。画面を見てから気づいた。違う。エマで
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第57話:そう思ってたのに

***玲が店を出る間際のことだった。エマは、彼が差し出した名刺を見て、一度だけ手を止めていた。「こちらは、結構です」仕事用のメールアドレスはすでに渡した。神崎財団への連絡も、必要であれば事務局を通せる。これ以上、個人的な接点を増やす理由はない。そう思って断ろうとした。けれど玲は、名刺を引かなかった。「捨てていただいても構いません」穏やかな声だった。「必要になった時だけ、使ってください」その言い方が、妙に玲らしく感じた。強く押しつけるわけではない。けれど、受け取るところまでは譲らない。エマは少し迷ったあと、名刺を受け取った。「……分かりました」白いカードには、神崎玲の名前と、本人へ直接届くメールアドレスが記されていた。普段使っているものなのか。限られた相手にしか渡さないものなのか。エマには分からない。ただ。八年前には必要のなかったものが、今は自分の手の中にある。それだけが、ひどく不思議だった。「では、失礼します」玲が頭を下げる。「お気をつけて」店の扉が閉まり、ベルの音が小さく消えた。エマは手元の名刺を見つめた。捨ててもいい。そう言われた。けれど。すぐに捨てることはできなかった。***その夜。仕事を終え、自宅へ戻ってからも。名刺はバッグの内ポケットに入ったままだった。シャワーを浴び。簡単な食事を済ませ。テーブルへスマートフォンを置く。何となくバッグを開くと、白いカードが目に入った。神崎玲。八年間。その名前を、自分から探さないようにしてきた。SNSも見ない。ニュースも追わない。玲がどこにいるのか。どんな仕事をしているのか。誰と付き合っているのか。知ろうとしなかった。知れば、気持ちが戻ると思っていた時期もある。けれど。時間が経つにつれ。それは少しずつ違うものになった。戻りたいという気持ち自体が、遠くなっていった。逃亡生活の中で。誰かを愛するという感覚も。誰かと未来を考えることも。一つずつ、自分には必要のないものとして置いてきた。だから。今、玲の名刺を見ても。昔の恋人へ連絡するという感覚ではなかった。むしろ。そのことが少しだけ寂しかった。八年前なら。この名前を見ただけで胸が苦しくなった。声が聞きたくて。触れたくて。今すぐ会いたくて。どうし
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第58話:遠くに置いてきたもの

***翌日のカフェは、昼前から賑わっていた。観光客の女性たち。近所の常連客。海沿いを散歩していたらしい夫婦。カウンターの奥では、奏がコーヒーを淹れている。相変わらず目立つ。背が高く。整った顔立ちで。本人が意識していないのに、女性客の視線が自然に集まる。「店長さん、今日もいます?」若い女性客がスタッフへ尋ねる。その声を聞いた奏が、少し困ったように笑った。「普通にいますよ」「写真お願いしてもいいですか?」「ほかのお客様が写らなければ」「やった」女性たちが楽しそうに笑う。エマは少し離れた場所で、トレーへカップを並べながらその様子を見ていた。奏がモテることは、今さら珍しくない。町でも。観光客にも。本人が望めば、誰かと付き合うことだって簡単だろう。昼を過ぎた頃。アルバイトの女の子が、バックヤードから戻ってきた奏へ声をかけた。「店長、今日このあと予定あるんですか?」「どうして?」「さっき時計見てたから」「それだけ?」「デートですか?」店内のスタッフが笑う。エマもつられて、小さく笑った。「奏さんなら、ありそうですね」何気なく言った。本当に。それだけのつもりだった。けれど。奏の視線が、一瞬だけエマへ向いた。笑っている。なのに。その目の奥に、ほんの少し寂しそうな色が浮かんだ。エマの胸が、僅かに止まる。「残念。仕入れ」奏はすぐにいつもの顔へ戻った。「市場の人と話すだけ」「なんだ」アルバイトの女の子が笑う。「店長、もったいないですよ」「何が」「絶対モテるのに」「仕事してください」奏が苦笑し、話はそこで終わった。けれど。エマの中には、さっきの視線だけが残った。知っている。奏が自分へ向けているものに。たぶん。ずっと前から。それでも。気づかないふりを続けてきた。気づけば。何かを返さなければならなくなる気がしたから。エマには。それができない。***午後。休憩に入り、エマはテラス席へ出た。海はよく晴れている。青の中に。薄い銀色が混じっていた。恋愛。その言葉は、自分からひどく遠い。逃亡生活は、まだ終わっていない。事件も。犯罪組織も。最後の一枚も。何一つ解決していない。いつまた居場所を変えることになるかも分からない。そんな自分が。誰かを好きにな
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第59話:疲れてます?

