All Chapters of 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話:スケッチ?

その日の夕方。カフェの仕事を終えたエマは、家へ戻る道とは反対へ歩いた。ここ数日は、フェスティバルの準備に時間を取られ、プレハブ倉庫へ来る余裕がほとんどなかった。玲とのやり取り。ジャンとの再会。奏の視線。一つ一つは小さな出来事なのに、頭の中へ残るものが多すぎる。だからこそ。久しぶりに、一人で絵の前へ立ちたかった。商店街を抜け、古い倉庫の並ぶ一角をさらに奥へ進む。観光客が来る場所ではない。舗装も途中から荒くなり、その向こうに、少し古びた白いプレハブが見える。ここを借りていることを知っているのは、貸主だけだった。浜中茂。六十代半ば。この辺りにいくつか土地を持っている地元の人で、フェスティバルの会場から少し離れた場所にある美術館の土地も、元を辿れば浜中家のものらしい。初めて聞いた時は。もっといかにも資産家らしい人を想像していた。実際に現れた浜中さんは、日に焼けた作業着姿で、長靴に土をつけ、軽トラックから大量の夏野菜を下ろしていた。「この倉庫、絵を描くならちょうどいいよ」そう言いながら、トマトの入った箱を抱えていた。失礼ながら。かなり意外だった。あとになって話してみれば、近代美術から現代美術まで驚くほど詳しい。海外の小さなギャラリーの名前を知っていたり、エマが何気なく口にした作家の初期作品について話し始めたりする。なのに。午前中は畑にいて。午後には軽トラックで町を回る。妙な人だった。そして。エマにとっては、心地よい人でもあった。どうして絵を描くのか。どこで学んだのか。過去に何者だったのか。一度も聞かない。ただ。絵の話だけはする。その距離がありがたかった。この町で唯一。美術についてだけなら、少し本音を言える人だった。エマが倉庫の鍵へ手をかけた時。「おや」背後から声がした。振り返る。麦わら帽子を被った浜中が、野菜の入った籠を抱えて立っていた。「浜中さん」「久しぶりだね。最近、車がないから来てないのかと思ってた」「少し忙しくて」「祭りのやつ?」「はい」浜中さんは大きく頷いた。「暑いねえ」額の汗を手の甲で拭う。午後五時を過ぎているのに、今日はまだ日差しが強い。アスファルトから熱が返り、風もほとんどなかった。エマは倉庫の扉を開いた。「中、少し涼しいですよ。よろしければ」「い
last updateLast Updated : 2026-08-16
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第62話:誰かと描く時間

「あれにします」エマが言う。浜中さんは猫を見て、それから室内を見回した。「動くものは無理だな。僕はこれ」選んだのは、画材の棚だった。「難しいですよ、それ」「もう後悔してる」鉛筆を握りながら、浜中が言った。***不思議な時間だった。会話はほとんどない。鉛筆が紙を擦る音。冷房の低い音。時折聞こえる猫の鳴き声。浜中さんが小さく唸る。それだけ。エマは猫を見る。丸まった背中。日に照らされた毛。耳だけが、外の音へ反応して動く。紙へ線を置く。最初は軽く。形を探るように。けれど数本引けば、手が勝手に動き始めた。背骨の曲線。肩の高さ。眠そうに細められた目。前足の重なり。油絵とは違う。色もない。やり直そうと思えば、いくらでもできる。それなのに。思っていた以上に楽しかった。誰かと同じ場所で描くことも。エマには新鮮だった。以前の制作は、いつも一人だった。アトリエへ誰かが入ることすら嫌った。描いている最中は、世界から切り離されていたかった。今は。隣で浜中さんが棚を描いている。誰かの鉛筆の音がある。それでも。邪魔ではなかった。むしろ。静かな安心感があった。「終わった」先に浜中さんが鉛筆を置く。「早いですね」「諦めた」見せられた紙を見て。エマは一瞬、言葉を探した。棚は。かなり傾いていた。「味があります」「便利な言葉だね」二人で笑う。「エマさんのは?」差し出す。