ジャンの前へラテを置くと、彼はカップの表面を一度見たあと、エマへ視線を上げた。「どうしてノンファットミルクなの?」会話は、変わらずフランス語だった。エマはトレーを持ったまま、わずかに眉を寄せる。「健康を気にしていらっしゃるような気がしたので。なんとなくです」「僕が?」「違いましたか」「いや。最近は少し気をつけているよ」ジャンはカップを持ち上げ、香りを確かめるように顔へ近づけた。「昔より、移動が身体に残るようになったからね」「そうですか」エマは短く答えた。興味がないと思われても構わない。三十分。それだけやり過ごせば、ジャンはこの町を離れる。昨日よりも自然に。朝倉エマとして接客をする。余計なことは話さない。自分から質問もしない。そう決めていた。けれど、ジャンはラテへ口をつける前に、エマの顔をじっと見た。「面倒だと思っている?」「何をですか」「僕の相手をすること」「お客様へ、そのようなことは思いません」答えると、ジャンの口元が楽しそうに緩んだ。「君のつまらなそうな顔は、分かりやすくて可愛いね」エマの指が、トレーの縁で止まった。懐かしい。そう思ってしまった。エレナが興味のない会食へ連れていかれた時。長い挨拶や、作品を理解しているふりをする人間の話に飽きて、黙ってグラスの氷を見ていた。そんな時、ジャンはよく笑った。『エレナ、顔に出ているよ』『出してるの』『そういう顔も可愛いけどね』エレナは嫌そうに睨み。ジャンは、さらに面白そうに笑った。八年前の記憶が、昨日のことのように戻る。エマはすぐに感情を閉じた。「そう見えたのであれば、申し訳ありません」「謝る必要はないよ。むしろ安心した」「何にですか」「昨日より、君が少し分かりやすくなったことに」ジャンは当たり前のように答え、ようやくラテへ口をつけた。エマはそれ以上付き合わず、小さく頭を下げる。「ごゆっくりどうぞ」テーブルを離れようとした時だった。ジャンの視線が、店先の黒板へ向いた。月替わりのメニュー。子ども向けアート教室の日程。その周囲に、白と青のチョークで描いた小さな海と、灯台。昨夜、閉店後に少しだけ描き直したものだった。「待って」背中へ声がかかる。エマは足を止めた。振り返ると、ジャンは黒板を見たまま椅子から立ち上がって
Last Updated : 2026-08-14 Read more