それから数日。玲から連絡が来ることはなかった。エマも、送らなかった。仕事用のメールには、事務局から制作スケジュールや備品についての連絡が届く。神崎財団からも、担当者名義で確認事項がいくつか来た。けれど。玲本人からは、何もない。それでいい。むしろ、それが正しい。エマはそう思っていた。『何かあれば、いつでもご連絡ください』あの一文も。仕事上の挨拶だった。自分が少し意識しすぎただけ。数日も経てば、港町の日常は元の形へ戻っていった。朝はカフェへ行き。昼には観光客が増え。夕方になれば、窓から差し込む光が店内を橙色に染める。フェスティバルの準備も少しずつ進んでいた。黒板の前に立つ時間が増えた。子どもたちが実際に描く位置を確認し、使うチョークの種類を選び、当日の動線を担当者と調整する。その日も。エマはカフェの奥のテーブルに資料を広げていた。「朝倉さん」フェスティバルの担当者が、印刷した図面を指差す。「ここなんですが、スポンサー側から確認が来てまして」エマは顔を上げた。「どちらでしょうか」「当日の雨天対応です。多少の雨なら実施するのか、完全に中止なのか」「ああ」エマは資料へ視線を落とした。チョークアート。雨が降れば消える。だからこそ、自分は描けると思った。けれど。子どもたちが参加する以上、天候によっては安全面を優先しなければならない。「小雨程度なら、屋根を一部出して続ける予定でしたよね」「そうなんです。ただ、財団側としては基準をもう少し明確にしたいみたいで」「分かりました」「あと」担当者が少し困ったように笑う。「作品の保存についても、確認が来ています」エマの指が止まった。「保存?」「写真です」胸の奥が、僅かに固くなる。「記録用に撮影するかどうか。広報素材として使う可能性も含めて、事前に整理してほしいそうです」「……公開しないお約束でしたよね」思ったより早く言葉が出た。担当者が慌てて頷く。「もちろんです。朝倉さんが描いた試作については、公開しないと共有しています」「でしたら」「本番は子どもたちも参加するので、その部分だけ別途考えたいみたいです」なるほど。エマは少しだけ力を抜いた。自分の作品を残したいという話ではない。子どもたちが参加する企画として。写真をどう扱うか。そ
last updateLast Updated : 2026-08-16
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第60話:仕事としてなら

***テラスへ出ると、海風が頬へ触れた。今日は少し雲が多い。水面も青より灰色が強かった。少しして。奏がコーヒーを持ってくる。「どうぞ」「ありがとうございます」「今日はサービス」「従業員なのに?」「従業員だから」意味の分からない理屈に。エマは小さく笑った。奏も笑う。それだけで。穏やかな時間だった。こういう日常を。自分は失いたくない。奏が店内へ戻ったあと。エマはスマートフォンを取り出した。画面を開く。玲から届いた最後のメール。『何かあれば、いつでもご連絡ください』指が止まる。何かは、ある。仕事上の確認事項。写真の扱い。自分が直接説明しても、不自然ではない。そこまで考えて。エマは眉を寄せた。何をしているのだろう。連絡する理由を。探しているみたいだった。違う。これは仕事。玲本人が、直接連絡して構わないと言った。なら。使ってもいい。それだけ。エマは新規メールを開いた。『神崎様本日、事務局より本番制作時の記録について確認をいただきました。子どもたちが制作する部分については、保護者の同意を前提に記録いただいて問題ありません。ただ、私が制作する部分については、試作時と同様、保存・公開を行わない形でお願いできればと思います。』そこまで打つ。十分だった。送ればいい。なのに。指が動かない。仕事のメールなのに。玲へ直接送るだけで。妙に意識している。エマは一度、画面を閉じた。海を見る。波が防波堤へ当たり、白く砕けている。自分は。何を期待しているのだろう。返事?玲の言葉?それとも。ただ。今の玲と繋がっていることを、確かめたいだけなのか。胸の奥がざらつく。そんなはずはない。恋愛なんて。自分には遠い。玲に残っている感情だって。昔の記憶が突然近くなったことへの反応にすぎない。そう決めたばかりだ。エマはもう一度画面を開いた。文章を読み返す。必要な連絡。仕事。それだけ。送信ボタンへ指を置いた。その瞬間。新しいメールが届いた。表示された名前に。エマの心臓が跳ねた。神崎玲。自分でも驚くほど。すぐに開いていた。『エマさん本番制作時の記録について、事務局から確認が入ると思います。以前お約束したとおり、エマさんご自身が制作される部分については、保
last updateLast Updated : 2026-08-16
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