浜中さんは、しばらく何も言わなかった。紙の上には。眠りかけた猫。柔らかな線だけで描いた、小さな一枚。油絵のような強さはない。ただ。陽の中で安心して身体を丸める猫の温度だけが、紙へ残っていた。「これ、いいねえ」浜中さんが言う。「そうですか?」「すごく好きだな」何度か角度を変えて眺める。「もらってもいい?」エマの指が止まった。自分が描いたものを。人へ渡す。その行為そのものに。身体が少しだけ警戒した。けれど。名前は入っていない。サインもない。作品と呼ぶほどのものでもない。そして。浜中さんなら。誰かへ見せびらかしたり、余計なことを調べたりしない。その信頼があった。「……名前もないですよ」「だからいいんじゃない?」浜中さんは笑う。エマは少し考えてから。紙をスケッチブックから丁寧
last updateLast Updated : 2026-08-16
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第63話:浜中茂という人

倉庫で浜中さんと話してから。企画展の打ち合わせ日時は、驚くほど早く決まった。浜中さんと倉庫で話した翌日には連絡があり、その二日後。エマは町の美術館へ向かっていた。その連絡を受けた時、初めて知ったこともある。浜中茂。この美術館の土地を持っているだけではなかった。理事会にも名を連ね、どうやら企画にもかなり発言力を持つ立場らしい。送られてきたメールの署名を見て、エマはしばらく画面を見つめてしまった。あの人。畑でトマトを作り、長靴のまま軽トラックを運転して。自分で描いた歪んだ棚を「もう諦めた」と笑っていた人なのに。本当に不思議な人だ。美術館に着いて案内されたのも、一般の打ち合わせスペースではなく理事室だった。「どうぞ」浜中さんが自分でお茶を淹れている。今日も高価そうなスーツではない。薄いシャツに、少しくたびれたパンツ。理事室という場所だけが、妙に似合っていなかった。「浜中さん」「うん?」「理事だったんですね」浜中さんの手が止まる。「あれ。言ってなかった?」「聞いてません」「土地の話はしたでしょう」「土地を持っていることと、理事なのは違います」「そうかな」「違います」エマが言い切ると、浜中さんは楽しそうに笑った。「まあ、肩書きなんて絵を見るのには関係ないから」そういうところも。やはり不思議だった。***企画展の資料は、すでにテーブルへ並べられていた。今回扱うのは、国内外で活動する現代作家のシリーズ作品。エマも知っている作家だった。派手な色彩ではない。むしろ、余白と素材そのものの質感を生かすことで、見る側の意識を作品の内側へ引き込む。玲が好きだった作家だ。そのことだけが、不意に記憶へ浮かんだ。昔、一緒に展示を見たことがある。エマはあまり好みではなかった。玲は長い時間、一枚の前から動かなかった。理由を聞けば。作品そのものより、作品が置かれたことで周囲の空間まで変わって見えるのがいいと言っていた。そんなことまで。どうして今、思い出すのだろう。エマは資料へ意識を戻した。展示予定の作品。会場図。照明。作品同士の距離。順番。一つずつ目を通していく。しばらくして。指が、一枚の資料の上で止まった。「……これだけ、少し違いますね」浜中さんが顔を上げる。「どれ?」エマは一作品
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第64話:同じ答え

「空間が一度外へ開くことで、それまで見ていたものを振り返らせる働きがあるって」思わず。浜中さんの顔を見る。ほとんど。自分が玲ならそう言うだろうと思った通りだった。「面白いね」浜中さんが笑う。「同じ作品を見ても、全然違う」エマは何とも言えない気持ちになった。八年も離れていたのに。今の玲がどう見るかを。自分はまだ、こんなにも簡単に想像できる。しかも。当たっている。「でも、僕はエマさんの方がしっくりくるな」「……そうですか」「うん。流れを作るなら、ここでは切りたくない」浜中は会場図を見ながら頷いた。