「惹かれているんです。エマさんに」玲の言葉が落ちたあとも、エマはすぐに返事ができなかった。美術館の廊下には、空調の低い音だけが流れている。窓の向こうでは夏の光が中庭の植栽を照らし、白い床へ葉の影を落としていた。こんなにも真っ直ぐに、誰かから想いを伝えられたのはいつぶりだろう。エレナだった頃ではない。朝倉エマとして。過去を持たない女としてこの町へ来てから、誰かの好意には気づかないふりをしてきた。奏の優しさにも。時折向けられる視線にも。恋愛というもの自体を、自分の人生から遠ざけてきた。だから。今の自分が動揺している。その事実に、エマ自身が戸惑っていた。しかも相手は。誰より近づいてはいけない人だ。この人にだけは、朝倉エマの内側へ入らせてはいけない。やはり、きちんと言葉にしなければ。「神崎さん、私は——」「困らせるつもりはなかったのですが」玲が先に口を開いた。「……つい」珍しく、言葉の終わりが曖昧だった。エマが顔を上げる。玲は少し眉を寄せていた。先ほどまで真っ直ぐに感情を伝えていた男と同じ人とは思えないほど、今度は何かを考え込んでいる。そして。親指が、人差し指の側面をなぞった。また。その癖。「今になって気づきました」玲は少し息を吐く。「エマさんは警戒心が強いですし、人との距離にも慎重なのに」視線が一度だけ逸れる。「こんなことを言えば、今まで以上に避けられる可能性もあったなって」エマは黙って玲を見た。「そこをまったく考慮していなかったことに、今、少し後悔しています」その言葉に。胸の奥が、痛んだ。知っている。この玲を。何を言われても、ほとんど表情を変えない。人前で言葉に詰まることもない。自分の判断を口にしたあとで、相手の反応を気にして慌てることもない。昔からそうだった。少なくとも。エレナの前以外では。玲の整った表情や言葉が乱れるところを、ほとんど見たことがなかった。だからこそ。どうして。エマに対してまで。その問いが、胸の奥に小さな痛みを残した。エレナではない自分に。玲が同じような顔をする。嬉しいのか。苦しいのか。もう自分でも分からなかった。気づけば、エマは少し笑っていた。「神崎さんでも、そんな表情されるんですね」玲が目を瞬く。それから、困ったように苦笑した。
Last Updated : 2026-08-19 Read more