その日の夕方。カフェの仕事を終えたエマは、家へ戻る道とは反対へ歩いた。ここ数日は、フェスティバルの準備に時間を取られ、プレハブ倉庫へ来る余裕がほとんどなかった。玲とのやり取り。ジャンとの再会。奏の視線。一つ一つは小さな出来事なのに、頭の中へ残るものが多すぎる。だからこそ。久しぶりに、一人で絵の前へ立ちたかった。商店街を抜け、古い倉庫の並ぶ一角をさらに奥へ進む。観光客が来る場所ではない。舗装も途中から荒くなり、その向こうに、少し古びた白いプレハブが見える。ここを借りていることを知っているのは、貸主だけだった。浜中茂。六十代半ば。この辺りにいくつか土地を持っている地元の人で、フェスティバルの会場から少し離れた場所にある美術館の土地も、元を辿れば浜中家のものらしい。初めて聞いた時は。もっといかにも資産家らしい人を想像していた。実際に現れた浜中さんは、日に焼けた作業着姿で、長靴に土をつけ、軽トラックから大量の夏野菜を下ろしていた。「この倉庫、絵を描くならちょうどいいよ」そう言いながら、トマトの入った箱を抱えていた。失礼ながら。かなり意外だった。あとになって話してみれば、近代美術から現代美術まで驚くほど詳しい。海外の小さなギャラリーの名前を知っていたり、エマが何気なく口にした作家の初期作品について話し始めたりする。なのに。午前中は畑にいて。午後には軽トラックで町を回る。妙な人だった。そして。エマにとっては、心地よい人でもあった。どうして絵を描くのか。どこで学んだのか。過去に何者だったのか。一度も聞かない。ただ。絵の話だけはする。その距離がありがたかった。この町で唯一。美術についてだけなら、少し本音を言える人だった。エマが倉庫の鍵へ手をかけた時。「おや」背後から声がした。振り返る。麦わら帽子を被った浜中が、野菜の入った籠を抱えて立っていた。「浜中さん」「久しぶりだね。最近、車がないから来てないのかと思ってた」「少し忙しくて」「祭りのやつ?」「はい」浜中さんは大きく頷いた。「暑いねえ」額の汗を手の甲で拭う。午後五時を過ぎているのに、今日はまだ日差しが強い。アスファルトから熱が返り、風もほとんどなかった。エマは倉庫の扉を開いた。「中、少し涼しいですよ。よろしければ」「い
Last Updated : 2026-08-16 Read more