「やっぱり僕たち、絵を見る時の癖が少し似てるのかもしれない」そう言われると。今度は別の意味で気恥ずかしくなった。エマは誤魔化すようにお茶へ手を伸ばす。「偶然です」「そう?」「二人しかいないので、意見が合う確率も高いです」「そういうことにしておこうか」浜中さんが楽しそうに笑った。***一通り資料を見終える頃には、予定していた時間を少し過ぎていた。「助かったよ」浜中さんは資料をまとめながら言った。「本当に?」「本当に。専門家って、知識がある分、考えすぎることもあるからね」「私も十分考えていますけど」「エマさんは、見る時はもっと素直だよ」そうだろうか。自分では分からない。浜中さんが机の横へ目をやる。そこには、小さな額が置かれていた。エマは気づいて、目を見開いた。「……額に入れたんですか」先日描いた猫だった。倉庫の前へ現れた野良猫。鉛筆だけで描いた、十五分ほどのスケッチ。「いいでしょう」「そこまでしていただくようなものじゃ」「僕が気に入ってるんだからいいの」浜中さんは嬉しそうに額を持ち上げた。「家に持って帰ろうかと思ったけど、しばらくここに置こうと思って」「人には見せないでくださいね」思わず言う。「分かってるよ」浜中さんは笑った。「作者不明の猫」「それでお願いします」「でも、やっぱりいい線と表情だよね」エマは返事をせず、お茶を飲んだ。褒められることには。昔から慣れていたはずなのに。今は。たった一枚の猫を気に入ってもらったことの方が、妙に嬉しい。作品として評価されたわけではない。値段も。名前も。経歴もない。ただ。好きだから欲しいと言われた。それだけだった
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第65話:私の作品

理事室の扉が開いた瞬間。エマが最初に見たのは、玲の目だった。いつもと同じ、静かな目。人にも、場所にも、それほど興味を持っていないような、温度の薄い色をしている。浜中さんへ向けていた視線が室内を流れ、エマを捉えた。その瞬間。ほんのわずかに、目の色が変わった。驚きだけではない。何も映していなかった場所へ、急に色が差したような。自分を見つけたことを、隠しきれない変化だった。エマはそれに気づいてしまい、先に目を逸らした。「……こんにちは」「こんにちは、エマさん」返ってきた声も、先ほどより少し柔らかい。気のせいだと思うことにした。玲は浜中さんへ向き直った。「お知り合いですか?」「まあ、ちょっとね」浜中さんは朗らかに笑った。それ以上は言わない。エマがこの町で人知れず倉庫を借りていること。そこで絵を描いていること。描いたものを表へ出したくないこと。事情そのものは知らなくても、浜中さんはエマが隠しているものの輪郭を察している。だからこそ。余計な説明をしなかった。そのことに、エマは少しだけ安堵する。「浜中さん。私はそろそろ——」バッグへ手を伸ばし、立ち上がる。けれど。「すぐに済みますので」玲の声に止められた。顔を上げる。「ちょうどエマさんとも、お話ししたいことがありました。少し待っていていただけますか」「私と、ですか?」「はい」何の話だろう。嫌な予感しかしない。「まあまあ、座ってなよ」浜中さんにまで言われる。「せっかくのお茶も残ってるし」二人から止められてしまえば、帰る方が不自然だった。「……分かりました」エマは仕方なく、もう一度腰を下ろした。玲も浜中さんの正面へ座る。自然に選ばれたその場所は、エマの隣だった。近い。肩が触れるほどではない。それでも、わずかに身じろぎすれば互いの気配が分かる距離だった。エマはお茶へ手を伸ばした。その時。玲の視線が、机の端で止まった。額に入れられた猫のスケッチ。まずい。そう思った時には、もう遅かった。「それでは、神崎さん」浜中さんが資料を開く。「アートフェスティバルの展示における、例の作品の貸し出しについて——」「すみません」玲が遮った。視線は、額から動いていない。「これは、誰のスケッチですか?」一瞬。部屋が静かになった。エマ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第66話:エレナ・カワサキの作品

「彼女は創作が滞ると、たまにイラストを描くことがあって」「どんな絵だったかは、あまり記憶にないのですが....なんとなく思い出してしまいました」胸の奥が、ざらついた。エレナ。また。自分が何かを描けば。そこに彼女が現れる。八年間。名前も。髪も。生活も。描くものさえ変わったつもりだった。昨日の猫には、何の意図もない。昔なら作品とも呼ばなかったような、小さなスケッチだ。玲の記憶の通り。たまに、作品作りで行き詰まったとき。落書きのように、描いていただけ。それなのに。玲は、その中からエレナを見つける。額を見つめる玲の表情は、穏やかだった。愛おしいものへ触れるように、親指が額の縁を一度撫でる。その仕草を見ている方が。似ていると言われたことより、エマには苦しかった。八年経っても。この人の中では。エレナは、まだこんなにも近い。「それでね、神崎さん」浜中さんが自然に会話を戻した。「今日話したかったのは、まさにそのエレナ・カワサキの作品についてなんだ」玲が額を静かに戻す。「二十七作目と、三十四作目」エマの呼吸が、一瞬止まった。番号だけで分かる。二十七作目。三十四作目。どちらも。自分が描いた作品だった。「本当に貸してもらえるんですか?」浜中さんは半ば確認するように尋ねた。「神崎さんがエレナ・カワサキの作品を外部へ貸さないのは、業界では有名な話でしょう。美術館からの依頼でも、財団からの依頼でも、これまではほとんど断ってきたと聞いてます」エマは玲を見そうになり、やめた。知らなかった。玲が自分の作品を集めていることは、保護担当者から聞いている。けれど。貸し出すことさえ拒んでいるとは知らなかった。「はい」玲は淡々と答えた。「今回は、お貸しします」浜中さんの眉が上がる。「本当に?」「そのつもりで調整しています」玲は資料へ視線を落とした。「二十七作目と三十四作目は、今回の展示テーマの解釈にも影響する作品だと思っています。ですから、貸し出しについては早めにお伝えした方がいいかと」「ありがたいよ」「ただ」玲は資料の一部を指で押さえた。「モロー財団が正式に入ったことで、西洋美術側の構成にも調整が入ると思います。新興作家から古典派まで幅を広げるのであれば、エレナの作品をどこへ置くかで意味が変わる
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第67話:知らないふりをするには

「エレナ・カワサキの作品は、見たことはありますか?」玲の問いに、エマはすぐには答えなかった。ティーカップの取っ手へ置いた指先に、わずかに力が入る。知らない。そう答えることはできた。けれど。浜中さんの前で、あまりにも何も知らない人間を演じる方が危険な気がした。美術館の企画について意見を求められ。現代美術のシリーズを見て、作品同士の流れについてまで話した。そんな自分が、世界的に知られたエレナ・カワサキをまったく知らないという方が、不自然だ。エマは一度だけ呼吸を整えた。「有名な画家ですよね」できるだけ何でもないことのように言う。「作品自体は、画像で見たことがあります」綺麗な嘘だった。完全な嘘ではない。画像でも見たことはある。自分の作品を。それを描いた本人としてではなく。ただ知っている画家について話すように口にした。玲は、しばらくエマを見ていた。疑っているのか。それとも、単に答えを聞いているだけなのか。表情からは読み取れない。やがて。「そうでしたか」玲は静かに頷いた。それだけで終わると思った。けれど。「僕は」玲の声が続く。「エマさんに、エレナの作品を観に来ていただきたいと考えています」エマは思わず顔を上げた。玲の目は、まっすぐこちらを見ている。「フェスティバルで制作される上でも、良いインスピレーションになるかもしれませんし」あくまで仕事のように。あくまで合理的な理由を添えて。けれど。その言葉を聞いた浜中さんが、分かりやすく目を丸くした。玲は気づいていないのか。それとも、気づいていて無視しているのか。エマには分からない。ただ。私情で動かない男として知られている人が。一人のカフェ店員へ、自分が誰にも貸さなかった作品を見に来てほしいと言っている。少なくとも。浜中さんには、その異常さが分かるらしい。「私のような人間に、そんな作品を見せていただくなんて」エマは小さく笑った。「畏れ多いことです」距離を取るための言葉だった。ところが。「それは聞き捨てならないな」浜中さんがすぐに割って入った。エマが振り返る。「浜中さん?」「エマさんが、自分を『私のような人間』なんて言うのはよくない」朗らかな声だった。それでも、思ったより真面目な顔をしている。「絵の感性の話なら」浜中は玲
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第68話:知らない顔

「私は、そう思いました」エマが言い切ったあと。玲は、ほんの少し笑った。自分でも意外なほど、自然に口元が緩んだ。「嬉しいです」エマが瞬きをする。浜中さんも、わずかに眉を上げた。「エマさんが、こんなにはっきり意見をおっしゃるのを聞いたのは初めてなので」玲はエマから目を逸らさなかった。「新しい一面を知れて」数秒。妙な沈黙が落ちた。エマの瞳が、分かりやすく揺れる。浜中さんまで、玲とエマを交互に見ていた。二人がなぜ驚いているのか。玲には分からないでもなかった。自分が誰かの新しい一面を知れたことを、嬉しいなどと口にする。以前なら、考えもしなかった。それでも。今は、本当にそう思った。だから言った。「ただ」玲は何事もなかったように資料へ視線を戻した。「僕は、残すべきだと思っています」エマも表情を戻す。「そうですか」「この作家の経歴と、この作品が描かれた背景を考慮すれば、むしろシリーズから外すべきではないかと」少しだけ。試したかった。エマが感覚だけで話しているのか。それとも。作品の背景まで理解した上で、先ほどの意見に至ったのか。玲は作家がその作品を制作した時期と、当時の美術界での位置づけを簡潔に説明した。それまで閉じた画面構成を続けていた作家が、評価を大きく広げた時期。国外での活動が増え、作品にもそれまでなかった華やかさが入り始めた。問題の一枚は、その転換点にあたる。「その背景まで含めれば」玲は資料へ指を置いた。「この一枚が外へ開いていること自体に意味があります。前後との差異も含めて、シリーズに置くべきだと思っています」エマの瞳が、僅かに揺れた。知らなかったのか。そう思った。けれど。彼女はすぐには答えなかった。作品を見つめ。何かを頭の中で組み直すように黙っている。そして。「……あの作家の経歴と、あの絵の背景を考えれば」静かな声が落ちた。「なおさら、入れるべきではありませんね」玲は目を上げた。予想していなかった。反論されることではない。その内容に。「どうしてですか」「転換点だからです」エマは淡々と答えた。迷いがない。「あの作品単体を中心に作家の変化を見せる展示なら、神崎さんのおっしゃる通りだと思います。でも、今回は違いますよね」エマの指先が会場図の上を滑る。「今回の
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第69話:エマは、エレナではない

千早奏だけではない。ジャンだけでもない。今度は。親子ほど年の離れた浜中にまで。エマとの距離が近いというだけで、こんな感情を覚えている。「まあ、でも」エマの声に、思考が途切れた。玲は隣を見る。エマが少しだけ笑っていた。先ほどまで作品を語っていた時の硬さが、ふっと抜けている。「神崎さんは、よほどこの作家さんがお好きなんでしょう」「……そう見えますか」「見えます」その答えに。玲は妙に気恥ずかしくなった。「ときには、自分のストーリーや好みを押し通すことも、展示では大事だと思います」エマは会場図から手を離した。「ですから、最終的には判断される方に委ねていいと思いますけど」柔らかく収束させる。勝ち負けにしない。玲の意見を否定したまま終わらせるのでもなく。自分の考えを引っ込めるのでもない。ただ。違うものを違うまま、同じ場所へ置いて終わらせる。その感覚が。玲には妙に心地よかった。エレナとは違う。また。そう思う。顔が似ている。瞳も似ている。時折、線の中に懐かしいものがある。それなのに。知れば知るほど。エマは、エレナではない。違うからこそ。もっと知りたくなる。そのことに気づき。玲の胸の内側が、静かに揺れた。「まあ、僕はエマさんの感性を信頼してるだけさ」浜中さんが朗らかに言った。また。ざらつく。玲は何も言わなかった。「じゃあ、企画展の方はもう少し考えるとして」浜中さんは資料を閉じる。「エレナ・カワサキの二作品については、ありがたく調整させてもらいます」「はい」「僕も楽しみなんだよ。エレナの作品は、ヨーロッパで一度見ただけだから」浜中さんの声を聞きながら。玲の視線は、再び机の端へ落ちた。猫。名もない誰かが描いた、小さなスケッチ。浜中さんが大切そうに額へ入れたもの。玲はそっと手を伸ばし。額縁の端を撫でた。やはり。気になる。輪郭の取り方。柔らかな目。少しだけ遊ばせた尻尾。完成度が高い。短時間で描いたような軽さがあるのに、必要な線を迷っていない。描き慣れた人間の手だ。そして。懐かしい。エレナと同じではない。むしろ、エレナならこんなに柔らかく猫を描いただろうかと思う。だから余計に。分からない。玲は視線だけを横へ動かした。エマは、残ったお茶へ目を落としている
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第70話:惹かれているんです

玲の表情は、最後まで穏やかだった。けれど、エマの内側はまるで穏やかではなかった。さっきから、玲が考え込むたびに指先が動いている。親指で、人差し指の側面をゆっくりなぞる。昔から変わらない癖だった。何かを考えている時。答えを急がず、頭の中で一度組み立てている時。玲は、ほんの少しだけ指に動きが出る。八年。人は変わる。声も。表情も。立場も。纏う空気も。それなのに。そういう小さなところだけが、昔のままだった。エマは、それが妙に落ち着かなかった。話はもう穏やかに終わったはずなのに。胸の奥には、懐かしさと。それに似た、息苦しさが残っていた。「じゃあ神崎さん、この件はまた連絡します」浜中さんが資料をまとめながら言った。玲も立ち上がる。「ありがとうございます。お時間をいただきました」丁寧に頭を下げる。「こちらこそ。二作品の件、助かります」浜中さんは朗らかに笑った。エマも、そろそろ立った方がいいのか迷う。もう用事は終わっている。カフェへ戻るなら、今が自然だった。そう考えたところで。玲がこちらを見た。「エマさん」「はい」「お店へ戻られるのであれば、送ります」「いえ、大丈夫です。歩いて——」「少しだけ、お話ししたいので」言葉が重なった。普段なら、人の返事を遮るような話し方はしない人なのに。玲自身も気づいたのか、一瞬だけ口を閉じる。それでも、続けた。「送らせてください」断る理由を探した。けれど。仕事の話もした。浜中さんもいる。ここで強く拒む方が、かえって不自然な気がした。「……分かりました」そう答えると。玲の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。その変化まで見えてしまうことが、また落ち着かない。「じゃあ、エマさんもまたね」浜中さんが手を振る。「はい。今日はありがとうございました」「こちらこそ」そこで浜中さんは何でもないように続けた。「次は動物以外で、また描いてね」エマの身体が固まった。浜中さんも。言った瞬間に気づいたらしい。猫とは、直接的には言ってないものの。私が目の前にあるスケッチを描いた人というのが。わかってしまうには、十分な言葉だった。しまった。そんな顔をした。玲は。何も言わなかった。ただ。静かに笑った。その笑みが。気づいたのか。気づいていないふりをし
last updateLast Updated : 2026-08-18
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